お前もニフってる?   作:HLNF会長

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第19話 一緒に空を飛ぶ方法

 

 

 ロレンスは檻の前に立っていた。

 物置の最奥に据え付けられた鉄檻は、魔法生物の収容用に造られた古いもので、分厚い黒鉄の格子一本一本には複雑な封印魔法が刻まれている。壁に掛けられたランタンの橙色の光がその術式を鈍く照らし、金属の冷たい光沢が静かな地下室にぼんやりと浮かび上がっていた。

 

 その檻の中で、一匹の巨大な蛇が身をくねらせていた。

 艶のある漆黒の鱗が、うねりに合わせて波打つように輝く。全長は大人が両腕を回しても抱えきれないほどで、その長い身体が檻の中を埋め尽くすように何度も何度もとぐろを巻き直していた。

 

 そして、その黄金色の双眸がロレンスを捉えた瞬間、蛇は身体を弾いた。

 巨大な顎が大きく開き、一直線にロレンスへ食らいつこうと飛び掛かる。

 

 ———ガァンッ!!

 

 重い金属音が地下室いっぱいに反響した。

 牙は格子に阻まれ、檻全体が激しく揺れる。蛇は諦めない。威嚇するように喉を鳴らし、何度も何度も檻へ身体を叩きつける。鉄格子を軋ませ、隙間を探すように頭を滑り込ませようとするが、古い檻とはいえ魔法で補強されたそれは微動だにしなかった。

 

 ロレンスは腕を組んだまま、その様子を静かに眺めていた。

 

 怒りとも殺意ともつかない、ただ本能だけで動いているような動きだ。人間だった時の面影はどこにも見当たらない。

 

 蛇の姿になっている間は、人間だった頃の記憶を保持できないらしい。

 人として積み重ねてきた記憶と、蛇として変身していた頃の記憶。その二つが互いに結び付かず、まるで別々の人生として脳の中へ押し込められているようだった。

 長い年月を蛇として生き過ぎた代償か、人格そのものが二つに裂けてしまっているのかもしれない。

 

 もっとも、それも推測に過ぎない。

 蛇になる人間(マレディクタス)には悲惨な末路を辿る者が多く、その数も少ない。比較できる資料も碌に存在しない以上、結論を出すには情報が圧倒的に足りなかった。

 

 ロレンスは足元に置いてあった木箱から、既に息絶えている一匹の蛙を取り上げた。腹部には注射針ほどの小さな痕が残っている。体内へ人化薬を注入した跡である。

 ロレンスは何も言わず、それを檻の中へ放った。

 蛙は鉄の床を二、三度転がる。

 黒い影が閃いて、蛇の頭部が目にも留まらぬ速さで伸び、蛙を丸ごと咥え込んだ。

 

 ばくり。

 

 骨が砕ける音さえしない。喉が一度だけ大きく膨らみ、それだけで餌は身体の奥へ消えていった。

 ロレンスの表情は険しい。地下室は再び静寂に包まれた。

 

 やがて、蛇の身体がぴくりと痙攣しはじめた。

 長大な身体が苦しげにうねり、骨が軋むような音が静かに響く。蛇の輪郭そのものが、いろいろな形に変わっていく。

 しばらくして、胴は縮み、尾は二本の脚へ分かれ、持ち上がった首は肩となり、頭蓋は人の形へと変貌していく。

 黒曜石のようだった鱗は、春先の雪が溶けるように一枚ずつ光沢のあるドレスに変化し、その隙間から白い肌が現れはじめる。

 長い漆黒の髪が冷たい床へ流れ落ちる。

 四肢が形を成し、細い指先がわずかに震えた頃には、そこに横たわっていたのは、もう巨大な蛇ではなかった。

 

 ナギニだ。

 

 静かな寝息を立てながら、冷たい床の上に身を横たえている。

 ロレンスはしばらくその変化を見つめていた。

 骨格が組み替わり、筋肉が形を変え、皮膚が再構成され、一つの生命が別の姿へと移ろっていく。

 面白い。そんな感想が、自然と胸の内へ浮かんでいた。

 

 ロレンスは檻の錠をあけ、重たい扉を引き開き、中へ入る。

 冷えた石床へ片膝をつくと、眠ったままのナギニの身体を両腕で抱き上げた。

 痩せている。毛布に包まれていた前回よりも、その細さがはっきりと腕へ伝わってくる。

 屈んだ姿勢のまま檻を抜けようとした、その時だった。

 

 ずきり。

 

 不意にロレンスの視界が白く弾けた。脳の奥へ鋭い杭でも打ち込まれたような激痛が走る。ロレンスは思わず腰をかがめた。全身から一気に汗が噴き出す。頭蓋の内側を何かが無理やり引き裂いていくような、形容し難い痛みだった。

 ロレンスは奥歯を強く噛み締め、腕の中のナギニを落とさないよう抱き直し、乱れそうになる呼吸を意識して整えた。

 痛みは数秒続き、やがて、波が引くように静かに消えていった。

 

「……またか」

 

 ロレンスは小さく呟く。

 人化薬の副作用だろうとあたりを付けているので、あまり動揺はしない。以前人化した際も、何度かこういった頭痛に襲われた。

 ロレンスはひとつ息を吐き、そのまま地下室の奥にある主室へ歩き出した。

 腕の中で揺れる身体はまだ眠っている。

 だが、その寝息は前回よりも明らかに浅かった。

 薬への適応が進んでいるのか、それとも変身そのものに身体が慣れ始めているのか。

 

 その答えが出るより早く、小さく睫毛が震えた。

 腕の中のナギニがゆっくりと瞼を開く。まだ焦点の定まらない瞳がぼんやりとロレンスを映し、現実と夢の境界を確かめるように何度か瞬きを繰り返した。

 

 やっぱり。

 ロレンスはその変化をじっと観察する。

 

 前回より、目を覚ますのが早い。

 自分が人化薬を飲んだ時もそうだった。初めて人になった時より、二度目、三度目の方が覚醒までの時間は明らかに短くなっていた。

 身体が少しずつ薬へ順応している———どうやら、その仮説は間違っていなかったらしい。

 

 腕の中で、ナギニの眉がきゅっと寄った。

 閉じかけていた瞼が苦しげに震え、小さく息を呑む音が漏れる。細い指先がロレンスの胸元の衣服を掴もうとして、力なく宙を彷徨った。

 彼女自身の額へ手を当てるように腕を持ち上げかけるが、その動きも途中で止まる。まるで頭に響く鋭い痛みに耐えているようだった。

 

 ロレンスは歩みを緩めることなく、その様子を横目で観察した。

 やはり、脳を裂かれるようなあの頭痛は、人化薬そのものが引き起こす副反応らしい。

 

 そう考えたところで、ロレンスの口元が不意に緩んだ。

 こらえ切れず、小さく喉の奥で笑みが漏れる。

 

 人間になるやつが二人もいると、薬効の傾向が分かりやすいな。

 

 少し不機嫌そうに自分を睨むナギニから少し顔を逸らして、ロレンスは笑いをこらえた。

 

 

 

 

 

 

 

 柔らかな感触が背中を受け止めた。

 冷たい石床ではない。身体がゆっくりと沈み込む感覚に、ナギニは瞼をゆっくりと持ち上げた。

 天蓋付きの寝台。濃紺の分厚いカーテンに、見慣れない木目の天井が目に入る。

 そして、自分を抱き上げていた男が、ちょうど身体を離すところだった。

 ロレンスはナギニを寝台へ横たえると、そのまま何事もなかったかのように踵を返し主室のキッチン部分へ歩いていく。

 

 初めて人へ戻った時ほどの混乱はなかった。

 頭はまだぼんやりとしている。それでも、自分が誰であるのか、自分の姿———人間になっていることくらいは理解できる。

 そう、人間。

 その単語だけでナギニの胸の奥がざわついた。

 

 ナギニはゆっくりと身体を起こした。

 毛布が肩から滑り落ちる。

 そのまま寝台の端まで後ずさるように移動し、無意識のうちに男との距離を取った。

 ロレンスはそんな様子を気にした風もなく戸棚を漁っている。

 

 主室の隅に据え付けられた小さなキッチン。

 コンロの火に掛けられた銀色の薬缶からは、しゅんしゅんと湯気が立ち上っている。

 ロレンスは棚から紅茶の缶を探し出し、慣れた手付きで茶葉を掬ってポットへ入れた。その上からお湯を静かに注ぐ。

 

「……あなた、誰?」

 

 ナギニは警戒を隠さない声で言った。

 ロレンスはポットの蓋を閉じたあと、動きを止めてナギニに向き合った。口元が少し緩んでいる。

 

「質問ができるくらいには回復したんだな」

 

 その言葉にナギニは返事をしなかった。

 ロレンスは近くにあった砂時計を引き寄せて、上下をさかさまにして置いた。

 

「ロレンス」

 

 何の抵抗もなく名乗る。

 

「ホグワーツの梟小屋の管理人をしている」

 

 ロレンスは口元に薄い笑みを浮かべている。

 ナギニはロレンスの顔を注意深く見つめた。

 この男は、嘘をついているのだろうか。

 

「……ホグワーツ」

 

 自然とその名前が口から出た。

 

「そう、ホグワーツ。知らない?」

 

 ナギニはゆっくりと首を横へ振った。

 

「いいえ……知ってる」

 

 こめかみの奥がずきりと痛んで、ナギニは思わず額へ手を当てた。

 霧の向こうに沈んでいた記憶が、ほんの少しだけ浮かび上がる。

 

 高い石造りの城。

 黒い湖。

 大広間を照らす無数の蝋燭。

 

 どれも輪郭は曖昧で、夢の続きを思い出そうとするようにぼやけている。

 けれど、一つだけ確かなことがあった。

 

 ————自分は昔、この場所へ来たことがある。

 

 それはあまりにも遠い昔の出来事で、まるで別の人生を覗き見ているような感覚だった。

 

「……いまは何年?」

 

 自分でも馬鹿げた質問だと思った。

 ロレンスは笑わない。冗談として受け流すこともなく、静かにナギニを見つめ返している。

 

「一九九二年だよ」

 

 ナギニの表情からすっと色が消える。

 真っ黒の瞳がゆっくりと見開かれる。

 胸の奥が冷たく沈んでいく。

 

 そんなに。

 そんなに時間が経っていたのか。

 

 ナギニは俯いた。

 額へ添えた指先が、小さく震えている。

 

 しばらく時がたって、ふいにティーポットの蓋が取られたかすかな音がした。

 ナギニはすばやく面を上げる。

 過敏に反応したナギニに、ロレンスはすこし面食らった様子だった。

 

「ああ、ほら……時間だから」

 

 ロレンスが砂時計を指さす。中の砂はすっかり落ち切ってしまっていた。ポットの蓋を取ったロレンスは、スプーンで中をぐるぐるとかき混ぜている。

 

「俺は君に聞きたいことがあって、それには必ず答えてもらいたい。だから、先に君から質問していいよ。質問してるうちに頭の中が整理されるだろうし」

 

 ナギニは居住まいを正した。

 あまりにも情報の少ない記憶をたどりながら、じっくりと考え、そして口を開く。

 

 「……じゃあ、どうして私はここにいるの?」

 

 ロレンスは頷いた。

 

「前に君が人間へ戻った時、その口から聞いた話だけど」

 

 茶漉しをティーカップへ乗せ、琥珀色の紅茶を静かに注ぐ。

 

「ヴォルデモートに命令されてホグワーツへ来たらしい。誰かを殺せ、ってね」

 

 ナギニは息をつめた。

 そういえば、そんなことを言った覚えがある。

 そうだ、自分はそのためにここに来たはずだ。

 ナギニはその記憶を手繰り寄せようとしたが、形になりかけたものはすぐ霧散してしまう。

 

「誰を殺そうとしたのか」

 

 ロレンスがぽつりと言った。

 ナギニは自分の顔色が窺われているのを感じ取った。

 

「……そこまでは無理そうか」

 

 どこか諦めたような口調だ。

 ナギニは押し黙って、首を横に振るだけにとどめた。

 「他の質問は?」と、更にロレンスが促す。

 

「あなたがどうして私を捕らえたのか……なぜ私は人間になれたのか……私をどうするつもりなのか……を、聞きたい」

「へえ」

 

 ロレンスがにわかに感心したような表情になった。

 

「砂糖は?」

「……いらない」

「そう」

 

 ロレンスは砂糖の入れ物へ伸ばしかけた手を引っ込め、そのまま何も入れずに紅茶を持ってきた。

 

「じゃあじっくり話そう。もっとお互いのことを知らないとね」

 

 ナギニは差し出された紅茶を受け取る。

 ロレンスは傍らから木の丸椅子を引っ張ってきて、ナギニの正面に座った。木製の脚が床を擦る乾いた音だけが部屋に響いた。

 口元にカップを持っていくと、紅茶に含まれた果物の華やかな香りがナギニの鼻をくすぐる。

 

「まず、どうして君を捕まえたのか……正確には、俺がどうして君を捕まえられたのか、だけど」

 

 ナギニは紅茶に口を付けながら、口火を切ったロレンスを上目遣いで見る。

 

「端的に言って、俺が優秀だから」

 

 ナギニは危うく紅茶を吹き出しそうになった。

 一方のロレンスは、妙なドヤ顔で紅茶を啜っている。

 

「とある生徒を君が襲おうとしてたんで、危うくのところを俺が止めたわけだ」

 

 ロレンスは誇らしげに胸に手を当てて、その流れで優雅に足を組んだ。

 じゃあ2つ目、とロレンスは続ける。

 

「最近、人化薬って薬を偶然作ったから、君にあげてみたんだ。完成したばかりだから、正直まだ何も分かってないけど。効き目も、副作用も、安全性も全部これから調べる段階だ……だから君には、ある程度危険に付き合ってもらうことになる。よろしくね」

 

 さらりと言った。

 先ほどからかなり砕けた態度になっていたが、有無を言わさない口調でもある。

 

 ナギニは最後の質問の答えを視線で促したが、ロレンスはそれをさらりと受け流して、視線を紅茶の水面に逸らしている。

 わずかな沈黙。

 『私をどうするつもりなのか』———もう一度口に出して問え、という意味なのだろうとナギニは解釈した。それと同時に、この会話の支配権を、ロレンスがかなり気を使って操っているようにも感じた。

 正体不明の殺人大蛇に対する態度としては、間違っていないとナギニも理解している。

 ナギニはカップを静かにサイドテーブルに置いた。

 

「……改めて聞くわ」

 

 ロレンスは目だけを上げた。

 

「私をどうするつもりなの」

 

 ナギニの口調は先ほどと比べて随分とはっきりしていた。

 一瞬だけ沈黙が落ちる。

 ロレンスは困ったように笑った。

 

「逆にどうしてほしい?」

 

 予想していなかった問い返しだった。

 ナギニは言葉を失う。

 

 もちろん、一番に浮かぶのは自由だ。

 ここから出て、逃げて、どこかへ行く。ヴォルデモートのもとになんて戻らない。あの檻からも、この部屋からも、目の前のロレンスからも離れたい。

 

 しかし、その考えはすぐに現実へ引き戻された。

 

 人化薬。

 この姿を保てるのは、それがあるからだ。その薬はロレンスしか持っていない。しかも完成したばかりの薬だと言っていた。自分一人では作ることも、維持することもできない。

 ナギニはようやく理解した。

 この男への接し方は、考えていたよりもずっと気を付けるべきだ。

 

「私が人間として生きる手伝いをしてほしい、と思う」

 

 控えめにナギニが言った。

 ロレンスが足を組んで、思案気に顎に手を当てた。ナギニの心臓が嫌な音を立て始める。少なくとも、はいわかりました、という雰囲気ではなさそうだ。

 ロレンスが即答できない理由がある。

 

「私を殺す気?」

 

 言った自分でも驚くほど小さな声だった。

 ナギニにとってそれは口に出すのも恐ろしかったが、そんな言葉を投げかけられても、ロレンスは表情も変えず考え込んでいる。

 

「私から情報を抜き出して、用済みになったら殺すの?」

 

 威嚇するように、ナギニは矢継ぎ早に問いただした。

 ぼんやりと宙を見つめていたロレンスの視線がナギニの視線とぶつかる。

 

「そうだって言ったらどうする? 君は一応、うちの生徒を殺す寸前だったわけだけど」

 

 まるで事実を並べているだけのように、淡々と言葉を紡いでいる。

 ナギニがロレンスの表情を伺い見ると、冷たい発言に反して厳しい色はなかった。冷静のままナギニを見据えている。

 

「そんな……」

 

 そう呟いたナギニは、前のめりになってロレンスを見つめた。

 

「私が人間だったら、そんなこと絶対にしない。蛇になるとパーセルタングに逆らえないの。だから、人間のままでいられたら……」

 

 最後の方は半ば懇願するような口調になって、ナギニは食い下がった。

 ロレンスはそんなナギニの様子をじっと見た後、サイドテーブルにティーカップを置いた。

 

「まあいい。大丈夫、そんなに怯えなくても君に危害は加えないよ。そもそも俺はただの梟小屋の管理人だしね」

 

 嘘だ、とナギニは思った。ただの梟小屋の管理人が人化薬なんて調合できるわけがない。

 

「どうやら、俺が聞きたいことを全部思い出すにはもう少し時間がかかりそうだね」

 

 ロレンスが独り言のように呟く。

 そして、よし、と呟いてロレンスは立ち上がった。

 

「少し気晴らしに行こう。こんなとこに閉じこもってたら、思い出せるものも思い出せないし」

 

 ロレンスは微笑んで、ナギニに両腕を差し出した。

 捕まって立ち上がれということらしい。

 なんだかいろいろ考えることが馬鹿らしくなってきて、ナギニはその腕を掴んで寝台から立ち上がった。

 

「歩けそう?」

 

 ナギニは足元を見て、足裏が地面を踏んでいるのを確認した。長らく這ってばかりで歩くのは久しぶりだったが、思ったより人間の身体のコントロールは出来るようだ。

 

「うん。大丈夫」

 

 ナギニの返答に、ロレンスは満足げに頷いた。

 

「それならよかった」

 

 彼はナギニがよろめかないことを確認すると、何でもないことのように先へ促す。

 ナギニは少し迷ってから、ロレンスの腕を頼りながら部屋を出た。

 

「そうだ」

 

 ロレンスが思いついたように声を上げたのは、玄関口と思われるような場所に辿り着いた時だった。

 ナギニが不思議そうに首を傾げていると、彼は玄関脇の小部屋へ姿を消した。

 ごそごそ、と棚を探る音がする。しばらくして戻ってきたロレンスの腕には、何着かの衣類が抱えられていた。

 

「君用の服を見繕っておいたんだよ」

 

 そう言って最初に広げたのは、膝下まで届くほど長い毛皮のファーコートだった。

 深い焦茶色の毛並みは艶やかで、内側には柔らかな裏地が縫い込まれている。

 

「冬の夜は冷えるから、これを着ておきな」

 

 ロレンスはナギニの返事を待たず、彼女の後ろへ回る。

 

「腕、上げて」

 

 ナギニがおとなしく従うと、ロレンスは器用な手つきで袖へ腕を通していった。

 肩へ掛け、背中へ回して整える。

 

「……苦しくない?」

 

 ナギニはこくりと頷く。

 次にロレンスは丸い毛糸のニット帽を取り出し、ナギニの頭へそっと乗せた。

 少しだけ大きかったらしく、帽子は目元まですとんとずり落ちてしまう。されるがままのナギニの前へ回り込むと、ロレンスは前髪を指先でそっと掬い上げ、帽子の中へ丁寧にしまい込んだ。折り返しを一度折って高さを調整すると、今度はちょうどよく収まった。

 

「よし」

 

 そう言ってロレンスは一歩下がり、自分の仕事を眺めるように腕を組んだ。

 

「いいんじゃない? 流石俺のファッションセンス」

 

 冬支度を終えたナギニは、自分の袖口を見下ろし、ふわふわの毛並みを恐る恐る撫でる。

 

「……あったかい」

「それなら良かった」

 

 ロレンスは自分のコートを手早く羽織り、目の前の梯子へ手を掛ける。そのまま迷いのない足取りで、一段、また一段と軽やかに上っていった。

 やがて天井に辿り着いて、頭上の蓋を軽く押し上げる。きい、と古びた蝶番が小さく鳴いた。

 その隙間から、夜の空気が一気に流れ込んでくる。

 ロレンスはひらりと身軽に外へ出ると、振り返ってナギニに手を差し伸べた。

 

「気を付けて」

 

 ロレンスの後を追って梯子を上ったナギニは、無言でその手を借り、最後の一段を上がった。

 足裏が石造りの床を踏み締めた瞬間、彼女は思わず周囲を見回した。

 

 そこは円形の塔だった。

 石積みの壁に囲まれ、高い天井へ向かって幾重にも梁が渡されている。壁一面には大きく開いた窓が並び、窓ガラスはなく、夜風がそのまま吹き抜けていた。

 月明かりが斜めに差し込み、床の上へ青白い光を落としている。

 夜だった。

 窓の向こうを見ると、すこし高い視点であって、深い藍色の空が広がり、遠くには星々が静かに瞬いている。

 

 その景色をぼんやり見つめていたナギニは、ふと足元へ視線を落とした。

 自分が出てきた場所。

 それは床に何気なく置かれた、一つの古びたトランクだった。何の変哲もない革製の旅行鞄。

 あれほど広かった部屋部屋が、あの中に収まっているなど、とても信じられない。

 ナギニは思わずトランクとロレンスの顔を見比べた。

 

「ロレンス、あなた……ここに寝泊まりしてるの?」

「まあね」

 

 それはちょっと……どうだろう。あまりいい待遇とは言えないと思う。ナギニは少し怪訝な顔をした。

 ロレンスは何でもないことのように蓋を閉じ、軽く埃を払っている。

 そのときだった。

 

 ぱさり。

 

 頭上で羽が擦れる音がした。

 ナギニは反射的に肩を震わせる。

 音のした方を見ると、梁の上にとまっていた一羽の梟が、眠そうに首だけこちらへ向けていた。

 

 続いて、別の止まり木からも羽音が響く。梟が数羽留まっている。

 突然現れた二人組に起こされたことが不満なのか、梟たちは一様に気怠そうに身じろぎをし、小さく羽を膨らませている。その様子は警戒というより、安眠を妨げられた迷惑さの方が勝っているようだった。

 

 ナギニはゆっくりと周囲を見渡した。

 

 塔の内側には幾本もの止まり木が組まれている。

 だが、そのほとんどは空だった。残っている梟は数えるほどしかいない。

 昼間であれば賑やかだったのだろう場所は、今はしんと静まり返っていた。

 

 そうか、夜だから。

 

 ナギニははっと気が付いた。

 食事のために狩りへ出た梟たちはまだ戻ってきていないのだろう。

 

「昼間も手紙運びに駆り出された可哀想な梟たちが、昼夜逆転しちゃってるんだよね。今はそれを直してるところ」

 

 ロレンスは気安く近くにいた梟の首元を撫でた。梟が抵抗しないところを見るに、梟小屋の管理人というのは案外嘘ではないのかもしれない。

 ナギニはそれ以上何も言わず、ゆっくりと窓際へ歩み寄った。自分の身体を照らす月光の面積が広がってゆくのを感じる。冷たい風が頬を撫で、羽織っているコートの毛や、長い黒髪を静かに揺らす。

 

 ナギニが窓の外へ目を向けると、眼下には夜の黒い湖が鏡のように広がっていた。

 月を映した湖面は風が吹くたび細かく揺れ、砕いた銀貨を一面に撒いたようにきらきらと輝いている。

 その向こうには緩やかにうねる草原の丘があって、夜露を含んだ草が月明かりを受け、淡く白く光っていた。

 さらにその奥には、山のような威容をもって、一つの城が夜空へ聳え立っている。ホグワーツ城だ。夜更けのため窓に灯りはほとんどなく、建物全体は深い影に沈んでいた。

 それでも、その存在感は少しも失われていない。まるで生き物のように、魔法の気配が息づいている。

 

 ナギニはしばらく黙ったまま、その城を見つめ続けていた。

 

「どうした?」

 

 後ろから穏やかな声がした。

 ロレンスだった。

 いつの間にか隣まで歩いてきて、ナギニと同じように窓の外へ視線を向けている。

 

「ホグワーツ城だよ」

 

 ロレンスは、城を見上げたまま口を開いた。

 

「覚えてる? 君と会ったのは、あの中なんだけど」

 

 ナギニは目を細めた。

 

「……覚えてる」

 

 この前のじゃなくて、と少しだけ言葉を探すように間を置く。

 

「人間だった頃、一度だけ来たことがあるの」

「へえ」

 

 ロレンスは興味深そうに眉を上げた。

 

「生徒だったの?」

 

 ナギニはゆっくりと首を横へ振る。

 

「ヴォルデモートとは関係ないことだから、話したくない」

 

 その声には、拒絶というよりも、触れられたくない過去を胸の奥へしまい込むような響きがあった。

 ロレンスは何も聞き返さなかった。ただ一度だけ「分かった」と小さく頷き、それ以上その話題へ踏み込むことはなかった。

 

 しばらくして、ロレンスがナギニの横顔をそっと覗き込む。

 どこか翳りを帯びたその表情を見て、空気を変えるように口を開いた。

 

「そうだ」

 

 ナギニが振り向く。

 ロレンスは尋ねた。

 

「空は飛んだことある?」

 

 あまりにも唐突な質問だった。

 ナギニは少しだけ目を瞬かせ、それから静かに首を横へ振る。

 

「……いいえ」

 

 その答えに、ロレンスは「ふーん」と相槌を打った。

 

「私は魔法が使えないから、箒で飛んだことはないの」

 

 ナギニは夜空を見上げる。

 その言葉を聞いたロレンスは、なぜだかにやにや笑った。

 

「空を飛ぶ方法が箒だけなんて、そんなこと聞いたらアイツ怒るぞ」

「え?」

 

 ナギニが聞き返すより早く、ロレンスはくるりと踵を返し、床に置いてあったトランクへ歩いていく。

 屈み込むと、留め金をぱちりと外し、蓋をほんの少しだけ開けた。

 隙間は指が二本入る程度しかない。

 ロレンスはその暗闇へ向かって、気軽に声を掛けた。

 

「おーい、絨毯」

 

 一拍。

 

 二拍。

 

 次の瞬間だった。

 

 しゅるんっ。

 

 まるで蛇が穴から飛び出すような勢いで、一枚の絨毯がトランクの隙間から滑り出してきた。

 紫を基調に金糸の刺繍が施された、見るからに高級そうな魔法の絨毯である。

 絨毯は床へ着地すると、その場でぴたりと停止した。

 

 そして背をしっかりと伸ばすと、

 

 ピシィッ!!

 

 四隅を勢いよく揃え、これ以上ないほど見事な敬礼をロレンスへ向けて決めた。

 その姿勢は軍人顔負けである。

 

 ナギニは呆気に取られて口を開ける。

 ロレンスは額へ手を当て、大きくため息をついた。

 

「……お前なあ」

 

 絨毯はなおも誇らしげに敬礼を続けている。

 

「そこまで気合い入れなくていいんだけど」

 

 返事の代わりに、絨毯は「了解」と言わんばかりにピシッともう一度姿勢を正した。

 ロレンスは苦笑しながらナギニを振り返る。

 

「こちら、魔法の絨毯くん」

 

 紹介されると、絨毯は待っていましたと言わんばかりに端をひらりと持ち上げ、優雅に一礼した。

 

「今から俺たちを快適な空の旅へ連れて行ってくれる、頼れる魔法道具だよ」

 

 そう言ってロレンスがスイッと人差し指を軽く横へ払う。

 すると、絨毯は主人の意思を読み取ったように、ふわりと宙へ浮かび上がった。

 床から離れたと思うと、そのまま音もなく窓へ向かって滑っていく。

 ひらりと、夜風を受けながら窓枠を越え、絨毯は外の夜空へ飛び出していった。

 ナギニはその様子を見送り、それからゆっくりとロレンスへ視線を戻した。ロレンスはナギニのいる窓に近付いて、魔法の絨毯の行方を視線で追っている。

 

「……私、大丈夫」

 

 半歩後ずさる。

 

「そういうのは、いいって決めてるの。だって私蛇だし」

 

 声には明らかに及び腰な色が混じっていた。

 ロレンスは思わず笑う。

 

「まあまあ、案外楽しいかもよ?」

 

 軽い調子でそう言うと、窓枠へ片足を掛けた。

 ナギニは目を見開く。

 

「ちょっ———」

 

 言い終わる前に、ロレンスはそのまま身体を外へ預けた。

 ふっと重力へ身を任せる。

 躊躇など欠片もなく、そのまま夜の闇へ真っ逆さまに落ちていった。

 

「———っ!」

 

 ナギニの喉から声にならない悲鳴が漏れた。

 反射的に窓辺へ駆け寄り、身を乗り出す。

 夜風が髪を激しく乱した。

 眼下には黒い湖。

 塔の石壁。

 草原。

 しかし、そこにロレンスの姿はどこにも見当たらない。

 

「うそ……」

 

 青ざめた顔で辺りを見回した、そのとき。

 

「どう?」

 

 頭上から呑気な声が降ってきた。

 

「面白いでしょ」

 

 ナギニがはっと顔を上げる。

 塔の屋根の縁、そのさらに上から、絨毯に悠々と腰掛けたロレンスが、夜空を滑るようにこちらへ降りてきていた。

 彼は片手をひらひらと振りながら、いたずらが成功した子どものように笑っている。

 ロレンスは絨毯を窓辺へぴたりと寄せると、軽く手を差し伸べた。

 

「ほら」

 

 ナギニはしばらくその手を見つめていた。

 先ほど窓から飛び降りた男を信用していいのか悪いのか、判断に困る。

 

「落ちないわよね」

「……多分」

「多分?」

「俺が今まで落ちたことは一度もないよ」

「今の間はなに」

「ちょっと思い返してた」

 

 ナギニはじっとロレンスを見つめた。ロレンスも笑顔のまま見つめ返す。

 数秒後、ナギニは諦めたように小さく息を吐き、その手を取った。

 ロレンスに支えられながら絨毯へ乗り移る。

 思っていたより柔らかい反面、しっかりとした安心感がある。ナギニが腰を下ろし、二人の重さを受けても絨毯はほとんど揺れなかった。

 

「しっかり掴まって」

「ええ」

 

 ロレンスが絨毯の端を掴んだ。

 

「よーし、じゃあしゅっぱーつ」

 

 その一言で、絨毯は音もなく前へ滑り出す。塔からゆっくり離れたと思った次の瞬間、ぐん、と一気に速度を上げた。

 夜風が頬を撫でる。ナギニの長い黒髪が後ろへ流れ、ロレンスの灰色の髪も風に乱された。

 梟小屋があっという間に遠ざかっていく。

 眼下には黒い湖が迫っていた。

 

「少し低く飛ぶよ」

 

 ロレンスがそう言うと、絨毯は高度を下げ始める。

 するすると湖面へ近づき、あと少しで触れそうなところまで降下した。

 水面との距離はほんの数十センチほどで、絨毯が通るたび、風に押された湖面が細く波打っていく。

 ナギニは思わず身を乗り出した。恐る恐る腕を伸ばすと、指先が水面へ届き、冷たい感触が指の間を滑っていった。もう片方の腕は、コート越しにロレンスがしっかりとつかんでいる。

 

 小さな波紋が幾重にも広がっていく。その波紋を追うように、水面のすぐ下でいくつもの影が動いた。何匹ものグリンデローが、遊んでいるかのように絨毯の下を泳ぎ回る。

 時折こちらを見上げ、また水底へ潜っていく。

 

「追いかけてきてる」

 

 ナギニが思わず笑う。

 

「好奇心旺盛なんだ」

 

 ナギニの腕をしっかり掴みながら、ロレンスも湖面を見下ろした。

 

「珍しい乗り物だからね。あいつら、水中にはないものが好きなんだよ」

 

 毛むくじゃらのニフラーとか……とロレンスはため息交じりに呟いていたが、生憎ナギニはグリンデローに夢中で聞いていなかった。

 グリンデローたちはしばらく伴走するように泳いでいたが、しばらくして満足したのか、一匹、また一匹と深い闇の中へ消えてく。

 そして、やがて静寂だけが戻った。

 ロレンスはふとナギニへ目を向けた。

 

「口ぶりからすると、人間になるのはずいぶん久しぶりなんだよね?」

「ええ、数十年ぶりだと思うわ」

 

 ふむ、とロレンスは考え込む。

 

「じゃあせっかくだし、現代を見に行こうか」

 

 ロレンスの一声で、絨毯が夜空を蹴った。ナギニは慌ててロレンスに掴まる。

 一瞬で景色が後方へ流れ始め、風はさらに強くなり、星空だけが二人の頭上を流れていく。

 

 やがて地平線の向こうに、小さな光が現れはじめた。段々と建物の高さが空を突くように高くなる。

 無数の灯火が夜を塗り替えていく。

 ロンドンだ。

 ビル群が夜空へ向かって林立し、窓という窓から白や橙の明かりが溢れている。

 道路には車列が途切れることなく続き、赤と白の光が川のように街中を流れていた。

 巨大な広告塔が色鮮やかなネオンを瞬かせる。

 

 ガラス張りの高層ビルには街の灯りが幾重にも映り込み、まるで宝石を積み重ねたように輝いている。

 絨毯は速度を落とさない。

 高層ビルと高層ビルの隙間を縫うように滑り抜け、ネオンの海を泳ぐように進んでいく。

 

 ナギニは息を呑む。

 映り込む光が黒い瞳いっぱいに広がっていく。

 何十年という時間が、たった今、一瞬で飛び越えられたような気がした。

 

「……綺麗」

 

 風にさらわれそうなほど小さい声でナギニが言った。

 ふと横を見ると、隣に座るロレンスも同じ景色を眺めている。

 街の灯りがその横顔を照らしている。

 

「あなたの目って……」

 

 ロレンスが振り向く。寒さで紅潮した頬に、風に煽られた灰色の髪が靡いている。唇は冷たさでより鮮明赤々しく、黒い瞳はネオンライトを反射してキラキラ光っている。

 

「……宝石みたいね」

 

 一瞬きょとんとしたあと、ロレンスは照れ臭そうに笑った。

 

「そう?」

 

 その笑い方は少年然としていて、さっきまでトランクの中で見せていた、何枚も仮面を重ねたような掴みどころのない雰囲気とは少し違って見えた。

 ナギニは再び街へ目を向ける。

 

「あれは?」

 

 遠くで赤や青の光を絶えず映し出している巨大な板を指差した。

 

「ああ、あれは電光掲示板。広告を映してるんだ」

「広告?」

「店とか会社とかの商品を宣伝するための看板だね。昔は紙だったけど、今は光で映すものも多いかな」

「ひかり……光で映す……じゃあ、あの高い建物は?」

「オフィスビル。仕事をする場所。夜景が綺麗なのは、あの中で働いてる人たちの悲鳴が光となって輝いているからなんだ……うん、良く言って魔法みたいなもんさ」

「あの階段は?」

「ああ、地下鉄の駅に繋がってるんだよ」

「地下鉄?」

「アー、そうだな、地下に走ってる汽車みたいなもの」

 

 質問をすれば、そのたびにロレンスは夜景を指差しながら、時折、身振り手振りまで交えて一つずつ丁寧に説明してくれる。

 ナギニは黙って聞いていた。

 知らない言葉、知らない景色ばかりだった。

 自分が知っていた世界は、もうどこにも残っていない。

 目の前に広がっているのは———未来だ。

 

 まるで自分だけが時間に取り残されてしまったようだった。

 過去の遺物。

 そんな言葉が、ふと胸をよぎる。

 この街を見ていると、忘れていた記憶の欠片が少しずつ浮かび上がってくるような気がした。

 

 「空を飛ぶ方法ってさ、箒だけじゃないんだよね」

 

 いつしか質問も途切れて静まった二人の空間で、ロレンスは夜景を眺めたまま、ぽつりと言う。

 

「魔法生物に乗る方法もあるし、こういう高度な魔法のかかった魔法道具を使う方法もある」

 

 絨毯がちょうど高層ビルの間を滑り抜ける。

 夜風が二人の髪をさらっていった。ナギニは帽子が飛ばされないように深く被りなおす。

 

「でもね、マグルの世界なんてもっと面白いよ。飛行機って分かる?」

 

 ロレンスは楽しそうに続ける。

 ナギニは首を横に振った。

 

「何百人も一気に空を運べる乗り物なんだ」

「何百人も?」

「うん。しかも国を越えて飛ぶ」

「魔法なしで?」

「魔法なし。ほら……いた。絨毯、高度を上げて。あの赤い光を辿ってみよう」

 

 ロレンスが上を指さす。ナギニが目を凝らすと、赤い星の光が点滅していた。

 絨毯がグンと高度を上げる。二人を乗せた絨毯は雲の隙間をつっきって、星々が瞬く夜空にまで飛び上がった。

 すると、ナギニの目の前を、とても大きな音を立てて巨大な機械仕掛けの鳥が通過していく。

 

「な、なに」

 

 ナギニは怯えたような表情でロレンスの後ろに隠れた。

 

「ナギニが人間だった頃って飛行機どんな感じだったんだろ……」

 

 一方のロレンスは、「えーっと、第一次世界大戦が……」と呟きながら指折り数えている。

 

「離れましょう、ロレンス」

「はいはい」

 

 ぐいぐいと腕を引っ張るナギニに返事をしながら、ロレンスは絨毯に指示をして、飛行機の近くから離れた。まだ心臓がドキドキ言っているナギニは、胸に手を当てて、気を紛らわせるために周囲を見渡した。

 しかし、目下は恐ろしいほどの絶景である。

 絨毯の下に広がる雲海と、その隙間から見える数千メートル下にある地上に、ナギニは眩暈がしそうになった。

 そういえば、落っこちたら死んでしまう高さを飛んでいたんだった。

 ナギニはそのことを唐突に思い出して、ロレンスの胴体を痛いほどぎゅっと抱きしめた。恥ずかしがっている場合ではない。

 

「とはいえ」

 

 ロレンスはお構いなしに夜空を見上げる。

 

「道具も魔法生物も使わず、生身で空を飛べるのは、この世でただ一人……ヴォルデモートだけ」

「それは違うわ」

 

 考えるより先に、反射的に言葉が口をついていた。

 ロレンスが静かにこちらを見る気配がする。

 

「……オブスキュラスもよ」

 

 その瞬間、自分が何を口走ったのか気付いた。

 パッと口に手を当てて、ナギニは慌てて視線を逸らす。

 

「昔の知り合いにいたの」

 

 ロレンスはしばらく黙っていたあと、口を開いた。

 

「どんな風に飛ぶの」

 

 ナギニの眉がかすかに寄る。ロレンスは“オブスキュラス”という単語の意味は知っているらしい。

 絨毯だけが静かに雲の上を滑っていく。

 どれくらいそうしていただろう。

 やがてナギニは、小さく呟いた。

 

「インクを空中にぶちまけたみたいに……怒りのままに飛ぶの、オブスキュラスって。少なくとも私の知っている彼はそうだった。でも、その中にある彼のオレンジ色の鼓動が、とっても綺麗だった。私も彼も、何も失うものはなくて、ただ一人で、お互いを杖みたいに思ってた。親しかったかは分からない。彼にとっては私なんて、家族や……友達にも満たないものだったし……私だって、彼をどんな形で好きだったのか分からない」

「そう」

「覚えてないの。でも、忘れたままでも、私が彼を愛してたことくらいわかる」

 

 これは自分にとって、思い出したくないものだったかもしれない。でも、忘れたままでいるにはあまりにも不都合だったと思う。

 ナギニはロレンスの胸元に顔をうずめた。ロレンスはまわした手で、慰めるようにナギニの上腕を擦っていた。

 ロレンスは何も言ってくれない。

 意図的に口をつぐんでくれていることくらいは、ナギニにも分かった。

 

「……私も、あの人と一緒に飛んで行ってしまえればよかった」

 

 ロレンスはすぐには返事をしなかった。

 夜風だけが二人の間を通り抜ける。

 そして穏やかな声で言った。

 

「無理だよ、蛇に翼はないもん」

 

 ナギニは思わずロレンスを睨んだ。

 胸の奥にしまっていたものを、軽く受け流されたような気がした。

 けれど、その瞳を見た瞬間、怒りはまるで引き潮のように静かに消えていった。

 まるで薄いカーテンに身体を預けてしまったような、力んだ心がすかされたような、拍子抜けの感じだ。

 ロレンスの目が、どこまでも凪いでいた。

 

「無理に決意して飛ぶものじゃないよ。飛ぶときって、大抵は気付いたら飛んでるんだ……宇宙と谷底の暗闇を、勘違いしたまま」

 

 その言葉を、ナギニはしばらく反芻していた。

 意味は理解できないけれど、確信めいたことはあった。

 

 おそらくロレンスは、飛んだことがあるのだ。

 

「あなたって、私に似てるのかもね」

 

 ロレンスは少しだけ考えてから、ふっと微笑んだ。

 

「そうかもね」

 

 しばらくの間、二人の間には言葉がなかった。

 吹き抜ける夜風だけが、二人のコートの裾を静かに揺らしていく。吐く息は白い靄になって星明かりへ溶けていった。

 やがてロレンスが、星空を見上げたまま静かに口を開く。

 

「……どこまで思い出せてきた?」

 

 その問いに、ナギニはすぐには答えられなかった。

 思い出せていないわけではない。最初は霧の向こうにぼんやり浮かんでいるだけだった記憶が、急速に輪郭を取り戻し始めている。

 

 大切だったはずの誰かの名前。

 檻の向こう側から向けられる何人もの視線。

 鼻を掠める青色の業火の匂い。

 誰かの手の温もりと、逆に思い出したくもないほど冷たい感触。

 そして、自分が何者だったのかという、決して忘れてはいけないはずの記憶。

 少しずつ、少しずつ、それらは一本の糸のように繋がり始めていた。

 

 だからこそ、話せなかった。

 目の前にいるロレンスは、これまで一度も自分を傷付けようとはしなかった。むしろ、驚くほど根気よく、何も求めずに寄り添ってくれている。

 

 しかし、もし彼が敵だったら、もし優しささえ演技だったら、その可能性を考えると二の足を踏まざるを得ない。

 今の自分には、過去の記憶だけが唯一の切り札だった。それを自分から差し出してしまえば、もう何も残らない。

 ナギニは唇をきゅっと結び、結局何も答えなかった。

 

「……まあ、いいよ」

 

 答えが返ってこないことは織り込み済み、と言わんばかりの声色でロレンスが言う。

 

「帰ったらホットチョコレートでも淹れようか。それとも紅茶がいい? 暖炉に火も入れよう。今日は思ったより冷えたから」

 

 ナギニがゆっくりと顔を向ける。

 ロレンスはいつもの調子で笑った。

 

「無理に思い出そうとしなくてもいいし、無理に話そうとしなくてもいい。自分の中でちゃんと整理して、それで話してもいいかな、って思えた時に聞かせてくれれば、それで十分だから」

 

 ナギニは値踏みするようにじっとロレンスを見つめた。

 

「俺さ、北風と太陽なら太陽派なんだよね」

「……何、それ」

「無理やり聞き出すより、相手が自分から話したくなるまで待つ方が好きってこと」

 

 あまりにも気負いのない言い方だった。

 ナギニは思わず小さく息を吐く。

 

「……変な人」

 

 白い吐息がふわりと夜空へ昇り、星明かりの中へ消えていく。

 

 二人は並んで夜空を見上げた。

 冬の空はどこまでも澄み渡り、手を伸ばせば届きそうなほど近くに無数の星々が瞬いている。

 見渡す限り、果てのない宇宙が静かに広がり、その下にいる自分たちはあまりにも小さい。

 

 それなのに、不思議だった。

 こんなにも冷たい風が吹いているのに、さっきまで感じていた寒さはどこかへ消えてしまっている。

 ナギニはそっと腕に力を込め、もう一度ロレンスへ身体を預け直した。

 しばらく何も言わずにいたあと、小さく唇を動かす。

 

「……今日」

 

 一度だけ言葉が途切れる。

 言うべきか迷っているのが、自分でも分かった。

 

「今日……寝て———人間から蛇に変わるまで、傍にいて」

 

 ロレンスは腕の中のナギニを見下ろした。

 深く被った毛糸の帽子に隠れて、その表情はほとんど見えない。

 

「もちろん、君が眠るまで一緒にいるよ」

 

 ナギニは返事をしなかった。

 その代わり、ロレンスのコートを掴む指先に、ほんの少しだけ力がこもる。

 帰って飲んだ紅茶の味は、とても美味しかった。

 その夜、ナギニは久しぶりに、誰かが隣にいる安心感のまま、眠りについた。

 

 




魔法の絨毯って下手なバンジーより怖いと思う今日この頃。あの上で臆せず恋の歌とか歌える度胸がある者のみが恋愛成就するのであろう……。

本来は二話に分ける予定でしたが、一話の方が収まりがいいと思ったので。皆さんも早くロミオに会いたいでしょう。
そしてストックがなくなりました(絶望)

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切実に燃料をください。エタる確率が低くなります。沢山の感想ありがとうございます。感想をください。私の主食です。
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