夜鷹が燃えるこの空で   作:ちゃしぶ(98mm/s)

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秒速17メートルの夏

 強い陽射しの差し込む電車に揺られながら、ブロンドの彼女は心の雲を晴らせずにいた。その輝くほど美しく手入れされた頭を悩ますには、あまりにも彼女は多感すぎる。もう17歳だと言うのに、まだ心に幼い輪郭が消えず残ったまま。

 

 「もう、最悪」

 

 汗を拭うこともせず、右手に持ったペットボトルを傾けた。

 

 ゴールドシチーとは、一人のウマ娘の名前である。父譲りのブロンドの髪を、父に教わったようにセットし、また父譲りの美貌をいかしモデルとして活動、そしてあるいはターフを走るランナーとして日々鍛錬を積む、そんな二足のわらじを履く、一人のウマ娘の名前である。

 

 その彼女は現在、ランナーとしてデビューしてから3年目。所属するトレセン学園の夏合宿に参加するために、その開催地である湘南のビーチに向かっている。しかし現在は7月も末、7月の初めから8月の下旬までの開催である夏合宿に参加するには遅い時期だ。

 

 彼女のわらじは不完全と言う他なく脆い。どちらかの足に違和感を感じれば、もちろん一度足を止めるのだろうが、何せ薄いわらじ、いつもどこかで破れた予感がしているのだ。まるで軍隊の行進のように、遅い足取りで進みながら、それでもカッコつけようとする。彼女はそんな履き方をするのだ。

 「綺麗」と評価されるのが嫌だとか、モデルとしての自分ばかり評価されるのが嫌だとか。かと思えば、少しずつレースの結果が落ち込んできているとか、モデルとしての活動をその言い訳にしてしまう自分が嫌になるとか。大人になりきれない彼女は、一見些細なことに見えるようなことを気にしてつまづきそうになりつつも、見栄を張ってその”綺麗”な外面を取り繕っている。

 

 だんだんそれが顕著になりつつある最近の彼女は、トレーニングにも身が入らない。頭にはいつも不安の雲が漂ってエンジンを空ぶかしするばかり。肥大化する不安がまるで煙突に詰まったススのように彼女の思考を支配して、その脚の動くのを邪魔するのだ。その事実がまた彼女の心を蝕むように突き刺さって、不安は更に大きくなっていく。

 

 彼女のトレーナーはそれに気がつけないほど鈍感な人間でもなく、彼が解決策として提案したのは、「一度モデル業に集中する」ことだった。もちろんトレーニングも抜いてしまうわけではない。そこにはシチーの負担を減らして悪循環から抜け出すこと、そしてレースから一度離れることによる気分転換的な意味を込めていた。5着に終わった天皇賞・春が終わった頃から夏合宿の始まる7月上旬までの取り組みのはずだった。だが、その取り組みは失敗に終わったと言っても過言ではない。しばらくはモデル業に専念すると聞いたマネージャーが張り切ったおかげで数多の仕事が舞い込んで、解放されたのは予定より一ヶ月ほど遅れてしまった上に、こうして今もなおシチーは悶々として自らのレース結果と未熟さに憂いては、トレーナーの提案したその取り組みを「走るな」と言われているように感じ、疑い、悩み続けている。

 

 「だってそんなの、納得できないじゃん……」

 

 彼女はもともとよく動きたがる人だ。落ち着きがないと言えばそれまでだが、気がつけば脚が走りたがって疼いている。まるで走りゆくその中に自分があると言うかのように、走り続ければその先に光り輝くゴールがあると言うかのように、彼女の両脚はうずうずと走らせてもらえるのを期待している。

 

 トレーナーのことは嫌いじゃない、むしろ気に入ってる。でも彼のあの言葉だけは憎たらしくて仕方がない。

 

 「さっさと走らせてよ」

 

 トンネルを抜けて窓に表れた広大な海に向かって、駄々をこねるように呟いた。

 

 

 

 「はあ!? 合宿まで来て走らないの!?」

 

 昼過ぎの砂浜で波の音が打ち付けて、トレーニングに励むウマ娘たちの掛け声が聞こえる。その中で怒号を上げるのは彼女だ。

 

 「うん。シチーにはGⅠ級の娘たちと渡り合うには終盤まで走り切るスタミナとメンタルが足りないから、遠泳でそこらへんを鍛える」

 

 「……やっと走れると思ったのに。でも、たまには走らせてくれるよね?」

 

 「たまにはね。でもシチーは補習だってあるでしょ、時間もないし、十分にスタミナとメンタルが鍛えられたら、って感じかな」

 

 「……オッケー」

 

 納得したような素振りを見せて、ジャージ姿のシチーは水着に着替えるために合宿所に向かうが、その耳を絞らせたままだ。ガシガシと砂を踏みつけるように歩くその姿は、少なくとも一般的な「ゴールドシチー」から連想されるものとは全く異なっていた。

 逆効果、だったかも。そう呟いてうなじを掻いた。

 

   *

 

 鉛筆が先から削られていくカリカリという鳴き声と、ペラ、ペラとページをめくる音だけが教室に響いている。木造の部屋に窓から眩い日差しが侵入して、その方を見やれば、砂浜でトレーニングに勤しむウマ娘もいれば、アスファルトの上を駆けていくウマ娘もいる。

 そして手元を見てみれば、「問題用紙」と表紙に書いた冊子と解答用紙が、未使用新品のまま広がっている。

 

 「ゴールドシチーさん、集中しなさい」

 

 はーいと生返事をして、また窓越しにみんなのトレーニングするのを眺めている。

 

 考えていたのは自分のこと。もうちょっと成績良かったら、今頃普通にトレーニングしてたかな、とか、もしかして天皇賞がもう少しいい結果になってたら走らせてもらえたかな、とか。たられば論調で頭の上を後悔が飛び交って、やがて考えるのが面倒くさくなってまた窓の向こうを見つめる。そしたらまた物思いにふけて、飽きたらまた何も考えないで熱を感じられないアスファルトに視線が移る。

 

 「シチーさん」

 

 背表紙で頭を小突かれてチャイムが鳴った。

 

 

 

 「どうしてろくに問題用紙を開こうともしないの。これじゃあまた補習と再テストの繰り返しよ」

 

 大人らしく説教をかます先生がちょっとだけ腹立たしくなって、耳を絞る。

 

 「……別に、走りたかっただけです」

 

 「なら尚のこと、頑張らなきゃ。みんなそう思って再テストのために勉強してきたのよ」

 

 「はあ」

 

 「それなのにシチーさんだけ何も書かないままなんて、これじゃあ再補習確定よ」

 

 「そーですね」

 

 先生は困ったように頭を掻いている。やがてため息をついて、諦観的な目線を。

 

 「じゃあ、また明日。いつも通り10時から教室でね」

 

 

 何度も補習を受けていると、やがてトレーナーもその時間を察してか、昼過ぎの静かな食堂でシチーを待つようになった。ある日はノートパソコンに打鍵しながら、ある日は読んでいた小説に栞を挟んで、またある日はアイスコーヒー片手に窓越しの青空を眺めて、そしていつも爽やかに「お疲れ」なんて言って、シチーと一緒にご飯を食べるのだ。

 

 むかつく。

 

 補習とトレーニングの繰り返しの毎日、ある日シチーはそうこぼした。

 

 「どうしたの、何か嫌なことでもあった?」

 

 「……むかつくって言ってんの」

 

 「話聞くよ」

 

 スプーンを持つ手を止めて、彼は真剣そうに見つめる。カツカレーからはわずかに湯気が立っている。

 

 「アンタにむかついてんの。わざわざ一緒にご飯食べることないじゃん。アタシは補習で遅れてご飯食べてるんだからさ、アンタはわざわざアタシに合わせて遅く食べることもないし、アタシのこと以外にも仕事あるでしょ」

 

 ルウをかけられて、二人のヒレカツはしなしなの衣になってしまっている。米は少しだけ固くなって、昼のピークをとっくに過ぎたからか、厨房では調理器具や食器が片付けられているようだ。

 

 「俺は言ってもまだ新人だし、シチーのことが今の所仕事の全てなんだ。それに、一人でご飯食べてたって寂しいじゃん」

 

 「じゃあ同僚の人たちと一緒に食べれば良いじゃん。アタシは一人でも平気だし」

 

 「確かに、同僚と食べれば良いかもだけどさ。ここでシチーを待って一緒に食べた方が、トレーニングに一緒に行けて良いかなって。まあ、嫌ならやめるけど」

 

 シチーはふと、昔のことを思い出していた。確かあの時も、カツカレーだったと思う。

 

 「……そこまで言うなら、別に良いけどさ」

 

 さっさと食べてしまって、ここからいなくなってしまいたかった。

 

 「そっか。ところで、ストレスも溜まってるだろうし、今日のトレーニングは久しぶりに走り込みにしようと思うんだけど」

 

 「いい。今はそんな気分じゃない」

 

 ごちそうさまでした、と言って、そそくさと早歩きで出て行った。やましいことでもあるかのように、振り返ることもせず、宿舎の方へ行ってしまう。

 

 「……どうしたものかなあ」

 

   *

 

 夜の10時になっても、まだご飯を食べていないとは思わなかった。

 

 『おかえり、シチー。カレーできてるよ』

 

 ハスキーな声でそう言う彼は、母親のウマ娘譲りらしい、綺麗なブロンドの髪の毛を短く整えて、キッチンに立っていた。

 

 『今日はどうだった? 大変だったろう』

 

 『……いや、別に』

 

 『じゃあ、楽しかったか?』

 

 『普通』

 

 『はは、シチーはすごいな。パパなんて今でもカメラを前にすると固まってしまうのに』

 

 『パパが緊張しいだけでしょ』

 

 『それもそうだ』

 

 大きな器に盛り付けられたカツカレーを、小さく掬って口に運ぶ。食欲が湧かない訳では無いけれど、何となく、ガツガツと食べられるような気分じゃない。

 

 むかつく。

 

 そう吐いた。

 

 『何か嫌なことでもあったか』

 

 彼はスプーンを持つ手を止めた。

 

 『パパがわざわざアタシのこと待ってるのがむかつく。パパは明日も仕事なんだからさっさと食べて寝ちゃえばいいのにさ』

 

 『仕事のことなら大丈夫、ちゃんと起きれるよ。てか、一人でご飯食べるなんて寂しいじゃん』

 

 『アタシだって大丈夫。もう一人でもご飯くらい食べれるし』

 

 そっか、シチーも大人になったな。彼はそう言って、またカレーを食べ始めた。

 

 シチーは知っていた。彼が自分の前では強がって、本当は何回も遅刻しては上司にペコペコと謝っていることを。たまたま彼の職場のすぐ近くで撮影があった時に、ビルの一階で働く彼の、謝る姿を見ていた。

 彼だって分かっていた。反抗期のように棘のある言い方をするシチーだって、本当は自分のことを気遣ってくれていることを。

 

 『嫌なら、やめるけど』

 

 『……うん、嫌』

 

 そっか。

 なのに。なのに、二人の間に浮かぶのは、そんな素っ気ない言葉ばかり。さっさとカツカレーを食べ終えてしまった彼はシンクに丁寧に皿を置いて、どこかに行ってしまった。

 

 そうだ。このころからだ。

 このころから、遅く帰った夜の家に父の姿はなくなって、やがて二人が顔を合わせる時間もなくなって、そのうち、父は出張ばかりするようになってしまって、とうとう家から彼の影も消えてしまった。今では連絡もろくに取っていないのも、あの時、嫌って言ったから、せっかく一緒にいる時間を作っていた父を拒絶してしまったからなのか。

 そう省みても、もう何年も更新されない彼とのトーク履歴は気まずくって、とても今更話してみる勇気も湧かない。

 

 寂しい、かな。家族がいないって、寂しい、のかも。

 久しぶりに話したい。パパと話したいよ。

 

 そう思ったって、言葉が詰まって、苦しくなってしまう。

 

 会いたい、会いたいよ、パパ─────

 

 

 

 ……い、……ーい。

 

 ……おーい。

 

 誰かの声に呼ばれて、目を覚ました。

 

 「……シービー、先輩……?」

 

 学生寮とはまた別の組み合わせ、二人一組で一つの部屋に泊まる夏合宿で、部屋に入ってくる人はごく少数に絞られる。遊びに来る友達なんてシチーにとっては片手で数える程度しかいないが、彼女らの誰にも一致しない声、それは同室のミスターシービーのただ一人だ。

 

 「やっと起きた」

 

 「どうしたんですか、走りにでも行けばいいのに」

 

 「今はふかふかのベッドで寝たい気分だったから。でも、同じ部屋で夢にうなされながら泣かれてると、思うように寝れないでしょ」

 

 言われてみれば、頬に二本の線の感触がある。

 

 そっか、アタシ、泣いてたんだ。

 

 「話、聞こっか」

 

 彼女は気分屋だ。きっと今のも、そういう気分だから、くらいのものなんだろう。

 

 

 

 「ふーん」

 

 話を聞くと言った割に、シービーは興味なさげだ。

 

 「さ、走ってこようか」

 

 やはり気分屋、話を聞くことになんて飽きてしまって気変わりしたみたいだ。

 まあ、胸のモヤモヤを少しでも吐き出せただけ良いだろう。

 

 「はい」

 

 「……準備してよ。行かないの?」

 

 「……え?」

 

 

 

 「あー、気持ちいい。やっぱり海もいいね」

 

 流れるように二人で沿岸の道路を走っているが、シチーはイマイチ、この状況を飲み込めていない。

 よそ見をしながら走っている中で、色々なものにわあと感嘆しているシービーに同調したか、カモメが鳴きながら夏空を泳いでいる。

 

 「どうしてアタシも一緒なんですか」

 

 困惑しているし、納得できないままでもいる。いくら気分屋にしたって、他人の重たい話を聞いた後に、特に反応を示すこともなく、これほど気持ちよく走れるわけなんてないだろう。ましてや、その話をした本人と二人で、だなんて。

 

 「どうしてって?」

 

 「いえ、シービー先輩って一人で走って一人でどこかに行く人だと思ってたんで」

 

 「そう? ……まあ、そっか」

 

 隣り合ってシチーの顔を見ながら走っていたシービーは、少しだけ走る脚を速めて、続ける。

 

 「アタシたちってさ、似た者同士だと思うんだ」

 

 似た者同士。

 ……いや、そんなことはないだろう。アタシはシービー先輩ほど自由人でもないし、シービー先輩ほど……、強い訳でもない。

 

 「アタシはさ、走ることが大好きで、何よりも走ることが自分の生きがいで。走ることってのはまさしく生きることなんだけど、周りの大人たちは、アタシの思うように走らせようとはしなかった」

 

 さざ波が緩やかに脈打つ。

 

 「でも、いつかアタシの好きなように走らせてくれる大人が現れた。その人はとっても熱心で、でもどこまでもアタシが第一。そんな必要ないのに、アタシに自由に走って欲しくて、アタシのことを知ろうとして、アタシに合わせてついてくるような、そんな人」

 

 ふと減速を始めて、彼女の走る脚は完全に止まってしまった。

 

 「だから、アタシはきっとさ。きっとアタシが走りたいように走るだけなんだ。そうしたら嫌なものも全部吹っ飛んで、彼は、彼らは、笑ってる」

 

 懐かしげな眼差しで、彼女は砂浜を見下ろしている。そこにいるのは、一人の男と、水着を着た何人かのウマ娘。

 

 「……そっか」

 

 「アタシはこのまま走る。キミは?」

 

 じゃ。そう言ってシービーは、シチーの答えも聞かぬまま、走り去ってしまった。

 

 「アタシは……」

 

 アタシは、どうしたいのかな。アタシは、どんなふうに走りたくて、今、走ってきたのかな。

 

 浮かんだのは自分の姿。煌びやかな勝負服に身を包んで、紅の優勝レイを肩に提げる自分の姿。デビューした年にGⅠレースを優勝した時の、あの時の自分の姿。それを映すレンズの向こう側には、男の姿があった。嬉しそうに笑って、もはや涙さえ流していた。

 ストーカーみたいにシチーのことを追いかけてきて、しつこいくらいにシチーのことを気にかけて、お人好しみたいにシチーのわがままを聞いてばかりの彼。そんな彼が、シチーの勝つのを自分のことのように喜んでいる彼が、笑っていた。

 

 アタシ、どうしたいんだろ。

 

 自分の姿と、彼の姿、交互に二人は浮かんで、でも重なることはなくて。

 迷路の中で立ち尽くしている。歩くことも、倒れることもできないままでいる。

 カンカンに晴れた夏空が眩しくて、目をそらした。頬には一粒の、雨滴。

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