なんとか授業を終わらせ、部屋に戻ってきた。眠気がひどい。とはいえここで寝たら生活リズムがくるってもっと大変なことになる予感がする。
ええい気にするものか、と私は布団に入る。もうエアコンをつけないとつらい時期になってきた。まだ七月には入っていない。つらい。もう大学に行きたくないぐらいだ。
とはいえ色々とやるべきことはある。課題も積まれてきているし、中間レポートとかの時期にもなってきた。ちなみにこういうのを見せてもらえる友達とかはいません。いや別に同じ学科に知り合いいないとかじゃないですよ、北尾とかいますし。
エアコンをつけて、薄いマットレスをかぶって部屋の電気を音声認識で消す。目を閉じる。
考える暇もないぐらいに、意識が引きずり降ろされる。この微睡みの幸せがあるから、徹夜の苦しみも耐えられるんだとか余計なことを考えている。最初から健康的な時間に寝ていれば何の問題もないのだが。
目を開ける。体感的には数分ぐらいだし、眠気は寝たときよりも下手したら強くなっている気がするが、それでもちょっとだけ疲れは取れた気がした。時間を見ると良い子が寝るぐらいの時間になっていた。今日はVRせずに寝るのもいいな、と思いながら晩ごはんを温めていると頭の中でちょっと嫌な感じがした。
ええと。今日の日付を見て、オンライン授業システムを確認する。あっやべ、日付が変わるまでにやらなくちゃいけない線形代数のレポートがあるじゃん。別にこれぐらいなら自動処理でもいいのだが、大学側にログを取られている状態でそういう不正をするほどわたしには勇気はない。
というわけでご飯を口に詰めていつものBar Panoptica。基本的に手書きというか手袋型のデバイスで書いた文字を補正かける感じです。印刷して手書きでやったものをスキャンしろとかいう今は本当に2048年だっけみたいなことを要求してくるが、不正とかを考えたら仕方のない面があるのもわかる。
「おっソニドリさんか」
手を挙げて言う彼の手元にはたぶん日本酒みたいなものが入ったおちょこがあった。ちゃんとこの人はこのワールドをバーとして楽しんでいるんだよな。日本酒ってこういう雰囲気のバーで出されるものなのだろうか。詳しくは知らない。
「なんだ、今日はかせくり氏ですか」
一応理系の人だし色々聞けないかなとも思ったが、聞いたところで微妙な問題ばかりである。ちなみにレポートになっているのは反復法の比較だ。いやこれを手計算させるのは辛すぎないか?
なので悪いことをしよう。まず自分の手書きフォントデータを読み込みます。最後に軽くノイズを乗せて生成をかければ写真かどうかの判定についてはごまかせます。印刷してもいいのですが。
「何やってんだ?」
「見ますか?」
別に隠すデータもあまりないのでわたしは画面を共有する。手書き文字データからサインとかを盗まれる可能性があるって人もいますが、わたしはそういう署名をする時はちょっと独特の書き方をするようにしているので大丈夫なはず。そもそもサインで確実性を保つってものすごいいい加減だと思うんですけどね。顔認証とかと同じぐらいにしか信頼しないほうがいいと思う。
「なるほどな、で、計算過程を手書き風にすると」
「よく一瞬でわかりますね」
大学指定でない、つまりは使っているのがバレたらまずいAIを起動。これは数値計算とかが得意なちょっとした処理用のやつで、さらにオフラインなので問題になる可能性は限りなく少ない。問題文を打ち込めば、自動的に流れを作ってくれる。
「この手のやつは大学時代にやったからな、その時は普通に途中過程は
「なんですかそれ」
計算過程が思っていたのと違ったので修正。残す部分とそうでない部分を切り分けてもう一回内容を精査させれば、ちゃんとやりたかった通りの数式が出てきてくれた。
「知らんのか、組版……つまりは印刷物に文字を並べるのとかを専門とするソフトで、数式を扱うのが得意な代物だ」
「そういうのがあるんですね」
「というか、今ソニドリさんが使っているのもたぶんその系譜だぞ」
「そうなんですか?」
確かに普通はテキスト出力なのに数学系のものを扱うと自動的に数式モードになるな、と思っていたがなんかそういうものがあるらしい。便利だ。
「とはいえ基幹システムはver. $\pi$で更新がもうないからな、古いソフトではあるんだろうが書き方というか数式の表記方法はデファクト・スタンダードだからな、覚えておいて損はないぞ」
「覚えておきます」
クラウド同期してあるメモに追記して、わたしは改めてレポートの課題を見る。
内容としては、そう難しくない行列を整理して連立方程式を解くものだ。こういう計算は、本当にありとあらゆる場所に登場する。物理演算。グラフィックス。テクスチャ。量子計算機科学。果ては人工知能に至るまで。本当にいろいろな分野でこういうものを扱うのだ。
数の塊どうしを組み合わせて別の塊を作るのが線形代数の一側面なのだが、その過程は色々と簡単にできる。精度とかをある程度犠牲にした速度重視のバージョンもあれば、そこまでではないが繰り返しによって処理できるものもある。あとはその塊を作る過程を利用して、有用な塊を作り出す事ができればいい。例えば元の式に今のワールドの情報とその中のエンティティの動きの情報を入れれば、計算で1フレーム後のワールドの状態が出てくる。
さすがにこれは比喩的な表現過ぎるな。ちょっとよくないかも。そして本来であれば一瞬とも呼べる時間の間に行われる膨大な計算の繰り返しの一部を切り取ってきて、それを試してみようという工程だ。無人コンバインが何台も走る横でやる田植え体験みたいなものだと思ってください。手を動かすこと自体に意味があるのです。
「なるほど、ヤコビ法とガウス=ザイデル法か」
「わかるんですか?」
「昔触ったからな」
とか言っているが、かせくり氏の手の動きが空中の非表示になっているウィンドウを動かしているものだということを考えると名前は知っていて今確認用に調べたのだろう。別にいいけど。
残り時間はそこまであるわけではない。電子提出ということは締切が厳密だということだ。できたやつを大学指定のAIで処理して──こういう使い方は規制されていない──ちゃんと正解であることを確認し、わたしは送信ボタンを押した。