目覚ましの音に意識を引きずり戻されれば、授業開始まで少し余裕のある時間であった。とはいえ本能が二度寝を叫ぶ。
身体が重い。基本的に丁寧な生活を心がけないと脳計測デバイスの性能が下がるという都市伝説を信じているので、あまり夜ふかしをしないようにしているから、こういう日はダメ大学生としては意外なことに決して多いわけではない。
ええと金曜の午後ってことはあれか、「人工知能の技術と倫理」と「プログラミング基礎」。後者は基礎と言っても高校の頃に習ったものを一旦全部ひっくり返してかなり最初の方からやり直すかなり楽しい授業だ。
料理をする時間はなかったので、途中で寄り道して構内のコンビニで二百十円の昆布おにぎりを買って食べつつのんびりと教室へ。がやがやとしている教室で一瞬だけ北尾のやつと目が合うが、すっとそらす。
なんていうか、悪いやつではないのだがなんかこう、苦手だ。彼よりもユミナさんとかアキさんと一緒にいるほうが馴染む。これは僕の女性的な面が同性を好むからなのか、男性的な面が異性を好むからなのかははっきりとはしない。無理に切り分ける必要もないと思う。そもそもそういう表現をするのもあまり良くないとはわかっているのだが便利なので使ってしまう。
この授業は人工知能安全管理士のために必要な単位だ。この資格は面倒な試験を受けて実務経験を積むか、あるいは大学で所定の単位を終えて簡単な試験を突破すれば手に入る。後者のルートが簡単すぎるので、情報系の学部を持つ大学への利益誘導だなんて噂があったらしい。たしか制度上はあともう一つ、審査によるものがあったはずだがこれは例外だ。
「そういうわけで、人工知能を用いた迷惑行為が多発したわけだ」
今はAIによるSNSの汚染の話。ただ、ここで話されている内容は少し穴があるように思う。もともとこれはとあるサービスが閲覧数に応じた報酬を払うというシステムを導入したことが発端となっている。大富豪がSNSを買って好きなように名前を変えたというのは、知ったときにこれこそ正しい大富豪のあり方だよなと納得した覚えがある。変えられた後の名前は不評で数年で元の名前に戻ったそうだけど。
結果として、自律システムを利用した投稿が増えた。もちろんそうではなく手作業でスパムを作る職人たちもいたのだが、効率が悪くて追いやられてしまったと聞いた。初期のそういうアカウントは流行ったコメントをそのまま転載するだけだったが、次第に文脈を理解して応答をするようになっていった。
同時に急速に進んだAIの生成技術の発展とコストの低下によって、人間と人工知能の投稿の区別はつかなくなった。この時期は決して長くはなかったが、かつてはAIと人類の共生の姿だなどと言われていたらしい。
しかし、その後に起きた国際情勢の混乱──いわゆる「紛争の十年」の中でこのように眠っていた、あるいは人間として振る舞っていたアカウントは特定の意志を持って動き始めた。ただ、これが本当にbotと呼ばれたようなコンピューターによるものだったのか、あるいは人間がこつこつやっていたのかはわからない。ただ、裏社会でそういうアカウントが大量に取引されたのは間違いないそうだ。
あるサービス会社は自動判定システムを導入してAIを排除しようとしたが、多くの人間を名乗るアカウントも同時に排除された。一部のコミュニティではVK試験と呼ばれる手法によって人間かどうかを判断して隔離された空間を作ったそうだが、その中でもAIは潜り込んできた。
そもそも、匿名性を重視した空間でそういった相手が人間かどうかを判定することが難しいのだ。そしてもし閉じた空間に偏りを強く持った意見を持った存在が現れると、そのコミュニティ自体が特定の思想に染まることがある。
「こういうふうに、技術は悪用されれば多くの人が傷つくことがある。その一方で、身の回りには多くの機械処理が含まれていることからわかるように人類はこの技術を捨て去ることはできなくなってしまった」
先生の言っている内容は話半分に聞いておく。とはいえ僕が知っているのもこういう事件を纏めて
そうそう、さっきの思想の話。一説によれば、「紛争の十年」と呼ばれた複数の国際的な衝突というのはインターネットによって作られた世論が影響しており、その裏ではAIを用いた何らかの陰謀があったんじゃないかという話がある。正直、僕はこういう話をあまり楽しめない。
宇宙人が合衆国政府を支配している、とかならまだいいんですよ。ただ根拠を並べられて背筋が不気味になって疑心暗鬼になるような内容を、その結末まで語らずに出すのは少し無責任だと思う。
少し闇のインターネットに潜ってみれば、未だに文字のやりとりを好むような人たちが日夜議論しているのを見ることができるだろう。陰謀の主体は様々だ。当時の超大国政府だという話もあれば、軍産複合体であったり影の世界支配を企む評議員会であったり。そんな陰謀ができるならそもそも紛争を起こさなようにしてくれませんかね。
というわけで今回の授業の出席兼リアクションペーパーが配られていく。こういうのもアドレスを事前に配布しておけばみんなXR端末をかけてさくっと終わるし、集計も不要で紙も無駄にならないと思わないこともないが紙には紙の良さがあるのはわかる。何かあった時に燃やして処分もできる。芋も焼ける。
人工知能のリスクをきちんと理解したうえで、技術者として責任を持って使っていくことが大事だとわかりましたみたいな薄っぺらい言葉を書き連ねていく。こういうのを書かせるならどう考えても人工知能のほうが得意だ。人間には制御しにくい感情というものがあって、気分が悪いとそれが文章ににじみ出てしまう。人工知能ならここらへんの調整も容易になっている。
ただ、まだ人間になりすまして大学の授業に出席して紙に文字を書けるほどの汎用性を持ったロボットはできていない。もしそれが社会に溶け込んでしまったら、かつてSNSで起こったようなことが物理世界でも起こるのだろうか、と少しだけ怖くなったあたりで授業終了のチャイムが鳴った。