素人は兵站を語り、玄人は思想を論ず 1
あっという間に楽しかった長期連休が終わってしまい、また楽しい大学生活が始まる。ただ、今日は大学に行かなくちゃいけない授業はないのでのんびり家で学習だ。オンデマンド型の授業なので別に休みの間に受けても良かったのだが、人間というのは期日になるまで動き出す気力が湧かない愚かな生き物なので仕方がない。
『つまり、与えられた正方行列が対角化可能かどうかを判定するためには独立した固有ベクトルをいくつ持つかを調べればいいわけだ』
XR端末に映る倍速で書かれていく板書を見ながら、手元のノートにシャープペンシルで数式を刻んでいく。もちろん紙のノートの代わりにタブレット端末みたいなものを使ってもいいのだけれども、僕は色々試した結果こちらのほうがいいと思っている。もちろん後から検索はできないし、かさばるけど、それでも物理的に積み上がっていく何かがあるというのは嬉しいものだ。大抵は二度と開かないので気兼ねなく捨てられるし。
このような形式の授業には少し面白い歴史がある。僕が生まれる十年ぐらいにあった大規模な感染症流行によってあらゆる社会活動がオンライン化された事があったのだが、その際に大学の授業もこのような形になったようだ。もちろん、当時はまだ使い勝手のいいXR端末がなかったのでディスプレイを使っていたのであるが。
その流行が終わった──実際は終わったというか社会が適応した──後、また大学の授業は直接キャンパスへ通う形へ変化した。しかし、その後の大学教員不足問題とか効率化のもとに行われた大学改革などによって一部の基礎的な分野の授業は感染症流行下で開発が進んでオンラインで公開されるようになった教材を使うことが一般的になったそうで。
こういう話はなぜかConligoでたむろしている大学の研究者が教えてくれるんですね。かわいいアバターを纏って困ったような声で受験生ですと言うと色々教えてくれる人がいるのは昔から変わっていない。そんな昔を知っているわけではないけど。
おっと、余計なことを考えていたら授業が進んでいる。今やっているのはある行列を対角化するという処理だ。イメージとしては食べにくい具材をサンドイッチにして食べやすくする感じ。こうすると計算が一気に楽になります。
もっと正確に言うのであれば斜めの矢印を考えるのが面倒なので座標系を丸ごと回してしまおうというもの。サンドイッチにしているのは座標系を変換するのと戻すのとがペアになっているから、と思ってください。いや適当なこと言ったな。自分でもよくわかっていないことを説明するのはよくない。
ただ、この理論を知っていることがどこまで役に立つかは疑問だ。わかってますよ、人工知能と呼ばれているものが実際は大量の計算によって成り立っているものだとか、その計算をうまく表記するためには線形代数のモデルを使うのが楽だってことは。
だからといって、今どきのAIエンジニアと呼ばれる人たちが必ずしもこの分野に詳しいわけではない。ちゃんとやるべきだというのであれば何なら量子コンピュータのお供になっているCNTFET、ええと正式名称はカーボンナノチューブ電界効果トランジスタ、の動作原理とかまでやるべきだなんて思想を持っている。いやもっと根源的なツイストロニクスのあたりから触る必要があるかも。やめようかこの話。
ビープ音で意識を取り戻す。授業に集中していないと鳴るシステムになっていて、三回鳴るまでに授業に戻らないとこの動画の視聴をやり直さなければいけないようになっている。もちろんそう難しくない方法で偽造はできるのだが、それをして何になるっていうのだ。
動画を少し巻き戻して改めて式を確認する。こういうのは慣れている人は一瞬でわかるらしいが、僕みたいにそこまで才能がない場合には丁寧に一つ一つ手で書いていくのが一番だ。
そういうふうに時間は過ぎていく。このところをわかっていないとこの後の授業に着いていけないとガイダンスで脅されてはいたが、僕は正直懐疑的だ。
もちろん、基礎分野をやるならそうでしょうとも。ただ人工知能安全管理士の資格を取ってやるような仕事ではこういうのは触らない気がする。もう理論と運用の双方を理解できる人がほとんどいないほどに二つの領域が切り離されてしまったし、その間の溝を超えられるのは今では人工知能だけだという笑い話もあるぐらいだ。
本当にこれは少し問題な気もする。人工知能安全管理士は特定AIサービス提供に必要な国家資格であるが、ほとんどの人間はAIよりもこの試験でいい点数を取ることができない。座学だけではなく人物評価とかも含めて、だ。そこまで優秀なAIがあるのに未だに人間が責任を取るためだけに大学に通って貴重な青春を消費する必要があるのかは悩ましい。給料がいいから僕は目指すけど。
「よし、あとはテストを残すのみっと」
テストと言っても、出てくる問題を解くだけなら難しくはない。最終試験を何も持ち込めない状態でやると言われているならその練習として真面目に挑むかもしれないが、そうでないなら基礎的な文明の利器を使うぐらいはいいだろう。
大学が契約しているAIサービス、
このAIサービスは実に多様で、合計なら本来なら年に数十万円するような色々なシステムを無料で使えるのだ。もちろん無料というか学費から払われているし、提供するTYRUS社だってこのサービスなしには仕事ができなくなる人間を作り上げて業界を支配するという恐ろしい悪魔的計画のもとに教育機関向けの廉価なプランを提供しているのだ。
というわけできちんと正解。もし万が一間違えたとしても向こうの採点AIが評価してどこを間違えたのかを教えてくれる。僕の単純な打ち間違いでなければこのコメントは