雀の熱弁も水蓮による馬の炙りもいまはむかし。
というほどではないが。日々いろいろありつつ過ぎ去り、なんだかんだとまた距離は縮みゆく中。
猫猫の非番と、任氏の手隙を重ねるべし。
そろそろ、とにやり不敵に笑う雀が影のうちに用事を取り付けた。
「月の君へ、疲労に良い処方を届けて欲しいのですよぅ」
誰に、とは蛇足であった。
当番などこっそりと把握した雀の差金と馬良、麻美の協力により日程が圧縮されたため、任氏は実際また徹夜仕事をせねばならぬはめとなった。
ああ、まだ手が足りぬかこの程度で徹夜とは。
仕事人間は疑うことも知らず、人員の問題を改めて突きつけられる思いで頭を悩ませたが。
終わってみると訪れた、突然の空白に疲労した体。
「なんなんだ…?」
よくわからぬが、無理やりまともな休みを作ったのか。にしては強引すぎではなかろうか。二日徹夜したのだ。流石に、回復の遅れを感じざるを得ない。
のそりと起き出した任氏は凝り固まった体を動かそうと軽く剣を振り、だが、存外軽いことに気がつく。まとまって寝たのは幾日ぶりかとはたと。そういえば昨日は水蓮が新たに仕入れたという薬茶を寝前に出したのだったが、あれも良かったのだろう。
「無理はだめだな、たしかに」
また怒られてしまう、とひとりごちる。
「誰に怒られるんですか?」
思わず背筋が伸びた任氏である。
「ちょっとびっくりしすぎではないですか?仮にもあなた様の想い人の筈なんですが」
振り向けば、貧相な鶏ガラを自称する、ジト目で紙袋を手に提げた愛しい人がおり。
徹夜させられたのに予定外の休養日、そこに非番なのだろう仮粧もしていない猫猫。
ああもしや…これは雀の策か?でなければこんな強引な手は…。
ともかくそうであれば合点が行く。だが、ありがたい。
「…来てくれたのか」
思わずにこりと。
からりとくだけた青年の笑顔だった。
「また寝ていないのですか?」
「いや、昨夜は眠れたからな」
「ではその前はいかがですか」
「一応、寝所には帰っていたぞ。この二日はまぁ、忙しかったが」
確かにまとまって寝たらしく、元気に剣を振るってはいるが。
「けどまだクマも取れてないし肌艶がよくないです。任氏さまのいう一応は当てになりません。"忙しかった"というのはどうせ徹夜したということでしょ。雀さんのいう通りに薬を持ってきてよかったです」
「なるほど、雀が手配してくれたのか」
そうだろうと勝手に思っていたが、薬の手配までしてくれるとはありがたい世話焼きである。
「なるほどではありませんよ。体力を無駄にせず、ゆっくりとしないとダメです」
「ちょっと体が凝り固まっていてな…」
「按摩くらいならして差し上げますから」
はい、これ持って。はい、お部屋へどうぞ。
机仕事ばかりだと背筋も痛くなるものだし、もう少し体を動かしたいのだが。ぶっきらぼうに薬を持たされ怖い顔でえいやえいやと背中を押されては素直に従うほかない。
さて長椅子に座らされ、薬の説明をされる任氏である。促してもいないのに自然と横に座ったその横顔をわずかばかり不思議そうに眺めたが、せっかくの説明を疎かにしてはならないとその目線を卓に移した。
「これは人参、白朮、半夏、陳皮などを合わせたものです。神経の緊張を和らげ、睡眠の質を良くします。胃腸を整える作用もあるものです。忙しくお疲れになる時、またはその後でも数日服用と回復を助けます」
日に二、三回食前、五から七日程度が目安だという。
ほうほう、とよく聞いておく任氏。まだ薬に頼らねばならないというほどとは思ってはいないが、無理にならないように工夫するのもまた大事な事なのだなとあらためて思う。過ぎれば毒、上手く使ってこそ薬。
「ところで、今日はそばかすもくすみも落としてきたのか」
「誰もいない邸内でなら落としてかまわないでしょう?たまには素顔も見せておきたいのです。というか聞いていました?」
「ああもちろんだ、回復を助けてくれるのだろう?」
説明に返事をせず先に尋ねたのがいけなかったか、途端に事務的な顔を見せるのですぐに話を戻した。仕事人間なところは尊重せねばなるまい。自分もそうであるし。せっかくきてくれたのだから怒らせたくもない。それになにやら嬉しいことを言ってくれているし。
「その通りです。あくまで助けるものであって治療効果を得るものではないです。そもそもなるべく無理をしないよう」
「わかった」
世話をかけてすまない、といいかけて。
「素直が大事ですよぅ」と雀の声が聞こえた気がした。
余計な手間をとらせてしまうなぁ、などというのも己の気持ちではあるが、最も伝えたいこととは何か、というのが大事なのだろうな。素直と考えなしを一緒くたにしては、それは確かに伝わるものも伝わらないだろう。
「ありがとう。素顔を見せたいというその気持ちもな」
花街の薬屋で見ていた記憶からすると、この丸薬の乾き具合からみて調薬は昨夜あたりか。
体格、体質などにより塩梅が変わるというので、作り置きではなくわざわざ配分を考えて調合してくれたのだろう。
そも、顔を見せに来てくれただけでも嬉しいのだが。
さてその見て嬉しい喋って嬉しい顔がまんじりともせずこちらを見ている。見慣れたくすみと雀斑の肌でも可愛らしいのだが、仮粧をせぬだけの素顔は、その分だけ瑠璃紺の瞳の美しさを引き立てるようで任氏の脈を早める。もしかすると、何も言わないでいるのが気に食わないのだろうか。既に幾度も目をやり惚れ惚れとしたのだが、きっちりと薬を説明する彼女は気がついていないのだろう。
「それに、その髪もよく似合っている」
やや高めに髪束を交差するように結び目を作った、紙紐の見えないすこし手の込んだ一つ結びに月と芥子の簪が光っていた。
横顔を見れば怜悧で余計な色のないすっきりとした美人なのに、見上げてくる仕草はたまらなく可愛らしく、思わずとも任氏は愛おしさに頬を緩めた。
簪に悪戯気にとんとんと指で触れ、髪から頬を撫で下ろす。
華を添えるように着飾ってもよく映えるが、派手さのない何気ない装いもまた猫猫らしい。
休日に愛しい人が側にいる。なんと幸せだろうか。任氏はその幸福感に任せてにこりと微笑みかけた。
「今日は何故そんなに素直で良い笑顔なんですか」
抑えた低めの声で問われる。
半目でじっと見つめられ、かえって任氏が戸惑うほどであった。
「そうか?少しは肩肘を張らずにいようとは、近頃心掛けてはいるが」
そんなに違うだろうかと。
「子供っぽくて男臭くもある、良い笑顔です」
びっくりしたように、きょとん、とあどけないほどの表情を見せる任氏の前髪を猫猫の手がかきあげ、なんとも優しい表情が向けられる。
その手を受け入れて、任氏はそっと目を伏せた。
心拍が上がるような、胸が苦しいような、にもかかわらず深く安らぎ落ち着く不思議な気分だった。
「それはきっと、猫猫が一番の薬だからだな」
それは紛う事なく。猫猫が見せる優しさや時折の笑顔のような特別なものでなくとも、ただそばにいるだけでも。
「…何言ってるんですかちゃんと寝てさっさと元気になってくださいあと仕事はもっと割り振るか投げてください」
一瞬の間があって、猫猫は一息に喋ってさっとそっぽを向いてしまった。
実にぶっきらぼうな声で。
素直な言葉のつもりなのだが、この言い回しは気障ったらしかっただろうか。
「ああ、早くに努力する」
少しの圧縮ですぐに無理が来るなら、そも割り振りは考えねば降格したとて満足に家に帰れないということも少なくないだろう。副官を増やしたはずであるのにこれでは、といい加減追加で人を取ることも真剣に考えねばならないと検討事項にあげたばかりではある。
その背中に話しかけながら、こちらを向いてくれないなと残念に思いつつ。
なんだか余計にツーンとしてしまっているが、別に怒っているわけではないのはわかる。いつもなら「若いからどうにかなっているだけでその内過労で死にますよ」など辛辣なことを淡々と言われるのであるが。それが黙してしまっている。どうにも落ち着かぬし、こちらを向いて喋ってくれないだろうか。
幾分寂しさを覚える任氏は、だがその肩の向こうの頬が熱を持っているように見えることにも気がついた。
気障な言い回しをして恥ずかしい奴、とでも思っているのだろうか。
うーむしかしせっかく来てくれたのだからもう少し楽しく話したいような、せめて背を向けられずに共にのんびり過ごしたいような。
いや来てくれただけでもうれしいのだから焦らず堪えるべきか。
黙してしまったその背を見つついろいろと考えつつ。そうしていると雀が思い出された。
(背中なぁ…)
まぁ、くすぐったいくらいで怒りはしないだろう…。
空気に応じてないので突飛だし、多少不機嫌にはなるかもしれないのが心配ではあるものの。ちょっと今の膠着したような、なんと言って良いかわからぬ空気を変えるには、やってみてもいいのかもしれない。
任氏は戯れつくというには硬すぎる面持ちでそっと、むしろ慎重すぎるほどの手つきで、二指の指先をつかってツツと背を撫で下ろしてみる。
「ひゃっ…あんっ」
劇的であった。
一般にいうくすぐったく可愛らしいの範疇を遥かに超えているじゃないか、と任氏は己の想定の甘さを呪うべきかなど何故だか明後日の方のことを考えた。
びくりを身を震わせて頬をいよいよ赤くした猫猫が睨みつけてくるが、それすらも。
「なんなんですか、変な声が出たじゃないですか」
どうせにやにや悪戯な顔をしているんだ、と睨んだのに、何故かそこにあったのは半ば固まった真っ赤な顔であり。
猫猫は予期しない沈黙に戸惑うしかない。
「どうしたんです。…喋らないと怒りますよ」
(これは、なんだ。可愛すぎる…)
とても素直なこころであった。
その仕草も声も、真っ赤なまま怒りますよと肩越しに振り向いてジト目で見あげてくる様も。気がついていないのか、怒っているようでその声は実に甘やかで。たった今まで自分が黙りこくっていた癖に、喋らないと怒るぞと要求してくるところまで。
「すまん、ちょっと待ってくれ。お前が可愛すぎて…」
言葉もない、と任氏はすいと左へ目を滑らせ、右手で瞼を押さえるように背凭れに沈んだ。
「何を…莫迦じゃ、ないですか」
力みも虚飾もない、むしろすっかり狼狽えているかのような任氏の様に、莫迦じゃないかと呆れるはずで、何故か声が窄まってしまう。
「莫迦とは酷いな」
猫猫の言葉に思わず小さく笑っていると、少しずつ嵐のような愛おしさが落ち着いてくる。日向のような暖かさを残しつつ。
不意に、右腕の下を潜って胸に頭が凭れ、腿にあった左手は猫猫の右手に指を絡め取られた。
かすかに湿っぽくひんやりとした手のひらの柔らかな感触と、胸に収まってしまった猫猫の香りに、心臓が悲鳴をあげるように跳ねた。右手が行き場を失ったように宙をしばらく彷徨った後、猫猫の肩に落ち着いた。
「動悸が酷いですよ、脈も上がってます」
揶揄うようでいて、軽く掠れて震えた硬めの声。
「…仕方がないだろう、俺はお前が──」
「わかってますから。これは、補充です」
小さく小さく口の中で「私も」と加える。
(聞こえただろうか)
どちらでも別に良いと思った。伝わっているはずだ。
伝わっているだろうけども。
「任氏さま」
「ん?」
「その、わたしも、ですから」
言葉の代わりに、右腕で抱きすくめられ、左手の指はより深く絡められ。
猫猫の髪に鼻を埋めるようにして任氏はすんと香りを吸った。
「こら、吸うな、匂うな」
湯浴みしてきてないんですから、と胸板を頭でぐいと押しやり、猫猫は任氏の腿に手をついて体を起こした。
目が合うと、少しの間沈黙と呼吸の音だけとなった。
「任氏さま」
「なんだ」
「まだ真っ赤ですよ」
「幸せだからだろう。…お前だって真っ赤だ」
「そうですか?」
「そうだ」
「なら、私も、かもしれません」
任氏はただ「そうか」と猫猫をその胸に抱き寄せた。