はい!こちら『愛に溢れる探偵事務所』です! 作:枯華院 清日
ライダー
「真中せーんせ!」
「んぁ…?」
時間は六限目の終わり。つまりこれから一旦職員室に戻って帰りのホームルームと生徒たちの掃除を見届ければ、基本的なやる事は終わりと言っていい。
毎日のように部活動やらを担当する先生方は、当然これからも学校にいる事になるが、自分の場合は週に一度しかないので楽なものだ。
社会人なら退社間際、学校の生徒であれば放課後を目前とすれば気が緩んだり、気分が高揚する。
「立神か、どうした?」
帰宅後の酒はどこで調達しようかとふわふわ考えていた所に話しかけて来たのは、我が校が誇る問題児。立神 葵、読みは同じだが、ライオンなどのタテガミではない。
日本にはよくいる自称転生者の一人、学校の設備を矢鱈と壊す問題児だ。
ついでに、言い触らす訳でもない内心の事だが、おれはこの子がちょっと苦手だ。教師も一人の人間、出来るだけ表に出さないが人並みに好き嫌いはある。
何より、転生者って事は。本来はおれより歳上の可能性が高いのだろう。恐らく自分より歳上の人が表面上は普通に授業を受けていて、あまつさえ先生と呼んできたらどう思う。答えは単純明快、非常にやり難い。
「坂本先生と熱烈に抱き合ったって聞いたんですけど、本当なんですかー?」
「べふっ…」
「アイ先生きったない!」
「お前どこから…」
つい吹き出してしまった。
転生者ってヤツは、およそこの日本にもう一度生まれると性格が悪くなるのだろうか。
特典だかチートだか知った事ではないが。世界を滅ぼす程度の噂を纏った人間も居れば、日本の都道府県か市区町村一つなら機能停止させられる人間もゴロゴロいるこの世界のこと。
雷が操作出来る、火球を生み出せる、洪水を起こせる。それがなんだと言うのか?
不用意に力を振るえば雷なら電子機器の損壊、火なら放火、水なら器物汚損に注意出来ないなら、輝く場所は法定か刑務所の中だ。
知識においても同じこと、原理不明のUFOの秘密をすべて解き明かせる者は存在していない。
つまり特殊な例を除けば、法律という束縛を受けるが故に、法治国家である現代日本以外なら持て囃される能力を持った転生者も大したことが出来ないのだ。
だからだろうか、自称転生者や神を名乗る連中は問題を起こしやすい。思い通りに力を振るえない苛立ちか知らないが、周囲と上手く付き合えないなら排他もされよう。
人種の坩堝はアメリカ合衆国と昔は言ったが、今では日本も大体同じだ。
おれの専門ではないが。
ホビット民権運動や転生自害禁止条例における自動車への宇宙産安全装置の義務付け、転生者人格殺人公判、怪異による心神喪失事例、性別転換者の戸籍問題…。
過去の歴史においても人と人の間に諍いが絶えることはないように、面倒なゴタゴタというものはいつだって有る。
話が逸れた、否。逸したかった。
「えー? 誰からなんていいじゃないですかぁ。それよりどうなんですか? 元女性のイケメン男性教諭と元男性の美少女教諭の間に秘密の関係っておもしろ…素敵な感じしません?」
「お前が面白そうってだけだろ…。誤解が無いようにはっきり言うが、たまたま事故で転んだ坂本先生を庇ったってだけだ。
第一、坂本先生の主張はともかく、おれは男で、好みは女性のままだ」
「うーわつまんなー…」
「つまんなくていい、現実はこんなもんだ。それより立神、最近またお前の事を迷宮近くで見たって報告があったんだが…」
「あっ! 帰りのホームルームの時間だったねー、早くしなきゃみんな嫌がっちゃうよ、ほら行って行って!」
こいつ自分で引き止めておいて…!
「はぁ…」
「ため息は駄目ですよー、幸せが逃げるらしいじゃないですか」
「…そうだな」
夕暮れ時で浮足立ってたのが不時着した気分だよ。
しばらくタバコの本数が増えそうだ。
授業計画ヨシ、明日の教材ヨシ、教室の鍵ヨシ、日直の日誌ヨシ!
これらが意味するところは、退勤の用意が出来たということ。さっきの件の坂本先生も音楽部の顧問だから今頃は付きっきりで当たっているだろう。
さて、どうにかしてライターオイルとタバコと酒を買わなければ。雨はまだ降っていない、まさしく好機。
「當真でーす、真中先生いますかー」
機を逸した。
…まぁ、仕方ないか…。
「…何かあったのか」
「テンション低いっすね…?」
「気にするな、それでどうした」
成績は優等生、素行はそれなり。バイト先は問題ありの生徒、當真 太陽。
明るい茶色の髪、日に照らされると名前と同じような太陽の如き髪色になる男子生徒。エルフを始めとする不思議な存在でも何でもないが、頭髪証明をちゃんと持ってくるのでこの派手な頭髪は立派に地毛だ。
それと何か色々な負い目を背負っているようだ。普段は明るく振る舞っているが…あまり詮索する事でもないか、話す気になったら話して欲しいものではある。
「先生バイク通勤っすよね?」
「電車も使うが、この時期はバイクが多いな。興味があるのか? 先生が乗っているのは中型だが…いや、だとしてもまずは原付と自動車にしておけ、バイクには不便な事も多いし単純に危ないぞ」
「あぁいや、少し興味は有りますけどそうじゃなくて」
違うのか…。
意気揚々と喋ったのがちょっと恥ずかしい。カッコいいと思って乗っている訳だが、最近の高校生の趣味には合わないのだろうか。
「単刀直入に聞きますけど『首なしライダー』って知ってます?」
「…あん?」
『首なしライダー』
元はアメリカ映画、スティーブ・マックイーン主演の物か。それともオーストラリアで公開された映画の話だったか。
首にピアノ線を引っ掛けられたフルフェイスヘルメットを被ったバイク乗りが、そのまま胴体と首とが泣き別れした。
そんな話が各地の事故と結びついて広まった、ともされる噂話。
死んだ事にも気付いていない首なしライダーは、今も夜な夜な何処かを走っていて。手段は様々ながら誰かに害を成す。
過去にはデュラハン、スリーピー・ホロウ、日本でも首なし騎馬武者。古今東西、首が無い運転手の話は、この世に数多くある。
これは。死んだ事にも気付かない、犠牲者を増やし続ける顔の無い誰かの噂。
「知らない。もし知っていたとしても、お前には教えない」
「えー先生酷くなーい?」
「どうせバイト絡みだろ。いいか、何度も言ってるがな、おれは生徒が危ない目に遭うのを快く思ってない。おれだけじゃない、教員っていうのは大体そう思ってるもんだ。
危ないことにわざわざ首を突っ込まないで、そういうのは他に任せるか、誰か大人を頼れ」
こいつの悪い所だ。一度ちゃんと頼まれてしまうと大概の事を安請け合いする。しかも自分の命をまるで勘定に入れない。
犠牲者が出ていれば尚の事。自分ならどうにか出来るといった若々しい全能感からではなく、自分の命を安く見積もる、いわゆる捨て鉢的な思考からそうしてしまう傾向がある。
「だから頼ってるじゃないっすか」
「そういう事じゃない、はぐらかすな。自分の命を大事にしろって話をしてるんだ」
「わかってますって、大事にはしてま…」
「わかってないから何度も言ってんだ!」
あぁ、湿気からくる苛立ち故か。幾度述べても本意を伝えられない自身の情けなさからか。それとも剥き出しの本心の発露か。
見た目以外の、年齢だけは重ねた者が声を無用に荒らげるみっともなさ。大人になっても噂に振り回されているこの身の醜さ。そんなつもりは無かっただなんて言っても最早後の祭りだ。
「…すまん、とにかく、怪我と無茶な事はするな」
「いえ、いいんすよ。俺こそすみません、いつも危ないことばっかやって心配かけて。なんだかんだアイ先生とも長い付き合いっすもんね」
「…そうだな…」
そう、當真とは長い付き合いだ。一生徒と学年が変わっても同じ担任でいるというのは非常に珍しい。當真以外では、同じようにずっと受け持っている生徒はあと数人程度しかいない。
「だから俺の方こそ心配で…アイ先生はちゃんと恋人作って結婚出来るのかなって…」
「そう…おい、関係ないだろそれは」
「でも先生、早く結婚しなきゃ親御さんも安心できませんよ? 確かに見た目は究極完全体美少女ですけど…」
「お前あれか? 真面目な感じは数秒しか保たないのか? 平常点下げておくか?」
「あぁっ! 女神様! それだけは!!」
「おい待てこの…當真っ!」
言うだけ言って逃げやがった!
あいつめ…明日覚えてろよ…。何が究極完全体美少女だ…結構強そうじゃないか…。
「究極完全体、か…」
…意外と、アリな気がするな?
「お気に召されたんですか、究極完全体」
「強そうで、何か…よくないですか?」
「私はそんな真中先生も良いと思いますよ」
「はっ!?」
坂本先生!? いつの間に!
というか、さては話をほとんど聞いてたなこの人。まったく油断ならん、何より静かに後ろに来られると流石におれでも怖い。
「驚かさないでくださいよ、部活はどうしたんですか」
「真中先生の張り詰めた声が届いたもので、なりふり構わず駆け付けてしまいました…ご迷惑でしたか?」
「迷惑って訳じゃないですけど…」
迷惑じゃなくて怖い。
壁に耳あり障子に目あり、とは言うが。いざ当事者ともなれば笑い話で済まない。どんな聴覚を持っているのか、それとも何か、第六感という物なのか。自分によくわからない不思議パワーを向けられると感動は一切しない。
そもそもの話、この人はどこまでが冗談なのかわからない。声を聞きつけて、という今の話もそうだ。
初対面の時もそう、おれに惚れたなどと公衆の面前で高らかに歌い上げるのは常軌を逸している。もしやこの人は誰かをからかうのが好きなのだろうか。
だとすれば大変良いご趣味をお持ちなようだ。こんないい歳したおっさんを困惑させて転がして、何が楽しいのかいっそ聞きたく…ないな。
「まぁいいですよ、おれはもう帰りますんで」
「嗚呼そんなっ…さすれば光を失った我々は何を標に進めと言うのですか!」
「電灯でも点ければいいんじゃないですか」
「もっと光を!!!」
「ゲーテですか。その言葉って哲学的な意味合いじゃなくて、もう少し部屋を明るくして欲しい程度の意味らしいですね」
「月が綺麗ですねッ!!」
「何か必殺技みたいになってません? それも別に漱石がそう訳せとは言ってなくて、話が独り歩きして漱石が言ったって話にすり替わったみたいですよ」
「私、死んだっていいわッ!!!」
「次は二葉亭四迷ですか、それも俗説で本当はアイラブユーの翻訳じゃないんですよね」
…この人楽しくなって来てないか。
「というか月って言ってもまだ見えな…あっ!」
「どうしました真中先生! とりあえずさっきの二葉亭四迷のくだりをもう一度仰ってくださいませんか!?」
「雨が…」
───☆
雨は嫌いじゃない、が。こういった時は別だ。
何せ事故や怪我のリスクが増える、体が冷えれば風邪だってひく。バイクで移動する人間の悩みのタネ、それが雨。
坂本先生や當真と戯れていたら、とうとう降り出してしまった。天気予報は早々外れてはくれないらしい。
「51番を二つ」
「かしこまりまし…お客様、年齢確認にご協力ください」
コンビニに入る時はフルフェイスヘルメットを外さねばならない。強盗と間違えられればコトだ。
それでも内心では舌打ちをしてしまう。他人を恨むのはお門違いと知っていながらも、自分の容姿の幼さがわかりやすく手間をかけさせる。
この免許証を出す手間を惜しんで、電車通勤の時は帰りに坂本先生に買ってもらったりするのだが。生憎いまはバイク通勤。しかも雨天の最中。
「またお越しくださいませー」
購入した喫煙具とタバコ、それと軽めの缶チューハイをバイクのサイドバックに詰め込む。こういう時は防水仕様の有り難みをひしひしと感じる。
さっきよりは小雨になった曇天が夜空を覆う。星も見えないのは結構だが、どうにも気が滅入るのは間違いない。雨の好悪については、その時の状況次第だ。
徒歩と電車での移動時ならむしろ好ましい、雨具を着込めるしな。
エンジンをかける、すると続けて命を持つような鼓動が大気を震わせる。この瞬間はいつだって年甲斐もなくワクワクとするものだ。
普段から法定速度を振り切る運転をする訳ではないが、路面が水浸しならば殊更に安全運転を心掛けなければならない。
「…!?」
路肩に沿っての走行中、嫌なものを見てしまった。
信号待ちの中、規則は知らぬと丁字路の中を我が物顔で暴れる何者か、黒い靄を漂わせているように見える大型バイク。あちらの信号機には右折表示が出ているにも関わらず狂った速度で、それが信号無視と走行レーンの無視を決め込みつつ鉄パイプを振るっている。
狙いも動きも無軌道、狂気のままに縦横無尽に振るわれるそれ。交差点内に暴力の嵐が吹き荒れる。
停止している車の窓ガラスを打ち破り、時にはサイドミラーを削ぎ落とし、フロントガラスにヒビを刻む。
「まさか…」
先刻、生徒から聞いた『噂』が脳を駆け巡る。
「首なしライダー…!」
慣性さえねじ伏せた動き、常識から逸脱した暴挙を見て思い至る。あの噂話は、次の犠牲者を能動的に増やすという特徴がある。
思考が判然と断定すれば、身体が動く。
追跡及び通報、御丁寧なことにナンバープレートは付けている怪異を追い回してやる。
何故か?
決まっている。無用に傷付けられるモノに対して、指をくわえて眺めているのは趣味ではない。
どうして?
襲われている標的が、次はおれの生徒じゃないとは限らない。
凶気を振り撒くライダーが止まる。
フルフェイスがこちらを向いている。
なるほど。確かに車種こそ違えど、同じバイク乗りは周囲におれしか居ないな。
首がないくせに、器用に挑発するものだ。
「…上等だよ」
インカムマイクを起動して、警察に通報。
当然、場所を尋ねられる。
「今から追います」
心に火を点けろ。
頭は茹で上がる前に雨が冷やすだろう。
鬼ごっこで遊んでやるよ。
どこまで一緒に踊る気なのやら、止まりもせずに大人しく追われる怪異。
景色は矢のように通り過ぎ、街明かりは光の雨。人の往来は相対的に見れば動いていないに等しい。
地を這う流れ星は二つ。
段々と人通りが減っている、このまま進めば埠頭の方に着く。本来ならば、今乗っている中型バイクでは直線で千切られる筈だ。
相手は大型バイク、不自然な事に進行方向の信号は全て青い光を放っている。これも何か『噂』の作用か。では何故追跡できているのか、それは間違いなく、誘われているからだろう。
「嘗めやがって…!」
橙色の街頭が横に並び、すぐに後ろへ流れる。
追突すれば重傷を免れない自動車達の背中を置き去りに、顔の見えない怪物を追いかける。
時折、怪物のヘルメットが真後ろに視線を寄越す。首が無いからそこまで回るのか。頭も無いのに、お前を見ている。と言いたいのか、こちらの挑発に余念がないようだ。
埠頭の広場が見えてきた。目的地はここか?
先に速度を上げて疾走したかと思えば、車体ごとこちらへ反転した。大型なら200キログラムはあるそれを、いとも簡単に振り回して。
明らかにおれを待ち受けている。
「チッ…!」
否、待ってなどいない。
そのまま向かっているおれを目指して、アクセルを回しやがった。
ぶつかるつもりか?
これも違う。アスファルトに擦られて火花を散らす鉄パイプが、おれのフルフェイスの下を薙ごうと角度を変えている。
「んの…!」
──衝撃が迸る。
衝突は確かにした、ただし。
「馬鹿みたいなことさせやがって!」
急加速と体重移動、前輪を浮かせた状態での一時的な走行。つまり、ウィリーと呼ばれるそれで前輪に鉄パイプを当てた。
殴られたエネルギーで車体が横に回転する。
今の曲芸が無ければ生身の人間であるおれの首は容易く折れ曲がっていただろう。
フレームとサスペンションが無事か確認する間もない。少なくともタイヤは無事だ。むしろ、愛車ではなく衝撃がモロに伝達した忌々しい細腕が痺れる。
停車したこちらには目もくれず、首なしはそのまま速度を上げて遠ざかる。
テールランプの赤と交代にフロントライトの白色光が眼にちらりと射し込んできた。
どうやら逃げる気も、逃がす気もないようだ。
次はどうする。
もう一度同じ手段で受けられるか? 恐らく無理だ、さっきのものより助走距離を取られている。スピードが上がれば重量と合わさって、純然たる破壊力になる。
万事休すか。
こうなれば一か八か。こちらの車体をずらして、首なしの機体にスパイク罠のようにぶつけてしまおうか。
分の悪い賭けだが、現状これしかない。周囲を見渡しても警察の赤色灯は見えない。だがどうにかして時間を稼いで、この下手人を釘付けにしておかなければ次に襲われるのは誰だ。
もしも受け持っている生徒だとしたら、後悔が一生付き纏うだろう。
それだけは嫌だ。
「…って〜」
そう、こんな風に。後ろから聞こえるような呑気な声で笑い合って日々を過ごすべきで…。
「待って〜!」
は? 生徒の声?
「あ〜っ、アイちゃん先生!」
「野上!?」
今朝、いつもより早く登校したのんびり屋な生徒。野上がこちらに猛然と走り寄っている。
時速はおそらく100キロ近く出ていると思う。
その背後に見える影、何かが彼女にしがみついて…。
「先生伏せてッ!」
「當真! お前!?」
颯爽とすれ違う、もう一人の生徒。地面を照らすオレンジの灯りと似た色の髪が煌めく。
「とうッ!」
野上の背中から、正しく射出されたような勢いで。こちらに迫る首なしに向かって翔ぶ生徒。なんだその掛け声は。
「ライダー(に)キック! 破ァッ!!!」
そのまま加速してくる首なしライダーは、トラックか何かと正面衝突事故を起こしたかのように派手に破片を撒き散らして、爆発した。
冗談みたいな光景だが、よくある現実だ。
いや冗談じゃないが。
───☆
さて。警察の事情聴取やら保険屋への電話やらで昨日はてんてこ舞いだった。変なことばかり起きる日々でも、それが常なればまさしく日常ってものだろう。
アニメじゃない。本当の事だ。
ちなみに保険はしっかり降りた。入ってて良かった超常現象保険。
「…ふぅ…」
翌日の放課後、小雨に見舞われながら外の喫煙所で、傘を差しつつゆっくりとタバコを吸い始める。
昨日の後遺症か、腕に痺れが少し残っている。痛みは無いので明日にでも完治するのではないだろうか。
それでもサラシも巻けずにジャージを着て通勤する羽目になった現在の煩わしさへの慰めになりはしない。まさか留め具の一つ二つさえここまで億劫になるとは思わなかった。
「真中先生お久しぶりです!」
「ん…?」
雨音よりも騒々しい、いや失礼だろうか。そうでもないか。よく通る声の無闇に大きな人、坂本先生が近寄ってきたらしい。
今は傘で顔が隠れているので、昨日のように互いに顔を見合う事はない。角度の問題だな、いやこれは身長差…身長かぁ…。
「お疲れ様です、何かありました?」
「今日は未だ顔を合わせる機会がなかったもので、つい…この身に持て余す一日千秋の情念が心と口から転び出てしまいました」
「はぁ、そうですか」
何を考えているかは努めて出さずに会話をする。
別に避けていた訳ではないし、お久しぶりでもない。昨日の事と腕の痺れで今日は少し遅れると校長と教頭に連絡を入れたので、結果として授業の合間と朝の校門前確認を含めて会う事がなかっただけだ。
腕に不安のある状態と、愛車の修理。そしてこの焦れったくも降り続ける小雨が重なり合えば、電車通勤になるのも仕方のないこと。
「…腕、大丈夫ですか?」
「これは丁寧にお気遣いどうも、たぶん明日か明後日には治ってますよ」
「それは良かった…!」
本人よりも心配してくる始末、なんとも不思議だ。
どこから聞いたのかともすこし考えたが、教頭か校長が朝にでも連絡事項として話したのだろう。不甲斐ない事をしたと思う。
「…開けにくっ…!」
「やりましょうとも」
力の入り辛い腕では、灰皿代わりに使っている箱の開閉が億劫だ。傘で片手が封じられているのも一因か。
見かねた坂本先生に手伝ってもらってしまった。不覚を取られたというか、何とも情けない。
雨が降っていてよかった、格好つかずに恥じ入る表情は彼女に見えずに済んだだろう。
「…すぅ…ふぅ…」
「どうぞ」
「…すみません」
「お気になさらず!」
いや、やり辛い事この上ないなぁ!
灰を落とそうかと思えば真正面から灰皿が差し出される。召使いでもここまで丁寧にはならないだろう。手の届く範囲に置いてくれればいいのに。
しかも頭上から聞こえる声の弾み様。さてはこの人、おっさんに顎で使われる事にえらく倒錯した喜びでも見出しているのでは?
「真中先生は、これから當真くんの説教ですか?」
「えぇ、そうなりますね」
チリ…とタバコの寿命の減る音がする。
命知らずの馬鹿者に、これから感謝と憤怒を込めた、言葉での愛の鞭を振るわねばならない。
自身も助けられてしまった手前、懇懇と長い話をするつもりは、うん、無くもないが。何にせよ目の前であんな無茶をされてしまっては教職に携わる人間として、何もしない訳にも行くまい。
「あまり責めないであげてくださいね」
「…わかってますよ」
坂本先生は恐らく昨日あった事の顛末を、本人から先に聞いたのだろう。つまりは誰かを助けた人間を褒めこそすれ、決して感情的に怒ってはならないと注意してくれている。
どこか嬉々としている灰皿に、吸口まで火に侵食されたタバコを消し落とす。
「じゃあこれで」
「はい、お気をつけて」
「おれは転びませんよ?」
「違いますよ、これから貴女を待つは男子高校生という欲望に満ち満ちた一匹の獣! 貴女にこれ以上何かあれば私は居ても立っても居られません!」
「普通に話すだけですけど!?」
さてはこの人も當真と同じで真剣な雰囲気が保たない人だな? 前も言ってた気がするけど、生徒を捕まえて獣は無いだろう、獣は。
「変なことしないでさっさと帰れよー」
「うっすうっす、アイ先生さよならー」
「名字で呼べって…ったく」
事の次第は予想通りというか。あまり意外でもない話だった。
去り行く生意気系成績優秀問題児こと當真いわく。
バイト先で『首なしライダー』についての依頼を受けて、それを解決する為に昨日おれに話を聞いたと。
それでもし知っていれば、バイクの特徴やらが無いかを聞こうとして怒られた後の放課後に、懲りもせず探していた。
そしてとうとう異常な挙動で暴れ回る首なし見つけたは良いが相手はバイク、身一つでは追いつけそうもないと思っていた矢先。のんびりと帰る野上を見つけて協力を頼み込んで埠頭近くまで追いかけて…か。
どうやってずっと素早く動き回るバイクを追いかけられたのか聞いてみたら、遭遇した時のエンジン音と臭いを覚えたのだと言う。
警察犬も真っ青だな。
それにしても、想定より話が長くなってしまった。今から退勤しても終電までにかなり余裕はあるが、どうするか。折角の徒歩と電車なのだから、何処かの居酒屋で一杯引っ掛けて帰るか。
しかしそうすると年齢確認とナンパと職務質問が面倒極まりない。…大人しく家で飲むとしよう。
「真中先生っ!」
さっき聞いたな。
「まだ居たんですか」
「当然です、一緒に帰りましょう!」
何がどう当然なんだ?
今日は部活の顧問の仕事も無いだろうに。さっさと帰ればいいものを。厄介とまでは言わないが、奇っ怪な行動に晒されて、つい意地の悪い事を尋ねてしまう。
「坂本先生、暇なんですか?」
屋根も無い校門前、まだ体の冷える雨の中。言わなくてもいい事を言ってしまった。するとどうか、こちらから顔は見えないが、上機嫌な抑揚で返事が届く。
「好きな人と一緒に帰りたいだけですよ」
また始まった。
この人もまたどこぞの生徒と同じで懲りもしょうもない。そういった歯が浮くようなセリフは、教え子にでも言って喜ばせ…るのはダメか。ともあれもっと相応しい誰かに言えばいい。
「あんまりそういう冗談を誰彼構わず言ってると、いつか急に後ろから刺されたり、そのうち誰にも相手にされなくなりますよ」
オオカミ少年というものだ、あるいは天邪鬼か。空言ばかりでは碌な目に遭わないだろうに。
言い終わって間もなく。ふと鞄ごと、宙に浮いていた手を取られた。
「私はいつだって、何をするにも本気です。貴女を誰にも傷付けさせたくはない。御身を守る為に、どうか一緒に帰ってはくれませんか?」
「なっ…」
開いた口が塞がらない。
昨日の事を思い出す。もしもおれが普通の女性だったとしたら、こういった言動にときめくか否か。
この暑さは湿気か、それともサラシを巻けなかった事による上半身の血行の良さからだろう。
「…居酒屋に寄りましょう、おれの奢りでいいです」
「お供します!」
あまりの気恥ずかしさから手は振り解いた。
やはり雨は嫌いじゃない。
この顔の赤さを見られずに済む。
動揺した声も雨音が誤魔化してくれる。
「はぁ…」
決して気温のせいではないであろうこの不可思議な暑さは、雨がそのうち冷ますに違いない。