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「そんなのいらないって言ってるでしょ!」
トレーナー棟の一室に怒声が響く。「樫本理子」、声の漏れ出すドアに並ぶ札には、そう書かれている。
スマホを投げるようにソファに放ると、机の上にあった資料を彼女らしからぬいい加減な動作で閉じては端に追いやっていく。ティーカップが資料に押されて甲高い悲鳴を上げると、やるせない気持ちになって大きなため息をついた。もう、何もかも嫌になってくる。
「あの……、樫本さん」
ふと聞こえた若い男の声に振り向くと、某チームのトレーナーがドアの前で棒立ちしていた。
「……すいません、お見苦しい姿をお見せしてしまって」
新しいカップを出して、コーヒーを淹れることにした。
「お見合い、ですか」
「はい。『もうとっくに30歳を超えていると言うのに、恋人の一人もいたと聞かない。いつになったら結婚するのか』と、両親が心配しているのか怒っているのか……。痺れを切らしてとうとう勝手にお見合いを設けたんです。私は前からずっとお見合いなんてしないと言っているのですが……」
彼女には、ストレスが溜まるとつい紅茶を口にする癖があった。男のものはまだ半分も減っていないのに、彼女はカップに新しく紅茶を注いだ。
「樫本さん自身は結婚願望はあるんですか?」
「はっきり言ってありません。私の人生の本望はウマ娘を育てることと思って就業していますし、わざわざ結婚をせずとも私は今の生活に幸せを感じています」
「恋人がいたことは?」
「ありません。そういった話とは無縁でしたから」
その言葉を聞くと、ぬるくなったコーヒーをすすって彼は言う。
「樫本さんは結婚に興味ないってのは分かりますし、お見合いに行きたくない気持ちも分かります。でも、とりあえず行ってみたらどうですかね? やらないよりやる方が選択肢が増えていいでしょ」
「そんなものでしょうか……」
いまいち納得がいかないのだが、彼は優しい目で続ける。
「樫本さんがより幸せになれる何かが、そこにあるかもしれませんから。僕は樫本さんには幸せでいてほしいな」
ふと、二人の視線が交わる。まっすぐなその眼差しで自分を見つめる彼にあてられて、思わず頷いてしまった。
「ええ、では行ってきます」
*
彼女が通されたのは、とてもそこらへんで見るような民家とは違う屋敷の客間。相手はURA上層部の中でも特に影響力のある某氏の息子だという。彼は決して七光りなんて言葉に収まるような人ではないことは知られていたし、おそらく将来は清く正しく信頼を勝ち取ってきた父親と同様に幹部まで昇進していくだろうと期待されている。
両親はURAに勤める私のためと思ってこんな立派な人を相手にお見合いをセッティングしてくれたのだろう、と考えてみると、両親が今もなお自分のことを思ってくれていることへの感謝や喜びと同時に、こんな良い機会を結局今まで通りに「結婚に興味がない」などと言って断ってしまうのか、と両親に申し訳なく思ったり、でも自分は結婚に興味がないと言ったのにも関わらず勝手に張り切ってこんな相手をセッティングしてしまったのか、と呆れた気持ちになったりした。
昔から両親の思いやりは行き過ぎていた、あるいは若干ずれていた気がする。小学生の時に一度だけ友達を家に呼んだことがあったが、「勉強会をする」と言っていたのに、やたらと多いお菓子や飲み物を用意するのみにとどまらず、わざわざ家になかった人生ゲームを買ってきたことがあった。高校生の時にも、友達と遊びに行くと言ったら、その中に男子が含まれていると分かった途端に「もっとアピールしてこい」と服を買いに連れて行かれた上、少し高い香水を買っていたこともある。今回もその延長なのだ。結局、人生ゲームはやらなかったし、自分に似合うはずのない可愛らしいワンピースも、あざとい香水も、頼る必要の無いものだった。お偉いさんの息子とも結婚はしないのだと、あの人がくれたイヤリングをふと撫でた。
『いつもお世話になってますから。樫本さんに似合うかなって』
あなたが、止めてくれたら良かったのに。あなたが「そんなの嫌だ」って言ってくれれば、私だって躊躇も無く断れたのに。
先日の誕生日、理子が32歳を迎えた日の彼のあの顔を、彼女は思い出していた。にごることなくまっすぐな、それでいて温かく優しげなあの眼差し。ニヤつくとか鼻を伸ばすとかでもなく、紳士的で、にっこりとえくぼを浮かべるあの口元。若干に赤く染まるほお。きっと彼は理子のことを一段特別に思っているし、理子自身も彼に対してそれなりの好意を抱いていた。そんなことに何となく気付いていた。でも彼は決して理子を性的に見るようなこともなく、ただ見守るように、撫でるように、静かな愛を抱きしめていた。理子だって、迎えのこないその幸せを待つように、彼の言葉に耳を傾けていた。
二人にとって、その穏やかな時間がふらふらと流れていくのを、肩を寄せるでも、手を繋ぐでもなく、少し空いた隙間を埋めることなく享受する、そのことが幸せだったから。
きっと、彼が理子の幸せを願うのでなく、彼が隣で肩を借りてくれること、肩を貸してくれる方が、彼女はもっと幸せになれる。それでも彼は変わらず1メートルくらいの隙間を開けて隣に座り込んで、理子も彼に詰めることなくたたずんでいるのだ。
「理子、そろそろ行こうか」
父の声につられて、彼女は立ち上がった。
「どうかなさいましたか? 顔色が悪いようですけど」
ふとあの人のことを思い出してはお茶をすする。あの人は今頃何をしているのだろうか。またぬるくなったコーヒーでも飲んでいるだろうか。ソファに寝転がって昼寝でもしているだろうか。私はあなたの顔を思い出しては思い悩んでいるというのに。
「……あ、いえ。大丈夫です」
「それならいいのですけれど」
かん、と庭園で音が鳴る。
彼は若々しい人だった。すらっとしていて、爽やかな雰囲気を醸し出している。その瞳は、濁りなく真っ直ぐと何かを見つめるようだった。それは決して、理子のことではなかったけれど。
ふう、と小さくため息をついた。
かん。
……かん。
…………かん。
………………かん。
沈黙は長く続く。ししおどしの鳴き声だけが耳に伝って、二人きりになってしまったこの客間で茶をすする。
「……理子さんは」
先に口を開いたのは彼。
「理子さんは、どうしてこのお見合いに来てくださったのでしょう」
「どうして、とは……?」
「どうして、このお見合いを断ったりせず、ここまでいらしたんでしょう。URAの中でたまに噂話が流行るのですが、耳に挟んだんです。あなたとトレーナーの一人が良い関係らしい、と」
「『良い関係』、ですか」
「はい。……きっとご想像の通りの噂です。本来は気にせず流すべきなんでしょうが……」
「……はい」
なんだか嫌な予感がしている。この場の空気が冷えてしまいそうな予感だ。理子はそっとうなずくことしかできなかった。
「……お相手の方のこと、私も知っています。彼はとても優しくて、あなたのことを大切に思っているらしい、きっと尊敬とはまた少し違って、彼の話を聞く限り……。お似合い、だとは思いますが」
お似合い、お似合い。
鳥肌を立てて聞いたにしては、ずいぶんと甘い話だ。
お似合い……。
お似合い…………。
お似合い………………。
ふっと耳は熱く沸騰した。
「お似合い……、ですか」
「理子さんだってきっと、悪くは思っていないでしょう。彼は愛嬌があるから、というのもそうだけれど、きっと」
「……どうでしょうか」
「……お見合いの場でこんな話をするのもなんですが、私にも、気になっている方がいます。おなじ部署の事務の方で、たびたび私のことを気にかけてくださるんです。でも、彼女は『あなたが幸せになってくれたら、それでいい。そしたら私も幸せになれる』と。……お互い気があると分かっているのに、お見合いの話をしたって、嫉妬の一つもなく、そう言ったんです」
「……ふふっ」
彼の困ったように、でも幸せそうに語るその顔に、緊張がほぐれ、ふと笑みがこぼれてしまう。
「彼だってそうです。両親にお見合いを設けられ、それをお断りしたい、と相談したのに、彼ったら。『樫本さんがより幸せになれる何かが、そこにあるかもしれませんから。僕は樫本さんには幸せでいてほしいな』ですって。焼きもち一つ焼かないで『とりあえず行ってみてはどうですか』『選択肢が増えていいでしょ』なんて言うんです」
「あははっ、彼女もそう言いましたよ。『幸せの種はどこに転がってるか分かりません。お見合いに行けば見つかるかもしれませんよ』『拾える種は拾いましょう』だなんて」
「「私はあなたと幸せになりたいのに」」
「……あははっ!」
「うふふっ」
理子の話すのにつられて、彼もまた饒舌になっていく。笑顔はうつって、やがて二人して想い続ける人の話を止められない。お見合いというより最早恋の愚痴大会だが、なんだか心の奥のしこりがすっきりした気がした。
*
『恩がありますから。僕は樫本さんに少しでもその恩を返したいし、樫本さんにはより幸せでいてほしい。そしたらきっと、僕も幸せです』
理子がURAからトレセンに戻ってしばらくしたある日のこと、生徒とトレーナーの両方から反感を買ってしまった、理子独自の育成プログラム、そして理子自身の指導者としてのあり方に悩んでいたことがあった。言葉足らずな理子をその時から理解して支えてきた、数少ないトレーナーの彼のその言葉。いつまでも忘れられないその言葉は、今でも理子の心を優しく温める。
『……あなたのトレーナー研修先が私のチームだったからと言って、それほど私に媚びを売るようなこと、しなくても良いのですよ』
『そんな卑屈なこと、言わないでください。僕は本当に、研修で樫本さんに大切なことをたくさん教わりました。……それに、何だか、救われた気がします。きっと、今も。樫本さんの優しさが温かくて、僕はきっと、このままで良いかな……、って、そう思える』
『救われただなんて……、私が誰かを救えた試しなどありません。それほどたいそうな人間じゃありませんから』
『貴女にどれだけ救われたかなんて、貴女自身は知り得ないでしょう。僕が樫本さんに救われたって言ってるんだから、樫本さんは自信を持って胸を張れば良いんですよ』
その言葉は、ふと風が吹いたようだった。彼の笑顔は太陽のよう、温かな風が優しく二人の間に吹き抜けて、理子はわずかに目を潤わせていた。
『……そんなものでしょうか』
『はい。きっと、樫本さんの優しさが、まだ伝わりきっていないだけです。現に、チームの娘たちは樫本さんの優しさを知ってるから、信頼してついてきてくれているじゃないですか』
彼の言葉に、涙を流していた。静かに、泣き喘ぐようなこともなく、ただ静かに。溢れるように流れていく理子の涙を、彼はハンカチでそっと掬ってくれた。
思えばきっと、この時からだろう。理子が彼のことを強く想うようになったのは。
元々一人の社会人として自立した生活を送っていた理子が、やがて彼のことをしばしば考えるようになった。トレーナー室で淡々と仕事をこなす彼の姿を想い、必要最低限の家具と教本しかない自室に彼の影を重ねてみたりもした。必要と言うわけではない、ただ理子は彼との生活を、彼との今以上の関わりを欲していたのだ。
でも、彼との生活を求めていても、決して口にはしなかった、口にはできなかった。二人の関係は、静かに揺れる無人の電車の中でおよそ一人分の隙間を空けて座るくらいの距離感で、そっと手を重ねあっているような、彼との関わりは、壊そうと思えば瞬く間に壊せてしまいそうなほど、脆く感じられたから。理子はそっと、でも強く、壊れそうなほど大事に抱えていた。
「……これは?」
理子のトレーナー室で、彼が差し出したのは小さな一つの箱。
「この前、カップが一個壊れちゃったでしょ、なので新しいものを買ってきました」
「……ありがとうございます。でも、これくらいわざわざあなたが買ってくる必要なんて無いのに」
「僕は、少しでも樫本さんのためになることをしたいんです。気にしないでください」
気にしないで、だなんて。あなたがそんなに優しくするから、私の頭からあなたが離れないで、私の心は静かに揺すられているのに。
また、言葉にできない。また、言葉にできない、ささやかな理子の想いが募っていく。
あなたに助けられてばかりで、私だってあなたに色々してあげたいのに、とか、あなたは優しすぎて、私は結局あなたに甘えてしまうの、とか、私のことを想うなら、私とこれからも一緒にいてほしい、とか。
……あなたのことが好きだ、とか。
そんな、言葉にできないまま積み重なっていく理子の想いが、背中に重くのしかかって、やがて理子はその重さに潰れそうになってしまう。その前に一度でも口にできたなら、その前に一度でも、重くのしかかる想いを口にできたなら、きっと、二人はその隙間を埋めて、肩を寄せ合って座っていられる。きっと、二人はそれから離れることなく一緒にいられる。なのに、結局言葉は出てこなくて、およそ一人分の隙間を空けて、そっと手を重ね合ったまま、二人は座っている。
『いっそ、言ってしまえば。いっそ言ってしまいさえすれば、結ばれるのでしょうね。結ばれて、楽になれるんでしょうけれど。結ばれて、幸せになれるんでしょうけれど』
向かいの席で、男のそう言う声がする。庭から、かん、かんとししおどしの音が響いて、その男は隣の女性と手を重ねて笑っている。
「じゃあ早速、紅茶を淹れましょうか」
そう。きっと、言ってしまえば。言ってしまいさえすれば、私たちは幸せになれる。むしろ私は、きっと、あなたとじゃないと、幸せになれません。
「……え」
気がつけば理子は、彼のジャケットの袖を掴んで、華奢な右手の指先で彼のジャケットの袖を掴んで、そう、口にしていた。
「……本当は、止めてほしかったんです。お見合いの相談をしたときに、あなたに、止めてほしかった。行かないで、って」
「……えっと」
ほおがぼうっと熱くなって、沸騰するように、とろけた脳が茹っている。一度動き出した口は止められなくなって、紅潮する彼のことなどお構いなしに想いが溢れていく。
「あなたが止めてくれば。あなたが『行かないで』って、それだけ言ってくれれば、私はお見合いなんて行かないであなたに肩を寄せられたのに。あなたはきっと優しすぎるんです。優しすぎて、掴めるものも掴まないで。そうやって私は、ただ優しくされてばかりなまま、あなたに溶かされてしまう」
彼の表情は変わらない、変わらず驚いたように、でも何だか嬉しそうに顔を赤らめている。
私、あなたのことが好きです。
……やっと。
やっと言えた。
理子の背中にのしかかった重荷は外れて、強張った体から力が抜けていく。力がすっかり抜けていってしまって、でも危機感なんて無かった。彼がきっと、支えてくれるから。
「私は、あなたのことが好きです。好き、なんです。だから、これからも、一緒にいてほしい。あなたと一緒に、二人で暮らしたい。仕事の付き合いなんかじゃなくて。同じ鍵でドアを開けて、同じ靴箱にそれぞれの靴を入れて」
「……僕は」
日が暮れる音が聞こえる。
「同じソファに座って、同じテレビでドラマを見て。同じテーブルで向かい合うように座って、同じ料理を一緒に食べて」
「……僕は」
「同じお風呂に交代交代で浸かって、やがて同じベッドで深く眠りに就くような。そんな二人に、そんな幸せな二人に、私はあなたとなりたい。あなたはいつでも優しく、私のことを救ってくれるから。私はそれに応えたい」
「……僕は、貴女に見合う男なんでしょうか。貴女には幸せになってほしい。けれど、貴女と一生を一緒に過ごすのが僕じゃ、貴女は幸せになれるんでしょうか。時々、不安になるんです。このまま僕が、貴女のことを支えるように、貴女のもとで働いているんじゃ、愛している貴女に一方的に肩を貸すように側にいるんじゃ、貴女はもしかしたら幸せになれないんじゃないか、って」
「私があなたをどれだけ愛しているかなんて、あなた自身は知り得ないでしょう。私があなたを愛しているって言ってるんですから、あなたはそれに本心で答えていれば良いんですよ」
「良いんでしょうか。僕で」
「良いんです。あなただから」
優しくキスをした。
オレンジの照明が優しく、でも眩しく部屋に差して、二人は一つのシルエットになった。
夕焼けに溶けて、また一度、優しくキスをした。