寝て起きてを繰り返すと、いつの間にか五月になっていた。どう考えても何かがおかしい。だってわたしが引っ越して大学に通い始めてから一ヶ月経ったということになるし、長期休暇が間もなく折り返しに入ろうとしているということになる。
「ソニドリさんってそういうこと言うのですね」
ふよふよと浮いている球体状のアバターである概念同化機構が机を挟んだ向かいから、わたしの嘆きに対して言う。こんな見た目なのに、下手すると人間態のアバターよりも愛嬌があるのはデザインがいいのか、あるいは人間の想像力が凄いのか。
「悪い?」
「いえ、Bar Panopticaの他の人から聞いた印象とは違ったので」
「そう……」
こんな平日の昼間からここに来ているということは、休暇のある企業かあるいは休みの長い大学生か、なんてことを考えてしまう。
「でも確かに、時間って過ぎるの速いですよね。私だってもう高校生になってしまったし……」
「……未成年?」
「あっごめんなさい、聞かなかったことに」
「何か言った?」
「いいえ何も……」
よしよし。危ないところだった。基本的にインターネットというのは邪悪な人達が多いので、年齢とかを明かすとろくな事にならないのだ。言いかえれば大人としての振る舞いができるのなら年齢関係なく文字通りにどういうことでもできてしまうということでもあるが。
「そういえば聞きたいことがあったんです。ソニドリさんって、声になに使ってるんですか?」
「……たまにのど飴舐めるよ」
「そうじゃなくて」
「概念……同化機構さんみたいに、何のソフト使っているか、だよね」
相手の名前を間違えては失礼だが、相手の名前を覚えていないという素振りを見せるのも失礼である。というわけで視線操作で表示設定を切り替えてユーザー名を出して頭の上の文字を読む。
「そうです、私は
「
初心者におすすめの生成型ボイスチェンジャーを挙げたら三割ぐらいの人が推すであろうシェアウェア。デフォルトだと高音部分の癖があるが、それがいいと主張するマニアもいる。このあたりは安易に語るともっと詳しい人が現れて大変なことになる。
「あれドイツの会社なのでそう読むんですよ」
「そうなんだ」
「で、ソニドリさんは……もしかして地声ですか?」
「
わたしは少しだけ、低めの落ち着いた声で言う。落ち着いた男性に聞こえただろうか。
「かわいい声だったので、女性だと思ってました」
「
色っぽさを増すためにしっかりと息を吐く。わたしの機材はマイク感度を調節しているので、少しかすれてしまうような声でもうまく拾ってくれる。
「これを……ソフト無しで?」
「そう」
「……師匠と呼んでもいいですか?」
「やめてほしい」
フィードバックをくれる分析AIを相手に、毎日声がかすれるぐらいに特訓を積んだ結果こうなったのだ。結果として物理世界でも性別から多少は吹っ切れることができるようになったが、そもそもそういう感覚になったのはVRで
「でも凄いですよ、ソニドリさんぐらいのことができる人、なかなかいないと思います」
「あなたもかなり良く調節されているでしょ、高音にフィルター設定してる?」
「よくわかりますね……」
「わたしはまだまだ。凄い人だと話し方と周囲の環境反射からボイスチェンジャーを貫通して機材と住空間当ててきた人もいるから」
参考までに、このBar Panopticaのチーフことガレーナさんはこれを声ではなく行動分析でやってくる。メニューを見た時の視線の動きでAcumenだと割り出してきたのは正直怖かった。声のプロに壁薄くないか心配された時に比べればマシだけど。
「VRは恐ろしいところなんですね」
わたしは頷く。でも、そういう場所以外では馴染めないという人もいるのだ。中高時代のわたしとか。
「……最近VR機材を買って、Conligoで色々しようってやってたんです。でも、怖い人達に引き込まれたりして……でも、チーフさんに助けてもらったんです」
「あの人、どこからともなく現れるからね」
「なんだい昔話かい?」
「ほらこういうふうに」
概念同化機構さんが出すノイズを見るに、驚いて転んだりしたのかな。危ない。
「……チーフ、もう少しわざとらしく現れることはできない?」
「普段通りに歩いて来ただけなのにこんな言われ方をしてしまうとはね。あと、足元にケーブルを絡ませるのは危ないよ」
「それどうやって視ているんです?」
「体動データはこっちでも観測してるからね」
わたしの質問にチーフはなんてことのないように答えるが、それを見ただけで物理世界でどう動いているのかを確認するのは無茶というものだろう。もしかしたら危ない動きを検出するシステムを組んでいるのかもしれないが、そうだとしても恐ろしいのには変わりない。
「ご、ごめんなさい……」
「大丈夫?怪我とかはない?」
「はい、幸い……」
チーフは表情一つ変えずに僕たちを見ているが、たぶん大丈夫ならわざわざ口を挟む必要はないだろうという判断なのだ。これはチーフがいい性格をしている点であるし、他人に感情的に惑わされないように防護策をやっている人間にはよくあるものだ。
なのでそういう人間らしいというか配慮と無言の相互関係みたいなものが欲しければ専用の場所に行くべきで、でもそういう場所では依存が危ないぐらいに……この話はほどほどにしておこう。
そんな事を考えているとベルの音がして扉が開く。
「おや、かせくりじゃないかい。Logisticaの進捗はどうだい?」
チーフの言葉に、かせくり氏は苛立たしげに鼻を鳴らした。
「進行不能バグだ。さっきエラー報告をしたが、おかげで集中力が切れた」
「そいつは災難だったね」
かせくり氏とチーフの会話に、不思議そうに機体をかしげる概念同化機構さん。
「今日の朝発売のゲームをかせくりさんはやろうとしていたんだけど、何か問題があって詰まったらしい」
「なるほど、Logisticaの名前は聞いたことがあります」
そう言った概念同化機構さんにかせくり氏は鋭い視線を向けた。
「君もやらないか?」
「遠慮しておきます」
「そうか……セールになったらまた再考してくれ」
「はーい」
「で、かせくり。具体的にどういう問題があったんだい?」
「ああ、これは報告にも纏めたんだが」
プレイ記録を展開して、かせくり氏はチーフと僕らに向けて説明を始めた。