「よう、飲みにいかないか?」
講義終わり、帰宅の準備を進めている佐々木に呼びかける声があった。
肩を叩かれ振り向くとそこには同期の日下部がいつもの軽薄な笑顔を張り付け立っていた。
日下部の声はいつもと変わらない軽やかさであったが、その誘いには何か別の意味が含まれているように佐々木は感じた。彼奴とは同じ政治学の講義で肩を並べ、ドイツ語の研究でも共に語り合う間柄だ。
要を尽くしてしまうと、にそこそこの仲でしかないという意味なのだが、今宵、日下部が選んだのは、そんじょそこらのお高い茶館なぞ軽く凌駕するような高級料亭だった。
一体全体、どうしたことか。
花街を抜け、山道に向かってしばらく歩くと、料亭の灯りが目に留まった。傘を手にした佐々木は、日下部の後を追って石畳の小道を辿り、その門をくぐる。
すると女郎が一人、しなやかな身のこなしで迎えに出てきた。女の着物は濃い藍色で、雨の滴がその上できらりと光る。
「日下部さんまたいらしてくれたのですね」
「えぇ女将さんまた来ちゃいました」
二人は親しそうに軽く言葉を交わした後、その矛先が自身にも向くことは創造の範疇であったので、佐々木はあらかじめ用意していた言葉を用いた。
「佐々木達也です。日下部とは同期で、ともに政治学を学んでおります」
「軽部知道子です。よろしくお願いいたします」
「ご案内いたします」
そういって引き戸を開き、控えめな笑みを浮かべながら、達也たちを料亭の内へと招き入れる。
佐々木はあまりこういった場所には訪れないが、筆舌乏しいながら内装について述べると、何とも言えぬ粋がそこにはあった。
戸を潜るや否や、ひっそりとした木製の丸格子戸が目に付き、その奥には広々とし
畳の間が広がっている。畳のいぐさの香りが何とも言えず心地よく、目を凝らすまでもなく中央には低く立派な柏木の座卓が据えられているのが見えよう。
壁面は淡い襖紙で覆われ、そこには山水や花鳥が繊細な筆致で描かれている。天井は白木製で、そこから柔らかな光を放つ間接照明が、この場の静謐を一層引き立てる。
あの部屋はなんだろうか。茶道のようなものが柵の間から見え隠れしている。
視線を気取ったのか、前を歩く日下部は言った。
「あそこは茶室だな」
日下部曰く、部屋の一角には小さな茶室が設けられており、そこでは上質な抹茶が振る舞われることがあるそうな。訪れる者には都会の喧騒を忘れさせるひとときを味わえるというのが謳い文句なのだという。
「日下部さん、そんなに詳しく説明されてしまったら私のいる意味がないではありませんか」
「おっと。これは失礼しました」
どうやら日下部は相当ここに通っているらしい。それは先ほどの会話からも分かることではあるが、随分詳しいことまで知っているようだ。
ほの暗い廊下を何度か曲がり、途中、繊細に彩られた障子や掛け軸を眺めながら進んでいく。足元の畳は歩くたびにわずかに音を立て、その音が辺りの静寂を一層深める。突き当たりに小さな階段があり、女将はそこを手早く上がり、更に奥の部屋へと案内してくる。
部屋に一歩踏み入れると、目の前に広がるのは、一等上等な空間であった。重厚な黒檀の座卓が中央に置かれ、周囲には座布団が敷かれ、奥の方には肘掛けのある椅子が二つ、並んでいる。床の間には高価そうな花瓶が置かれ、その中に生けられた白い椿が静かに佇み、部屋の一角には細工の込められた金屏風が立っている。
「料理を運んでまいりますので、ごゆっくりどうぞ」
そうい言うと女将は、そっと座卓の前に座布団を指し示し、静かに退出していった。
奥の座席に通されるてすぐ、日下部は当然のように上座に座った。コートを脱ぎ、雑に脇に畳む。一張羅だろうに相変わずの野放図だ。
どうやら金があっても粗雑な性格は変わらぬらしい。
ということは、これは日下部の振りをした怪異か何かというわけではないようだ。短い付き合いとはいえ、友人が空想小説のごとく異星人に乗っ取られたわけではないようで一安心…しかしそうなると益々こんなお高い料亭にくるのは一層不可解であった。
さて、目の前には、まるで自分とは縁遠い別世界の空間が広がっている。
しかめっ面を隠せない佐々木に、いつのまにやら上座に着いている日下部と雑に脇へと畳まれた外套、つい先刻までその身を包んでいたそれが目に入る。
当然ながらここに居座る気のようである。
佐々木はというと、いまだ、なんというか、場違い感とか懐事情とかの不安もあって座るのは躊躇われた。ひとたび腰を下ろしてしまえばもう後戻りはできぬという予感が胸中を占めていた。
「さぁ座ってくれ」
日下部の勧めに応じ、ぎりぎりと歯を食いしばりながら日下部が差し向けた下座、これまた値の張りそうな金紋梅の花が繊細に描かれた朱色がかった座布団の上へと静かに腰を下ろす。部屋の隅に吊るされた提灯がひっそりと揺れており、その燈火が瞬くごとに、微妙に明るさが変わり、佐々木の心の揺らぎと同調するかのようだった。
佐々木が黙りこくっていると、日下部が言葉を紡ぎ出す。
「いいとこだろ」
日下部は何気なくそう言ったが、その声には薄皮一枚張ったような軽薄さがあった。それは佐々木の耳に、暗い影を落とす。
「ああ…」
佐々木は頷くしかなかった。目の前には、桜を模したような模様を湛えた徳利が置かれ、その中の酒は透明で、徳利には白磁の肌に青々とした桜の枝が、控えめながらも精緻に描かれていた。
日下部がお猪口を差し出すと、その器の細やかな桜模様が目に映る。
「まぁ飲め」
日下部の声が、部屋の薄暗い空間を渡って佐々木の耳に届く。
その言葉に従い、お猪口を受け取る。佐々木はそれを手に取り、冷たく、しかし確かな重みを感じる。
酒の透明な液体が、お猪口の縁であふれ出そうになりながら、反射する光を帯びており、その輝きが目を捉える。
「そうだな」
佐々木は返答しながらも、その心中は複雑な感情で絡まっていた。眼前の徳利から注がれる酒は、静かにお猪口に満たされていく。青白い月光を思わせる磁器に、精緻な桜の枝が巧みに描かれて
「これは良いものだから、ゆっくり味わって飲んでくれ。」
日下部の手によって、精巧な桜模様のお猪口に注がれた酒は、試練の杯であった。猪口の冷たい感触と重みを噛みしめながら、一息にその中身を飲み干した。酒は舌に温かく広がり、一瞬、不安を洗い流すかのようだった。
しかし、その後、少しづつ後悔の念がわき上がってきた。この場をどう退けるか、その一考が全ての思考を支配し始めていた。もう今からでも酒の代金だけ払って帰ろうか、そんなことまで頭に浮かんだ。
「こいつはいい酒だな」
強がったことを口走ったが、酒の味は全く覚えていない。もはや、日下部宇宙人説の存在なぞどうでもよくなっていた。
部屋の一角で和紙に包まれた提灯が微かに揺れ、灯りが不確かに明滅するごとに佐々木の心もまた、不確かな波に揺れる。
「俺がおごるよ」
そんな考えを見透かされていたのか。日下部はからかうように唇を上げた。
「それは助かるが、いいのか?」
佐々木は探るように問いかける。日下部の返事は妙に謎めいたものだった。
「ああ、臨時収入があったからな」
と彼は言い、その収入源が何であるかについては明かさず、ただにやける。
「賭博か?」
「いや違う」
ならなんだと聞こうと持ったが、当てて見せろというように、にやけ面を晒しているのを見ると、聞いてもすぐには教えんだろうということは達也にも理解できた。
「なんだ、家庭教師でも始めたか?」
「いや?」
「なら、なんだというのだ?」
日下部が佐々木に向かって、ほの暗い照明の下で半ば誇らしげに語った。
「検閲さ」
日下部は、なにが可笑しいのか妙に薄く唇を曲げていた。
「なに?」
「最近、外国の文献の翻訳を手掛けたんだ。」
日本の開国以降、西洋からの知識が盛んに取り入れられてきた、そのせいで帝大が設立される以前から英語やフランス語などの外国語に堪能な者は少なくなかった。日下部もその一人で、なんのこともない、その言語能力は帝国大学の講堂だけでなく、市場でも価値を認められていたという話だ。特に政治学を専攻する者にとっては、国際政治に関わる最新の理論や文献の翻訳は、稼ぎやすかっただろう。
もちろん、その表情を見れば、ただの稼ぎというよりも自分の能力が認められたといった自負が見てとれた。
「ヨーロッパからの新しい政治理論の書だ。ある出版社から依頼されてな。それがなかなかの好評で、
ちょっとした名声とともに、予想以上の報酬を手に入れたんだよ」
日下部は饒舌にそう続けた。その顔には、苦労して翻訳した夜々の成果が認められた満足感が浮かんでいる。
佐々木はその話を聞きながら、彼の前に広がる洗練された店の内装を改めて見回した。日下部がここまでの場所で自分をもてなしてくれるというのは、ただの優しさからではなく、彼が得た「臨時収入」がそれを可能にしたことは理解できた。
では、自分にそれを自慢するためだけに高い料亭に連れてきたのだろうか。
「それで、こうして豪華な食事を奢ってくれるわけか」と佐々木が言うと、日下部はにっこりと笑い、グラスを軽く持ち上げながら
「そういうわけだ。今宵は思う存分、楽しんでくれたまえ」と応じた。
全く持って完全に納得したわけでもないが、ひとまず佐々木は日下部の多才さと外に向けた視野の広さに素直に感心することにした。
その後、しばらくしてから、薄暗い部屋に別の女郎が新たに現れ、料理を持ってきた。
「お、きたか」
まず目に付くのは、煙りを纏った椀物である。黒漆の椀からは、柚子の皮が薄く削られて浮かんでおり、冷たい空気に混じる柑橘の香りがふわりと漂う。
次に、炭火で焼かれた魚が盛り付けられた。皮は炭の熱できりっと引き締まり、その内部は湯気を帯びて柔らかく、脇に添えられた山葵がその風味を一層引き立てている。
そして、揚げ物の盛合せが並べられる。季節の野菜と海の幸が薄い衣を纏い、揚げたての熱々の中で外はカリカリ、内はしっとりとしており、添えられた塩とレモンの清々しい風味が口の中で広がる。
これは季節の野菜と海の幸を包み込む薄い衣を纏い、金色に輝く揚げたての姿で、外はサクサク、中はふっくらとしており、添えられた塩とレモンの清新さが、それぞれの素材の風味を引き立てていた
「これはうまそうだ」
佐々木は疑問など忘れて、空腹に支配される。
「日下部…」
「奢るよ、二言はないさ」
その言葉を聞いた瞬間、佐々木は慎重に箸を取り上げ、まずは煙を纏った椀物から一口すくった。湯気と共に柚子の香りが鼻腔をくすぐる。その味は微かに甘く、心地よい温もりが全身を包む。
「うまい…」
続いて、炭火で焼かれた魚を箸でほぐし、山葵を少し添えて口に運んだ。皮のパリッとした食感と中の湯気を帯びた柔らかさが絶妙に調和し、山葵のぴりっとした辛みが魚の脂の甘みを引き立てる。一瞬とはいえこの一口であの悩みも忘れさせてくれる。
次に、季節の野菜と海の幸を包んだ揚げ物に手を伸ばす。外はカリカリとした衣が口の中で心地よい音を立て、中は素材の旨味と甘みが濃厚に広がる。塩と添えられた檸檬の酸味がそれぞれの風味を引き立て、一層の清涼感を与える。佐々木は噛むごとに素材の新鮮さと揚げたての熱々の対照を楽しんだ。
しかしそれに水を差される形で、日下部が口を開く。
「佐々木、最近の左翼の動きについてはどう思う?やはり国家の安定と秩序維持のためには厳しい措置も必要だろう?」
急なことに驚く佐々木は、空気を読みながら、自らの立場を守るように答える。
「確かに、国家の秩序を守ることは重要だ。国益に反する思想は許されない。ただ、学問の自由も大切にしなければならない。共産主義を知らなければソビエトに対抗できない。」
「そうだ、バランスが必要だ。しかし、暴力を持って国家やを脅かすような活動には断固たる態度で臨むべきだ。暴力は国家にのみ振るう権利がある」
日下部が軽く笑いながら言う。その声には何とも言えぬ軽佻浮薄な響きが含まれており、それが佐々木の内心に微かな不安を投げかける。
佐々木は少し考えた後、
「マックス・ヴェーバーか、まぁ過激な思想が公共の安全を損なうことのないよう、注意深く監視することは賛成だ。」と応じた。
その後は何事もない、話の応酬がつづき、食事を終える。
「うまい…」
後に供されたのは、色彩豊かな刺身の盛り合わせである。竹の皿に並べられた鮪、鮭、烏賊の薄切りは、海の深さを映し出すかのような強い色彩で、寒さを忘れさせるほどの生命感があり、食卓に静かな動きを加えていた。鮪の深紅、鮭の柔らかな橙、烏賊の透明感が互いに調和し、まるで海から直接届けられたかのような鮮やかさを展示し、冬の寂寥感を和らげる。
「…まだ食うの?」
ーーーー
料理を食べ終えいくつばかの談笑なぞ済ませたたころ、懐からマッチを取り出した日下部が切り出す。
「実はなこの話、お前にしか話せないんだ。」
日下部が煙草に火をつける様子は、硬くどこか緊張を孕んでいるように見えた。
「なんだ?」
問い返すと。やつは居心地悪さを誤魔化すためか、深く煙草を吸う。
それは抱える何かを飲み込んで飲み込んでいるようにも見えた。
「なんというか、協力してほしいことがあるんだ」
「断る」
高い料亭に連れてこられた時から既にそういった覚悟を済ませていた佐々木は臆することなく毅然と返事を返す。
「そんなに疑ってかかるなよ」
まだ何も言っていないというのに日下部は全てわかっているかのように釘を刺した。
「そうはいうがな、こんな高い料亭、臨時収入でがどうとゆう話でどうにかなるものでもないだろう」
抱えていた疑問を吐露し、佐々木は半信半疑のまま、参ったようにせっかく撫でつけた髪を掻きむしる日下部の姿を見ていた。
「まぁ、なんだ、うまい話を教えてやろうと思ってな」
「そんなうまい話を無条件で真っ先に俺に教えるほどの仲になっていたとは知らなかったよ」
「なぁ、疑うのもわかるが、今お前のまえでこんな高いとこで飯を奢ったのが何よりの証拠じゃないか?」
確かに。儲かっているのは確かなようだ。
だが、問題は何のために佐々木を誘っているかというところにある。
「なぜ俺なんだ?」
その問いを聞くと、日下部は待ってましたと言わんばかりに机へ飛び越える勢いで身を乗り出してきた。まるで獲物が餌に食いついた釣り人だ。
「実は俺の叔父が内務省の役人なんだが。警保局に勤めてる」と低く囁いた
日下部はさもそれがさも大事…重要機密であるかのようにいう。
実際はその事実は帝国大学に通う者の中でも特段珍しいことというわけではない。
警保局とまでいくと珍しくはあるが、そう声を潜めること程でもない。
帝大に入る者の中にはそういった役人の縁者が多数いることは事実だ。ただ内務省警保局というのはまた格別の重さを孕んでいるというのもまた事実である。
内務省、日本の政治機構の中核を担い、その強大な権力は「官庁の中の官庁」とも称される。政治的にも非常に影響力があり、国民生活の統制において中心的な役割を果たしてきた。内務大臣は、内閣総理大臣に次ぐ重要な位置を占め、〖副総理〗と言われるほどの権力を有していた。内閣制度が発足した明治時代から、その役職者はしばしば「内務三役」と呼ばれる重要な三つの職に就いた者たちと共に、国の重要な決定に関与する。これらの人物は退任後もしばしば貴族院の勅選議員として選出されるなど、政治的な影響力を保持し続ける、言ってしまえば生涯のエリートだ。
ところで、佐々木の持論にはなるが、厄介ごとを抱える人間ほど、厄介な物事を後に語る節があるというものである。
何が言いたいかというと、こんな前置きをする日下部の話にはこれ以上の好ましからざる何かが潜んでいるに違いないという確信が生まれた。
「それで、それが何だというのだ?」
あまり気は進まなかったが、話を進めるため質問する。
佐々木はその話が「臨時収入」にどう繋がるのかいっとう予測できずにいた。
「検閲さ」とやがて彼は告げた。
「さっきも聞いたぞ、西洋政治思想書の検閲と翻訳だろう、それが――」
最後まで問いかけを投げるまでに、
「違う」
と否定の声がかかる。
「違う?」
耳に届いたその言葉を反芻した瞬間、日下部は一瞬、周囲を警戒するように目を配りながら、佐々木に向かって静かに言葉を紡いだ。日下部は今度は打って変わって真剣な眼差しとなり。個室だというのに戸をしきりに気にする様子を見せた。そしてこちらに手招きした後に声を潜め、
「文化政策の一環として、俺達には特定の監視が命じられているのさ。」
内務省は、昨今、公共表現に対する厳格な検閲を行っている。具体的には、警保局図書課が、出版法、治安維持法などの法律に基づき、書籍や新聞などの表現物の内容を審査し、問題があると判断される場合には、その発行、発売、無償頒布などを禁止または差し止める厳格な方針をとっている。
政府にとって不都合な情報が公にされることを防ぐことが目的であった。
実際的には行政処分としての現物没収や罰金、さらに司法処分としての禁錮刑などを含む厳しい措置を伴っており、内務大臣の行政処分は司法審査を完全に排除し、最終的な判断としての強制力を持っていた。
その結果として現在、近代化を謳う大日本帝国は、西洋諸国にはほとんど見られない形で行政処分が突出している
帝国議会、そして内務省図書課は国策として、国民の思想を正しき方向に導くべく、出版物や演劇、映画など、あらゆる文化活動に対し厳格な監視の目を光らせている。これは文化の振興という外観を借りたものの、その本質は国民の心を統一し、不穏な動きを事前に防ぐための措置である。
どうやら日下部はそれに協力しているらしい。
日下部はさらに声を潜めて、
「実はな、俺が担当した監視対象は、表面上はただの文人たちの集いに過ぎんが、彼奴等の創る作品には
アカの思想が織り交ぜられており、若き者たちの心に悪影響を及ぼす恐れがあるというものなんだ」
どこまで本当か怪しい話だ。最近の高等警察はなにかと共産主義に関連付けたがる。 共産主義者摘発の一件から。警保局は最近になって映画にまでケチを付け始めていた。そのせいで世間は打倒共産主義の一辺倒である。
最近では映画法なんてものを制定する話まで出てきているらしい。
「それで、その捜査の一環で奴らの後をつけると意外な交友関係が明らかになった」
佐々木の心内も知らず、日下部は続けた。
「それで?」
もはや、断る決意を完全に決め込んでいるが、一応続きを促した。
「そこで、お前だ。協力してくれるなら情報をお添えるし、報酬もでる」
ーーこいつは少し、話をなにかと引き伸ばすな
と低く語り、佐々木にその重要性を説いた。
「はぁ…」
「おいおい、早くも感動しちまったか?」
「そんなわけないだろう」
日下部の話は、要約すると、国の安定を脅かすものを未然に防ぎ、公共の秩序を乱すことなく、すべての国民が一丸となって国家の繁栄に寄与せんとするのが我々の役目であり、そのためには、見えざる手による厳しい監視が不可避であるという認識を持つべきであるといっ趣旨のものであった。
普段と同じように、しかし内に何かしらを秘めたる口調でそう語る姿は、佐々木には何かよくないものに酔っているように見えた。
ーーーー
そうして話を終えた後
「本当にいいのか?」
「ああ」
日下部は軽く首を振って首肯の意を表しながら、革財布を取り出した。
「その代わり頼んだぞ」
二人の下宿先は全く反対方向にあるため、この店を出れば、別々の道を歩むことになる。
「じゃあな」
佐々木は別れを告げると、店を出るべく廊下を歩き始めた。すると不意に女の声に呼び止められる。
「もし、」
「なにか?」
「外は大雨でございますゆえ、こちらの傘をお使いください」
大層美しい女であった。両手には傘を抱え、着物をピッタリと身に着ける姿からは不思議な引力が働いているかのように、目が吸い寄せられた。
しかし、不思議とその容貌をはっきり視界に収めることができなかった。それでもなお、なぜか美しいと思った。
着物の模様は、瞬きをすれば動いてしまいそうな、まるで夢幻の如き錯覚を覚えさせる。
静かに言葉を交わし、傘を手渡たされた瞬間、皮膚を通して伝わる手の感触は冷たかった。
ーー見れば見るほど美しい
女ではない。傘だ。
その傘は、漆塗りの柄は夜の闇に溶け込むような深い黒さを持ち、その表面には微妙な模様が施されており、燈光の下でこそその真価を発揮する。線は、時には川の流れを模し、時には無数の星が散りばめられた夜空を彷彿とさせる模様を描き出していた。
傘布は、夜の海のように深い紺色で、その表面にはほとんど見えない細かな文様が織り込まれていた。雨がこの布を打つと、文様が水を含むことでほんのりとその存在を現し、儚くも美しい景色を生み出していた。この織物の文様は、まるで詩の一節のように流れる水の流れを表現している。
骨組みは、裏面に見え隠れするが、その一本一本にも美しい彫刻が施されていた。微細な花の模様は、かすかな光の中でさえその精緻さが際立っており、まるでそれ自体が小さな森を形成しているかのように思える。
持ち手のは触れる手に自然と馴染むよう精心に作られており、その表面は滑らかで不思議と温もりさえ感じさせる。持ち手の末端には、小さな金属の装飾が施されており、それは傘全体の装飾と調和して、静かながらも確かな存在感を放っていた。
この一時ばかりは、この無機物に恋心を抱いていたということを認めねばなるまい。
佐々木は、傘を見つめながら、これほどの料亭にもなるとこのような気配りがあるのかと感心した。同時、これを雨を避けるためだけに使ってよいものか苦心する。しかし、数瞬の迷いの末、抗いがたい魅力を傘に感じ受け取ることに決める。
傘である以上、使わなければ意味もない。
「あ、ああ…ありがとう」
その美しさに心奪われたせいか、ひったくるように傘を受け取ると
「では」
彼女が去った後、その場にほのかに残る花の香りと共に、夢幻の如き彼女の影がこの雨夜の一幕に幻想的な色彩を加え、現実と幻影の境界を曖昧にする
その後、佐々木はすぐに前を向き、扉へと足を運んだ。我ながらみっともないことこの上ないが、それも仕方ないと佐々木は諦める。
傘だ。この傘がどうしても欲しいと思ったあの欲求は人の他の欲求と比べても、逆らうという意思を奪うほど凌駕していた。
引き戸を開けると、女の言う通り外は大雨がざっくりと降っていた。
これは大変助かった。あとでしっかりと礼を言わねばと心に決めた。
それにしても美しいと感心しつつ傘を見てみると、何度改めてもこれがやはり大層立派な傘であった。漆塗りの柄に幾重にも彩られた模様は到底自分が触れてよいものとは思えぬ。
しかし傘である以上使わなければどうという意味もない。
持ち主が誰であろうと本来の役割を熟すのが道具というものである。使わぬ方が持ち腐れというもの。
そんな益体もないことを考えるのは雨にあてられたせいか、それとも酒か。そのどちらでもないということは明らかであろう。酔った佐々木もそれは理解していた。
むしろ今はそれしか考えてはいまい。不思議な感覚と高揚感に身を任せ傘を開いた。
ーーーーーーーー
雨が降りしきる中、傘を手に、自らの下宿先へと急ぎ足で戻った。街灯はこの時間帯、静かに雨の霧を照らし、その光が地面の水溜りに不規則に反射して、闇夜に幻影を描き出していた。
雨に包まれた帝都の夜が更けるにつれ、佐々木達也の足取りも重くなった。夜の帳が下りた路上には、ガス灯がぽつりぽつりと間隔を置いて点在し、そのぼんやりとした光が霧に溶け込む様は、まるで夢幻の世界を行くよう。
しかし、佐々木の心中は幻想の余地など微塵もなく、胸を圧迫するのは冷え切った空気と同じくらいの不安の重さであった。
日下部との会話から得た情報を抱えながら、未だ頭に残る酒気を燃料として思案にふける。頼み事というのは実に単純難解であった。
「アカ」の疑いを持たれている帝国大学の学生、その名は森田雄一。政治学部に籍を置きながらも、その活動は学外でも注目されていた。森田の急進的な思想と行動が、内務省警保局の目に留まらないわけがなかった。
日下部の叔父、内務省警保局の役人からの依頼は明確だった。「森田に近づいて、彼の動きを監視してほしい。必要ならば友人として、だが、その全てを報告すること。」
佐々木は、この厄介ごとに自らが選ばれた理由を改めて考える。自身も政治学を学ぶ一学生として、森田とは何度か議論を交わしたことがあった。そのため、森田に近づくのは自然な流れとなるだろう。
しかし、そのすべてが国のため、いや、何よりも気に食わないのだ。佐々木は共産主義を善とは思わぬ。しかし、それを無理に排せばかえって余計な混乱を生むとしか思えなかった。
ただ、どちらにせよこの話を断って、それで話が済む気がしない。
もう遅いのかもしれない、自分も、この国も
ーーーーーー
石畳の道を音もなく進む佐々木の足元は、水しぶきを上げるたびに、ひんやりと冷たさを増す。
家は、昔ながらの日本の町家を思わせる佇まいで、しっとりとした暗闇に包まれていた。築数十年は経過しているように見えるが、よく手入れされている。
正面は、伝統的な木造建築である。屋根は深く垂れ込めた瓦屋根が雨水をしっかりと逃がしている。軒下には、木製の格子窓が並び、その窓から漏れる光が外の濡れた石畳にぽつぽつと明かりの点を落としていた。壁は土壁で仕上げられ、時折見せる割れ目や修復の跡が、長い年月を経てきた証だ。
門は頑丈な木製、その扉は年月の経過とともに色褪せ、やわらかな灰色を帯びている。門をくぐると、小さな庭があり、その中には手入れが行き届いた庭木や苔が生え、雨に濡れている。庭石が敷かれた小径が家の玄関まで続く。
玄関横には傘立てがあったがそこにこの借り物で高値の雨具一本を放置するのは憚られた。
よって佐々木は布で傘を包み部屋に置いておこうと考える。
未だになんとも抗いがたい魅力をこの傘に感じているようだ。
下宿の古びた木製の門を慎重に押し開けると、戸口の灯りがほのかに漏れ出し、夜の闇をわずかに照らした。その灯りの中で娘が温かな微笑みをたたえて立っていた。娘の頬は、家の暖かな灯りに照らされてほのかに染まり、その目は佐々木を見つけうれし気に細められている。
下宿先の娘、紗代子だ。
紗代子は、佐々木の帰りをじっと待ちわびていたのだ。そして遅い時間に帰ってきた佐々木に何を言うよりも先にまず、温かく迎え入れた
「お帰りなさい、達也さん。寒いでしょう?早く中にお入りください」
彼女の声は、雨音を通してもなお、温かく心地よい響きを持っていた。
佐々木の服は少し雨で濡れていたが、紗代子がさっとタオルを差し出してくれる。
雨に触れた袖を拭いていると
「あら?傘預かりますよ」
紗代子が声をかけ、控え目に微笑みながら、傘を受け取ろうとする。
外の冷たい雨とは異なる、家庭の暖かさが佐々木を包み込む。
だが、佐々木はそれを制し、代わりに自分を拭いたタオルで、傘を包み込んだ。
「この傘は借り物でね。高い品で汚してはならないから、部屋に持っていこうと思うんだ」
「そうなのですか」
そうして二人で話していると、奥から妙齢の女性、家主である由紀子が現れる。
「由紀子さん、ただいま帰りました」
「外は寒かったでしょう、暖まっていってくださいね。」
と由紀子が優しく声をかける。紗代子は佐々木の傘が少し気になるようだったが、特に口を挟むことはせず、雑巾で玄関回りの水滴をふき取り始める。
「はい」
「ありがとう」
「いや、私が遅く帰ったせいだからね」
一緒に戸口の水たまりを拭いながら、ひそやかに微笑んだ。
大方玄関の水気を吹き終えたところで、紗代子が言う。
「お茶を入れましょう、寒いでしょ」
「いや、私は」
「私が飲みたいの」
押し負けた佐々木は黙ってうなずいた。
「いきましょう」
促されるままに居間へと向かう。
床には摺り減った畳が敷かれていた。壁には淡い色の和紙が貼られ、部屋の隅々まで温もりを感じさせる。部屋の中央には低い木製のテーブルが置かれ、その周りには複数の座布団が丁寧に配されている。
天井からは、木枠に和紙を張った照明が下がっており、その柔らかな光が部屋全体を穏やかに照らしていた。
部屋の一角に小さな仏壇が設置されて、そこにもろうそくの灯が一つ静かに燃えていた。その優しい光が部屋に溶け込んでいる。壁の棚には、家族の写真が飾られている。当然ながら達也はそこに映ってはいない。いるのは小さい紗代子と母親の由紀子だけだ。父親はいない。
父親は陸軍中将で、由紀子は妾だ。紗代子は父親に会ったことは一度もないという。
佐々木が居間に腰を落ち着けると、紗代子は早速お茶を入れ始めた。彼女は茶の道具を丁寧にテーブルに並べ、その手つきは家庭で受け継がれてきた伝統を感じさせるものだった。まずは茶筒から緑茶の葉を茶杓で取り、それを茶漉しのある急須に入れる。その動作は慎重でありながらも自然で、佐々木はいつもそれに感心している、
「今日は何かいいことでもありました?」
紗代子はその後、湯飲みを並べ、さらに水を沸かすために台所へと向かった。彼女が使うやかんは古びているが、その表面には目立った汚れはなく、長年にわたって大切に使われてきたことがうかがえる。
「え?」
やかんに水を入れ、火にかける。
「お顔が随分楽し気で、まるで子供みたい」
可笑しそうに笑う。
しばらくしてから、湯気が立ちのぼり始め、やかんからは小さな笛のような音が聞こえてきた。
「ああ、まぁね」
紗代子は熱湯を急須にそっと注ぎ入れる。湯の流れる音と茶葉が湯を吸い込む音が静かに部屋に響く。彼女は急須の蓋を閉めて、しばし待つ。この時間、紗代子と佐々木は無言の中で互いの存在を感じながら、それぞれの思いに耽る。待ち時間は短いが、このひとときが二人にとっては心を落ち着ける重要な時間であった。
「よかった、なんだかよくわからないけれど最近の達也さん暗い顔のことが多かったから」
「そうかもね」
茶にとってか二人にとってか、必要と思われる時間が経過すると、紗代子は再び急須を手に取り、湯飲みにお茶を注ぎ始める。彼女はまず自分の湯飲みに、そして佐々木の湯飲みにと順番にお茶を分ける。お茶の色は鮮やかな緑色で、その香りが広がった。
「どうぞ、お暖まりください」
と紗代子が言い、佐々木に湯飲みを差し出す。
「ありがとうございます」
佐々木は感謝の言葉を述べながら、熱々のお茶を手に取る。二人は静かにお茶を味わいながら、雨音を聞き、互いの静かな時間を共有する。この一杯のお茶が、外の寒さと内の温もりの間で、心と体をじんわりと温めいく。
佐々木はその場で、ほっと一息ついて、冷たい雨から解放された感覚に身を任せる。佐々木はこの小さな下宿での暖かさと、外の厳しい世界との対比に、しばしの安堵を見出す。そして自分がこの家に戻るたびに感じる、不思議な安心感と居心地の良さを、改めて認識するのだった。
紗代子の気配りに感謝を込めた言葉を交わした後、佐々木は自身の部屋へと向かった。彼の部屋は、古家の二階にある小さな空間で、階段を上がる音が家の静けさと相まって、どこか懐かしい感じを醸し出していた。階段の各段がきしむ音を立てるたびに、心が懐かしさに沈んでゆく、そんなはずはないのに、どこか懐かしささえ感じさせる。その感傷に身を任せゆっくりと自分の部屋に向かう。
古びた木の戸を開けると、見慣れた自室が姿を現した、
部屋は広くはないが、必要最低限の家具が配されており、学生生活にふさわしい機能性を持っている。窓際には小さな机が置かれ、その上には積まれた書籍とノート、そして学問の道具が整然と並べられていた。右壁には特有の木目が流れ、その向かいには布団が畳まれた布団台が置かれている。
部屋の窓からは、下宿の小さな庭が見え、雨に打たれる樹木や草花が夜の帳の中でぼんやりとした輪郭を描いていた。窓を少し開けると、冷たい夜の空気が部屋に静かに流れ込み、雨の香りが佐々木の感覚を刺激した。佐々木は窓辺に立ち、しばらくの間、外の景色と雨音に耳を傾ける。
雨が降ると、声が聞こえる。あの日から、佐々木は水に近寄ると、なにか小さな声のようなものが聞こえた。こうして、耳を澄ませると、だんだんそれはバラバラながらに多かれ少なかれ似たようなことを言っていた。
「愛」「寵人」「受け入れて」「守護」
その後、机に向かい、そこに座った。部屋に置かれた小さなランプを点けると、その光が彼の周りだけを照らし出し、書籍とノートがぼんやり光を反射した。佐々木は棚から一冊の本を手に取り、読み始めた。
本の中の世界に深く没入していく。
カコンッ
傘が倒れた。
ーーーー
小傘ぁぁっぁっぁぁ!お前がっ!好きだっ!