お前もニフってる?   作:HLNF会長

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第十八話 番犬流・決闘の心得④

 

 

「ハリー」

 

 初めて四人の闇祓いたちと訓練を始めてから、およそ一週間が過ぎていた。

 ハリーが無言呪文にも少しずつ慣れ始めた頃のことだ。その日はシリウスとムーディがハリーの特訓を見ていた。

 訓練の合間、不意にシリウスが口を開いた。

 

「近い将来、君は、自分よりずっと格上の魔法使いと杖を交えることになるだろう」

 

 ハリーは杖を下ろし、黙って耳を傾けている。

 

「例えば……スネイプとか」

 

 部屋の隅で腕を組んで見守っていたムーディが、ぴくりと眉を動かした。

 「シリウス」と低く鋭い声で諫める。しかしシリウスは軽く片手を上げてそれを制する。

 

「なに、敵対すると言ってるわけじゃない。ただ……そうだな。人生ってのは長い。いつかはあの痩せぎす蝙蝠(こうもり)に呪いの一つや二つ撃ち込みたくなる時があるかもしれない」

「シリウス」

 

 今度は先ほどより少しだけ強い調子だった。ムーディの魔法の眼がぎろりと光る。

 ハリーは、もう何度もそんな機会あったよ、と言いたくなったが、お行儀よく口を噤んだ。

 シリウスは意に介した様子もなく続ける。

 

「勿論機会があればの話だが……命の懸かった状況でなければ、一度あいつとは本気で決闘しておいたほうがいい、と私は思う」

 

 ハリーはどきりとした。スネイプと決闘? 正気で?

 シリウスの灰色の瞳が真っ直ぐハリーを射抜く。

 

「非常に気に食わないことだが、あれは君に敵意を向ける者たちの中で随一の実力者のはずだ。そこらではお目にかかれない程度の決闘の腕は持っている。あいつは私とジェームズによる叩き上げみたいなものだからね」

 

 ハリーの前で、シリウスがそこまでスネイプのことを褒めるのは初めてだった。ハリーは思わずシリウスを凝視したが、彼は不機嫌そうに眉をしかめている。

 ムーディもじっとシリウスを見つめた。シリウスがここ最近のスネイプの魔法の腕前について把握していることに、違和感を持ったのだ。

 

 ———まさか、最近決闘を吹っ掛けたわけではあるまいな。

 

 そんな無言の問いかけだった。

 シリウスはその視線に気付いているはずであったが、素知らぬ顔で受け流した。

 

「……話を戻そう、格上の相手と戦う時のコツだ」

 

 シリウスはそう言うと、訓練用の鉄人形を片手で脇へ押しやった。鈍い音を立てて人形が床を滑る。

 代わりに自分が部屋の中央へ立ち、杖を肩へ担ぐように構えた。

 

「ハリー、試しに無言呪文を何発か私に撃ってごらん。なんでもいい。もちろん、許されざる呪文はやめてほしいが」

 

 ハリーはその言葉に数歩後ろへ下がり、シリウスに赤い光線を何発か撃ち込んだ。

 それをシリウスは最低限の動きで捌いていく。シリウスの捌いた魔法は、見えない壁に当たったり、空中で消えたり、シリウスの脇に逸れたりした。

 シリウスはほとんどその場から動かなかった。

 ハリーは杖を下ろす。

 

「……何か気付いたか?」

 

 シリウスが尋ねる。

 ハリーは少し考えてから答えた。

 

「全部、防ぎ方が違う」

 

 シリウスは嬉しそうに口角を上げた。

 

「魔法から身を守る方法はいくつかある。初めに言っておくが、何か適当に呪文を撃って相殺する方法もある。だが呪文の力に差があったことを考えると、いささか賭けだ。やめた方がいい……」

 

 ハリーは頷いた。

 

「だから基本になるのが、一番最初に見せた防御呪文(プロテゴ)だ。六年生で習う呪文だが、皮肉なことに、今の魔法省には満足に使えない連中も珍しくない」

「珍しくないどころではない。あれは怠慢だ」

 

 ムーディが鼻を鳴らす。

 

「難易度自体はそれほど難しくはないが、今言ったようなことを考えると、使える人間は必然的に戦闘に慣れている人間だと考えていい」

 

 シリウスはムーディの不満をさらりと受け流しながら続けた。

 

「次に使ったのが終了呪文(フィニート)。呪文そのものを終わらせる魔法だ」

「終わらせる?」

 

 シリウスは杖先で空中へ線を描く。

 

「これを使う人間は戦闘の中級者だ。少なくともプロテゴよりは上だろう。繊細な制御が必要だが、防御呪文では受け切れない類の闇の魔術や、大規模な魔法の展開にも通じることが多い……が、決闘ではあまり使わないだろう。そして、最後に」

 

 その言葉と同時に、シリウスは何の前触れもなくムーディへ向かって立て続けに呪文を放った。

 

 赤。青。白。

 三本の光線が一直線に飛ぶ。

 ムーディはソファに座ったまま一歩も動かない。杖をほんの数センチ動かしただけだった。

 次の瞬間、飛来した呪文がまるで先っぽを捻られたように、四方八方へ逸れていく。

 その一発が天井近くのランプへ命中した。

 

 ガシャーンッ。

 

 ガラス片が部屋中へ飛び散る。

 部屋が少し暗くなった。

 

「レペロ、飛んでくる物体そのものを逸らす呪文だ」

 

 シリウスが言った。

 

「マッドアイが実戦へ持ち込んで広めたやり方だ。難易度は他と比べて高いが、その代わり許されざる呪文でも飛んでこない限り、大抵の魔法は逸らせる」

 

 ムーディはステッキの石突きを床へ軽く打ち付けた。

 砕け散っていたガラス片が、時間を巻き戻すように宙へ浮かび上がる。欠片同士が吸い寄せられ、ぴたりとはまり、ひび一つないランプへ戻っていく。

 

「ただ問題点もある。ハリー、何だと思う?」

 

 シリウスは、少し考えてごらん、と視線だけで促した。

 ハリーは壊れたばかりだったランプへ目を向ける。

 

「あ……」

 

 答えに気付いた。

 

「そのランプみたいに、周りを傷付ける可能性がある」

「その通り。もしスネイプの周りに彼のお仲間がいたのなら、だいぶ慎重に呪文を操る必要があるだろうな」

 

 もうムーディは睨むことすらしなくなってきた。

 

 

 

 

「では、二人とも向かい合って———スネイプ先生、生徒を消し炭にしてはいけませんよ。約束ですからね」

 

 ロックハートの引きつったような声に、ハリーの意識は現実へ引き戻された。

 ゆっくりと視線を上げると、目の前には先ほどまで向かい合っていたマルフォイではなく、セブルス・スネイプが立っていた。黒い外套が蝙蝠の翼のように長く垂れ、その裾は床を這うように静かに広がっている。

 その佇まいの静けさは、まるで一振りの刃がそこに立っているようだった。

 土気色の顔は普段と変わらないはずなのに、今はどこか血の気を失って見える。

 黒い瞳だけが、ただ底知れない湖面のような冷たさを湛え、真っ直ぐハリーだけを映している。

 

「礼ッ」

 

 ロックハートが慌て調子で声を張る。

 ハリーは視線を逸らさぬまま頭を下げた。

 スネイプも形式だけの、ごく僅かな会釈を返す。

 

 大広間は水を打ったように静まり返っている。

 誰一人として身じろぎすらしない。

 張り詰めた空気が舞台を中心にゆっくりと広がっていた。

 最前列でロンが唾を飲み込み、ハーマイオニーへ小声で囁く。

 

「ハリー、きっと殺されるぜ」

 

 ハーマイオニーは眉を寄せ、すぐに首を横へ振った。

 

「まさか。先生なんだから……そんなこと、するわけないじゃない」

 

 そう言いながらも、その声には自信がなかった。

 ロンは舞台の上から目を離さない。

 

「スネイプがあんな顔してるの、いままで見たことあるか?」

 

 ハーマイオニーも思わずじっとスネイプを見つめた。反論はできなかった。

 

「そこ!」

 

 突然ロックハートが横槍を入れた。

 

「私語は禁止です! 静粛に!」

 

 つい先ほどまでロミオと舞台の上を転げ回っていた人物とは思えないほど、生き生きと教師らしく胸を張っている。ちなみに、この決闘を止める様子は一切ない。

 一方、グリフィンドールの列では、フレッドとジョージが無言のまま顔を見合わせ、小さく頷き合った。

 そっとローブの内側へ手を差し入れ、懐に忍ばせていた杖をそれぞれ握り締める。

 いつでも振り抜けるよう、誰にも気付かれないように杖先を袖の中へ隠した。

 ロックハートが杖を高々と掲げる。

 

「それでは———始め!」

 

 その声が終わると同時に、ハリーの腕が躊躇もなく動いた。

 勿論無言呪文である。夏休みは短く、無言呪文は大変難しかったので、ハリーはレダクトとエクスペリアームズしか覚えられなかったが、それでもなお使えるだけの練度はあった。

 

 赤い光線が一直線にスネイプの顔面目掛けて奔る。

 牽制だ。

 まずは相手がどう防ぐかを見るための一撃だった。

 スネイプは一歩も動かず、ただ杖をほんの僅かに払うだけで、赤い光線は軌道をぐにゃりと変え、そのまま天井へ跳ね上がった。

 

 ———ドンッ!

 

 鈍い音とともに石造りの天井が砕ける。

 細かな石片がぱらぱらと舞い落ち、大広間へ乾いた音を響かせた。

 

「きゃあっ!」

 

 悲鳴が上がる。

 

「危険です、スネイプ先生!」

 

 スリザリンの女子生徒が思わず叫ぶ。

 だが、スネイプは視線一つ動かさない。崩れ落ちる石片など最初から存在しなかったかのように、黒い瞳はハリーだけを見据えていた。

 ハリーの背筋にぞくりと冷たいものが走る。

 シリウスの言っていた通り、スネイプはなかなかの実力者らしい。

 気持ちを切り替えて、今度は膝を狙って呪文を立て続けに撃ってみる。

 

 スネイプが杖を一振りすると透明な盾が一瞬だけ現れ、光線を真正面から受け止めて、空中に波紋のようなものを残した。

 火花が散る。

 まるで教科書に描かれた見本のようなプロテゴだった。

 ハリーがそれを見て悔しそうに唇を歪めたとき、スネイプの口元がほんのわずかにつり上がった。

 その瞬間だった。

 

 鋭い紫がかった光線が奔る。

 

 速い。

 そう思った時にはもう目の前まで迫っていた。

 

プロテゴ(護れ)!」

 

 透明の盾が展開される。

 空気が震えて、なぜだか鈍い衝撃が腕まで伝わり、ハリーは半歩、後ろへ押し戻された。

 休む暇はない。

 盾が消えるよりも先に、二発目、三発目、四発目。

 スネイプの杖先が滑らかに光線を撃ち出していく。まるで豪雨のように、絶え間なく呪文が降り注いでくる。

 

(速い……!)

 

 ハリーは歯を食いしばった。

 攻撃へ転じる隙がまるでない。

 

「ハリー!」

 

 ロンの悲鳴のような声が響く。

 

「負けんな!」

 

 フレッドとジョージ、二人の声が重なって聞こえる。

 けれど、耳へ届くころには、もう次の呪文が飛んできていた。

 ハリーは無言で杖を振る。

 赤い光がスネイプの顔面へ向かう。

 

 しかし、スネイプはそれを見もしないような気軽さで杖を払った。

 呪文が上へ逸れる。

 

 ドォン!

 

 天井の石が弾け飛ぶ。

 白い粉塵が舞った。

 

 さらに二発。

 花火のような鮮烈な音とともに、石膏の粉が雪のように降ってくる。

 

 

 ———ハリー、スネイプとはまともにやり合うな。

 

 

 ブラック邸の元応接室、魔法練習室。

 シリウスが目の前に立っていて、ハリーに杖を向けていた。

 

「少なくとも、今のハリーではまず勝てない」

 

 ハリーは首を傾げる。

 

「どうしても勝てないかな」

「望みも持てないほど」

 

 即答だった。

 

「少なくとも正面からは、な」

 

 そう言ってシリウスはにやりと笑った。

 

 

 また呪文だ。

 遅れた一瞬を狙って、今度は足元へ光線が奔る。

 

プロテゴ(護れ)!」

 

 力の差がありありと分かる。

 同じ呪文でも重い。

 このままでは押し切られる。

 

 

 ——ジェームズの理論を借りよう。

 

 シリウスが懐かしそうに笑った。

 

「あいつは案外、真面目に戦ったことは少なかったような気がする」

「どういうこと?」

「目線を逸らすのが得意だった」

 

 シリウスは部屋の隅へ向かって杖を振った。

 

エイビス(小鳥よ)

 

 柔らかな声とともに、ブドウ杖の杖先から小鳥が飛び出した。

 

「例えば、鳥」

 

 数羽の小鳥が囀りながらぱたぱたと羽ばたく。

 

「ジェームズは鳥を呼ぶ呪文ひとつで死喰い人を翻弄したこともある」

 

 ハリーは驚いた。

 

「そんな呪文で?」

「そんな呪文だからだよ」

 

 シリウスは笑う。

 

「相手は『何だ?』って見るだろう?」

 

 自分の目の前で一本指を立てた。

 

「その一瞬……」

 

 シリウスが指を動かして、目線を一緒に移動させる。

 

「それだけで十分だ」

 

 いつの間にかハリーの肩には、二匹の小鳥が止まっていた。

 

 

 

 スネイプの攻撃は止まらない。

 ハリーは息を切らしながら後退する。

 杖を振ると、また頭上に逸らされる。

 

 また。

 また。

 

 スネイプは鼻で笑った。

 

「芸がないな、ポッター」

 

 ハリーは息を整えるので精一杯だった。

 

 

 ——格上は焦らない。

 

 シリウスの声。

 

「だから、自分から勝ったと思わせろ」

「どうやって?」

「隙を作る。勿論わざとだ」

 

 小鳥がハリーの肩から飛び立つ。

 

「そこで初めて、対等になる」

 

 

 呪文を避けるうち、ハリーは一歩を踏み損ねた。

 身体が大きく泳ぐ。

 スネイプの黒い瞳が鋭く光る。

 

「終わりだ」

 

 杖が閃く。

 まるで獲物の急所だけを正確に射抜く鷹のように、鋭い光がハリーの胸元を目掛けて走る。

 ハリーは身体を捩った。

 赤い魔法が、ほんの紙一重でローブを掠めていった。

 

 この反射神経の良さはクィディッチのおかげかもな、なんて———スローモーションの視界の中、ハリーは不意にそう思った。

 

 その勢いのまま、ハリーは踏ん張りきれず床へ転がった。

 肩が床へぶつかる。

 さらに身体が半回転して、尻もちをつくような格好で止まった。

 

 歓声とも悲鳴ともつかない声が大広間に広がった。

 スリザリン生はお祭り騒ぎ一歩手前で、逆にグリフィンドールの生徒たちは身を寄せ合ってハリーを見ている。

 

 スネイプはゆっくりと杖を下げる。

 口元には勝利を確信した笑みをたたえて、黒いローブを揺らし、一歩、また一歩と近付いてくる。

 

(今だ)

 

 ハリーは未だ床に座り込んだまま、静かに杖を持ち上げた。

 

 狙うのはスネイプではない。

 その遥か頭上だ。

 杖先が閃く。

 光は一直線に天井へ向かった。

 

 スネイプは反射的に杖を払う。

 しかし、光はさらに高く、高く飛んでいく。

 スネイプが鼻で嗤った。

 

「狙いも定まらんとはな、ポッター」

 

 その瞬間だった。

 

 ———ぱた。

 

 何かがスネイプの頬へ当たる。

 

 白い欠片。

 

 もう一つ。

 さらに一つ。

 

 雹のように降り始めたそれを見て、スネイプの表情がわずかに変わる。

 ゆっくりと顔を上げる。

 視線の先では、何度も何度も呪文を逸らされた天井の一部が砕け、今まさに大きな塊としてスネイプの頭上に崩れ落ちようとしていた。

 

 その瞬間をハリーは待っていた。

 床へ片手をついたまま、ハリーは杖を振り抜いた。

 紅い閃光が一直線に走る。

 

 勝った。

 

 ほんの一瞬だけ、そう思った。

 しかし、その赤い光よりもはやく、スネイプは振り返りもせず、杖先だけをわずかに返す。

 赤い光が空中の盾に反射して、ハリーの胸へ正確に突き刺さった。

 

「っ——!」

 

 全身が一瞬で硬直する。

 冷たい電流が骨の中を走り抜けたような感覚だった。

 

 握っていた杖が手の中で震える。思うように力が入らない。

 

 黒いローブが大きく翻る。

 スネイプの黒い杖が頭上で大きく円を描いた。

 それはまるで、指揮者が楽団へ合図を送るような、淀みのない一振り。

 次の瞬間、落ち始めていた無数の石塊が、空中でぴたりと止まった。

 

「な……」

 

 誰かが、いや、誰もが息を呑んだ。

 止まった瓦礫は、そのままゆっくりと回転を始める。

 大小様々な石片が、スネイプを中心に巨大な輪を描いて回り始めた。

 

 ごう、と風が鳴る。

 黒いローブが激しくはためく。

 石膏の粉が白い霧となって舞い上がり、無数の破片は竜巻のように天井近くを高速で旋回していた。

 大広間中の生徒が、言葉を失って見上げている。

 ロックハートですら口を半開きにしたまま固まっていた。

 

 やがてスネイプが杖を軽く返すと、荒れ狂っていた石の渦は嘘のように速度を落とし始める。

 宙を舞っていた無数の欠片は互いを引き寄せ合うように元の位置へ集まり、細かな石片までもが寸分違わず噛み合っていく。

 ひび割れはゆっくりと閉じ、砕けた装飾は何事もなかったかのように形を取り戻し、粉々になっていた石膏さえ逆再生でも見ているかのように天井へ吸い込まれていった。

 

 その光景は、以前ムーディが砕けたランプを魔法で修復した場面を思い出させた。

 壊れた天井そのものが、時間を巻き戻されたかのように完全な姿へ戻っていく。

 

 十数秒後には、先ほどまで崩落しかけていたことが信じられないほど天井は静まり返り、大広間にはただ水を打ったような沈黙だけが残っていた。

 ハリーは息をすることさえ忘れて、その光景を見上げていた。

 シリウスが「一度は杖を交えておけ」と言った理由を、ハリーはようやく理解した。

 

 そしてこの時、ほんのすこし、大海に落ちた一滴ほどだけ、ハリーはスネイプを見直した。

 

 

 

 

 

 場面は変わり、魔法省・闇祓い局。

 

 昼下がりの執務室には、羽ペンが羊皮紙を走る音と、遠くで誰かが走る足音が絶えず響いていた。机の上には書類が山のように積み上がり、壁際では証拠品として押収された魔法道具が、封印の呪文を施された棚の中で時折勝手に光ったり震えたりしている。

 

 そして天井近くでは、魔法省名物の省内便———何十枚もの紙飛行機が、忙しなく飛び交っていた。

 

 紙飛行機はそれぞれ金色や紫色の縁取りが施され、宛名を探して執務室の中を自在に旋回している。目的の相手を見つけると器用に速度を落とし、机の上へ音もなく着地するものもあれば、相手の額へ勢いよく突っ込んで抗議の声を上げさせるものもある。

 

「われわれは……ばけものを育ててしまったんじゃないか?」

 

 コリンズは机へ突っ伏したまま、力なく呟いた。

 返事はない。

 デスクの近いエバネシーは黙々と報告書へ羽ペンを走らせ、ムーディは魔法の義眼をぐるりと回しながら、机に積まれた事件資料を睨んでいる。

 コリンズは顔だけ横へ向けた。

 

「いや、もちろん才能があるとは思ってたよ? でもさ。無言呪文を覚えて二週間そこそこであれって何なんだよ」

 

 深いため息が落ちる。

 

「親があれだからって言われれば、まあ、それまでなんだけどさあ……」

「ジェームズとリリー、それにシリウスだ。まともに育てば、ああなっても不思議ではない」

 

 エバネシーが書類から目も離さずに答える。

 その時、ツィーッと数機の紙飛行機が執務室へ飛び込んできた。

 

 一機はムーディの机へ。

 一機はエバネシーの肩へ軽く止まり、そして最後の一機は、シリウスの頭の上を一度旋回すると、ひらりと舞い降りて机の中央へ着地した。

 

 シリウスは羽ペンを置き、その紙飛行機を摘み上げる。

 魔法が解け、紙飛行機は一通の手紙へ戻った。

 

 宛名を見る。

 その瞬間、シリウスの口元がゆっくりと吊り上がった。

 封を切る。

 視線が文章を追うにつれ、その笑みはますます深くなっていく。

 

「……くくっ」

 

 肩が震えた。

 

「ははっ」

 

 ついには声を漏らして笑い始める。

 机へ突っ伏していたコリンズが、面倒臭そうに顔を上げた。

 

「噂をすれば……ハリー?」

「ああ」

 

 シリウスは楽しそうに羊皮紙をひらひら振る。

 

「どうやら、ずいぶん早く実力を試す機会があったらしい」

「……何をやらかした?」

 

 コリンズが嫌な予感しかしないという顔で尋ねる。

 シリウスは堪えきれないように笑いながら答えた。

 

「決闘クラブで、スネイプと本気でやり合ったそうだ」

 

 四人の空気が、一瞬だけ静まり返った。

 

 「……なんて?」

 

 エバネシーが聞き返した。

 ムーディは眉をひそめ、自分の耳の横でぱちん、と指を鳴らす。聞き間違いだと思ったらしい。

 シリウスは続きを読んだ。

 

「『決闘クラブにて大広間の天井を一部壊した件で、罰則として三週間のトイレ掃除、グリフィンドール三十点減点』……ひどいな、『減点分はクィディッチで取り返します』だそうだ」

 

 コリンズが吹き出した。

 

「減点より先に色々あるでしょうに」

「私も三十年前はそれくらいやんちゃだった……」

 

 エバネシーがしんみりと言った。

 

「で」

 

 コリンズが身を乗り出した。

 

「勝ったの?」

 

 シリウスは羊皮紙から目を離さず、小さく首を横へ振る。

 

「いや。負けたらしい」

 

 その一言を聞いた瞬間、コリンズは胸を撫で下ろした。

 

「よかったぁ……」

 

 心の底から安堵した声だった。

 

「本当に良かった」

「何がだ」

「いや、あの子がスネイプくんに勝ってたら、思いっきり調子乗るでしょ」

「それもそうだな」

 

 エバネシーが真顔で頷いた。

 

「“生き残った男の子”が現役教師を倒しました、なんて、些か刺激が強すぎる」

「うん、うん。あの年頃の子に全能感を与えちゃだめだよ。『脳の欠片ひとつから完全に再生した例もあるらしいですよ』って言いながら憎いやつを粉々にして回りかねないよ」

 

 それを聞いたシリウスは、羊皮紙を見つめたまま、少しだけ目を細めた。

 さっきまでの悪戯っぽい笑みとは違う。どこか遠くを見るような笑みだった。

 コリンズと目が合って、シリウスはそのままにやっと笑う。

 

「いや……一時期、ジェームズの口癖だった」

「え、あの子そんな物騒なことしょっちゅう言ってたの?」

「決闘のたびにな」

 

 シリウスは肩をすくめる。

 

「駄目なヤツだ……」

「野蛮人だ……」

 

 コリンズとエバネシーは半目で口々に「サイテー」と言い合っていた。「若気の至りだよ」とシリウスはきまり悪そうに視線を逸らす。

 

「それで毎回、『それは特殊事例だ』って真面目に説教されていた……」

 

 シリウスは思い出したように笑う。

 

「誰に?」

 

 コリンズが伸びをしながら軽い口調で聞いた。

 

「……友達」

 

 シリウスはすこし複雑そうな表情をしたあと、すぐに表情を戻した。

 「だが」と、シリウスは羊皮紙を丁寧に畳みながら呟く。

 

「あの台詞をハリーの口から聞くのは……少し複雑だな。最近ようやく、ハリーはジェームズだけじゃなくて、リリーにも似てると分かってきたところだったんだ」

 

 その声音は、ほんの少しだけ嬉しそうだった。

 部屋の空気が少しだけ和らいだ、その時だった。

 

 バン、と机へ一枚の報告書が置かれる。

 ムーディだった。

 

「休憩は終わりだ」

 

 三人の視線が集まる。

 ムーディは報告書をエバネシーへ放る。

 

「ノクターン横丁。違法な闇の魔法薬の取引だ。情報屋によれば、国外の密輸組織とも繋がっているらしい」

 

 エバネシーが羊皮紙へ素早く目を通す。

 

「今回は少し骨がありそうだね」

「おーし! ようやく書類仕事から解放か」

 

 コリンズが椅子から勢いよく立ち上がる。

 

 「久しぶりに身体を動かせそうだ」

 

 シリウスもローブを翻し、杖を腰へ差した。

 そして歩き出そうとしたその時、部屋の一番奥、ガラス張りの個室から見られているような気がして、シリウスは首を動かして視界の端から確認した。

 局長室。

 ルーファス・スクリムジョールが、腕を組んだまま無言でこちらを見ていた。

 獅子を思わせる鋭い眼光は、こちらの一挙手一投足を逃さないように追従してきている。

 

「見たいなら見させておけ」

 

 ムーディが不機嫌そうに言う。

 

 執務室を出て、四人は魔法省の廊下を歩く。

 天井近くを無数の紙飛行機が飛び交い、忙しそうに職員たちの間を縫っていく。

 エレベーターの前へ着いたところで、エバネシーがふと思い出したように口を開いた。

 

「そういえば、例の研修生たちはどうなったのかな」

 

 ムーディは険しい顔をもっと険しくした。

 

「二人辞めた」

「……またか」

「一人は『思っていた仕事と違いました』。もう一人は『命が惜しい』だそうだ」

 

 エバネシーが苦笑する。

 

「正直なだけ偉いよ」

 

 ちょうどその時、古びた金網式のエレベーターが音を立てて降りてきた。

 扉が開く。

 四人は慣れた足取りで乗り込む。

 ガシャン、と扉が閉まり、エレベーターはゆっくりと動き始めた。

 

「だが、見どころがあるやつがおらんわけでもない」

「え、誰? それ!」

「ああ、知ってるよ。髪の色が派手な……」

 

 暗闇に向かって、四人の乗るエレベーターは遠ざかっていった。

 




【おまけ】ハリーとシリウスの手紙


 親愛なるシリウスへ

 お元気ですか?
 この前は手紙ありがとう。返事が遅くなってごめん。今週はいろいろあって、落ち着いて手紙を書く時間がなかったんだ。

 まず、一番大きな出来事から書きます。
 秘密の部屋の怪物から生徒が身を守れる術を身に着けるために、ホグワーツで決闘クラブが始まりました。
 ロックハート先生が主催なんだけど、最初から大騒ぎでした。先生同士の模範試合ではスネイプ先生が勝って、そのあと、変な格好をしたロミオが乱入してロックハート先生と取っ組み合いになったんです。大広間中が大混乱でした。

 それから、生徒同士の決闘になって、僕は最初にマルフォイと戦いました。
 シリウスやコリンズさんたちに教わった無言呪文を使ったら思ったよりうまくいって、マルフォイが蛇を出そうとしたところを先に撃ち抜くことができました。続けて失神呪文も撃ったんだけど、それはスネイプ先生に防がれちゃった。
 あの時、「呪文を口に出す」ということの意味が少し分かった気がする。上手い魔法使いには、防ぐための時間を与えてしまうんですね。

 そのあと、いろいろあって、スネイプ先生と決闘することになりました。
 結果から言うと、負けました。
 正直、途中までは少しだけ勝てるかもしれないと思ってたけど……。シリウスが言ってたみたいに、何度かわざと目線を逸らしたり、隙を作ったりしてみたんだ。最後は天井を壊して気を引いて、その隙に失神呪文を撃った。
 でも全部見抜かれてた———多分だけど。
 僕の呪文も、崩れた天井も、生徒たちのことも、いっぺんに処理されてしまいました。
 悔しかったけど、戦えてよかったとも思ってる。

 それと、天井を壊したせいで三週間トイレ掃除になりました。グリフィンドールも三十点減点。クィディッチで取り返そうと思います。ちなみに、フレッドは「派手だったから安いもんだ」って笑ってたけど、ハーマイオニーには少し怒られました。ロンは「本気で死ぬかと思った」って何度も言ってた。
 あと、ついマルフォイに怖がらせるようなことを言ってしまいました。
 あの時は勢いだったんだけど、あとから思えば、あまり言わない方がよかったかもしれない……って言う方が優等生っぽいんだろうけど、正直スッキリしました。これからマルフォイとは仲良くやれそうです。特に決闘の時間にね。

 追伸
 また魔法教えてください。
 もっと強くなりたいです。

 ハリーより



 ハリーへ

 手紙を読んだ。
 まず最初に言っておく。
 よくやった。
 負けたことは気にするな。
 君が戦った相手は、同級生じゃない。性格の悪いスネイプ相手に、自分で考えて隙を作り、一手でも上を取ろうとしたなら、それだけで十分収穫がある。
 ……もっとも、大広間の天井を壊した件については、一応保護者として注意しておく。ハリーのやり方だと、周りの人にけがをさせる可能性もあった。狙うのならスネイプだけを狙いなさい。

 そういえば、「脳の欠片ひとつから完全に再生した」なんてことを君に言ったね。
 昔、ジェームズが一時期よく口にしていた言葉だ。スネイプを怒らせたいよっぽどの事情がない限り、奴の前では言わないことをおすすめする。

 さて、本題だ。
 今年のクリスマスはグリモールド・プレイスへ帰って来るつもりかい?
 もしそうなら、皆でゆっくり食事でもしよう。

 追伸
 
 前の手紙の最後に書いてあった「ドビー」という屋敷しもべ妖精の件だ。
 少し心当たりがある。だが、その内容は手紙には書けない。
 明日の深夜、誰もいない談話室へ来てくれ。
 ロンやハーマイオニーにこのことを話すかどうかは、君に任せる。
 では、また明日。

 シリウス



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