「お、ソニドリさん」
茶色のグレーハウンドのくりくりとした目がわたしを見る。
「なにやってんですかかせくり氏、チーフに怒られますよ?」
「あたしは許可出してるよ」
カウンターの裏からチーフが言う。
「ならいいんですけど」
そう返して、わたしはモビールのように吊り下げられるというか空中に固定されている板とその間を繋ぐフリーハンドの三次元の線を見る。
「今度発売の……なんでしたっけ」
「Logistica
かせくり氏はいつもより小さめの文字が書かれた自分のTシャツの胸元を掴んで言う。宣伝用かな。発売日は5月1日。事前予約でアートブックとオリジナルサウンドトラックがついてくるよ。
「……発売前のゲームですよね?」
板に貼られているのは歪みからしてゲームの体感デモから切り出した画像とかだろうか。
「そうだ。日本標準時で朝九時にダウンロードが可能になる。ただ、それ以前にも色々と情報は明かされていて……」
そう言いながらかせくり氏は開発者のブログや予告映像、デモプレイヤーからの意見などから分析した結果を説明してくれる。
「今のところ、難しいんじゃないかと言われているのが蒸気エネルギーの計算で、どういう処理が行われているのかが不明だけどこのカットを見る限りは平滑化粒子流体力学で実装されてるんじゃないかって話があってな」
「……ええ」
平滑化粒子流体力学、ね。ええわかりますとも。平滑化された粒子の流体についての力学でしょう。どこで切るんだよ。流体力学というのがあるのは知ってる。
「ただ、こういう計算には問題がつきものだ。例えば誤差から流体が増えたり、運動エネルギーが減ったりする」
「……それって、例えば資源が無限に手に入るとかならいいと思いますけど減ったりするのなら使い道が無いと思いますが」
「Logistica 4、つまりは前の作品のMODで一番ダウンロードされたのがゴミ箱追加だ」
MOD、つまりは有志による
「なるほど、そういう物があってくれたら嬉しいと」
「あとはシリーズ前回から熱系は問題がいくつかあったからな、そこのアルゴリズムに穴があれば想定外のルートを作り出せる」
そう言ってかせくり氏が見せるプランの一つは、序盤で手に入る基礎蒸気機関を改良して永久機関を作り出すものだ。なお裏には偏微分方程式らしいものが出てきている。ちゃんと予習しておいてよかったなぁ。何言ってるのか全然わからない。
「こういうのこそ、人工知能に解かせればいいのでは?」
「……ここだけの話だが、やってる」
「そんな隠すようなことじゃないと思いますけど」
もちろん、例えば対人試合においてAIを使うことは禁止されていることが多いし、そういったものをチートツールとして指定する場合もある。それは単純に一方的になってしまってつまらないというのもあるし、人間同士の戦いというものが主軸であると主張することで発展する技術と戦う場所を変えているというのもある。
特にイラストとかはそうだ。生成AIを操る術師というのは絵師より一段低いものとみなされがちだ。とはいえ絵師の多くも分析にAIを使っているし、何よりデジタルでやっている以上技術について思想的なあれこれを言うのは筋違いだ、という意見もある。ここらへんはかつて散々インターネットで燃え広がった思想であるので、気になった人は今なおほんわかレス推奨となっている焼け跡を発掘して読むといいだろう。
「いや、こちらの専門が実際の化学プラントそのものでね」
「……えっそういうお仕事の方?」
「詳しくは内緒だが、ね」
ウインクをして星を飛ばすグレーハウンド。こういう細かいモーションを仕込んだアバターはうまく決められると楽しいのだが、AIの自動制御頼りだと暴発することがあるし自分でやるにはモーションが多すぎたりするので難しい。
「……仕事でもゲームでも自動化してるんですか?」
「エンジニアというのはそんなものだと思うぞ」
「工学部には行かないようにしないと」
わたしの中の人は情報科学部所属なのでセーフかな。別に大学が情報系だからといってITエンジニアにならなくちゃいけないというわけでもないのだ。仕事と趣味を変えてもいいだろう。
「となると、不連続面と衝撃波が問題になる可能性がある。こういう微妙な例はニューラル補完かけることも多いけど、想定外の状況下だと意外な挙動を示すこともある」
「計算が難しい所を生成させると考えればいいですか?」
「そうそう。それで、そういうのを除いた一般的だと思われるクリアまでの研究と使える建造物の候補がこちら。トレーラーで映っていたものから推測されているが、新しく追加されている可能性もあるからなんとも言えないな」
レンガやガラスから始まって、階差機関や核蒸気生産まで。電気ルートを示すツリーはそこまで大きくないように見える。
「スチームパンク、ですね」
「色々楽しそうな休暇になりそうだ」
そう言ってかせくり氏は鼻を鳴らす。
「そういえば、ソニドリさんはどこかへ出かけるので?」
「……ええ!友人と遊びに行くんです。VRをしに」
一瞬物理世界のことをどこまで話していいのかと悩んだが、別にこのくらいは言ってしまっていいだろう。向こうがわたしを信頼して仕事の話をしてくれたんだ。私も友人の話までならしたっていいだろう。
「面白そうな所に行くもんだね」
「おーチーフ、作業終わったんですか?」
かせくり氏が言うと、いつの間にかわたし達の隣に立っていたチーフは頷いた。
「ああ、今度の音楽フェスの舞台一式を納入したところだよ」
チーフ、もといガレーナさんの本職は総合的なXR空間デザインだ。名前が出てくることは少ないけど、その腕はこの
「ああそうだ、もしよかったらこのパッチを使ってみてくれ」
そう言ってチーフは手のひらサイズの金色に光る円盤をかせくり氏に渡した。いわゆるゴールデンレコード型の情報エンティティだ。他にも3.5インチ型フロッピーディスクみたいなモードもある。
「さてさて、どうなるか……」
かせくり氏がエンティティに触ると承認を要請する画面が出て、それに指が触れるとダウンロードが始まる。設定画面が個人限定じゃなくて全体共有だったので、かせくり氏が何をしたのかを見ることができた。ただ単に、わたし達が見ていた情報とかを映し出していた板に光学処理を追加しただけだ。
「妙に浮いてたからね、ここで使うならこういうのもいいだろう?」
チーフが自慢げに言うだけあって、出来は見事なものだ。木でできたような板の上に、文章部分は紙のようなテクスチャ。特に処理が重くなったりしているわけではないところを見ると、かなり最適化がなされているようだ。こういうのを僅かな時間で作れるのが、我らがチーフの凄さである。