転生超越者は胸の穴を埋めたい(書籍版:転生程度で胸の穴は埋まらない) 作:ニテーロン
――足を黒い泥のようなものに絡めとられ、ティカは膝を突く。
すると、手にも泥が纏わりついてきて、両手も地面に突いた。
「……な、なにこれ」
ティカは混乱しながら呟く。そうしている間も、結晶から泥は溢れ続けて、ティカの周囲を覆っていく。身動きが取れなくなって、訳が分からなくて――。
『……これで、良かったのかな』
「……!」
――そして、声が背後から聞こえた。目の前の結晶からではなく、背後から。
首を回して、後ろを見る。すると、そこには真っ黒な泥で出来た人型のようなものがあった。
その人型は、ティカの斜め後ろで背を向けている。
毎日鏡で見ているようなフワフワの髪を揺らし、片膝を抱えるようにして座っていた。
勘で分かった。あれは……。
「……未来の、私?」
『………………』
ティカが呟くと、人型の背中が揺れる。
そして――。
『――ああ、
――その言葉と共に、ティカの中に記憶が流れ込んできた。
◆
――それは、一人の英雄の記憶だった。
誉れ高き、人類を救った英雄の記憶。十三で学舎に入り、十六でアデプトになり、人の世界を滅ぼさんとする十七の魔王を殺してみせた、人類最強の記憶だ。
誰よりも前に立ち、人の世界を導いてきた。
千年間、長い長い間、誰よりも多くの人を救い、希望の象徴であり続けた。
……でも。
『……あれは、魔物の国が滅んだ、少し後のことだったかな』
人影が呟く。記憶がティカの脳裏に広がる。それは。
「……ひっ」
死体だった。死体の山だった。道にも、建物の中にも。城の中も、城壁の上も、川の中も。
一つの都市。いいや、都市だけじゃない。その周辺の街も、村も。
――一つの国が、死体で埋まっていた。
亡骸は皆、全身が腐り、血を流し、苦悶の顔浮かべていた。苦しみに耐えかねたのか、喉をナイフで掻っ切っている者もいた。
子を抱えて死んだ女がいた。城壁の上、武器を持ったまま死んだ男がいた。神殿で神に祈る体勢のまま死んだ老人がいた。
「……これ、は」
ティカは愕然とする。
そんなティカに、人影は囁く。そうだろう。知らないだろう。だってこれは、英雄がアデプトになった後に初めて起こったことだ。子供のティカが知っているはずがない。ここに来る直前、コノエやメルミナがその言葉を口にしているのを聞いていたけれど、実は意味を理解していなかった。
――迷宮氾濫。
瘴気と魔物を撒き散らす、邪神の悪意。
それは、正面からの戦いでは英雄に勝てないと判断した邪神が、それでも人を殺すために編み出した……一種の、
――最強の英雄は、世界の戦争の形さえ変えていた。
『…………』
記憶の中で、英雄は立ち尽くしている。目の前に広がる死体の山に、呆然としている。
死病で苦しみ、死んだ亡骸たち。凄惨な光景を見て、英雄は、思った。
……これは、私が魔物の国を滅ぼしたからか?
「……え、いや、でも」
『……ああ、もちろん、分かってるんだよ。分かってる。そんなことは考えるべきじゃないって』
それは、と咄嗟に言おうとしたティカに、人影はゆっくりと首を振る。
『事実として、あのとき魔物の国を滅ぼさなければ、遠くないうちに人類が滅んでいただろう。迷宮氾濫よりも遥かに多くの人が死んでいただろう。あの時は、ああするしかなかった、と思う。それは間違いない』
――けれど。
影は、そう呟く。
『でも、思ってしまったんだ。もっと上手い方法が、あったんじゃないか。もっと犠牲を減らせたんじゃないかって。……あれから千年。迷宮氾濫が起こるたびに、そう思う』
……そして、次に。
ティカの脳裏に、多くの人の顔が浮かんでくる。
楽しそうに笑う男。嬉しそうに微笑む女性。共に
ティカは気付く。その全てが……アデプトの紋章を、胸につけている。
『――ルートは、極天の魔王から神様を庇って死んだ。子供が生まれたばかりだったのにね』
「……え?」
『レインは、夢幻の魔王に心を殺された。リージャは不死の魔王を押し留めるため、魂を削って固有魔法を展開し、十日で死んだ。ロウエンは氾濫から民を逃がす途中、災厄に囲まれ民を庇って死んだ』
死に顔が、映る。笑っていた人々が、死んでいく。
埋まっていた円卓から、一人二人と消えていく。
そして――一人の女性が、見えた。メガネをかけた、優しそうな顔の女性。
その顔は、それまでの人々と違ってティカも知っていた。だって、彼女は神様と共に何千年も人を守ってきた、原初の……。
『お師匠様は、天蓋竜を止めるために盾になった』
英雄は、覚えている。長く付き合った師匠の、最期の笑顔を。
――ティカ。私の自慢の弟子。
――後は頼みました。
何百年経っても、英雄がどれ程称えられても、ただ一人英雄を幼い頃と同じ名で呼んだ師匠。
その師匠は、最強の魔王を止めるために、策を練る時間を稼ぐために、盾となった。一度天蓋竜に敗北し、深い傷を負った英雄には、助けられなかった。
『……長く、長く、戦ってきたよ。多くのことを成し遂げてきたよ。……そして同時に、多くのものを、取りこぼしてきた』
銀の英雄。その功績は数えきれない程にある。人類を千年守ってきた最強。
ティカも、ここに来るまでの三日間で沢山聞いた。神様から、コノエから、メルミナから。皆が誇らしげに話していた。
――ああ、でも。……いいや、だからこそ、なのか。
ティカは理解する。
『段々と、考えるようになった。――これで良かったのかなって。もっと、上手くできたんじゃないのかって』
英雄は、悔やんでいる。後悔している。ずっとずっと、これで良かったのだろうかと考えている。
ティカに、伝わってくる。どれほど笑っていても、どれほど胸を張って歩いていても。
英雄は、ずっとずっと後悔していた。失う度に、後悔していた。
だから――。
『
――これは、千年をかけて積み重なってきた、後悔の澱だ。
ティカは知る。英雄が千年間隠し続けた、負の部分を。何もなければ、きっと死ぬまで一度も表に出さなかった、最強の英雄の弱い部分。
それが今、デーモンの固有魔法によって操られ、抽出され、現実に現れている。
だから――。
「……ぁ」
――千年の重みが、ティカの背中にのしかかってくる。
ティカは、その重みに、押しつぶされそうになって。
「――教官! それは、それは――」
遠くから、コノエの声が聞こえてくる。教官、と叫んでいる。
しかしティカは段々と黒い泥の中に沈んでいき――。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――そして、
デーモンの塊は、笑っている。体は滅びても、固有魔法が笑っている。世界に残った渇望が、英雄を捕らえた銀の結晶の中で笑っている。
『おめでとう』
嬉しそうに、笑う。嘲笑ではない。悪意もない。
デーモン達は、心からの祝福をもって、英雄に笑顔を送っていた。
『おめでとう』『おめでとう』『おめでとう』
『『『『戻れて、良かった。おめでとう』』』』
祝福し、羨ましげに見る。だってそれは、デーモン達の願いそのものだから。
――
それは、邪神に貶められ、全てを失ったデーモンたち全員の願いだからだ。
邪神に騙されて地上に砦を作り、人類に家族を、友を、同胞を殺されたデーモンたち全員の願いだった。
『おめでとう』『おめでとう』『おめでとう』『おめでとう』『おめでとう』『おめでとう』『おめでとう』『おめでとう』『おめでとう』『おめでとう』『おめでとう』『おめでとう』『おめでとう』『おめでとう』『おめでとう』
――そもそもの話をしよう。
デーモンは、とても頭がいい。並みの人間よりも、頭がいい。
そして、頭がいいために、己の力量も正しく把握している。そういう魔物だ。数多の人を殺し、喰い、成長した最上級の魔物。それがデーモンだった。
……しかし、その前提で考えると。一つ疑問点が浮かんでくる。
そもそも、そんな頭のいいデーモンが――
昔から、デーモンは地上の汚染地の中に砦を作っている。けれど、当然、砦を作ればアデプトがやってくる。人を守るために神の使徒が殺しに来る。
故に、砦のように目立つものは、作るべきではない。少し考えればわかることだ。最初は弱い人間をカモに出来ても、その後には必ず強い人間がやってくるのだから。
――そんな、デーモンの不可解な行動。
その答えが、今結晶の中にいるデーモンたちだった。
邪神は、今回英雄を落としたデーモン塊を作るための構想を、何百年も前から練っていた。そして、デーモンたちを操り、試してきた。
邪神はずっと
作らせて、アデプトに皆殺しにさせて――後悔させるために。
情を、愛を知るデーモン達から全てを奪って、現実を否定させるために。
『ああ』『なんで』『どうして』『憎い』『ごめんなさい』『苦しい』『憎い』『どうしてこんな』『すまない』『ありえない』『憎い』『夢だ』『嫌だ』『嘘だ』『嘘だ』『嘘だ――』
デーモン塊は、地の底で、ずっと否定していた。絶望していた。――後悔していた。
なぜ、あの日、地上に出たのだろうかと。邪神に操られていたことを知らぬデーモン達は、ずっと己の愚かさに絶望し、現実を否定していた。
己のせいで家族を友を同胞を失ったと、悔やみ続けていた。その後悔こそが、邪神が長年望んでいた時空干渉の固有魔法に繋がったことも知らずに。
――そうだ、この固有魔法は、後悔し、現実を否定するための魔法。
そんな、誰もが一度は考えたことのある夢想を、歪に叶えるもの。対象者の体から時間を奪い、あの日の姿に戻す権能。
本質的に、本人の望みを叶える魔法であるが故に、抵抗が極めて難しい力だ。
結晶を取り戻したとしても、本人の
『
――それこそが、英雄を落とし、無力な少女にした魔法の正体だった。