はい!こちら『愛に溢れる探偵事務所』です! 作:枯華院 清日
白、白、私の服は、全部白
白、白、白いものしか持ってない
だから、白いものは何でも好き
人間は、生まれた時の記憶、ひいては生後数年まで記憶を持たない方が大多数だという。逆しまに、記憶を保ち意識が芽生える事を日本においては物心とも称する。
──…1…2…3…。
とある国の、とある森の中。
ボロ屋という他ない簡易的で最低限の壁と屋根しか存在しない、家というには粗末に過ぎて、山小屋というには不便が過ぎる所。そんな場所に吊るされた一本のロープが輪を作り、あばら屋の天井を軋ませる。
──…20…21…。
今に崩れたとしても誰も不思議に思わないような小屋の中、縄で吊り下げられた子供が数を指折り数えていた。木製の骨組みが悲鳴を上げているのは、この子供が原因である。
──…84、85…86…。
朽ち果て損ねた梁に繋がれた綱の先、子供が吊り下がっている。とはいえど決して自害ではない。
足首のみを輪に括り、重力に逆らうように上半身をくの字に折りたたむ。変則的かつ異様な腹筋運動が正体の軋み。そうしてから同時に脚を曲げて全身を更に収縮させるように持ち上げて、痩身の肉体を万遍なく練り上げるように修練を重ねていた。
──99…100…!
キリの良い百で終わり。しかし限界を迎えても尚、縄の拘束を解かねば終わらない。輪を解く前に力尽きれば鬱血して死に至るのは知っている。急ぎ頭部への致命的な鬱血を避ける為、命を縛る縄を緩めていく。
暗い森の小さな小屋の中、子供は一人暮らしていた。
庇護者がいるでも無く、保護する者は言わずもがな。森には獣が住んでいた。生存を保証する物は無い、安全を保障する者も無い。
実用に耐え得る文明の利器として、ただ在るのは場違いなまでに真白いナイフが一つ。産み落とされ捨てられた子供と重なるように、地面に裸のまま置かれていた。
普段はそれのみがそこにある。
一月に一度だけ箱詰めされた支給品がどこからか落とされる以外は、澄白の刃と子供が一人。言葉を放つはずも無い無機物の同居人としてそこで暮らしていた。
箱の中には最低限の衣服、あるいは死なない程度の栄養等々が入った錠剤の群れ。そして様々な物事の手順が記してある紙切れと、字を読む能力を付けるためのテキストと辞書。実は最初の頃は幼児向けの絵本や書き取り用の教科書や鉛筆も入っていたのだが、それらが封入されなくなって久しい。
また、すぐに擦り切れるテープレコーダーも。これも言葉の学習の為だろう。言語の聴き取りに難儀しないように童謡がいくつかと、見知らぬ人の会話が録音されていた。
謎の贈り物それら全ては、子供が読了や聴き取りを終えた後日に何者かの手によって回収されていた。小屋を少し長い時間空けると、自分以外の誰かの残り香と衣服と薬品類が置土産としてそこに残されていた。
子供は生来とある特性を持っていた。
それは物事を非常に忘れ難い、というもの。薄く残っていない筈の記憶。一般的に物心がつくより前の記憶があった。
そして箱の中に入っていた知識の断片が、ふとした時に自分の記憶と結びついてしまった。
そう、自分は捨てられたのだと悟った。
子供と親の最初でありの最後の記憶。
「ああ嫌だ、早く持って行って」
そんな拒絶の色を濃く持った言葉を、心底どうでも良さそうに言い放つ声。たったそれだけしか無かった。
およそ誰もが最初に渡されるプレゼントである名前は与えられず、優しく撫でる母の手も無ければ力強く抱き締める父の腕も最初から存在しない。恐らくは自らを産んだ女性が言った、まるで物を扱うような、持って行っての言葉の通り。人間として最低限の扱いさえも無く、売られた可能性も有るだろう。
ただし、子供は絶望しなかった。最初からそれしか知らないからだ。
世を儚む事も無い。他の例なぞ見たことがなかったのだから当然である。子供にとって世界とは、薄暗く、鬱蒼としていて、雑然としているのに殺風景なもの。それ以外に無かった。
きっと他のヒトたちもそうなのだろう。
もしもそうでなかったとしても、自分には手の届かない事だ。今更願ったとして意味も無い。
漠然とそんな考えを抱いていた。
どこかぼうっと生きている子供は、森の中で自然と狩りを行うようになった。そもそも自身で食料調達をしなければ死ぬというだけの単純な理由だが。
子供が過ごしている森林はとても寒く、息をするだけで体温は奪われ活力は目減りする。寒冷地では至極当然の事だが。防寒しなければ低体温で死に、カロリーが足りなければ結局体温が維持できずに死ぬ。
故に森の中にある物のおおよそを口に運んだ。虫だろうと松ぼっくりだろうと、何であれ食べられそうな物は一通り食してみた。時に高熱を出すほど体調を崩したり、吐き気を催したり腹を下したり等はよくある事。日常茶飯事である。
子供は取りだてて意識していなかったが、中でも最も困難な栄養素の摂取は炭水化物だった。しかし幸いにも森の中には栗があり、火を通せば食することが出来た。虫食いなど気にせず、ナイフで切り込みを入れてから苦心して熾した火で焼き栗にして、日々の糧を得る。弾けた栗の速さに驚いたのも、今となっては昔のこと。
火の熾し方や獣の狩りについては、箱の中に入っていた紙切れが沈黙を保ちつつ、されど雄弁に語っていた。とはいえ子供は幼く、野を馳せる獣も、空を泳ぐ鳥も、川を舞う魚も、食糧とするには難儀を極めた。
しかし何かを食えねば死ぬということだけは、誰に教わらずとも本能的な理解で知っている。ひたすらに文字通りの死に物狂いで狩猟にあたった。
子供にとっては普通であるが、あまりにも原始的な生活。楽しみなぞ無くとも、日々の糧さえ胃に納めれば少なくとも死にはしない。食物に火を通す、といった文明の灯りを再発見するまでは。生で食せる部位を本能的に選ぶしかなかったので、随分と進歩をしていたとも言えるが。
日が上り、月が追いかける月日の経過の度に。薄っぺらい紙に記載されていた罠というものに対して知見を深め、気配の殺し方を骨の髄に染み込ませ、獣たちの呼吸を感じ取り生命を奪う。それらの行為に対して感動や感慨などという言葉は辞書から覚えても、実感が湧くことはない。日々繰り返される日常に、咽び泣くほどの感傷があろうか。
野を往く獣の脚を初歩的な罠で奪った。
自由を奪った標的の純白の刃を喉元に刺し、抉る。
最初期は機動力を奪う罠も、仕留めるまでに反撃されるが故の格闘も必須だったが、いつしか不意を打ち、喉に刃を突き立て、抵抗すら許さず滑り込ませるだけで仕留められるようになった。小屋の周囲では罠も併用すれど、獣という存在への恐れは薄まり地を這うモノは全てが獲物になったと言える。
空で嘲笑う鳥どもは投擲で撃ち落とした。
石礫を散弾銃のように放ち、当てる。
点ではなく面を意識して逃げ場を失くす。ひらりひらりと舞い落ちる木の葉を、ナイフで木の幹に縫い付けられるようになった後。軽やかに飛翔する鳥が、自分が眼を閉じる数瞬に移動する場所を限定して、その空間まで数多の石塊で追い込んでから無防備な胴体に乾坤一擲を命中させるのは難しくなくなった。鳥類が避けられない速度である程度の重量を放れば、それは勿論必中を意味する。
水と戯れる魚類から水辺を奪った。
大きな石塊を目掛けて、精一杯の石を投げつけて気絶させる。また先細りしていく罠も併用すれば、魚の性質上逃げられはしない。
日本で言うところのガチンコ漁も、ここでは禁止を叫ぶ他人は居ないので気絶させるにうってつけの手段だった。強い衝撃は生きる者の意識を刈るに便利な手段だと知った。
いずれも命を奪う手段の最適化。常識や勉学の義務教育は施されないながら、生物としての狩猟は日々学び、体得しては研鑽を行い練磨が行われた。さながら生存の義務教育といった風情があり、子供は順調に過程を修了させていく。
無論、時には苦戦を強いられる事もあった。されど人間の武器の一つは執念深さ。手傷を負い、負わされ、拘泥の域を超えた執拗さで食らいつく。互いの血で濡れた鹿や猪は痕跡を辿り地の果まで追いかけられ、悠々と空に逃げた鳥は帰る筈の巣ごと奪い尽くされ、岩陰に忍ぶ魚は真綿で首を絞めるように追い込まれた。
ある時のこと。子供は日数を数えたことは無かったが、雪で凍える身体をか細い火と獣の毛皮で癒やした時と、雪が融けて柔らかな新緑の芽吹きを感じた回数が、片手で指折り数える限界の五つを超えた時が過ぎた。
子供は幼児というに相応しくない容姿になっていた。
細い四肢は細長くなり、骨盤は広がりつつ筋肉とささやかな脂肪を貯えていた。いわゆる、丸みを帯びた身体に成長していた。
客観的に性差を感じない身体とは言い切れず、しかしながら、はっきりとどちらとも判別し難い容姿である。そもそも容姿を語るは難しい。その理由として、子供は格別に身奇麗にする事も無いので、毛髪や汚れが覆い隠しているというものがある。
されど子供は間違いなく少女になっていた。
今日も今日とて切るという発想も無く、伸ばされきった髪を揺らしながら、小屋の中で奇怪な腹筋運動をしたりといった鍛錬は欠かさず行っていた。
理由は単純で、箱詰めされて来る紙に記入された図解付きのトレーニングメニューをこなさなければ、ビタミン剤等の支給が減っていくからだ。経験則としてそれらが不足すれば体調が崩れ、次第に体が弱まっていく事は体感できた。そしてそれは緩やかながら死に直結する問題、少女が回避せねばならないと思考したのは言うまでもない。
月に一度空から降る支給品の日、いつもとは違う紙が一枚追加されていた。記述内容は単純で『この場で待つこと』のみ。
「……」
少女は思う。
言葉の意味は恐らくわかっている。
しかしそれが何を意味するのかがわからない。
だが後に知識として備えられるビタミン欠乏症の様々を思い出すと、単純かつひたすらに待つ事を選ばざるを得なかった。紙に書いてある事を守らねばどうなるのかは明白だからだ。
貧血を起こしやすくなる事やふとした拍子の出血、ひいては悪寒から始まる風邪のリスクが増えるといった諸々。経験から来る不快な記憶を遠ざけられるなら、仕方のない事だと考えた。
それからどれだけ待っただろうか。
木々に遮られた奥にある獣どもの視線が少女に浴びせられなくなってからか、それとも黒い葉が溢した弱々しい陽の光が傾き目に染みるようになってからだったのかは定かではない。
「…居ました」
「よし、連れて行くぞ」
「はい」
男が二人、何らかの職務を帯びて少女の前に表れた。当然少女にとっては全てが初めてに近しい来訪者、二つの足で地を踏みしめて歩く人間。
「付いて来い…言葉はわかるか?」
あくまで無遠慮に、社交辞令も礼節も介さず。まるで機械の音声認識機能を確かめる様な冷たさで。
「…あ…う…」
冷ややかな声に返す言葉は、言葉の体を成していない。自身の耳朶をも震わせるそれは、最早瀕死の獣が偶然に出した呻き声か、赤児が声を生まれて初めて発する際のものに酷似していた。
「声帯が衰えてるんじゃないですか」
「好都合だ、それに…」
「あ…かひゅ…あ…」
「…理解はしているようだ」
喋るという行為は知っていても、およそ十年に近い期間、一切行わずにいればどうなるかというのは火を見るよりも明らかで。あまりに長い年月眠りに就き衰え切った声を発する為の器官は、唐突に訪れた出番にただ困惑していた。
少女の脳内に浮かんでは消える多種多様な疑問は、その欠片も解消する事はない。
疑問を投げ掛ける手段も無く、ただひたすらに男達に付いていく以外無い。時間にして数分ほど歩いた所で、抱いた疑問も暗い森の中に隠れてしまった。
それから数十分程は歩いただろうか。緑の天井を抜けて、かなり開けている場所に着いた。森の面積からすれば些細な草原、しかし少女が初めて視認する何かが待機するには、ある程度の広大さが必要である。
少女の目に映るのは上部には一対の長細い羽根、窄まった先にあるのも同様ながら小型の羽根。見たことの無い光沢の板を嵌め込んだ体、それは木々の緑よりも濃く、光を反射しない不思議な何か。地面に接する足らしきものは頼りなく長細い。
「付いてこい」
「……」
「ヘリコプターに驚いてる…んですかね?」
「かもな」
これは、どうやらヘリコプターというらしい。
丁寧に図説をしてくれる辞書等では無かったので、存在は言葉として知れども、実在している所なぞ見た事がある訳もない。知識と実物のギャップ。少女は声こそ出せないが、目を見開き身体を固めた。
「行くぞ」
「はい」
「……」
一人の男に急かされ、やっと現実に脳の処理が追い付く。一先ずは、このヘリコプターなる物に近寄らなければならない。
その上少女にとってあまりにも奇妙に思えたのが、ヘリコプターに飲み込まれていく男達。搭乗口などという概念は知らないので、まるで怪物の口に勇んで入っているようにしか見えなかった。
「…乗れ、早く」
「…あ……」
「嫌がってません?」
「チッ……はぁ…アレを一つ食わせてこい、それでおびき寄せろ。何をするかわからんから気をつけてな」
「了解」
ヘリコプターに乗ろうとしない少女に、命令された方の男が近寄る。そのまま胸ポケットから一粒の丸い物を取り出し、少女に与えた。
勝手がわからないだろうと、親切にもジェスチャー付きで口を開かせて放り込んでのことである。
「!? ……!?」
「ああ、驚いてる。…そりゃそうか」
少女にとって初めての衝撃。
甘い。
ひたすらに甘い。
口内を蹂躙する程の甘味の暴力。虫や焼き栗、それらの比ではない圧倒的な甘さが、舌を痺れさせ歯肉に染み入り、唾液腺すら焼いていくようだ。
後に知るこの丸い物体の正体はキャンディー、つまりはただの飴である。純然たる砂糖の甘さに触れる機会も無かった少女は、今まさに自分の中の文明開花の一歩を味わう事となる。
未熟な松ぼっくりよりも甘く、渋味を微塵も感じさせない。それでいて鮮烈で。松ぼっくりと同じ様な爽やかな清涼感を錯覚させる、ブドウ糖配合キャンディーの甘さたるや筆舌に尽くし難い経験だ。
「……ガリッ…バキ…」
「げっ、噛んでる!?」
飴の作法など露も知らぬ。毒ではなさそうと思えば、次の瞬間に噛み砕く。ここは森であり、少女はその掟に馴染んだ野生児である。
「…あ…ぅ!」
「…まぁ…いいか。ソレ、あげるから、付いてきな」
「!」
言うが早いか。少女が付いて行く素振りを見せ、ヘリコプターへと歩を進めた、その刹那。
「…ッこいつ…!?」
飴が入っていた筈のポケットが、新しい口を一つ増やした。
「……ガリッ…」
怪現象と見紛う速さ、しかし超常現象ではない。
簡素かつ酷く劣化した衣服の中に、どのようにして隠していたのかは不明だ。もしかすると皮脂や泥や血で固まった頭髪に隠していたのかもしれない。
何を?
当然、彼女の同居人である純白のナイフを。
ナイフを、一切の気配もさせず真一文字に振り抜き、男が飴を取り出したポケット部分のみを切開した。言ってしまえばそれだけの事だ。
事に至った理由は単純な思考から。何かを隠し持っていたニオイがしたから、それだけの事。動物にも堂々と武器を見せつける者もいれば、蜂のように毒を始めとする危険な何かを隠し持つ物がいる。眼前にいるこの人間は、何かを持っている。ならば、と。
「バケモノが…!」
忌々しげに男が呟く。手を腰回りに置き、何かを引き出そうとしている。短い金属製の筒、それは銃器に他ならない。
たった数秒程度の出来事が場を張り詰めさせる。少女は男の敵意を感じ取り、四肢から力を抜いて柔らかく揺れる。男は抜き撃ちの構え、ファスト・ドロウの準備をしていた。
互いに動くかどうかを逡巡しているのか、ヘリコプターの横にピアノ線が伸長されて弾ける空気、一触即発の修羅場が現れる。
「バケモノも何もあるか、この馬鹿。お前はバカモノだ」
「痛ぁ!?」
風が強くでも吹けば何かが起きてしまう緊張感を軟化させる、間の抜けた声。
石と石をぶつけたような硬質音が少女の耳に届く。
「何するんですか隊長!」
「お前こそ何をするつもりだ馬鹿。もし俺達が怪我でもさせてみろ、上に何を言われるかわかったもんじゃない。わかるか馬鹿」
「痛ぁい!? に、二度も殴った! これ以上馬鹿になったらどうするんですか、馬鹿のモンスター、バカモンになっちゃいますよ!」
「元から馬鹿なのが手に負えない馬鹿になるだけだ」
「……ぅ?」
少女の目には、不思議な光景が見えた。どうやら喧嘩の類や仲間割れ…でもなさそうである。むしろ野生動物質が行う、教育や仲裁に近い気配がする。その証拠にヘリコプターから降りてやって来た隊長と呼ばれる男から、敵意や殺意を感じない。
「装備を外して、ヘリコに置いてから誘え。要は罠か何かと勘繰っているんだろう」
「はい…」
「………」
渋々といった様子で少女に敵意を向けた男は装備を全て取り外した。先程のポケットから何かを取り出す、といった一連の動作もそうだが。少女にとっては体そのものから何かを抜き出すようなグロテスクな奇術と思えた。
だが、どうやら。さっきまで感じていた危険なニオイは鳴りを潜めている。恐らくは彼らなりの降伏に違いなさそうだ。付いてこいという言葉の通り、あのヘリコプターなる物体に入っても問題は無いだろう。やっとの事でそう考えられた。
その後、少女はひたすらに困惑し、呆然とする程の混乱を味わい、脳内は混迷を極めた。
自身が跳躍して身体に齎したのでは無い異常な浮遊感。鳥の鳴き声とは比較にならない駆動音は轟音になり、鳥が飛ぶより高く浮いている。
前方には見上げる物だった雲が迫り、およそ灰色ばかりの空とは思えない群青が広がる。
当然、高所に連れてこられてしまったと気付き、機内で暴れるかとも思考が至りかけたが。少なくとも体験したことの無い高所から堕ちればどうなるかに考えが及ばない程愚かでもなかった。
ただし目の前の景色と、身体を動かすギャップ。それらが起因する症状、つまりは。
「ぅぶ…」
「顔色が酷いな」
「酔ってますよ明らかに!?」
乗り物酔い。その吐き気については、これもまた未知の経験。思い至る・至らぬの領域ではなかった。
「おい吐くなよ!? 袋出すまで耐えろっ…あー!?」
ヘリコプターが目的地に到着するまで、何があったのかは。後に少女が備える尊厳の為に秘匿するべきだろう。
地に這う獣と大差の無い存在だった少女は、あることで悩んでいた。
「………」
「…ダニエル、どうした食べないのか?」
「からい、しょっぱい」
「ダニーはいつもそう言うなぁ。いいか、これは味付けってヤツだったり保存性を高める為の」
「いらない、ディタが食べろ」
「あっ、こら! お前がちゃんと食べろって!」
食べ物として供されたどれもこれもの味が、暴力的に濃い。ということに。
少女は名前を得た。
貸与された名前はダニエル。呼称が無いのは不便極まる、なので付けられた名前。あくまでもいつか返す名前であると告げられ、格別の感動も無いままそう呼ばれるようになった。
これは関係の無い事だが、念の為に。
ダニエルという名前は男性名に思われやすいが、その実女性にも付けられる名前である。女性名の最後の母音を『A』と変える文化圏ではダニエラとなるが、ダニエルという名前もまた珍しいながら、それでも一般的な物だ。発音上のアクセントは、ダニエルのエの部分に強くある。
「隊長も何とか言ってくださいよぉ」
「俺の管轄外だ」
「メルヒも、食べてない」
「喫食は済ませてある。四十…四十一分前にな」
「ニオイが無い」
「携帯食だけで済ませたからだ」
「私もそれで」
「駄目だ、食え」
この押し問答も一度や二度ではない。
少女…ダニエルはとある施設に運ばれていた。
『教育』と『訓練』を受けるが為である。
少女がヘリコプターから降り、耐え切れない程の乗り物酔いから開放された先。眼下にあった地表の有り難さを足で直接感じるよりも、目を疑う程の色彩から来る驚愕が勝った。
明らかに人工的な建造物。それは自らの寝床とは比べ物にならない程広く、とても一人の力では地面に接している部分を作り出すことさえ成し遂げられない大きさ。しかも目立った継ぎ目なども無く、ヘリコプターに嵌め込まれていた透明な板や、大自然の色よりも不可思議な色が使われている。
「メルヒオール隊長! これが…例の?」
「ご苦労。…あぁコイツがそうだ。そこの馬鹿を揶揄う程度の能力もあった、連中の希望通りだな」
「はー…疲れた、ヘリコの運転も楽じゃないよ。今回は特に、ゲロは吐かれるし暴れそうになる乗客もいるし。次があっても自分はパスですよ隊長? ところで自分のこと馬鹿って言いました?」
「言ったが」
「ディータは馬鹿でしょう」
「マキシまで!? クソっ、いつか上に訴えてやる!」
「俺がその上だ馬鹿者」
そして、また別の人間。誰も彼も背筋が直線的に伸びており、そして一人残らず嗅ぎなれないニオイがする。空の旅路で戻る道がわからずとも、今すぐに逃げ出すべきか。何をされるのかもわからない。
聴いて覚えた童謡よりも早く言葉が頭上を通り過ぎる、蓄えた知識と会話内容の照合もままならない。混乱しそうな中、ゆらりと、嗅ぎなれないニオイが近寄ってきた。
「ほぅらダメ男三人衆、女の子が困ってるでしょう。さっさと連れてくわよぉ」
「ヴァラ…お前の部署は関係無い筈だが」
「あら? メルヒェンたら聞いてないのぉ。念の為に色々仕込んでおけって、私達の上から言われてるのよ?」
「…俺達だけでは不満だと?」
「男の嫉妬かしらぁ。まっ、文句があるなら上に具申してね。今は一人の娘を育てる為に仲良くしましょ? メルヒェンパパ?」
「俺はお前が苦手だ、東の老いた女狐」
「あんまり褒めないでねぇ、じゃあ行きましょ…えっと…名前は…無いの…? お姉さん困っちゃうんだけど…」
されど時は過ぎ、状況は刻一刻と変化する。少女は突然現れた女性に連れられ、施設の内部へ向かった。メルヒオール、あるいはメルヒェンと呼ばれた男の視線。それの何と冷たく、そして不機嫌そうな事か。
少女に対して、ではなく。ある種の義憤や憤懣に近い感情を抱いた瞳で、足早に向かう少女と女狐と罵った相手を見やる。その中に未だ個人に向ける情は無い。
「隊長、行かないんですか?」
「……まずは報告が先だ」
「ディータはやっぱり馬鹿なのでは。要するに空気が読めないタイプの馬鹿」
「はぁ!? ヘリコプターの運転資格? とか、あるんですけど! 気圧差とか突風とかあるから、空気? も読めなきゃ取れないんですけど!」
「前から聞こうと思ってたんですが、まさかサイコロとか転がしてませんよね」
「ないですぅ〜! 六面の鉛筆ですぅ〜!」
「ウザ…っていうかそれって鉛筆をサイコロにして…」
少女の行く末を思えばこそ、何をするべきか。そして、しない事をあえて選ばねばならない。メルヒオールは、冷淡に切り捨てるべきだと諦観にも似た感情の色で内心を塗り潰した。
そこからのこと。
少女はというと。
「お風呂とか入ってなかったものねぇ…一回でボトル半分無くなるとか、ちょっと凄いわねぇ」
「…?」
これもまた見たことの無い不思議な水場にて、長い時間入念に体と髪を洗い清められ、あるいは薄皮を剥くように磨かれていた。
普段の生活といえば清潔にするという発想もなく。時に返り血で穢れ、垢は堆積し、土に塗れては雨のシャワーに濡れる。自然そのものと一体化していると言えば聞こえはいいが、一般的には不潔である。
「昔話にねぇ、垢から生まれた力太郎っていうお話があるんだけど。何だか本当に出来そうね…」
「……」
温かな水で体がふやかされて、血と土と脂でフェルトのような質感となった髪が解けていく。
奇妙なニオイのする人間。ヴァラと呼ばれていた女は自分から裸になり、少女に無害を証明してから共にシャワールームへ入っていた。体の洗い方なぞわからないだろうし、何より何かの間違いでのぼせて倒れられても、そのまま弾みで溺れて死なれても困るのだ。
「はぁ…はぁ…け、結構ハードねぇ…」
「…あ…ぅ?」
「カーペットの汚れを落とすのも、こんな感じかしら…」
シャワーに併設してある湯を張った湯船に浸し、取り出しては洗い。石鹸と汚れを落としては湯船の湯を張り替えて、また湯船に浸けて…。それを幾度と繰り返していった。
徐々に黒ずんだ肌は白く、点々と茶色と赤黒さが主張していた髪も光を返すような輝きを取り戻していく。
「ふー…はい! 美人さんの出来上がりねっ! はいナイフ持ってて良いわよぉ」
「…ぁ?」
美人とは、作られるモノなのか。というよりも、この水を被ったり入ったり、泡まみれになる作業はやっと終わったのか。皮膚に付着していた物が取れていく感覚はそこそこ愉快なような、見知らぬ人間の手が様々な部位に触れるのは不愉快なような。少女は兎角落ち着かない心持ちだった。
「髪は後で切りましょ。さっ、髪を乾かす…んだけどぉ…流石に手伝ってもらいましょっか」
「……」
ただ、どうやら自分にとって不利益や害を与えてくる存在では無いらしい。安心こそ出来ないが、ナイフを完全に取り上げるでもない。ナイフを奪って何か害そうものなら。最悪、この女は動きも鈍い、後ろを取って縊り殺せばいい。
つまり猜疑心は消えないが、経過観察の心積もりである。同種の動物でさえ時に殺し合う、ならば同じ人間もまた変わらない。山林の思想は少女に根深く染み付いていた。
その後は。喧しいディータという男と落ち着いたマキシという男。そしてこのヴァラと呼ばれる女の三人が、暴れる髪と格闘しつつ風を通して。
少女がいつも着ていた、例え新しくとも数日でボロ切れと化す布ではなく。白い、白い、まるで病院着のような服に袖を通されてからのこと。
ヴァラが手を引いて雑多な匂いのする広間に案内した。匂いの種類は複雑に入り混じり、嗅いだことの無い刺激臭から、獣の肉を焼いた匂い。ムッとしたキノコのニオイに、熱い水と魚の臭み。青っぽいような草のニオイまで。とにかく辞書に載っていない。あまりにも多くの未知の芳香が実感を伴って少女の鼻をくすぐる。つまり食堂でのことだ。
「ほら食事だっ…お前小さいんだからしっかり食べとけ」
「………」
「すっごい睨んでるわねぇ」
「何か疑っているんでしょうか」
「まぁた毒だと勘違いしてんのか? ほら…こうやって食べるんだ。こうやって、こう…」
案内されたテーブルと椅子。座った先には見慣れぬ銀の輝き。それはあまりにも鋭利な物と丸っこい先の物。ディータがジェスチャーを交えて食べ方を指導するが、大いにまだるっこしい。
「……」
「あっ馬鹿! 熱いって…」
「…う!?」
「あぁ…」
「あらぁ…」
元来、動物というものは所謂猫舌である。冷たい物を食すかは地域差で変わるが、温かい物、とりわけ湯気が出る程熱い食べ物は人間以外早々食べない物だ。
少女も同じく。火の扱いこそ理解して食材に火を通せど。食器を使うという簡単なアドバイスを無視して突っ込んだ液体、とろみのあるスープ等は全く未知の存在。そもそも普段は、火で焼いた食物などは冷めるまで放置している。食事のメニューに汁物など以ての外、新鮮な血か泥水に川の水と雨水を啜る以外に記憶もない。
「ふーっ…! ふーっ…!」
「おいおい火傷したんじゃないかぁ? 悪い事は言わないから先にパンとか食べておけって、ほら水飲めよ」
「う…うぅ…!」
「水も警戒してますね」
「先が思いやられるわぁ」
故に口内に火傷を負うのも当然の帰結。おのれ人間ども、この恨み晴らさでおくべきか。
…と思っていたかは定かではないが、人並みの食事に警戒をするようになったのは確かである。
あの危険な汁は後回しにして、それから口にした白いパンの柔らかさに甘さ。サラダの瑞々しさと歯触りの軽さ、芳ばしいソーセージ類の塩味に香辛料の香りといったらない。山では味わえぬ食味。その全てが驚きに満ちていて尚且つ…。
「…ぅ…」
顔を顰める程に、味付けが濃い。
「何か…気に入らなさそうですね」
「なんでだ? 今日のは普通に美味いぞ…?」
「何かしらねぇ?」
隣に座ったり対面に座している三人には分かろう筈もない、天然自然にはこうも塩味が強い物は無いということ。ニオイもまた然り、どれもこれもが少女には辛い。舌を焼く錯覚を覚える程までに塩カラいのも含めてツラいのだ。
一般的に育った人間には理解不能な調味料の労苦、眼前に広がる食事であろう物は全てが責め具にさえ見えた。少女は知る由もないが、この施設内の食事は味が濃い目に作られている。他の肉体労働に従事する者を思っての事だが、少女には完全に裏目に出ていた。
「…じゃあもーらいっ!」
「っ!?」
「あっ」
「やあねぇ、がっつく男は嫌われるわよ」
「……あ、ぅぶ…!」
なるほど、このディータなる男は私を挑発しているらしい。
少女が気色ばむのも無理からぬこと。自然の掟として他者の食料を奪うということは宣戦布告に他ならない。少女の野生は入浴や餌付け程度で消えないのだ。
「ゔ…! ぐる…!」
「うお…」
それからの行動は速かった。手当り次第にトレイの上に供された食べ物を手掴みでこちに放り込んでは、咀嚼などお構いなしに呑む。掴んでは呑み、また掴んでは呑む。時に食べ滓どころか食物そのものをひっくり返してぶち撒けてつつ、それを空になるまで繰り返した。しかしそのような人間としては愚行を繰り返していては。
「…っ!」
「あーあー…もう、お水飲みなさいな…こうして飲むの、わかる? ああもう…犬じゃないんだから…」
「びっちゃびっちゃ…じゅる…」
「コイツ俺より馬鹿じゃね!?」
「お前はそれでいいんですか。というか自分でも馬鹿の自覚はあったんですね」
さて、食事を喉に詰まらせたり、水をわざと机に溢してから啜るように飲むなどのハプニングはあったが。少女の初めての食事はこうして終わった。
時を見計らってか、または何処かで見ていたのか。メルヒオールと呼ばれる男が食堂にやって来た。先程と変わらず、冷たい視線はそのまま。だがどうにも、厄介事を抱えたと眉間の皺を深くして、今にも溜息を漏らしそうに顔面の緊張を強めている。決して全てをひっくり返したような食卓を見てのことだけではない。
「食事は終わったか」
「隊長、報告は終わりましたか。こちらも一応…食事は終わった所です。ええ、はい一応…」
「隊長! コイツ俺より頭悪いですよ!」
「どこかで見てたんでしょう?」
三者三様。反応するに困り果てそうな返答が来る。
自分のせいでは無いながらも、机の上の惨状に目を伏せる職務に忠実な部下。
野生児と張り合う明るい馬鹿な部下。
どうも嫌味ったらしく言葉を告げる、名前と所属以外不明の女。
「…はぁ」
「あー! ほら、お前がちゃんと食べないから隊長困ってんだろ! もっと綺麗に食べろって!」
「…その、すみません隊長」
「溜息を吐くと幸せが逃げるって言うのよぉ、メルヒェンったら知らないの?」
「…げふっ」
ただでさえ厄介事が増えた今。元気のいい連中は頭痛の種から頭痛の大樹へと進化を遂げていた。
努めて冷静に、やるべき事を済ませる。メルヒオールは諦めていた。彼にとってはよくある事だ。
「上からの指示を含めて、まとめてこの後の行動を言うぞ。覚えろ、いいな」
「はい!」
「はっ!」
「別だけど聞いてあげるぅ」
「……まぁいい。まずは、コイツの呼称についてだが…」
呼び名を決める話し合い、そして今後の予定についての報告が行われていった。勿論、ああでもないこうでもないと形容可能な、喧々諤々とした会話が繰り広げられたのは言うまでもない事だろう。そして結論が告げられる間際。
「可愛くなぁーい! もっとねぇ、綺麗なお花の名前とか、これから幸せになりますようにって思いが足りないのよぉ! この名前負け男、何がメルヒェンよぉ!」
「ただの仮名だ、呼び易ければそれでいいだろう。本名は全てが終わった時に自分で着ければいい。ついでに言うが、お前以外に俺をメルヒェンと呼ぶ奴はいない」
「普通の名前で、自分はいいと思いますが」
「短くするとなんか犬みたいでピッタリじゃないですか!? 俺は賛成ですよ隊長!」
「ディータくん最低!」
「そんなっ!」
「…?」
大勢は決した。というより、最初から決定権はメルヒオールにあったのだ。途中メリアローズだのゲルドルートだのリーゼロッテだのと長ったらしい名前の案も出たが、これらは全て棄却。
呼び易い名、そして捨て易い名。これから歩む人生の中。その最初に待ち受ける、恐らく最も碌でもない出来事と一緒に捨て去れるように。
「今日、この時点から。お前はダニエルだ」
「か、可愛くなぁーい!!」
「よろしくダニエル、自分はマキシ…まぁ覚えておいて。いつかお互いに自己紹介出来るといいね」
「俺はディータ! よろしくダニー!」
「……」
こうして野山の子供は少女となり、少女はダニエルと名付けられた。
ダニエルはそれからというもの、ある程度の基準を設けた『教育』と『訓練』を施された。一方は人間として最低限の教養、つまりはマナーを覚える為に。もう一方は最大限の、人間を超えた性能を身に付ける為に。
およそ一週間もの教育・訓練期間がダニエルに齎したのは、食器を使うこと、言葉を喋ること。
そして…。
「ぐぅっ…は…!」
「ディタ、弱い。イノシシの方が強い」
「お…お前が、強いんだよ…! 何で銃、避けられん、だよ…ったく!」
食事の時間が過ぎれば、腹ごなしに動く。
「次だ、マキシ。行け」
「自分はディータよりも近接戦闘は弱いのですが!」
「関係ない、これはお前達の訓練でもある。お互いの武器から殺傷性、致死性は取り除いてある、臆せず怯まずやってみせろ」
「くっ、う…マキシ! 行きます!!」
「……」
ディータの次はマキシが襲い来る。
しかしその動きは、先程のディータよりも…。
「遅、い」
「いぎぃ!?」
銃を構えるまでのタイムラグ、狙いを定めるまでの猶予。銃爪を引くまでの間隙。全てがディータよりも遅い。しかも、銃の有利性が誇る距離を誤り、模擬戦用のナイフに持ち替えるのも遅い。
否、一つだけ訂正すべきだろう。
「ほら、ナイフ」
「ひ…左手が打撲で動かないんですが…」
「まだ片手空いてる」
「隊長!」
「やれ」
「…う、うおぉぉ!」
距離にして1m。ここに躊躇は必要無く、逃げるには遠く、攻めに切り換えるも遅い。全てダニエルの眼には緩やかに映る、蜂や鳥の速さと比べるべくも無い。
人間の基準からすれば、野生が抜けきらないダニエルが速過ぎるというだけの事。模擬とはいえ命のやり取りともなれば、それが顕著に表れた。
人間の手にある、あまりに直線的に過ぎる牙の動き。これを往なす。
もう一度、次こそはどこでもいいから当たってくれと懇願の篭められた刃が振るわれる。
これを弾く。
怯んだ末の、粗末なまでに大振りな動き。
これに合わせる。
「ガ…ッ! ふぶっ!?」
振り下ろされた刃を受ける、往なす、避けるでもなく。潜り込む。空白の胴体にゴム製素材のナイフを叩きつける。硬直した身体と、斬りかかる動作で伸ばされた腕を掴み、勢いのまま引き落としつつ再びナイフで胴体を刺す。以上の全ては一連の流れ、ただし速度は獣のそれ。並大抵では回避は絶望的であろう。
「弱…」
「そこまでだ…まったく…」
「マキシ情けなぁーい! あででで…!」
「お前よりも、近接戦は、弱いんだよ…はっ…はぁ…」
満身創痍の男が二人、しかし互いに軽口を叩く程度の余裕はある様子。隊長と呼ばれるメルヒオールは当然彼らの長であり、そして部下二名がダニエルという少女に圧倒される、あまりにも不甲斐ない結果を見せられては嘆息も漏れる。
意味する事は、情けない部下二名が軽薄な口を利く余力があるという結末、つまり。
「手加減したな、ダニエル」
「…ん」
「ですよねー…」
「面目無いです…」
通常。人間は武器を持たない場合、訓練された中型犬程度にさえ負けるというのは有名な話である。
では人類の叡智が一つである武装を持ち、更に野性的ながら効果的な体術を備え。四足獣に劣らないどころか、まるでそのものと感じる動物が如き敏捷性を兼ね備えた人間が存在したとすれば。只人と争った結果は如何あるべきか。
数の利を始め、戦略・戦術的優位性が失われたおよそ裸一貫に近しい状態であれば。それは空想にすら値しないだろう。
特にこの訓練場とされている場所は、遮蔽物が無く開けており。戦闘開始も至近距離で行われる。銃器の利点もほぼ潰れている。
「次、メルヒ」
「…仕方のない奴だ」
「本当にすみません…」
「行けー! 隊長ー!」
「ディータは装備を背負って外周三十、マキシは同じ装備で二十。準備しろ」
「お、俺だけ多い…何で!?」
「了解!」
「無駄口を叩くなディータ、十周追加」
「り、了解っ!!」
だが敗北は敗北。
負けるという事は、本来は死である。それを訓練一つで済ませるのだから、お優しい事だ。メルヒオールの指示に従う両名を見てダニエルはそう考えた。
「さて」
「……」
どこか弛んでいた空気が一変した。張り詰めた冷気が充満したきっかけはメルヒオールがダニエルに向き合い、一声ハッしたのみ。敵意の色までも感じない程透明で、異様に苛烈な気配が周囲を満たす。
「来ないのか」
「…っ!」
メルヒオールは巫山戯ている訳ではない。かといって、ダニエルの能力を侮るでもない。
余裕綽々にも見える構え、なんの気無しに喋りかけるような軽薄さ。それら全てが挑発行動に映る。
今日こそは、その余裕を無くしてやろう。
「グァルゥッ!」
「犬かお前は」
火蓋は自身の咆哮により切られた。
裂帛の気迫、理由は動物としての本能からだ。相手が自分より強く在る、何より上の立場から頭を押さえつけられているのは、どうにも癪に障る。
彼我の距離は先程よりも長い、されどたったの数メートル。メルヒオールに迫るは一瞬、跳び上がるという愚行はすまい。宙に浮いている時間は無防備で、そうなればただの的にしか成り得ないと数度の訓練にて学習している。
「だろうな」
狙われた獲物は笑いもせずに、地を這う駿足を縫い止める様に狙い撃つ。口から溢れた予想済みの意を含んだ言葉、これは行動を予測していたのではなく、例え自身でもそうするしかないといった確信に由来する。
火薬の炸裂音が同時に二回。引き金を瞬時に起こして撃ち抜く。回転式拳銃のみに許された早撃ちの技術、その結晶。
此度携行していたリボルバーはメルヒオール本来の得手ではないが、隊長と称される者に生半な練度は許されない。不得意があっては部下に示しが立たぬ、それ故の修練が結実した成果。
弾薬は非致死性のもの。ダニエルを襲う二つの脅威は下肢を狙って放たれている。命中すれば未熟な大腿筋を強かに打ち付け、奥に存在する骨を蝕むは必至。
上記の前提は、命中すれば、の話である。
キ、という金属が干渉した音ではない。
かといってゴム弾が肉体に着弾した音も無い。
中身の詰まったゴム同士が強力に干渉し合う鈍い音がした。
「っ!」
メルヒオールの顔に驚嘆の色が付着する。
ダニエルの回避が由来の感情だ。
ただ速く、こちらの首元を定めて我武者羅に疾駆したかと思えば、その実自身が狙われていた銃口に意識を置いていた。
一発目は狙撃されようとしている地面を蹴る足を無理矢理腹筋側へ折り畳む事で。二発目は手に持つゴムナイフを着弾点に添えて。
銃弾を避ける等というフィクションさながらの芸当を、眼前に迫る少女はやってのけたのだ。
この人並外れた回避行動はダニエルの気配察知能力の賜物である。集団行動をする野生の獣は、音も無く忍び寄り群れで獲物を狩る。単独行動をする生物は、獲物を極限まで追い詰め弱らせてから臓腑を喰らう。
弱肉強食の世界に順応するには、五感の全てを研ぎ澄まして総動員する他無い。野を馳せるモノどもと比べれば人がトリガーを引く時のニオイ、音、気配。どれもこれもが山で感じてきたそれよりも、騒々しく雄弁であることか。
これはメルヒオールの積んできた鍛錬とは別の、自然が鍛え上げた本能、あるいは技の一端。
そしてそれは、メルヒオールとダニエルの距離を手の届く範囲にまで詰めるには十分に過ぎる。
至近距離。
三発目の銃声は響かない。
銃底を得物で切り上げた。
得物を順手から逆手に。
無防備な脇腹が露呈する。
貫くは今。
「まだ甘い」
「ぎゃ、う!?」
一閃を待ち望んだその手は、メルヒオールの脇腹に届く直前に引き込まれた。既に半歩分前にステップを行っていたのだ。
野性的な侵攻が阻まれたのは、何にとは問わずとも答えは無論、人の究めた技術に。
奇しくも鉤突きの形になっている驚異的な速度の細腕を、それを超える速さを持つ腕で挟み殺し、そのまま襲撃の勢いごとダニエルの身体を地面に投げた。彼女が受け身の訓練をしている訳もなく。結果、背中或いは頭部を硬質な床へ強かに打ち付ける事となる。
柔術にも似たそれは、人の技術が魅せる魔術。宙に浮く羽目になった彼女の目には、再現可能な術理もそう見えた。
「うへぇ、ダニーが伸されてら」
「…死んで、ないですよね?」
「まさかぁ…いや、まさかなぁ?」
新たに課された訓練の前、数十キロにも及ぶ背嚢を背負って訓練場に再度赴いた二人が、隊長と呼ぶ男の勇姿を見届けに来た。
が、いざその場に遭ってディータ達が目にしたのは、事切れたように床に伏してピクリとも動かない少女と、こちらも残心したまま微動だにしない男の姿。
「た、隊長。殺ってないですよねー?」
「……」
「救護を呼びますか…?」
戦闘と呼べる出来事は、ほんの数十秒のことでしかなかった。ダニエルに負かされた二人は、その決定的瞬間を目視出来ていない。みっしりと内容物が詰まった背嚢は、すぐ隣の更衣室に用意されていたからだ。
「た…隊長?」
「気絶ですよね!?」
「……」
残心にしてはあまりに長い。何かを警戒しているのか、それとも何かを待っているのか。
「合計四十周でいいんですよねぇー!?」
「…五周追加だ、馬鹿者」
「えっ!?」
倒れていた者が跳び上がる。
「なっ!?」
驚愕の声は外野から。
体幹の収縮、そして解放。同時に肩・下腹部・大臀筋・大腿筋を総動員して床を密着状態から叩き、少女はまさに背面で跳躍をした。気絶なぞ以ての外。捕食者の警戒が解かれる瞬間こそ油断と言う。
そして、実力が上回るモノを斃すには合理的な一手。油断を促す行動の一つを。
「死んだふり!?」
「ガァウッ!」
死んだふりと呼ぶ。
他者に意識を向けた束の間、目線を横に逸した瞬間、武器に込められた力が緩む刹那。山野の捕食者はそれを見逃す程甘く無い。
動物にさえ通用するのは一度切り、いわゆる初見を殺す手段。最悪の状況、詰みから放つ最善手。
枯木のような四肢のどこにその力があるのか。ダニエルは不格好な体勢ながら、完全な跳躍を果たし。メルヒオールの腹部に凶刃を突き立てる。
そう、跳躍してしまったのである。
「人間相手には滅多に跳ぶな、よく覚えておけ」
「ヴッ!?」
鉄製の口が撃鉄によって叩き起こされ、椎の実型のゴム塊が加速し空気を裂いて。耳が劈くようなアンコールを奏でた。
準備が出来ていれば、人間程の大きさの物体を空中で射貫くというのは誰しもが不可能ではない。目で追う事が困難な瞬速の不意打ちは、こうして音速に近しい弾丸で仕留められた。倒れ伏すのは獣性色濃い少女、地を踏みしめて立つは人類の高み。
「俺の勝ちだ」
「うぅぅー…!」
「睨むな。お前の分の荷物も隣に置いてある、マキシと同じだけ走れ。それで本日の訓練は終わりだ」
「やっぱ隊長はヤバイな」
「自分らの目標は遠いって事ですよ」
「…やるか、走り込み」
「ですね」
こうしてダニエルの訓練、その一部が終わる。
走り込みの最中に約一名がサボタージュを敢行しようとしたものの、自身も参加しようとしたメルヒオールに見咎められ、更に五週の距離を追加されたが瑣末事だろう。
「ディタ、やっぱり馬鹿」
「だ…ぜひぃ…誰が…ふ…馬鹿だ…!」
さて。少女の身体の動かし方は徐々に人間のそれに近付いていく。野に朽ち果てるが定めの刃は、刻一刻と人の手によって磨かれていた。
されど、それは肉体のみの話である。一般的な教養、つまりは人間の叡智たる学問の歴史を身に馴染ませるのは困難を極めた。
退屈、苦行、面倒。机に向かわねばならない時間、この場から逃げ出そうかと思った事と実際に行動に移した事も一度や二度ではない。その度にどこに身を隠そうともメルヒオールか、目の前に居る教鞭を持つ女、ヴァラが見つけては連れ戻す。
「ヴァラ…めんどい…」
「算数くらい出来ないとダメよぉ」
教育中の口答えも増えたもので、算術の勉強時間には必ずと言っていい程怠惰への慕情を口から吐き出していた。
そもそも勉強とは何の意味が有るのか。まったく意味がわからない。最低限生きていくなら山で狩りをすればいいし、それが出来ないならそのまま野垂れ死んで、今まで食べて来たモノの糧になればいい。
「いーい? 勉強っていうのはね、今の為にあるんじゃないの。もっと先の、未来の為にあるのよ」
「さき…?」
「そうよぉ!」
先。
未来。
ニンゲンとは迂遠だ。数秒先のことすらわからないのに、不思議な程先の事を考えたがる。知りもしないものの為に備えて、何がしたいのか。
「今はわからないし、将来役に立つかもわからない。それでも、いつか使うかもしれない知識を貯めておく。
それが無駄になった、役に立たない。だから勉強なんてしなくてもいいって人もいるわぁ」
それは本当の事ではないのか。少なくとも、自身にとって勉学が役に立つ瞬間なぞ来てはいない。
「例えばそうねぇ…算数、これがすぐに出来れば。人と関わる時に損をしないで済むわ、人は人を騙すもの。
自国の言葉、それと歴史。法を学ぶ上で必須よぉ、何故そうなったのかが重要だもの。興味無いだろうけど、ニーベルンゲンとかは民族移動の歴史から起源まで語ってるのよ?」
「…ふーん」
教師として教鞭を執る目の前の女、ヴァラはかなりお喋りだ。きっかけさえあれば、日が落ち込むまでずっと喋り倒すだろう。およそ必要最低限しか口を開かないメルヒオールとは対極的な存在、ちょうど運動には自信がないとも言っていた事もある。真逆だ。人とは変なものだと思った。
この女に限らず、他の三人の男も同じ。生まれた母胎から違うだけでなくそもそもの個体差や境遇も違う。種として大まかに同じというだけで、こうも面倒を見るなぞ非合理的だ。
「……ん!」
「…うん」
書き上げた算術の成果を机上に叩き付ける。算術といっても初歩の初歩、乗算について。所謂掛け算だ。
ヴァラが淀み無く流れる水のように、上から下まで検算を行っていく。それを観察するダニエルからしても、頭の中で計算が出来るのは便利なのかもしれないと思うに充分な速さをしている。
一つ、二つとチェックマークがつけられていく。
「10問中5問不正解ねぇ」
「んがー……ダル…」
「まっ! よくない言葉遣いよぉ、ディータくんかしら。あんまり真似しちゃダメだからね?」
それはそれとして、やはり座学は面倒だ。勉学に適性があるとするならば、自身には無いのだろうとダニエルは自分の中で結論付けた。
「じゃあ復習なんだけど…」
「…ん」
それでも時間は早く過ぎる事はない、そして停滞もしてくれる訳もない。仕方がないのでもう一度机に向かおうとしたその時。
耳に格別の集中をしていた訳ではないが、遠くからこちらの室内を目掛けて歩く。規則正しく、機械の動作を思わせる足音が近くに寄って来た。
「……誰か、来る」
「あらぁ?」
「ダニエル、命令が通達…何かあったか?」
「別に…ダル…」
「算数が苦手なのよ、ねぇー?」
「……」
何とも恥ずかしいというか、言わなくともいい事をベラベラと発する女だ。一般的な人間がそうであるように、ダニエルにとっても苦手を知られるのは決して愉快なものではない。
だが今回は、些細な不快を表明するよりも気になる言葉が聞こえた事についての疑問が口をついて出た。
「…仕事?」
「そうだ」
「まだ早いんじゃないのぅ…?」
「関係無い、むしろ今だからこそ…だそうだ。文句があるなら上に言え」
「メルヒェンは言ったのかしら?」
「言った。失敗しては元も子もないだろう」
「あら…意外と反抗的なのね。見直したわぁ」
「合理的ではない、という話だ。見くびるな」
ダニエルは仕事の概要を知りたかったのだが、この男女二名は何をするかではなく、時期について執心しているようだ。
結局、いつかやらねばならない事なら迅速に済ませた方が良い。何を小難しく考えているのか。理屈の先行する連中は面倒だとさえ思った。
「…追って正式な文書が届く。それまでは俺達は全員待機だ、お前達もだぞ」
「ん」
「はぁーい」
待機。
言葉は知っている。準備を整えて機を待つこと。だが何をすればいいのかは知らない。そもそもこれから何を命ぜられるのか想像に難く、準備は何をすればいいのかも明確ではない。
不意に手にした自由。ダニエルがそれを持て余すには当然という程、何もかもを知らな過ぎた。
そして待機が明けた後。彼女は初仕事を行う、それは一般的には冒涜的とされる行為であり、忌避されるべき罪。
罪状、其の名は聖職者殺し。
מנא מנא תקל ופרסין
現場に残されたその言葉と共に。王を僭称せんが如き振る舞いを行った獣は。十字架で、百舌の早贄のように喉元から貫かれる磔刑を以て罪業を贖う事になった。
憐れんではならない。
悲しんではならない。
彼の者の名。神は裁きであるが故に。