藤原佐為Inよう実 作:まるまつ
夜気が肌に柔らかく、まさに春の夜という感じの過ごしやすい夜だった。
新生活らしい簡素な部屋には物が少なく、あらかじめ備え付けられた家具の類が置かれている。
唯一私物だと断定できるものは碁盤と碁石くらいで、小さな1人用のテーブルを占拠していた。
パチパチと静かな部屋に碁石の音を響かせているのは真で、正座で真剣に碁盤へと向かっている。
その熱量は凄まじく、そこだけ温度が1度上がったような熱気がしていた。
ここに第三者がいたならば1人で何をそんな真剣にと笑うかもしれないが、真の目には目の前で真っ直ぐに碁盤を見つめる男…藤原佐為が見えている。
目の前にいるはずなのに遥か高みにいるように錯覚するほどの圧力で盤面を支配する佐為に、一手の読み間違いすら許されないほどの苛烈な猛追をかけられて、真の額からは汗が滲む。
盤面には黒と白の模様が入り混じり、碁を打たないものでももう大詰めなんだろうなと分かるほどに煮詰まっている。
真が佐為から貰った置き石…ハンデによって序盤得ていたアドバンテージももはや残っておらず、僅かに自分の陣地が狭いと真は気づいていた。
しかしこの差を覆すにはもう盤面には余白はなく、ヨセで1目や2目の陣地を得ることも佐為の前では難しいということも真は知っている。
結局10数手打った所でお互いに打つところがなくなり、地の計算に入る。
「俺の2目負けか…やっぱり少し足らなかったね。……よし、並べ直そうか」
囲碁は分かりやすくいえば陣地の取り合いで、今回は真の陣地が佐為よりも少なかった。
置き石ありとはいえ2目差はここ最近の真にしてみれば大検討で、あはや勝てるかもと思っていたこともあってショックも大きかった。
しかし頭をすぐに切り替えて、石を並べることができない佐為の分も含めて序盤から対局を再現する。
こうやって並べ直していると、真のミスがどんどんと浮かび上がってくる。
「結局右下の攻防でキリこんで行ったのがダメだったね。ここの攻防じゃどうやったって黒の損にしかならない。それがもっと早い段階で分かっていれば上にトブこともできたけど、抑えられて結局上手く打てなくなっちゃった。……そもそもとしてもっと上の厚みを活かす打ち方ができてないのがいけないよなぁ。ここが活きてくれば白はもっと動きにくかったはずなのに…ここが結局右下の余裕のなさにも繋がってきてる。……って佐為?聞いてる?」
石を並べ直す時に顔を上げる余裕など当然ないわけで、一方的に喋る途中で佐為が静かなことに気がついた。
いつもならばあれがダメだこれがいけないと騒ぎ始める佐為の静かさに今更ながら真は気づいて、手を止め佐為をみる。
真を見る佐為は何を思っているのかニコニコとしていて、それがどうにも真は気持ち悪かった。
「何さ、今日はえらく上機嫌だね。人が負けて一生懸命喋ってるのがそんなに楽しい?」
『いえいえ、私は真の成長を喜んでいるのですよ。今日の碁はここ最近でも抜けて良いものでした。真もそれは分かるでしょう?』
「まぁそれはね。置き石を減らすのが今日になるかもとは思ったよ」
『真は右下の攻防を気にしていますが、私はここの手…こここそを褒めたいのですよ。白の中央への連絡を牽制しつつ自らの陣地を増やすこの手は、今までの真では打てない手でした。この石のせいで私は想定よりも多くの石を使うか、この地を捨てるかをとても悩まされました』
「確かにここの手は自分でも上手く打てたと思うけど、突然閃いただけなんだよね。再現性でいったら多分ないよ」
『ふふふ、真はこういう手が浮かぶことがこれからどんどん増えていくと思いますよ。人の成長というのは一定ではありません。階段を突然飛び上がるような時が皆来るものです。それが真にとって今日であると私は思います』
「……階段飛び上がっても勝てなかったけどね」
『それは私も成長しているからです。私が打っていた時代よりも洗練された定石や考えは、日々私を神の一手に近づけてくれています』
「あんまり先に行きすぎて俺が振り落とされないと良いけど」
『そればかりは真次第です。私は足を緩めるつもりはありませんよ』
「はいはい、精一杯ついて行かせてもらうよ」
『ええ、……そのためにもここからは駄目な所を言わせてもらいますね』
そういう佐為の笑顔は先程と違いどこか威圧感を感じるもので、いつもの佐為に戻ったなと真はため息を吐いた。
結局その後佐為のダメ出しは30分ほど続き、終わる頃には新生活初日の疲れも合わさって、真の瞼は大分重くなっていた。
対局が終わってすぐ、かなりの眠気に襲われた真は明日の準備と授業の予習を終えると電気を常夜灯へと切り替えて寝てしまった。
碁盤が置かれていた1人用の小さなテーブルの上には碁盤の代わりに携帯が置かれており、そこには囲碁の対局動画が流れていた。
先日行われた囲碁のタイトル戦の一つである棋聖戦。
ネットに上げられた動画のアーカイブはちょうど8時間程で、人間の睡眠時間と同じくらいだった。
そしてその動画を佐為はなるべく声を出さないように静かに見ていた。
佐為は幽霊であるため食事も睡眠も必要ない。そんな佐為に暇だろうとこうして対局を流しながら寝るのが真の日課になっていた。
(しかし、文明の発達とは良いものですね。虎次郎に憑いていた頃の夜は頭の中で棋譜を並べることしかできませんでしたが、こうして現代の強者達の碁を見ることができるとは…この時代に降ろしてくれた神に、そして真にも感謝せねばなりません)
そんなことを考えながら、佐為は動画を見続ける。
あそこに自らが座った時のことを想像して、自分ならばあそこに打つと自らの頭の中の碁盤に石を置く。
実際には違う所に打たれたならば何故そこに打ったのかを想像し、今度はそれに対してならばこう返すと盤面を入れ替える。
そんなことをしていると、ふと今日の対局が佐為の頭の中にちらつく。
目の前で流れている対局と比べたら粗が目立つものだったが、それでもそれはそれで良い碁であったと佐為は思う。
(真は今日一段階また強くなりました。そしてその要因はおそらく良き出会いがあったことでしょう。真に面と向かってこれを言うと照れるでしょうが、私はそうだと確信をもっていますよ)
佐為は真の寝顔を見つめながら、こんな誰とも分からない幽霊に良くしてくれていると、まだ出会って3ヶ月ほどの少年に思う。
寝る時に携帯を置いてくれることも、入学して初日に碁盤を揃えてくれたことも、他にも色々なことを含めて、佐為からみれば良くしすぎていると思うほどだった。
佐為はその理由を知っているだけに複雑な気持ちもあるが、それでも自らには碁を打つことしか出来ないと自覚している。
せめてこの少年が楽しめる碁を打ち続けたいと、佐為は願っていた。
囲碁を打つ描写を入れたいがために描いた話。短いですが次の話もすぐ投稿しますので