さて或いは。
或いは、もしこの身が生まれなければ。この身が不具であったら。この身が病弱であったら。この身が違う人間から生まれていたら。
それは際限のない可能性の妄想だが。
くだらない話の種くらいには面白いかも知れない。思考実験的な面白みがあれば尚良いし、少なくともその「或いは」になんらかの情緒的変化を起こしうる条件を当てはめて面白がってみてもよい。
しかし、どうも或いはと話すのも妙に面白くないことはある。
所謂、「流石にそれはない」というべきものであり、思考にあげても面白くもないし、情緒で見ても想像もつかず、という内容になるだろう。それは特に過去のことなど。
ただの冗句のような話であることが大半であるので、こんな風に形式ばって考える必要もふつうはないのだが。
「猫猫さん猫猫さん」
「雀さん雀さん、どうしました?」
「私手隙なのです」
うん。なんだかその感じだけども。
「そうですか」
「そのお返事はちょっと寂しいのですよぅ」
いや、ただの相槌ですって。
「暇つぶしにでも付き合ってくださいよぅ。題してもしもなお話なのです」
まぁ話を持ってきたのがこの人なので、別にイラつきもしないのだけど、率直に言ってあまり興味ないなぁと。
「興味ないなぁ、というお顔がなかなか良いですねー」
「また読んでますね」
それは仕方ないのですよぅ、と雀さんが笑う。
まぁこの変化がわかりづらい表情を読めるの人はほぼいないので、親しい証拠みたいなものだ。
「それは違いますよう」
「何がです」
どこから引っ張り出したか筆をさらさらと走らせてパンっと壁に貼り出す。
「このようにですね」
「はい」
さらさらと書いた割にはいくつもの線が引かれた図、なんだろうか。
…なるほど私の周りの関わりの図。
で、一番読めるのが雀さん。うんそれはそうだろう。だいたいのことは読んでしまうのだし。それにしてもでかでかと「一、雀」はわかり易い
えー、他には。阿多元妃…あまりわからないのだが雀さんが言うからにはそうなのだろう。高順…うんまぁ様子をよく見て気の利く人だ。
水蓮のばっちゃん、うんうんあの人は底が知れない、読んでそう。
辛うじて、という感じで引かれた線上には、あの駄犬か。まぁ小姐のこともあるし他にもちょくちょく話すから、少しぐらい腹芸はできるかもしれない。でもなぁ、駄犬だしなぁ。「下の下」は可哀想な気もするけど。
おやじの名がないのがなんだか気になるというか、気に食わないけども流石に家族は除外してるらしい。変人軍師をここに書くのはダメでしょう?と笑うが、まぁそれは確かに。あの変人は勘が余りにも働くので、案外読まれていそうでげっそりした気分になる。
「これがどうしたんですか?」
「猫猫さんが思うよりきちんと猫猫さんは見られているということですー。そして猫猫さん大事なところを見てませんよ?」
いや見えてる。見えなければおかしい。一番太い線で一番近くで結ばれている囲いを見ればすぐわかる。というか。
「雀さん雀さん、これは月の君ですか?」
「私に合わせずいつも通り任氏さまで良いのですよぅ」
口馴染みがなくて呼びづらいなぁ、というのもお見通しらしい。まぁ、日頃呼ばないしなぁ月だなんて。
「はぁ…。しかしこのまん丸」
「はは、一応の不敬対策なのですよぅ」
まぁ一部とはいえ真名は遊びで文字にしない方がいいのだろう。
はは、といいながらぴろぴろと引っ張り出す小さな旗を片付けようと手繰ると、ところどころに散らばすようにバラした字でるいゆ…。
「こっちの方がまずいのではないですか?」
「これは食べちゃえばわかりませんからー」
相変わらず掴みどころのない人だ。食べるって、腹に詰まらないのだろうか。
で、図に示されてる通りに読むならば、二番目に私を読めるのが任氏であると。
というか、なんだろう、図がムカつくのだが。まんまるお月様、なんて冗句はまぁ良いとして。
「いろいろありましたからね。それはわかります。不器用ですけど」
「ああっ、この素直な瞬間がいいですねぇっ」
懐から小さな太鼓をだして指笛と一緒にどこどんとならしている。その芸いま必要だろうか。
「私の喜びを表すには必要なのですよぅ」
「あっまた」
にひ、というのが似つかわしいような悪戯な笑顔だ。目の細いこの笑顔には愛嬌がたっぷり詰まっている。
「でもですねぇ。極太線で太極というあたり、なんだか揶揄われているような…」
「そんなことはありません。お二人のご縁の強さはこんなものでは描ききれないのですぅ」
「はぁ…」
太極図の陽の陰の部分が猫の顔の絵になっており、陰の陽の部分がまんまる月さまとして書かれている。
これはどうとれば良いのか…。
「猫猫さんという太陽あらばこそ、月の君も輝けるのですよぅ」
「やっぱりなんか揶揄ってますよね?」
いやま、本当なら年月と色々な出来事を考えると一番でも良いくらいだと思う。
地虫を見る目で見つめても動じずにある程度意図を見抜くくらいの目は確かにあるし。雀さんが異常なせいもあるが、ここは不器用さと男女の分かり合えぬ溝があるのかなどおもってみたりもする。
でもほんとに、私がちょっと怒るとすぐに慌てて読めなくなりがちだもんなぁ…なるべく喧嘩しないようにしよ。
「拗れたら厄介ですものねー」
「そうですね。…今のはどうやって読んだんですか」
「ふふふの秘密なのですよぅ」
やっぱり読みが異常だ。これに次いでなら大健闘だと思う。
いや、あの目から読み取れるあたり任氏も異常な域に足を突っ込んでいるか…?
ともかく、良かったね任氏さま。二番手おめでとう。事実上の一番だよ。雀さんも公認。
で、問題は。
「これがどう関係するんですか?」
「さてそこがミソなのですよぅ」
さてまたどこからか持ってきた朱の墨でまん丸の形に派手にバッテンしてしまった。雀さん何がしたい?
「或いは、月の君がもしいなかったら」
いない、というのはどんな形で良いらしい。生まれてなくても、途中で死んでも、私にまるで興味もなく、という筋道でもなんでも。
「そうなると、いろんな縁もなくなりますねぇ…」
「羅のお姫様として外邸にお勤めになったかもしれませんねぇ。でも多分そこまでだと思うのですよぅ」
身請けを止めるものもなく、いやおやじならなんとかうまい具合に諭してくれるかもしれないが、いかんせん力がない。となると。
「後宮には絶対に入れないし、無理に家を出ても官女どまりか、薬屋でしょう」
まぁお勤めはできれば避けたいが、別に町の薬屋は構わない話ではあった。たぶん官女の形で外邸勤務をし、こっそりやめてどこかで薬屋を営むか…。
「月の君が宦官任氏をしていたとしても、興味がないなら話は始まりませんねぇー」
「まぁ何も始まらず、私は薬屋のままということになりそうですが」
よしよし話についてきているな、と思ってるのだろうか。
いやまぁ、雀さんのことは好きなので話に付き合うことくらいはする。
「まぁ好きだなんて、月の君が焼き餅を焼いてしまいますよぅー」
「それは流石にないかと」
もしあったらものすごく呆れるけども。いやないよな?うん、ないない。
「でもでもですね、一つ大事なことをお忘れです」
はて、大事な…。私は結局元から大して変わり映えしないだろうとも思えるし。
「それはですねー。月の君と猫猫さんがお揃いでないと。おそらく──」
「おそらく」
ふむふむ、おそらくなんだ?別に何も変わらないような。
「むむ、わかってませんね?」
そりゃあ、言わなければわからないですよ。私は疎い方なのです。
「聡明な猫猫さんらしくないですー。問いますが、蝗害の対策を事前に練れたのは?」
「あー」
「気のない返事ですねぇー」
「まぁ、あれはいずれ羅半兄がどうにかしたでしょう」
「しかしそれまでに最悪数万以上の民が土になります」
確かに、万全ではなかったとはいえ想定があったこと、任氏と私も動き回りいろいろとしていたし、羅半兄も任氏の取り立てなし動けたかというとうなづけるところはある。
「それにですよ、猫猫さんがいなければ羅門医師も戻ってこなかったわけですよぅ。それはつまり主上の治療がうまくいかないこともあり得たわけですよぅ」
まぁ確かにおやじの目、知識、腕は確実に一役買っている。それがないというのは。
「治療の成功率は下がったかもしれない、です」
なるほど案外影響があるのかもなぁー。など思うが、まぁ仮定の話だ。
雀さんはどうだ、というように胸をはっているが、胸を張るところなのだろうか。
「仮定でもわかっていただけて嬉しいですよぅ。つまり月の君と猫猫さんの出会いは数多の命を救い得るほど尊いのですよぅ!」
「はは…」
なんだか嬉しそうに力説してくれる。
うんでもまぁ、仮定だし。…しかし逆に考えると、事実としてはそうとも言えるのか。私達が今の形で結びつきを得て、それぞれに役割を果たしてきた今があると。
「そういうことですか?」
「そういうことですよぅ」
んーしかしいまいちよくわからない。なんで今この例え話というか、もしもの話を…?
決着がついたわけではないけども、なんだかんだと任氏とは互いに心を触れ合わせたりもしているわけで。
いまさら、もしもいなかったらなんていう話は考えられない。
もしもは未来にしかないし、それも至極現実的なことしか起きないのが常だ。これまでが、というか、攫われて身売りされた町の薬屋が皇弟に見染められなんて与太話が現実になった今までが異常だったのだ。
「んー」
「んー?」
「いえ、割といろいろとあって今ですけど、異常だったなぁと」
「そうですねぇー、でも現実は小説より奇なりなのですよぅ」
これまでが異常。先のこともよくわからない。全てうまくいくとは──必ず、今みたいな穏やかな毎日があることも保証なんてされないのだ。
夢想のもしもより大事なのは、備えのもしもを考えることと、その先の希望を持つことなのだろう。ここまで自分の命があること自体、幸運なのだ。
「私も皆んなも誰がいつどうなってもおかしくないのが、世の中というものですねー」
なんだか話がまとまりそうだが、別にオチがあるわけでもなさそうだ。
雀さん今日は余程手隙?
なんだかんだ、なんら意味のないことをわざわざ話してくる人でもない筈だが…。
「意味はあるのですよぅ。でも、答え合わせはありません。私個人としては、お二人のおかげさまで幸せですし」
「別に何もしてませんし、私こそ雀さんに命を助けてもらったのですけど」
「いいえいいえ。おかげさまですよぅー」
このあたり、本当に掴めないというか。親切なのだけど。まるっと言葉にして諭したいわけでもない。世間話の中に何か意図を込めるくらいの時には大抵そうだ。
私が暇な時にしかこういう長話はしてこないので別に良いのだが…たまには意図を明確に読んでみたいものだ。
「月の君だって、随分と柔らかく強くなられました。猫猫さんのためですよぅ」
「はぁまぁ、むしろ元々が恐ろしいほどの努力家のようですし」
「猫猫さんあらばこそです。近頃は私にも雀さん雀さんと戯れの相手をしてくれるようになったのですー」
「…なるほど」
それなりに付き合いが長い部下だろうに。しかもこんなに態度が軽ろやかな。今更軽口きけるようになったのか。
…まぁ以前はあんな雰囲気はなかったのかもな。
「そうなのですよぅ、いつもどこか張り詰めておいででしたが、器が大きくなられたように思うのです。特にちかごろ、ですねぇー」
この人の人物評は、かなり正確だ。より成熟して、余裕を見せられるようになったということか。ふーむ。私を当たり前に猫猫と呼べるようになるまでもだいぶかかっていたしなぁ…これはまた別の話か。
しかし近頃、とはなんだろう、今は概ね穏やかな日々であるし、個人的に何か出来事があったとすれば。
…んん、もしかして薬を持って行った日のことを言っている?
「んふふー、どうでしょうー」
細い目がもうなくなるのではないか、というくらいニコニコして。
…まさか思い返した情景まで読めるわけではないだろうに。
「雀さん雀さん」
「はいはい猫猫さん猫猫さん。ご用事ができましたか?」
「うーん。ま、ご用事ですかねー」
「憚りなければ、何のご用事か教えてくださいよぅ」
私はまだひまなのですよぅ、と舌を出して笑うなどしているが…この人いくつだったろうか。
憚りはないことだ。勿論。ただまぁ、一応言える相手は選ぶくらいの。
しかしなぜわざわざ言わせるのだろう、全部とは言わないが大抵読んでるのにこんな時だけ。
私にも照れや恥じらいくらいはあるのだ。
「ちょっと、任氏さまの顔を見に」
「あら、それは邪魔だてできませんねぇー」
雀さんが両手で丸を作って笑った。なんだろう?もしかして誘導されたのだろうか…いやまて。
りょうてでまる。
両手?
両手!
そういえば旗を繰り出すときも何気に使ってなかったか?自然過ぎて見逃していた…?
「…いや、やっぱり取り消しです」
「なんでですかー、月の君もお喜びになりますよぅ」
「その右手、いつからそんなに動くんですか!」
任氏さまの顔は後で良い。たっぷり拝んでやる。
でもその前に、巧妙に隠してたらしい右腕のことをきりきり吐いてもらわねば。わざとらしくしまった、なんて顔をしているこの鷺を締め上げてやらねば。
「猫猫さん涙目なのにこわいのですよぅ!」