「今年より、恋知り初むる滿天星、散るということは習わざらなむ」
簾帷の奥から普段に似合わぬ朗々とした声がした。
聞いたことはないが、韻と律からすると東国の歌だろうか。
「どうした、突然歌など詠んで」
任氏は声の主、簾帷の主である馬良の朗々とした声など、雪でも降るのだろうかと訝しんだ。
「…妻からの文です。言祝ぎ申し上げる、と」
「…何のことなんだ」
妻とはつまり雀であるが、そも何故文なのかと。
確かに先ほど時折手伝いにはいる官が、馬良様宛ですと封を置いてあったのだが、それが文であったとは。
「…どうやら、奥方に怒られている最中ながら早くお伝えしたい、と後ろ手に文を書いたとの事です」
「それはどういう状態なのだろうな」
飄々としながら有能な者であるが、どうも最近平和が続くからなのか訓練がてらのように妙な技術を披露しているようだ。
「はぁ…。言祝ぎというのは、曰く奥方の可愛いらしい想いをお伝えしたいと」
文にそう書いてあるのだろうが、奥方奥方とむず痒い。間者でもいれば誰だよそれはと密かに思ったかもしれない。何せ婚約すら公ではないのだし。
「なるほど、それで…猫猫のこととは」
何を怒られているのか、というのも気になるが──だいたい猫猫はぶすっと釘を刺す質であり長々と怒ったりは見たこともない。
ひとまずは言祝ぎとやらを聞いておく。
「もし月の君がいなかったら、という例え話をしたようです」
「ほう、それで」
馬閃がいたら怒鳴りあげそうな内容だな、と思いつつ先を促す。
「奥方は『今更任氏さまがいなかったらなど考えたくもない』と」
「ほう」
何故か簾帷の奥からこちらを伺う気配がする。伺っているのは勿論馬良であるが、そのような場面だろうか。
「あの…きらきらしておられますね?」
「なぜそのような」
お前が突っ込むとは珍しい。言外に任氏はむぅと唸った。
「文に、きらきらしているようなら照れ隠しであるので突っ込んでおくように、と」
思わずして任氏は眉間を抑えた。そこまで反応を予測されるとは。
単純で情けなし、とでもいうか。
猫猫には惚れた弱みもあり勝てぬが、雀には読まれ過ぎて勝てぬなとため息をつきたくなる。なるほど雀は本当に猫猫のことが気に入っているらしい。
俺にまで平気で戯れるようになるとは。しかも文で。
困った者だ…嫌ではないが、反応に困る。困るし、馬良も胃腸がやられはしないか。
まぁおかげで無駄なきらきらが引っ込んだとでも思っておこう。
これはもう要らぬものなのだ。感情を隠していると却ってわかりやすいからやめろと、奥方予定の男前な娘から先頃指摘をされたばかりでもある。
当人がそのきらきらが好きではないというのも、どうやら多分にあるらしい。
"素顔の任氏さまが良いのです、無駄なきらきらを出されても困ります"と実に直截的であった。癖づいてしまっていた仮面をきっちり脱ぎ捨て、少なくとも高順くらいの沈着な態度を身につけていかねば、と即断した瞬間でもあった。
それにしても。
今更任氏様がいなかったらなど考えたくもない、か。
素直に喜ぶことにした。
まぁ、このややこしい背景を抱える男に腹を決めて付き合ってくれると言ってくれたのだ、確かに今更いなかったらなど例え話をしてもしょうがない。それほど重たいことを受け入れてくれたのだから。
改めてありがたい、と思う。近々にも機を見てまた顔を見ねば。離れないし離さないと返事をくれた可愛い猫娘の。
愛しい想いが湧き上がり、いかん、と任氏は首を振った。
「補足があります。滿天星とは片喰、ねこあしの別名。奥方の星空のような深い藍の輝く瞳にかけたそうです」
「怒られながらそんな解説とは、いっそ余裕だな」
「…なんとも、妻がすいません」
「ああいや、満天の星と猫猫の瞳をかけるのは非常に情緒的で美しい」
馬良の声が消えいりそうであった。怒られているということは何かしたのだろうし、それなのに最中に文を書くなど。お前が月の君に怒られたら血を吐くぞ、という気配が滲み出ており。
血を吐かれるのはちと困るので、少しばかり大仰に褒めておく。
突っ込みはほどほどにしておこう、と任氏はこの優秀な文官の胃腸を慮った。
滿天星はしっかり頭の帳面に記しておく。
「で、結局雀は何で怒られているんだ?」
「お待ちください…。えー、え?これは…!」
続きを読み進める馬良の声が一言ごとに大きくなり、ついには初めて聞く大音声となった。もしこのセリフに譜面があるとすれば、間違いなくcrescendoと書かれていただろう。
「どうしたんだ?」
「それが…雀の手が」
す
動揺しているようだが、酷く混乱しているわけでもない。狼狽えはしているが声はどこか嬉しげな弾み方をしていた。
「手が…」
ああもしや、ついにお披露目したのだろうか。猫猫に見せられるほど動き出したのか。
「手が、動いているのを見つかって怒られていると」
「おぉ、そうか、怒られるほどに」
馬良も少しは改善していることを知っていて口止めされては居たのであろうが。
こうもあの仲の良い猫猫に雀が怒られているらしいとなると、それはおそらく自分が知るよりずっと動きが良いのだろう。この文官はすでにそう読んでいる。
後ろ手とはいえ、両利きで奇妙なほど器用な雀にしては随分と拙く形の崩れた読み難い文字。余程急いで書いたのかとはじめ馬良は思ったが、どうもこれは。
抹消の神経はある程度の可逆性があるとはいえ、動いても大雑把に握る開く程度で、感覚も痺れが残り実用的にはならぬだろう、いわゆる補助手になる、と改めて状態を診た羅門には言われてはいた。但し訓練によっては、もう少し良い機能予後の可能性もあるにはあると。
はたして、決して満足な動きでも感覚でもあるまいが。どうも診立てをひっくり返したらしい。クビになったからと手隙を称してはふらふらしていた時間、あれはきっと。
しかし回復して怒られるというのも、はたから見ると理不尽ではある。理不尽ではあるが。
「喜ばしいな、馬良」
「はい…。ああ、もう少し続きが」
声が震えており、流石に血を吐くんではないかと心配になってきたのだが、馬良はまた踏ん張れるようだ。
色恋により成った夫婦でないとは言え、この極度に神経質で気の優しすぎる男をなんだかんだと安らがせた愛しい女である。抑えてあるのだろう。人命を守った名誉と引き換えにしても、大きすぎたその傷が回復を見せたことに万感たる想いがあろうに。自分でさえもがなんとも言えない安堵と嬉しさを感じるのだ、よく堪えていられる、と任氏は思う。
しかしそれでもきちんと文の中身を伝えるべく続ける。まぁ仕事でないし頼んでもないのだから、ほいと文をよこしてくれても別に良いのであるが。余計なことはしないでおくか。
雀のことであるから、あの文で馬良にどれだけ手が使えるのかを示してもいそうであるし。右手で書いていても驚くがおかしくはない。任氏にはその文の文字は見えずどうかわからぬが、雀なので、という理由だけでそれもなんら不思議でもないと思う。
そういう安易に触れられない大事な文であった。中身はちとアレであったが。
「腕のことが露見する前に、任氏さまの顔を見に行くと言っていたようで、非常に尊かったと」
「ふむ」
ふむなるほど、眉間に力を込めて丹田にしっかりと息を溜めれば鉄面皮は維持できるな。皺にならないように気をつけておこう。
など高順の皺を増やした一因であろうことは一旦忘れておいて、任氏はぽかぽかと胸を内から叩く温かみを制御した。
余計な手続きを取らずとも副官同様に出入りできるようにしてある。が、「仕事の最中は気が引けます。邪魔したくないし。全くの私用ではちょっと」区切りを大事にする彼女らしい考えではあった。
「それに、まとまった時間が取れないのなら却って寂しいことだってあります」と見上げられ…あれは実に尊かった。もしかすると自分のことを言われたのかも知れなかったが。
それが、もしいなかったらという例え話の後に。ちょっと顔を見に、と言ったらしい。
未だ猫猫からの動きには滅法免疫のない任氏であり、ついそわそわとしそうになる。
早く会って顔を見たい。その瞳は満点の夜空のように美しいと。
「しかし、雀の言う尊いとは何なのだろうな。いや俺からすれば是非もなく尊いのは違いないのだが」
「…」
ほとんど身内とは言え、執務室では砕け過ぎないように。と馬閃伝てに高順の小言をいただいたばかりではあった。
しんみりとした空気がなんだか喜びにそぐわないような気がして、つまらん冗談を飛ばしてみたものの。
沈黙。
それはそれでくるものがある。
「…とりあえず、仕事を済ませよう」
その沈黙の馬良、簾帷の奥でじっと虚空を睨みつけているようだが(血を吐いてるわけではないのでまぁよかろう)ということにした。
馬良め。軽く冗談で戯けてみたのに虚空を睨んでいるとは。あまりに喋らぬので、月の君は空気も読まずに冗談を言う、など思われているのかも知れない。
一応気を遣った結果なのだ、許せ。
思い通りに巧みに話せれば、楽なことは幾つもあったろうことを思いつつ。
(ひとまず二日は休ませて、祝金と良い酒を包むか)
改めての快気祝いを考えてみる。もしかするとどこかで徹夜の日が出るかもしれないが、それでも一日だろう。
「そうですね…。しかし月様も立派に惚気なさる」
「…時間差はやめてくれ」
この場に猫猫がいたら羞恥で血を吐いたのは俺かもしれない、などくだらぬことを考えた。
文を書くほどの間雀が叱られているのならば、それはないのだろうが。しかしもし
「月さま月さま」
「ふぬぁっ」
貴人らしからぬ声が出てしまった。
生まれの尊さも美しい顔もなかった。子の一族の征伐で最後まで先陣を務めた勇猛さも剣戟の技量も関係なかった。
任氏はひどい声をあげてしまった羞恥と、その突拍子もない現れ方への呆れとでなんとも言えない顔になる。
「あら今日は戯れてくださらないのですか。不思議なお顔をしてますねぇ」
「そういう場合じゃないだろう」
任氏の対面、執務机の陰からちょこんと天板に覗いた八本の指と小さめの目がきゅっと細くなり、馴染みのある愛嬌のある表情をとって見せた。
まったく神出鬼没が過ぎる。いったいいつから──
「ところで猫猫さんの瞳にかけた花の表し方、お褒めいただいて光栄です」
「ぐっ」
またも、であった。堪えたが、その分だけ何かが潰れたような音に聞こえなくもなかった。幸いそれを指摘する者もわかる者も、ここにはいない。惚気めいた冗談を聞かれていたとなると、どうにもやたらと恥ずかしい。
「まったく、いるならいると。ともかく、めでたいことだ」
「ありがとうございますぅ。どうせなら馬良さんの様子が見てみたかったので」
姿勢も表情も変えず、目線だけを簾帷の向こうに投げた雀の前に、ゆらゆらと歩いてきた影がある。
「雀や、雀や」
「はい、馬良さん馬良さん」
青い顔でふらふら寄ってくる馬良に、掌を上に右手を差し出して雀はにっこりと屈託なく笑った。
「おかげさまで」
「まったく、おまえというものは」
「拙い字ぐらいはかけるようになったのですよぅ。またお役に立てるのですー。元の通りとはいきませんが」
「違う、そうじゃない」
差し出された手を握り、慈しむように撫でる馬良は力なく笑った。
「お前は私の妻だ。血を吐くような私でも…」
俯いたその声が震えていた。男にしては華奢な、それでも雀よりは逞しい手がぎこちなく右手を温めている。
「あら、あら…馬良さん?」
珍しいことに雀が慌てているように見えた。仕事においての危機への焦燥とも、処理できぬ情報への困惑とも全く違うその感情の不可解さも、そのような感情が自分の中に生じることそのものに驚いていた。
いつもの調子なら旗を出し鳩を出し、うさぎを出してみたりしたのかもしれない。
ただ、今は俯いた馬良の顔を覗き込んでみたり、自由な左手で背を撫でてみるなどするしかなく、読もうにも読めず、なんと言って良いのかさえわからないようであった。
「役に立つかなど関係ない、と言いたいのだろう」
見ていられないな、と任氏はもどかしさにかられてつい口を出してしまった。人の間のことという意味では、馬良の言いたいことくらいはわかる。
大事な言葉はあまり奪ってはならない。あとは落ち着いたら馬良が、話したいならば話すであろうし。
馬良は何度か頷いて、一条溢れてしまった筋を掌で拭った。
「月の君、大変申し訳ありませんが…」
「ああ、今日は上がってくれ」
ほとんど目処がついたものが多いことは馬良にもわかっているだろう。今日くらいは早くに切り上げて仕舞えば良い。こんな時くらい、こんな時だからゆっくり過ごさねばならないのだ。
二三日の遅延ならば特段の問題もないから明後日まで休んで良い。と付け加えた。もちろん、終わらせておくつもりであるが。
さて雀であるが、月の君が継いだ言葉を反芻するかのようにじっと馬良を見つめたかと思うと、ふと口元を綻ばせた。
「馬良さん馬良さん、ありがとうございます」
その細いはずの目が、今日はやけに多くの光を蓄えているように見えた。
「雀」
「はい」
馬良は喋らぬ。雀の顔を見て堪えていたものがまた溢れそうになっているのか。空いた部屋なりでゆっくりすれば良いのだが、まだ二人ともそこまでは思い至らぬらしい。月の君でも月様でもない顔をした任氏の声に、雀は少し小さな声で返事をした。
「馬良に茶を淹れてやってくれ。応接間にすこし菓子もある」
「御意」
日頃からすると至極真面目な返事が不思議なくらいであったが、しかし「いきましょう」と馬良を促す声は優しく穏やかで、そして僅かばかり掠れて。
その猫猫とたいして変わらぬ小さな背に、任氏はだが苛烈なまでにこびりついた序列への執着が見えないように思った。
血族によらぬ、後継者を選び育て続けることにより続いてきたその系図は複雑怪奇で、一族とよぶより一門とでもいうべきその繋がりは序列により成り立っている。腕が使えねば生きる価値もないと言ったらしいこの女の背中は、だが元の通りとは程遠いであろう右手を以ってして序列ではなく誇りを纏っている。
日頃のふざけた態度や所作には見えない、能力序列によるものではない矜持。彼女自身が持つ個人的で情緒的な連なりを、任務とはまた別個の最重要のものとして珠のように大切に守ると決めた背のように見えた。
「改めて、感謝する。私の大事な者を守ってくれた。二度もだ。私がもっと──」
「月の君」
任氏の言葉を遮りながら、しかし雀は神の信託を受けた忠実なる信徒のような顔をしていた。
「私も、私の大事な友を守ったのです。月の君も猫猫さんも悔いるようなことは、何も」
そう静かに言い切る雀の表情は晴れやかで、その目には愛嬌ではなく誇りの色があった。
すまない、という言葉は飲み込んだ。それは誇りに泥を塗るような気がした。自分がやると決めたことにより生じたものの代償が、大事な者の命と五体満足ならば。単に任務に殉じたわけではないことならば。たしかに、これは他者が口を挟むことではないのかもしれない。
任氏はそうか、とだけ短く返事をして、拱手をとった。
「これで、帰還報告もようやく終わりにできるな」
はっとして雀も両手の揃った拱手を返す。
書類の話ではないことは容易くわかった。そうではない。任務の顛末に末端の兵のことなど書かれたりはしない。だが、その回復を以って漸くにしてことが帰結すると。
誇りを以て護ったのだと言った雀に、任務の部品ではない兵の矜持に敬意を払っているのだ。
雀はいよいよ恭しく首を垂れ、任氏の示した敬意を甘んじて受け入れた。
が、とたんに破顔した。
「やーですよぅ、月の君に頭を下げられたら私の立場がないのですよぅ。奥方共々、長くお付き合いをさせてくださいねー」
またふざけたようなことをいいながら、馬良の背をゆっくりと推していく。
「さて馬良さんはやくいかないとほんとに背中にのっちゃいますよぅ」
「ああ、ほんとに抱っこでもしていきたいくらいだ」
「月の君が聞いてますよぅ!」
雀が思う以上に馬良は雀のことを大事に思っているし、雀が思う以上に、雀は馬良の心に食い込み柔らかな情の素地を作っているのだろう。
あの二人、縁あってそばにさえいたら自然とくっつくこともありえたのかもしれない。いまの二人を見ていると、そんな気さえする。
任氏は机上を眺めた。このくらいならば、四半時あれば良いだろう。祝いの手配を考えながら、まずは今日の仕事を片付けることにした。
まぁ二、三日は頑張ればどうにかなる、馬閃もいるし麻美もいる。都合があえば少しだけ高順を借りても良い。主上もきっと大目に見てくれるだろう。
良いことがあれば、筆も軽い。