「うーん」
健康診断の結果はあまり悪くはなかった。春に大学でやったやつに比べて体重が少しだけ増えていた気もしなくはないが体調の変化で十分説明できる範囲なのでよし。
「貧血気味だね、もう少し積極的に鉄分を取って運動したほうがいいよ」
「はい……」
こう言ってくれたお医者さんにお礼をして今日はおしまい。これだけで報酬が出るのだというから驚きだ。ちなみに交通費は報酬に組み込まれているようで。そうすると東総大の人が有利じゃないか?こういう不均衡が統計データを歪めて大きな問題を生むんですよ科学界は反省して別口で交通費をくれませんかね。えっダメ?
仕方がないので健康のためです、ちょっとだけ歩こう。どうせこっちの方に来たなら寄っておきたいところがありますからね。
やってきましたは秋葉原。日本最大級の電気街を有する文化中心地です。ちなみに秋葉原は終わったみたいな言説はここ半世紀続けられているのでたぶん現役です。色々と変わってきている場所ではありますが、それでも東アジアのカルチャーを引っ張っている場所だとは思いますよ。
ここは本当になんでも売っていると言ってもいい街だ。旧式のスマートフォン?あります。最新のXR端末?カラーバリエーションを取り揃えております。ジャイロチップ?少し奥にありますね。戦時中の自費出版技術書?あちらの書店に揃えられております。VR用のトラッカー?試着できますよ。脳計測デバイス?調整の職人さんがいます。
というわけで見えた明星文化集団の看板に二拝二拍手一拝。これは明星参りと言われ、ガチャの出が良くなったり、レンダリングで止まることが少なくなったり、ラグでゲームが止まったりしないというご利益があるとされています。
どこを巡るかというのは結構難しい問題だ。一つのお店で情報を集めたりとかで一日ぐらいはすぐ吹っ飛んでしまうし、僕はあまりふてぶてしくなれないので良くしてもらうとついつい何かを買ってしまう。そしてたちが悪いことにリストバンドで決済すれば口座から引き落としなのでかなりの額まで使えてしまうのだ。
うろうろと街を歩いてみる。少し奇妙な場所にある看板が気になったので、階段を登ってみることにする。店の名前は「
「いらっしゃーせー」
気の抜けた声が聞こえる黒を基調とした店内に入る。なんていうか、この空間デザイナーとはいい会話ができそうだなという僕好みの空気。
改めてこのブランドについて紹介。持ち運び可能な光学式トラッカーで有名だが、実はそれ以外にもぽつぽつ便利な周辺機材とかを売っている。そしてメジャーな規格にはだいたい対応しているし、公式が改造を推奨しているので組み込み機材としても使いやすいようにいろいろな情報公開もしている。
さっき声をかけてきた若いアルバイトらしい店員さんはスマートフォンに視線を向けている。うーん本当に奇妙なところだ。ここだとスマートフォンがちゃんと現役のデバイスとして生きているんですよ。
XR端末の普及によって、スマートフォンは一般社会、特に若者の間ではここ十年で廃れたものとなってしまいました。別にスマートフォンが持っていた機能を全て代替できたわけではないのに、ですよ。
これについて陰謀だの業界のパワーバランスだのを語る人もいますが、個人的な見解ではただの流行みたいなものだと思います。永らくスマートフォンは主要デバイスとしての地位を確立していましたが、それが変わっただけです。
日本では「ガラパゴスケータイ」と呼ばれた携帯電話の多機能化、ブランドもののスマートフォンによる一強時代、その後少し三勢力均衡時代があってXRデバイスが全てを塗り替えた、という感じだったはず。別にちゃんとその時代に流行を見ていたわけではないので歴史認識には怪しいところはありますけどね。
そんなことを考えながら置かれている光学式トラッカーを見てみる。手のひらにすっぽりおさまるぐらいのかわいいボディからはくりくりとした光学式カメラが二つ、こちらを見ている。全体的にここのやつは白くてスタイリッシュなはずなのにどことなく愛嬌があるんですよね。
デモ用に繋がれているディスプレイには僕が動かす手の特徴点が映し出される。こういう時にはちょっと嫌がらせみたいな動作をするとどこまで反応できるかわかるんですよね。
親指を中指の第一関節に合わせ、パチンと指を鳴らす。数十ミリ秒で移動する指をどこまで正確に追いかけられるかだが、カメラから見やすい位置に置いた指であれば肉眼ではわからないぐらいの速度でちゃんとフィンガートラッキングができていた。
では角度を変えてやってみる。超音波式のセンサーとかで回り込み分析対応のやつだと基本的には反応できないのだが、かなり良く指の動きを追いかけている。
カメラからほとんど指が見えない位置でも、透けるように指先がトラッキングされているのは正直不思議な気分だ。
「手の甲を見ているのですよ」
首を傾げていると店員さんがやってきていた。黒いエプロンに描かれているのは
「どういうことですか?」
「少し設定を切り替えますね」
そうして店員さんがちょちょいと指で印を組むように操作するとカメラの画像が切り替わった。白黒の画像では店員さんの白い手に蛇のような黒いものが伸びている。
「静脈血内の還元ヘモグロビンが持つ吸収ピークを利用しています」
そう言って店員さんはカメラに手の甲を向けて指を握り込む。力を入れたタイミングで血流とかが変わっているから、これを読み取っているわけか。
「なるほど、そうすれば素肌であればかなり複雑なトラッキングも可能になる……」
「特殊なマーカーを必要としないという利点もあります。まだデモ段階ではありますが、来月には発売される予定です」
と言って名刺サイズのXRマーカーをくれる。資料をダウンロードする時にこれ一枚目の前に出せばだいたい終わるからね。そして自動的に購入フォームまで開くのはお約束みたいなものなので仕方がない。
「ところで、これの解像度と他システムへの連携について聞いていいですか?」
「もちろんです」
店員さんの目の色が変わった。やっぱりこういうことがあるから物理世界のお店というのは捨てがたいのです。