任氏は腕の中の愛しい者の息遣いまでも包み込みたいような心地で、緩やかで大きな波のように打ち寄せる感情に震える思いがした。
これは一つの望んだ形だ。肉欲ではない、尊ぶ人の温もりを伝え知ることは、そのものが尊い。肉欲色欲を否定するものでもなく、任氏も自分に片が付けばきちんとその日は迎えたいとも思う。
だがそれは決して肉によるものでなく、心によらなければならない。そもこころが大事なのだ。心が触れねば、いくら触れ合っても。
思いがけずこうして心を通わすような触れ合いとなり、任氏はその幸福を受け取るとともに、己の想いの強さに改めて気がつく思いであった。
猫猫の鼓動が伝わってくることに深く息を吐きつつ、任氏はだが取り留めもないことも考えてみる。
何故こんなにも猫猫は自分を卑下するのだろうか。
貧相、鶏ガラ、肉なし、無愛想、などなど自身を一般的女性的魅力に欠くと評する猫猫であるが…腕の中で静かに息づく身体のなんと華奢で柔らかなことか。裙から覗く右のふくらはぎの、筋肉と控えめな脂肪を肌理細やかな肌が包む女性的なすらりとした曲線の何と美しいことか。
養父が引き取り薬師として育てたとは言え、妓楼でも多くの時を過ごしており、そこで特に可愛がってくれたのがかの三姫とくる。色香、知性、均整だけでなく豊満さを湛える肉体、それらを体現する特上の「女」というものを間近に見て育っては、その目に偏りが出てもしょうがないのかもしれないとも思う。
が、惚れた弱みとは言わない。着飾った彼女は装飾に負けることもなく自分の一部とし映えさせる器量を備えているし、そも素肌の姿だけで美しいのだ。少しは自分というものを認めても良いのにと思う。
さて、その左のふくらはぎにはまだ裂創の跡が残っているはずだった。この自分を助けるがためについてしまった傷だった。
だいぶ以前の話ではあるが、頬に調薬してくれた軟膏が思いのほかよく効いたため、任氏は猫猫自身の足にどうかと話した。今更傷の一つ面倒だという顔をしたが、仕事が増えぬように薬はこちらで用意負担すると半ば頼み込むと不承不承分かりましたと返事をしてくれた。
それからまた様々あり一年以上が過ぎた日、「そういえば任氏さま」と突然裙を捲って驚かされたが…裂創の白い筋を残すのみで、縫合の引き攣れや肉芽跡が殆ど分からぬほどの美しい肌理が見えた。本当に良かったと指先でその残る白い筋をそっとなぞって「変態ですか」と怒られたのものだ。
「長期間効用が見込めることは分かりました」と淡々としていたが、ただ「やはり傷は気になりますか」とも。その顔は色が薄いようにも。
いろいろと複雑ではあるが、言葉にするならば、自分が原因となり大事な者が傷つき跡が残るなど任氏には許しがたかった。それに、自分が叶わぬとして、彼女を見染め彼女が認める者が在ったとき、その障になるようなことも。そうじゃない、の一言では流石に足りぬことは分かりきっており任氏も拙いながらそのように話した。後者についてはかなり勝手な、というか独りよがりな話であるが、つい話してしまった。
話したら話したで、莫迦ですか?と言われ。お前のような物好きがそうそういるか、とでもいうかのような半目もされた。
ただ、莫迦だというその口元が綻んでいたのが懐かしく。
抱きすくめたり、額をくっつけてみたり、頬を合わせてみたり。色欲や滾りとは別の、愛しいものに触れていたいという渇きのようなものを満たそうとするべくゆっくりとくっついていた。
任氏がふくらはぎを撫ぜると、猫猫がくすぐったそうに足をばたつかせる。
「任氏さま」
「何だ?」
「私には薬を塗らせ続けておいて、どうして自分はやめてしまったんですか」
すこし不満に思った事を思い出したらしい。
べつだん薬に不満があるわけでも無かった、その引き攣れも緩和する効用は素晴らしいものであるとわかっているし。
しかし、猫猫が塗ってあげねば自分で塗ろうとはせず、あまり積極的ではなかった。猫猫がしてくれるから薬を使っておく、という感じであったし、その点は調薬からいろいろと考えた当の猫猫からすれば、何を考えてるのかと。
「あまり綺麗にしても勿体無いと思ってな」
「何がです?」
「お前が褒めてくれたからな」
「…あー、あなたはそういう人でした」
猫猫はしょうがない人だ、というため息をつく。
「まぁ話せば呆れられるとは思っていた」
「呆れられるとわかっててなぜ話しますかね」
任氏はからりと笑い、ふわりと触れたかはっきりしないくらいの掠めるような接吻を耳に滑らせる。
「お前を好きだという話なら、素直になってしまうのかもな」
「あ…ずるいです」
「何がだ?」
何がと問われても何がと答え難い文句ではあった。
少しは素直に足りぬ言葉を埋めたいとも考える自分の前で、唐突に過ぎるほど、なんの加飾もない素直な好意をさらりと言葉にされては…。なんだかいきなり一人相撲をさせられたようで。しかしらそれを上手く言葉にできる訳でもなく。耳に触れた唇や吐息、それに声。それらがもたらした胸の不可解なまでの拍動が余計に猫猫に"ずるい"と言わせる。
「…では聞かせてください。任氏さまはこの貧相で無愛想な醜女のどこが良いのですか」
任氏の膝の上でツンとした様子を見せても間が抜けているかも知れない、だが猫猫は己のことなら素直だという任氏に強気なそぶりで問うてみた。
人に好みはあれど、一般に魅力的とされる要素があるとは思っていない彼女にとって、この天女のようなかんばせを持った皇族がなぜ自分を好いたか、というところにおいてはきちんと納得いくものを持っておらず。
全てにとは言わぬが、納得は猫猫にとって優先されるべきものであり、そして重要な事柄であるほどに。
「答えて貰いましょうか、素直だという今教えてください」
その目の鋭さに、質問というか尋問めいてないか?とせっかくの甘い雰囲気の中で任氏はちらと苦笑いしたが、そういえば今まで好ましく思うことを伝えたことは数えるほどもなく。
猫猫の性格を考えると、確かに言葉にした方が良いのだろうとも思った。
しかし一言にするならば大部分であるし、一つ一つ数えれば長い。
「それは例えばどういう…っ」
問いを返す前にその耳に食いつかれ、任氏は面食らいつつもなんとかその細い首を引き剥がそうとしたが、力もうまく入らず、かといって思い切り強引にするわけにもいかず、うなじを両手で柔らかく支えるような格好となった。
柔らかな唇と舌が、耳を這い回り、少し荒い息が時折耳孔をくすぐる。
終わる頃には、すっかり任氏は腰が抜けてしまった。
「質問を質問で返すのは礼に反します」
「お前、人にずるいなどと言っておいて…」
息も絶え絶えに漸くそれだけを返す。
どういう、と問うのは許さない。要は、自分の言葉で、という事なのだろう。
濃密な接触で違う興奮が頭をもたげたが、彼自身今求めているのはそれではなく心を触れさすようなそういう交わりである。それにはこの滾りは邪魔ですらあった。だがありがたいことに、相変わらず瞬く間に蕩かされてしまいそうになる己への羞恥が上回ってはくれた。それに、聞いてくれたからこそ言葉にしやすくなるものもある。これは大事な言葉だと任氏は思う。
「…わかった」
膝の上の猫猫をまたその腕の中に収めた。これほど、というのははじめてかもしれないが、それにしてもそばに寄っても、くっついても嫌がらないようになったのはいつの頃だったか。自分自身やたらと抑制せずに良くなったのはどの頃だったか。
染みついた薬の香りに混じって、猫猫自身の香りがした。甘やかではない、人の匂いである。だがそれが愛おしい。
さて自分も言葉が十分だとは言えないところがあるのは知るところである。この腕の中の人物に比べればマシなのであろうが。
どこが、というのはなかなかかい摘むのは難しい。数年見てきた中で、何度惚れただろうか。無理に綺麗に言葉にしようとはせず、少しは冗長でも自分の真ん中に問うたそれを言葉にするしかないだろう。足りぬよりはきっと良い。
「長くなるぞ?」
「…ある程度はまとめてください、覚えられないと困ります」
覚えておくのか、と任氏はおかしな気持ちにもなったが、それだけ心に留めておきたいことなのだろうか、と思うと胸が詰まった。
「…そういうところだ」
「そういう?」
「まず、人として可愛らしい」
「…それなりに変わっているとは自分でも思うのですが」
「話の腰を折らないでくれるか」
やれやれ、という風に背中を手のひらでぽんぽんさすりながら。
「素朴さも逞しいところもあれば、虚飾に頼らない透き通るような美しさもある。誰に対しても、その言葉や行いを見ているし、変な驕りがない。真面目で実直で、甘さではない優しさもある。…とにかく可愛いんだ」
猫猫は自分で問うたくせに我ながら面倒だとも思いつつも、小さく首を振った。
「可愛いとか、綺麗とか、私には似合いません」
「猫猫を雇い直しに妓楼から迎えた時、俺がおかしな様子だと思わなかったか?」
そういえば…。だいぶ古ぼけてきていた記憶を辿ってみるに、自分が促すまで呆けていたり、人に見せたがらない仕草をしたり、そばかすの仮粧を言いつけたり。
「なんだか、そういえば…」
「あんまり綺麗なお前を他の者に見せたくなかったんだ。そばかすを取るだけで美しいことがバレてしまうと思った。…他にもおかしなことはしてると思うが」
「柱に頭を」
「それは言わないでくれ」
思わず、という風に任氏が顔を背けて口を尖らせている。ピシャリと早口な調子で。あれは流石に当人もかなり恥ずかしい記憶であるらしい。
「ちゃんとなんでか教えてくださいね。今度でいいので」
とびきりの笑顔が劇薬になったその具体的なところ、是非詳しくと面白がっている場にそぐわぬ目をしたらしい。
「わかった、わかったから。ともかく」
言ってはいないが、参ったという風に眉が下がってしまっている。
もう少し虐めたい気がしたが、首をぐいと捻じ曲げた任氏が勘弁してくれという顔をするので、辞めておいた。
「ともかく」
任氏は一旦言葉をおくと、ぽんぽんと背中をさすっていた手を腰に回し、きゅっと抱き寄せた。自然、その口は猫猫の耳元となる。
「笑顔もたまの甘えも、心臓が鷲掴みされるようだ。うまく言えないが、たまらなく愛おしい。猫猫、ずっとお前を見ていたい」
猫猫は任氏の肩を支えに体を起こし、視線を絡ませた。その頬はわかりやすく上気していると同時に、どこか不安気に瞳が揺れていた。
「耳元でなんてことを言うんですか」
「質問に答えただけなんだが」
耳元となったのはまぁ、任氏が抱きしめたせいかも知れなかったが。
「長すぎだしくさすぎます。胃もたれしそうです」
「ならば自慢の嘔吐薬で吐き出してもらおうか」
「いやです。きっちり消化します」
恥ずかしようなおかしいような顔で二人して破顔する。
やや間があって、猫猫は任氏の胸元あたりに目線を落とした。その瞳の揺らぎに現れたものを吐露するように、小さな声だった。
「…大事に思ってくれるからと、甘えてしまっても大丈夫なんでしょうか」
「むしろ、俺の方がお前に甘えてきた」
「私は、自分にできる役割を果たそうとしたまでです」
「だが、それでまた好きになった」
なんの媚もなく大した気も遣わずに線引きだけしていたはずなのに、この御仁から見ればさらに惚れさせる要素だったと…。
なんなら、わりとぎりぎりの線まで攻めたようなこともしてきたし言ったきたつもりでもあるのだが。
…自分をよく思ってくれるのは嬉しいが、なんだか基準がわからぬ。
任氏の気持ちを受け入れると、見聞きしたものや、自分の感情のあり方の変化の意味がわかる気がした。そうやって認識し、そして事実として感じたのは、あたたかな、だが確かに男女としての情が自分の中にあることだった。
しかし、いわゆる愛しいとされるような自身の任氏に向かう気持ちを知り受け入れても。半端になるかもしれないなら、初めからない方が。そうして淡々と生きた方が合理で余計な面倒に巻き込まれぬ、という選択を取り続けたその心の動きは、他人の愛情を初めて知る臆病な心は、時に彼女を弱気にさせる。誰しも持ち得る迷いではあろうと思うものの。
「でも、何故なのか、よくわかりません」
「猫猫だからだ」
「はい?」
「だから猫猫だからだ」
いろいろと気にしてしまうのが莫迦莫迦しくなるほどの早さだった。
どういう人が、どういうところが、ではない。目の前のこの人そのものが愛しいのだ、お前以外にはない。
そのような真っ直ぐに過ぎる言葉だった。正直言葉としては足りない。私だからなんなのだと思うけれど。でも。
猫猫はふっとおかしくなってしまった。なんと莫迦らしいのだろう。
「なにか、おかしいか?」
むむうと任氏が訝しむ。おかしな事など何一つ言っていない。数年来の慕情、そのまま好きだと言って何がおかしいか、くらいにしか。
「一つ、わかった気がします」
「…なんだろうか」
「それはですね」
赤面しながら神妙な顔をするという珍妙な技を見せる任氏に、猫猫は楽しそうに、愛しそうに笑った。
「秘密です」
「それは、ないだろう」
空気が抜けるかのように、表情の力みが抜けて情けない顔となる。
なんと情けない顔をすることか。これが、東宮も皇族である事も辞して自分の道を拓こうとした人だろうか。いまや二人分を拓こうと奮闘しているのだろうに。甘い声と甘い顔以外に特別に秀でたものがないと嘆き、それでも知も武も磨き並の人間では敵わぬような努力を重ね、実直な仕事をしてきた人間が。
傷跡の走る右頬に指を滑らせた猫猫の目は、真っ直ぐに深い青藍を任氏に見せている。
「…素直だ、と言われるとつい欲張ってしまうくらいには」
今度は悪戯ではない、優しく啄むような接吻をその右頬に降らせる。
「任氏さまが好きなのですよ」
きっと私も同じだ。任氏だからなのだ。
夫婦になれるとかなりたいだとか、形式的な見方以前のことだ。
自然と共に過ごしたいという気持ちは、確かに。
猫猫はずっと顔を真っ赤にしたまま目を白黒させる任氏をおかしげに眺めた。本当に、華美にすぎるかんばせの持ち主のくせに、自分には頓着しないというか。
真っ向からとは言え、惚れた欲目でみたって
まだ言いたいことはあるのだが、もしかして心臓に悪いだろうか?
いやいや流石にそんなことはあるまい。若いのだ、多少のことはものともしないだろう。
それに、きっと今でなければもう恥ずかしくて口にすることもないだろう。
猫猫は早る自身の鼓動を嫌というほど感じて、思わず唾を飲んだ。
「…私は、無愛想で、言葉が足りなくて…あちこち傷だらけで、女らしさの…足りない女です」
何故だろう、さっきはすんなり二文字が言えた筈で、何故こんなに詰まってしまいそうになるのか。
毒や薬のことばかり考える変わり者の、人の心に鈍い女です、というのもつけてやろうくらいには思っていたのだが、すっかり出てこなくなってしまった。
「その、私が良いと言うなら…こっちだって」
こっちだって。そこまで言って、ああそうかと気がつく。
何でこんなに恥ずかしくて緊張して詰まってしまうのか。
だってこれは、一つの返事じゃないか。猫猫にしては熱烈すぎるくらいの。任氏は気がつくだろうか。
変に気が強い捻くれた女の、ちょっと素直な告白と思うだろうか。
でも、いまでないときっともうこんな事言えないのだ。言ってやらないのだ。
そんな気持ちが奥底で尻すぼみになる心をぐいと押した。
あるいは真っ直ぐに見つめてくる任氏の瞳に引っ張られた気がした。
「こっちだって、離れませんし、離しません」