ばさり、と僕の前に紙の束が置かれた。
「……これは?」
「私がやった、ちょっとした趣味」
厚生労働省の倫理審査委員会の記録と、関係者の経歴一覧。ベンチャー企業「又平」の財務諸表と申請特許。英語のVR副作用に関する研究のレビュー論文、日本語訳と特に重要な研究の文献付き。
「なにこれ」
いつもの食堂で、いつもの三人での集まり。ユミナさんは僕がめくる紙を興味深そうに見つめている。
「今度ミドリさんがするっていう実験について少し調べてみた」
「少しってレベルじゃないような気がするな……」
ユミナさんの言うように、紙媒体でこういうかたちで情報をもらうと、かなりのものだなとなる。
「各ページにXR用のマーカーはつけておいた」
「至れり尽くせりかな?」
僕はちょっと怯えながら言う。
「こんなもの、大学の補助システムがあればそう時間もかからずに出せるわよ」
さらりというが、時間がかからず簡単にできるからと言ってそれが凄いことではない、とならないことぐらい僕は知っている。
たぶんこの裏にあるのは、アキさんの知識とこの種のAI系のやつを使いこなす勘みたいなものだ。僕だってこの種の経験がないとは言わないが、ここまでピンポイントなものを、趣味の範囲で出せるのは普通にそれだけで仕事にできるレベル何じゃないかと思えてくる。
「インフォームド・コンセントについては聞いた?」
「実施者と被験者との十分な合意、でしょう?」
一応はこのあたりの倫理系については人工知能の分野でもかなりしっかりやるのだ。とはいえ実務上は小さく書いておいた契約書の中に解釈が幅広くできるような一項を入れておくという形だし、たいていはそういうリスクよりもそのAIサービスを使う利点のほうが上回るので問題になることはほとんどない。
「別に私は実施者を疑うわけではないけど、あらゆる人間にはその背景に応じたバイアスがかかる。ミドリさんが本来負うべきではないものを負わないようにするメリットは、実施者にそこまであるわけではないことには注意して」
「はい……」
とはいえ別にアキさんの資料はリスクが強調されているというわけではない。もちろんアキさん側のバイアスも加味する必要があるが、見た限りではかなり中立的な範囲にある。
とはいえすごいな、研究の内容と考えられる結果、そしてそれぞれの結果を補強するようなデータや先行研究も添えられている。これなら先入観を僕のほうが持ってしまって実験のデータに偏りがでることは起こりにくそうだ。とはいえそれは普通に調べる倍とか三倍とかの配慮が必要なやつじゃないかな。
まとめられたものを見る限り、多少のリスクはあるが僕にとってそれは許容範囲になる、と言う辺りの結論が出る。定期的に要約が入って読むだけで内容が脳の中に体系的に整理されてまとめられていくのは本当に最近の構造構成ツールというのはよくできているな、と思わさせる。アキさんの自力ないですよねこれ。
「ミドリちゃん、そんな文章読んで目が疲れないの?」
「いや普通に小説とか読んだらこれぐらいになるでしょ」
今はあまり読むことがないが、それでも小中高と僕はそれなりに本が好きな子供だったのだ。XR端末なしには情報が足りなくて脳が飢えていたというほうが正しいかもしれないけど。
「そっか、ウチ映画ばっか見て小説はあまり読まなかったから」
「それはそれで凄いと思うよ」
ユミナさんもそれはそれで凄いんだよな。空間デザインやるなら映画を見ろ、というのはたまに聞く話だ。横長の人間の視野に近い空間で、音と視界を利用して語らずに語るみたいな手法を映画はかなり突き詰めている。
もちろん一回の体験が一時間とか二時間だったり、映画特有の制約はあったりするけど、それでもかなり勉強になる、らしい。僕はあまり見ていないから言う権利がない。
「ところで、アキさんはこれどうやって作ったの?」
「出力ログなら」
そう言ってアキさんはささっと宙を弄って僕の方にエンティティを飛ばしてくる。よくまあ手際がいいことで
「ところで、アキちゃんはなんでそう言う事するの?」
「趣味」
「普通の人はそこまで他の人のために時間割いたりしないよ?」
「私が普通じゃないだけでしょう、なにか問題でも?」
「そう言われると困るんだけどな……」
ユミナさんにアキさんがやり込められている。かわいそう。いやでも良く考えてみればアキさんはかなり怖いな。
もちろん友情みたいなものもあるのだろうが、そのためにここまで作れるものだろうか。ちなみにログの時間とかを確認するとほぼノンストップで五時間ぐらいかけて作っていました。一方僕は五時間あってもぼんやり他のワールドで見たシステムの再現とかやって特に成長していない気がするのでアキさんの勝ちです。
「……高校の頃に人間関係を上手く作れなかったから、そのあたりで距離感がうまくできていない自覚はある」
通信高校だったんだっけ。そしてあの知識と分析力だ、同レベルの人も少なかっただろうし、そういう人同士だとどうしても難しい会話しかできないなんてこともあるだろう。
「アクセル踏み過ぎなんだよアキちゃんは、そんなことしなくたっていいのに」
一方のユミナさんはなんとも気楽そうだが、たぶんこれは意図的に肩の力を抜いているんだよな。これができる人は本当に強いと思う。僕はちょっとできない。
「私がしたいと思って、それができる余力があるだけ」
「そういうふうにしていると、自分の中のハードル上っちゃって身体動かなくなった時に辛いよ?」
「実体験?」
「一般論」
「……そう」
アキさんが結局折れたようだ。本当に折れてるかな。僕はハードルは程々の高さにしたいのに良くわかっている周りの人がちょうど頑張れば飛べるぐらいの高さに調整してくるせいで毎回苦しむことになる人です。
「……あの、私のやっていることが二人を束縛するようなものだったら、言ってね」
「ウチは気にしないから大丈夫!」
「そういう形で重い感情を回避するの珍しいな」
「……ミドリさんは?」
「大丈夫だよ、少なくとも今は」
それに今のアキさんとの関係に満足できるかどうかというのは完全に僕の側の問題だ。してもらったことには感謝して、されなかったことにとやかく言うのをやめて、必要なことを頼んで、頼まれたら喜んで受け入れる。そういう人間でありたい。
「……よかった」
そう言うアキさんは少し嬉しそうで、これならもう少し心理的負担を受け持ってもいいかなと思わせてるほどのものだった。