「ねえ。この広大なお花畑に踏み入って、君はどう思う?」
そんな曖昧な質問の意図を掴めないでいるのか、トレーナーの彼はあごを手に乗せてうなっている。
「……考えたこともなかったな。壮大なキャンバスに色をつける様が綺麗だ、としか」
「まあ、そんなもんだよね」
手入れのされていない、しかし一帯に紫の花弁を広げるこれは、ハクサンコザクラと呼ぶらしい。その隙間を縫うように、丁寧に花野の上で歩みを進めるが、しかしたまには花を踏みつけてしまうこともあって、その度に彼は少し苦そうな顔をする。
「アタシもね、大したことは考えてなかったんだ。こんなに綺麗な丘で走り回って、楽しくって、それで十分だった」
湿った空気が喉を通る。海抜二五〇〇メートルのこの草原に立つシービーは、彼にどう映るだろう。
「でも、それだけじゃなかった。アタシが走るってことは、誰かはアタシに負かされるってことで、誰かはアタシを踏み潰して先に進んでいくってことだった」
スニーカーで一つ、また一つと、たまに紫の花弁を踏みつけて、しかし確実にその根元まで強く踏み潰して、歩みを進める。
「アタシ、怖いんだよ。こんなに綺麗なのに、アタシは踏み潰すことでしか走るのを許されない。それって、とっても不自由で、とっても残酷なことじゃない?」
ああ、きっと、この前の東京優駿だ。
アタシは走ることが大好きだ。大好きだった。それはきっと、誰もが一緒。みんながみんな、走ることが好きだからトレセンに来ている。できることなら、誰にも負けることなく、自分が満足するその時まで走っていたいんだ。
でも、この世界でそんなことは許されない。十八人の中で一番になるのはたった一人で、残りの十七人は、その一人に踏み潰されてしまう。めげずにまた真っ直ぐな茎で花を開く者もいるけれど、何度も何度も踏み潰されて、とうとう根の弱ってしまった花だってある。
アタシはどれだけの花を踏み潰しただろう。キャリーバッグと共に学園を去るウマ娘を、何度見たことだろう。
そんな当たり前のことを、彼女はやっと自覚してしまった。
「それとも、トレーナーはそんな残酷なことを知りながら、それでもアタシに寄り添ってきてくれたの?」
微かに風が吹く。
彼女の瞳は、確かに潤んでいた。
「できることなら、花の一つも踏まないで歩きたい」
言葉と共に彼女の元へと向かう。
「勝ちも負けもなしに、みんながみんな、走ることを楽しめたら、なんて思ったこともある」
とうとう彼は、一つの花を踏みつけてしまった。
「でも、そんなことは到底叶わない」
一つひとつ、しっかりと踏み潰していくように、丁寧な足取りで彼女の元へ駆け寄る。
「だから、せめて俺たちは」
そして、強く。強く、強く、ミスターシービーの華奢な体を抱きしめた。
「負かしてきた数々の花弁の色を忘れないで、それでも走るしかないんだ」
彼の辿った足跡には、紫の花弁が轍のように沈み、その色を滲ませている。
男の肩越しに彩りを見たミスターシービーが、涙を流すことは、なかった。
「……アタシにはとうとう、責任が伴っているんだ。これからは到底、アタシの自由に走るなんてことはできない。アタシを信じてくれる人がいて、アタシの負かしてきたウマ娘がいて、そのトレーナーがいて……。その希望や無念、色々な感情を、アタシは背中に背負ってるんだね」
「ああ」
「アタシ、これからも走れるのかな」
「走れるよ」
「本当に?」
「本当だ」
強く、強く抱きしめられる。
ならばそれで十分だ。
「……アタシ、このまま走るよ。アタシが背負っているのが使命だったなら、せめて叶えて、自由になりたいから」
強く、抱きしめた。