はい!こちら『愛に溢れる探偵事務所』です!   作:枯華院 清日

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遅くなって申し訳ありません…。


大変な淑女でした、今では反省している。

 

 

 

 

 メリーさんの名案とは、何をさせるのかと思えば。

 

「よっ、えー…と…」

「………」

「………」

「俺は當真 太陽って名前ね、よろしくゥ!」

「………」

「…うん」

「…うん。自己紹介ね、自己紹介…そっちの名前は何ていうんだ?」

「…金子、智花」

「オッケイオッケイ、チカちゃんね。名札が隣にあるけどさ、読みは書いてないから聞きたかったんだよ。賢くて花のような、って意味かな。素敵じゃん?」

「………」

「普通、でしょ」

「いやぁ? 俺の名前なんてさ、マジで太陽だからな。お天道様と一緒だよ、だから天気予報とか聞くと大変だぜ。久しぶりの太陽が見られるぅ〜だの言うんだから、名前と星の名前が一緒でやんの」

「そう……」

「………」

 

 ここは病院です。休日に病院に行くような趣味も無ければ、そもそも私は健康体そのもの。

 では何故病院か、というと。

 

「うん…ちょっと待っててくれ…。

 レイリー、ちょっと、こっち…!」

「うん」

「…何で黙ってんのォ…!?」

「ハードル高いよね」

「いや自己紹介だぞ!? ハードルじゃねえよ、スタートでミスってどうすんだよ…!」

「私、スロースターターだから」

「長い付き合いになればの話だろ、今回はどっちかって言うと短距離走だよ。相手が悪い事してるでもない聞き込み調査なんだから、もっとフレンドリーにさぁ」

 

 病院に、聞き込み調査をしに来ています。

 

「聞いてるゥ!?」

「長距離走はそこそこ得意だよ」

「陸上競技から離れてくれ!」

 

 スターターピストルって物騒で身構えるよね。

 …話はほんの少し前に遡る。

 

「太陽がくんが、レイリーちゃんの勉強を見てあげればいいんですよ。なんてシンプルなんでしょう、深い答はいつだって簡単、そう思いますよね」

「無理っすよ。これから病院に調査しに行くんですから、特に日を跨ぐタイプの仕事なら無理無理。一人で勉強してもらうしか無いっすよ」

「レイリーちゃんはどう思います?」

「名案です」

「ね?」

「ね? じゃねえよ!」

 

 まあ、こんな会話があった訳です。つまりは私が太陽くんの作業を手伝って、その余った時間を私の勉強に還元する、という。なるほどWin-Winの名案…? 

 

 しかしメリーさんの見積もりと私の目さんが甘かった、それはもうグラブ・ジャムン並に。グラブ・ジャムンは世界一甘いお菓子と呼ばれてるやつです。お父さんが前の職場の友人から貰って、興味本位で食べたお母さんが食べて悶絶してました。それはまあいいです、重要なことじゃない。

 

 病院で聞き込み調査を行う。たったそれだけの事が何と困難なことか。うーん、間違いなく普段のコミュニケーション不足というか、コミュ障的なアレやコレやの影響が尾を引いています。見ず知らずの人に明るく話しかけられるようだったら、こんな人間になってないんですよ。

 

 ということで、聞き取り調査のお手伝いとは名ばかりの、完全に足を引っ張る役立たずのお荷物が付いてきている。何とも残酷な光景が病院内で繰り広げられている訳です。

 

 ハッキリ言って、最悪の事態です。最悪の自体と言ってもいい。だってものの見事に足を引っ張ってるのだから、こんな事なら一人で勉強してた方が…。

 

「ま…話に乗っちまったのなら仕方ねえよ」

「え?」

「失点なら取り返せばいいって事だろ。土屋だってそう言うぜ。千々石さんもフォンセルランドさんも似たようなコト言うしな」

 

 受け売りなんだ。

 まあ、いいけれど。

 

「…うん」

「よっし…じゃあ行こうぜ。これが小児科病棟のアイドル、その輝かしい1ページ目だッ!」

「それはいいから」

「えっ、いやでもよ」

「いいから」

「お、おう…。ところで秘策があるんだよ、どうだいレイリーちゃんよォ…試してみるか?」

「え…」

「いいからいいから…これでキミもナンバーワンパフォーマーだぜ!?」

 

 その前向きな姿勢は見習うべきかもしれない。

 

 というわけで。

 心機一転。しかし急に退室したが故の、自己紹介の気まずい空気はそのままに、逆転の手段として太陽くんが考えた秘策を実行するに至る訳です。

 

「紙…?」

「どこにでもある折り紙…の、裏面ね。何も書いてないじゃん? ここにチカちゃんも、他の連中もでっかく丸を描いてほしいんだよ」

「えー」

「めんどくさー」

「いいじゃんいいじゃん、こんなもん面倒臭がってたら治った時に何もできねえぞ! 

 …ほい良し」

 

 病室に戻ってから、手早く折り紙を取り出して何も書いてない面に大きな丸を描いてもらって。

 さあ、ここから私の出番。クレヨンを手に持って…。

 

「さぁさぁ紳士淑女の皆様ァ! これより始まるは世紀の一番、白いちっちゃなお姉ちゃんが、この的を射抜いたら拍手してくれよ…さぁ来い!」

「…できんの?」

「クレヨンで??」

「よく見てろよガキンチョども…ッ!」

「…ふっ!」

 

 白いちっちゃなお姉ちゃんて、もっと…あるでしょ。

 無言の抗議をクレヨンに込めて、そこそこ強めに投げる。このくらいなら、朝飯前。

 

「痛え!?」

「おおー…!?」

「…ふぅ」

 

 病室の子供たちが描いた丸の真ん中を貫く。距離もそこまで遠くないから、この程度は楽なもの。どちらかというと的の真ん中に当てるより、力加減の方が難しい。ちなみに一個は太陽くんの額に当てました。私が小さいんじゃなくて、周りが大きいんだよ。

 

「すげえ!?」

「クレヨン刺さってる!」

「わあ…」

「デコに当てることねえじゃん…! じゃなくて、ほら全員拍手してくれ! あと自己紹介!」

 

 自己紹介…? 

 

「お前がするんだよ!?」

 

 あっ、私ですか。

 

「…えっと、レイリー・ケイスです。よろしくね」

「……」

「……」

 

 …当たり障りの無い、普通の自己紹介。ほんの数秒の沈黙が、失敗の予感を濃くする。

 やっぱり普通に自己紹介をしてから、こういった事をするべきだったんじゃないかと逡巡してしまう。子供たちにめちゃくちゃ見られてるし、血液が顔面に集まっていくのを感じる。注目されるのに慣れていないのだから仕方ない、誰か早くリアクションを見せてくれませんか。罵詈雑言でも非難でもいいから。

 

「すげー!?」

「ちょっと地味だけどね」

「普通に感動しとけよ!?」

「…凄い」

「……!」

 

 相手を知るには、まず自分を見せること。

 こんな、だれでも出来るような事でも。見せ方と工夫でショウの一つに様変わりする。

 

「どうよ、パフォーマー。案外チョロいだろ?」

「うん…」

 

 なけなしの勇気を振り絞れば、前を向くのも難しくないのかもしれない。そんな事を思った。

 

「おでこのクレヨン、落とした方がいいよ」

「誰が付けたと思ってんだ!?」

 

 なんの事やら…。

 

 そんな一幕がありまして。氷解…アイスブレイク? が済んだら本命に切り込んで行きましょう。場が温まったからね、氷だって溶ける訳です。

 

「で、だ。みんなはさァ、最近変な事なかったか?」

「変なこと?」

「あぁそう、夜に変な音が聞こえるとかそういうの。別の病棟にいる中房くらいのキッズは無いって言ってたんだが…」

 

 今回の依頼は、病院のお医者さんからのもの。

 なんでも深夜の小児病棟で誰かの呼吸音のような音が聞こえたり、またそれがトイレまで追いかけて来たりしてくる…らしい。

 病院や学校、集団生活を余儀なくされる場所では不可思議な話に事欠かない。これもその一部であり、お祓いというか…拝み屋? のような方に頼んでも効力が無かったようで、こうして我らが探偵事務所にお鉢が回ってきたそうな。

 他の病棟に居る子ども達は、子どもと言っても私達とそこまで年齢の変わらない中学生、もしくは小学校高学年が多い。今私達の居る病棟はおおよそ小学校の中学年以下…10歳未満の子どもで重症じゃない子が多い。

 

「わたし、聞いたことある…」

「お? マジかいチカちゃん」

「うん…あのね。この前、夜に喉が渇いて自販機に行ったの。その時から、足音…じゃなくて車椅子の音が聞こえて、ずっと着いてきてた…」

「…何もされてない?」

「うん…気のせいかなって思ってたんだけど」

 

 幽霊とか怨霊のような存在じゃないとすれば、それってただの不審者では? 

 でも、不審者の行動かと考えるには、これも変と言えば変だ。少なくとも夜の消灯時間になれば、面会や病棟間の行き来を部外者がするのは不可能だろう。看護師さんが居るからね、その為のナースステーション。

 それと監視カメラはプライバシーの観点から置いていないそうだけれど、赤外線探知式の人感センサーは置かれているという話だ。だから、普通の人が動いていたのなら警報がけたたましく鳴るはず。

 

「おトイレに行ったらね、ドアの上から、ずっと息みたいな音がしてて…怖くて動けなくて…」

「…よく耐えたね」

「うん…」

 

 チカちゃんはまだ未就学。10歳にも満たないような子どもだ。親が近くに居ない不安や、夜の暗さに潜在的な恐怖を拭えない時期だろう。その夜の恐れが残っているのか、話を聞いた後に私が擦る背中には、まだ震えがある。

 

「なるほどねぇ…こいつは許せねえな」

「そうだね」

「他のキッズはどうだ?」

「全然」

「聞いたこと無いね」

「ほーん…」

 

 そう答える子供たちは二人とも小学校の高学年、生意気盛りというか、まあ普通の小学生男子だ。あまり考えるべきでは無いだろうけれど、彼らがチカちゃんにイタズラをしたとは考え難い。そして何より、被害者は一人ではない。つまり他の病室の子どもにもイタズラをしている…というのは難しいだろう。

 後を着けるにも聞き耳を立てなければ不可能だし、彼らにそこまで夜更しをするメリットが無い。

 

「ふーむ…」

「どうするの?」

「八方塞がりじゃあないな」

 

 互いに考え込んで、何か思いついた事はないかと訪ねれば、彼には考えがあるようだ。

 幽霊ではない、しかし普通の人でもない。雲を掴むような話というか、正体がわからない話だ。

 

「まだ時間は平気か?」

「うん」

「じゃあちょっと付き合ってくれ、手伝ってもらいたい事がいくつかあるんでね」

「いいよ。結婚とか一人じゃ出来ないよね」

「今の話から結婚にどうやって跳ぶんだよ!」

 

 チッ…! 

 

「…怖くて聞きたくねえんだけど、今も何か武器とか持ってる?」

「あるよ」

 

 え、武器? 

 唐突に何だろう、太陽くんもそういうのに憧れるお年頃ってことかな。わからなくもないよ、銃とか刃物とか可愛いもんね。銃でいえば、私は持ってないけどワルサーの丸っこい感じとか…。

 

「変な事考えてるとこ悪いけどさ。ちょっと貸してくんね? 大丈夫、壊さないって」

「え…やだ…」

「急にマジな拒絶入るじゃん…」

 

 今持ってる物なんて、仕込靴しか無いんですけど。何なの、もしかして女性の靴に興奮するタイプなの? 

 それはいけません、どうにかして矯正せねば。彼のこれから先の人生、靴を見るだけで大変な変態になってしまうなんて耐え難い。世の中にはね、学校の上履きを盗んで興奮する人も居るんですから。彼にはそうなって欲しくない。

 

「……」

「わかったわかったよ…しゃーねえな…。じゃあ外で…ああいや、自分の勉強道具持ってきて親御さんには帰りが遅くなるって連絡をしといてくれ」

「朝帰り…!?」

「朝じゃねえよ、真面目な話ね? わかるか? 

 それとワイヤー…が難しいならテグスの用意をして…これはフォンセルランドさんが持ってるから…」

「今持ってるよ」

「ああうん…準備がいいな、オイ。そんじゃ一時解散、俺もフォンセルランドさんに連絡入れておくわ。用意が終わったら病院の前で落ち合おうぜ」

 

 どうやら思っていた帰りが遅くなるとは違うらしい。そりゃそうか。でも、もっとこう、桃色なエピソードとかになりませんか。ダメかな。太陽くん真面目だもんね。

 

 

 

 

 

 そういえば昔、看護師さんはナースとも呼ばれていたらしい。もっと言うと、看護師ではなく看護婦さん。未だにその人達が被る帽子をナースキャップ、待機所をナースステーションというものをそのまま呼ぶあたりに、過去の名残が残っている。

 ピンク色をした制服が多いのは、患者を安心させるためだとか。ピンク色にリラックス効果があるから、そういった色にして柔らかい印象を与えている…らしい。

 

「もう! …もう! 何で怪我するの!?」

「いやぁハハハ…」

 

 一方のお医者さんは白衣に地味目な服、短いスカートを履いている女医さんなんて早々いない。まぁ不健全だから仕方ない、あくまで病院は傷や病気を治すところなのだから。

 

「ちょっと外で転んだだけっすよ」

「嘘! だって前みたいな怪我だもん!」

「懐かしいっすねぇ」

「何で無茶するの!?」

「いやいや偶然、偶然ですって」

 

 烈火の如く怒っているのは、淋代くんのお姉さんであるこころさん。どうやらこの病院に勤めているようで、怪我ならなんでも治せる、そんな奇跡のようなお医者さんだそうだ。医者だというのは又聞きで知っていたけれど、とんでもなく凄い人だとは知らなかった。腹ぺこさんなだけではないとは…キャラが濃くていらっしゃいますね。

 それはそれとして、こころさんの怒りは真っ当なものだろう。だって…。

 

「どうしてっ、病院の前で怪我するの!?」

「…つ、ついカッとなって…とか…?」

「もう!!」

「じょ、冗談ですよ。ちょっと合法的に入院しなきゃなんなくて…事故って事にしてくれます…?」

「馬鹿なんだから…!」

 

 補足しておきますが太陽くんは、ふと思い立って自傷に走るタイプのメンがヘラってる人じゃないですよ。

 

 じゃあ何でこんな事に、というのはかなり単純で。

 彼が無理矢理入院しようとしているからです。思い立ったが吉日とは言うけれど、思い切りが良過ぎるね。

 

 怪我の仕方は…まぁ、事故に見えなくもない様子だった。病院の植込みの影に隠れて、突風が吹いたかと思えば破裂音がして。そしてヘラヘラしながら片手を血だらけにした太陽くんが出て来るんだから。

 

「次は、そんなの絶対治してあげないから!」

「ぃ痛ってえ!?」

「……」

 

 うわぁ…痛そう…。患部を思いっきり叩いてる…。

 ちなみに私は付き添いです。それにしても何でこんな痴話喧嘩みたいな、あるいは浮気現場を詰問されているような空気感の場面に立たされているのでしょうか。これはこれで納得いきません。

 

「病室は!?」

「あ、あー…小児科病棟で」

「これ持って一人で歩いて行って!」

「いやすんません本当…」

「いいから…!」

「ウス…」

 

 凄いしょぼくれてる…! でも、これはこれでアリじゃないか。普段は元気な人がふと見せる弱った姿、これは…これで…!? 

 じゃなくて。診察室から出たその時。落ち込んだような、後悔しているような顔で彼が呟く。

 

「また怒らせちまったな…」

「またって、これで何回目なの?」

 

 またって貴方。回数によっては太陽くんを擁護するよりも、こころさんの怒りに正当性があるように感じますよ。普通はそこまでお医者さんのお世話にならないんです、無茶し過ぎと言わざるをえない。

 

「…十から先は数えてねえや」

「そんなに」

「わざとってのはこれが始めてだぜ? 本当に。俺がそんな簡単に怪我するかよ」

「自慢にならないよ、それ」

 

 そりゃあ怒りもしようものだ。確かに彼の頑丈さは目を見張る物があるとはいえ、それでも怪我をするとすれば。それは誰かにやられたか、それとも誰かを庇ってか、その二つ以外にない。不注意からの事故で怪我をしないなら、それ以外は…ということだ。

 

「んー…こんな身体になっちまった直後が大半だけどな。実はさ、日常的な力加減ってのが難しいんだよ、本気で手を握っただけで皮膚がブチって裂けるんだもん。困ったもんだよな」

「……」

「そんな時からずっと治してくれんだから、こころさんには頭が上がんねえよ。放っとけば勝手に死ぬような馬鹿なんざ…」

「やめてね、縁起でもない」

「…悪い」

 

 どうにも太陽くんは、自分の命を軽く見ているきらいがある。そして彼と接している時間が長ければ長い程、そんな一面を理解する事になる。

 自分から危ない事に首を突っ込むのもそう。今回の依頼だって、時間を掛ければもっと安全に解決可能な手段も有るはず。だというのに彼はそれを選ばない。

 

「まっ、怒らせちまったもんは仕方ねえ。後やる事は一つだけだ、こころさんに謝んのはそれからだな!」

「私も怒ってるからね」

「なんとぉ…!?」

 

 なんとぉじゃないよ。大事な人が自分から傷つきに行って怒らないような人が居ますか、いや居まい。反語。こころさんのような傷を治せるお医者さんは居れども、彼の性根を直すのは時間がかかりそうだ。

 まったく我ながら、厄介な人に好意を持ってしまったものだ。後悔はしてませんけどね。

 

 それからはスムーズに入院となりました。こころさんが怒っているのは間違いないけれど、それはそれとして協力もしてくれるようです。いい人だね。

 

 私は付き添いとして、消灯時間まで勉強を見てもらいました。なるほどね…いい作戦だと思うよ。私ががっかりしてなければ、満点の作戦だ。

 

「いいか。古典での袖が濡れるっつうのは大体は涙を拭うからだ。それが何で袖なのかっていうと、人と別れる時に水辺を跨いだのが源氏物語で、明石の……」

「………」

 

 ええ、はい。思った以上に色気の無いお勉強会でしたからね。がっかりもしますよ。普通にみっちりと私の苦手分野である古文を見てもらって、時間は過ぎて行きましたとさ。

 それと…。

 

「そろそろ消灯時間か。じゃあ勉強はここまでだな」

「………」

「お疲れさんの所悪いけど、頼んだぜ?」

「うん…」

 

 一つの頼まれ事をこなしました。

 本当にこんなので何とかなるんだろうか? 

 

 

 

 

 

 

 

 

 キィ…キィ…。

 そんな、油を差していない金属の擦れ合う音が響く。

 病院の夜は、いや、病院の夜も暗い。

 非常口を示す非常灯や足下に転倒防止の明かりがあれど、非日常的な暗さがある。それは濃い緑色のフィルムを通した暗闇だ。

 

 キィー…キィー…。

 本来は聞こえるはずのない音。誰もが寝静まっているのなら、こんな、車椅子が軋み動く音がどうして聞こえるのだろうか。

 

「………」

 

 興味本位で、その音に近付いてしまった。病院にある明かりにもう一種類が増えた。頭上でもなく、足下でもない。喉を潤す為の商品を煌々と表示する為の明かり、自販機の光だ。

 

「………ひっ…!」

 

 恐ろしいものを見た。

 

 自販機の前、車椅子を押していたのは看護師。

 しかしその車椅子には誰も座っておらず。

 そして看護師の顔色の、異様なこと。

 

 気付かれないように、されど必死に。息を殺して急いで逃げた。

 あの顔色は普通の人のそれではない。

 血色そのものが無い。

 青白く、土気色を通り越して、まるで死体のような。

 

 あのキィキィという音が耳から離れない。

 振り向けど振り向けど非常灯は空虚の黒を照らす。

 このまま病室に戻るべきか、それともナースステーションへ行くべきか。どちらを選ぼうとも距離がある。しかし焦るでもなし、どちらでも変わりはしない…。

 

 キィー…キィー…。

 

 あの音がする。

 これは、耳にこびり付いた残響ではない。

 嫌な予感がする。

 振り向くな。

 本能が警鐘を鳴らす。

 首が固着したかのように動かない。

 

 キィー…。

 

 音が、弱くなった…? 

 

 キィー…。

 ぺたん…。

 

 何とも間の抜けた音だ。

 違う、これは靴音だ。

 そうだ、これは。

 

 いつの間にか、靴音が聞こえるまで近付いて来ていることを示している。

 

「…はっ…!」

 

 息が詰まる。

 べっとりとした冷たい汗が背中を濡らす。

 走れ。

 どこに? 

 

 キィー…キィー…。

 ぺた…ぺた…。

 

 走れ! 

 

 心臓の騒がしさより耳にうるさい車椅子の軋む音。

 どこに逃げようなどと考えている暇は無かった。

 

 着いたのは一つの袋小路。

 複数の扉、複数の座席。

 掃除をしようとも取り切れなかったのだろう、薄いアンモニア臭と消毒の臭いが重なるここは、普通のトイレ。何故こんな場所を選んでしまったのか、自分から行き止まりに逃げ込んでしまうなど。

 

 冷静に、普段通りの思考をする方が難しい。

 あの金属音が判断力を削る。

 

 キィー…キィー…。

 

 来た! 

 

 幸いにして、逃げ込んだ個室は三つ目。

 もうおしまいかもしれない、でも逃げ出すチャンスはきっとある。

 トイレの中に響く車椅子の音が、嫌にクリアだ。

 

 キィー…。

 

 近寄る車椅子の気配と同時に。バタンッ! と、一つ目の扉が勢い良く閉まる。やはり、そうだ。こちらを探している。

 もしも見つかってしまったら、何をされるのか。どうしようもない考えだけが、脳に満たされていく。

 

 キィー…。

 

 バタン! 

 ああ次、もう次には。

 

 何で三つ目なのだろう。

 もう少し奥にすれば。

 窓に近ければ。

 

 キィ…。

 

 車椅子の音が、止んだ。

 いつ扉が開けられるのか、まるで絞首を待つ罪人の気持ちで待てど暮せど一向に扉は動かない。

 まさか、助かった? 

 そんな事があるだろうか。何にせよ、車椅子の音もしていない。近付いて来た時の足音も同じくしない。

 外の様子を確かめねばならない。

 あの何かに気付かれないように、ゆっくりと扉を開く…。

 

「…?」

 

 開かない。

 いや、開かないというのは正確ではない。

 僅かに開くが、何かが支えているのか反動で閉まってしまう。何かとは、なんだ。

 足下から確認して、向こう側に何かあるのかを確かめて…。

 

「………」

 

 そこには。

 

 先程の看護師の顔が。

 

 

 

 

 

 

 

 

「なんて、言うと思った?」

「!?」

 

 地面に張り巡らせていたワイヤーを思いっ切り引き絞る。その糸を軽く押さえていたちょっとした目くらましのトイレットペーパーごと、ワイヤーが狭まり。

 

「現行犯逮捕…じゃないか」

「これ…は!?」

 

 不審人物は身動きの取れない態勢のまま転がった。

 トイレの床は、ちょっと汚いかも。まあいいか。

 

 

 

 

 

 

 

 さて、そんな訳で不審者は捕まりました。

 

「いやぁまさかだったな」

「うん」

 

 何とも呆気ない捕縛の一部始終。

 そして相手は意外な人物。

 

「マジの看護師で、しかも普通に働いてた人とは思わねぇよな…怖すぎるっての」

「よりによってね」

 

 

 

『ゾンビ看護師』

 

 ゾンビとなった看護師が真夜中を徘徊しており。目撃した者を追い回す、そんな都市伝説。

 その都市伝説の顛末は幾つかのものに別れている。

 一つは追い回した少年の行方は知れないというもの。

 もう一つは、追い回された少年が看護師の押す車椅子に乗っていた。つまり仲間にされてしまう、というもの。

 暗い夜、病院という薄気味悪くさえ感じる場所において人は恐怖に駆り立てられる。

 

 これは、誰かが居る恐怖の話。

 

 

 

「普通の看護師さんだと思ったんだけどなぁ…」

「存尾さん、だよね」

「そうそう。俺さぁ実は前に見た事があるんだよ、それがまさかって感じだぜ」

「しかもロリコンでショタコン」

「言うなよ…」

 

 現在私は探偵事務所で勉強を見てもらっています。これはその休憩時間での話。

 

『ゾンビ看護師』こと存尾さんは、普通に病院で働いていた人でした。彼女がゾンビであるというのは病院側も本人から言われていたようで。ゾンビは夜に眠くもならないので、夜勤も平然とこなせる人材として雇ったそうだ。大変な仕事の人手不足は世の常、ゾンビが生きているかどうかはともかく、猫の…死体の手も借りたい状態だったんだろう。

 

 しかしながら、ここで病院側の誤算があった。

 存尾さんは重度のショタコンでロリコンだったのだ。しかも本人いわく、イエスロリータ・ノータッチ。あくまで見ていただけだからセーフとのこと。

 

「つまり私は淑女です。もしも変態だとしても、実害の出ない変態という名の種類なんです!」

 

 そんな訳ないでしょ。

 

 人感センサーに反応が無いのも当然で、体温が無いのだから赤外線を発する事もない。だから病院側も困ってしまうのは仕方ない、まさか普通に働いてくれているゾンビの犯行とは思わないもんね。

 

「…被害者のカウンセリングは本職に任せるしか無えな」

「存尾さんも転勤だからね」

 

 そうそう。ちょっと洒落にならない変態ゾンビこと存尾さんは、転勤というか転属というか。大事にならないように処理をするという事で、老人ホーム勤務になったそうです。実際問題として、肉眼で覗きのような事をしていただけなので物的証拠も無い。しかも見守りの一環というのも否定は出来ないのだ。用意周到な変態だ、これは野放しにしておくのも危険。故に本人が一番辛い環境に叩き込む事にしたらしい。

 

「被害者…チカちゃんとかガキどもに何もなさそうだし、こころさんも許してくれ…てた…よな、うん。一件落着ってことだ」

「そうだね」

「これで心置きなく勉強出来るってもんだな?」

「…そうだね」

 

 まぁその、一件落着なのは間違いない。

 それでもやっぱり学生の本文は勉強、これはいわゆる別枠での話みたいなもの。

 

「じゃ、早速古文の助動詞についてどこまで覚えてるかを確認だ。覚えてるのから言ってみ?」

「………」

 

 はぁ。

 有り難いけれども、何事も普通が一番だね。

 

「…覚えてねえの?」

「…うん」

「………」

「………」

 

 目指せ普通の点数。赤点回避。

 補習で夏休みを潰したくないからね。

 が…頑張ります…。

 

 

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