それは泉なのか沼なのか。
乾いた自分には及び知ることは出来ない。そういうふうに生きてきた、というより育ってしまった。故に湧き上がるようなそれが何なのか、と見聞きしわかるような器がこの心にはあいにくと備わっていない。
とはいえ、人の情がわからぬわけでもない。
薬師として生きる術を教え慈しみを向けてくれた養父に、妓楼の小姐たちに婆。そして少ないながら友と呼べる同輩たち。
あの強欲な婆でさえもが、単なる禿としてではなく上級を目指す者と同等に妓女としての嗜みを叩き込むため厳しく仕込んでいたのであり、それは色を売るのではなく芸を売るという術を身につけるべくしてでであった。
自分を産んだ女は、冷徹な目を持ち知性を売りながら、だが莫迦なことにある日変わり者に惚れ身籠った。その男が名家の父に疎まれ遊説の名で閑を出されて帰って来れなくなるとも知らず。その果てに狂い、妓楼の名を地に堕とし、他の妓女に蔑まれ、病を貰い、そのうち神経をやられ己が何者かも判然としないまでに陥った。同じ子守唄と碁の真似事を繰り返し思い出の中にしか生きる他なくなるまで。
だれも裏切ってなどいないが、確かめる術を軽く見つもってしまった男女の辿った悲しい道ではあったのだろう。だが、堕さなかったのも、生まれ落ちてから縊らなかったのもその女の選択であった。狂いゆく我が身を母などと思わぬよう、他の妓女たちに少しでも蔑まれぬように娘として扱わず遠ざけ。
それは事実の一つとして受け止めることはできる。
だが、家族と言える者の情はわかっても、こと色恋というものは胎内に忘れてきたのだろう。路地裏に連れ込まれた記憶や生物学的両親の辿った地獄、愛などまやかしにすぎないと口々に嗤う妓女達の言葉。それらを思えば仮に持ち合わせたとてその器は育つわけもない。
汎く男というものを嫌悪するには至らないが、確証のない繋がり、積み重ねられた時間のような裏打ちの見えないものを容易く信頼しない心に気づけば育っていた。どころか、そも鈍いときている。
人の情に疎く、枯れて鈍い心。それを恥じることも残念に思うことなどもないが、だが動かない心はどうにもならないのだと諦観にも似た思いはあった。このままだと養父に孫は見せてやれそうにないと考えると申し訳なく感じることもあるにはある。
兎に角、養父の背を追いかけて、薬師の道をただひたすら進もうと思っていた。万が一何か手違いがあったなら、面倒のない男を夫として淡々と暮らすことができれば良い。自身で道を選ぶ術さえあれば、許される限り自由でいられる。
だから、時に見えることのある好意に似ているのかもしれないなにか、はそれが下と心のつく単なる欲望以上のものには見えず、むしろ半端でわかりづらいものなど面倒なだけだった。
身を守るように肌をくすませ、雀斑を書く。
向き合うに足るような想いがある人間ならば、そのうち家族と認める者達のようにまごころを感じさせてくれるだろう、そういうものだけを信じれば良い。甘い言葉や享楽は一時のまやかしであり、その瞬間にしか存在しない、単なるはりぼて。
故にか知らぬが常に近く俯瞰で自分を見ている視点があった、他者を客観視するのもむしろ得意とも言えた。汚いのはごめんだが、美しいからと容易く心を惹かれることもない、ひたすらに切り離して観察するのが常のものだった。
だが自分のことは大してわからぬ。好きなものは薬師の道と家族そして自由。嫌いなものはそれらを阻害する面倒事。
それくらいの単純さに終始する生き方の方が性にあっている。
だからずっと面倒事は避けてきた。好奇心に殺されかけても心の底から後悔したことなどないくらいの図太さはあるつもりだが、面倒ごとだけは解決すべく立ち向かう術も気力も余りに足りない。一方で重大な危険を承知で好奇心のままに物事を追いかけ、一方で三十六計逃げるに如かずと聞こえぬふり見えぬふり知らぬふりを決め込むような、そんな極端で面倒な人間を好く者がいるわけがないとも思ってはいた。
豊満とは程遠い肉のない鶏ガラのような身体、愛想のない顔、実験に用いた傷だらけの左腕、鈴のように囀ることのない低めの声。面倒を避けるにはちょうど良いとすら。
それに、色恋について湧き上がるようなこともないこの心では、想われたところで何も返せるものもなく、むしろそのために相手の心を壊すのではないか、心を満たすこともできないのではそのうち相手の疲弊して心が干上るのではないかというぼんやりとした予感のようなものもあった。
まごころのようなものだけを信じれば良いとは思っても、仮にいたとしてそのような真っ直ぐな思いを持つ人間に応える術が何かわからない。相手の心へ返す器がない。いっそ淡々と条件で取引できるような、子供だけは好きな健康でそれなりに清潔な男がいたなら楽だったのかもしれない。それでこの心が動くかは別として。
この身を不幸とは思わないものの、貧しかろうが食うものもなかろうが、まともな両親に愛を注がれて育っていたなら年なりの平凡な醜女であったろうにと時に思わぬこともない。変わり者の自分自身というものも時に手間がかかるとげんなりすることもあった。
だから。
煌びやかな笑顔を蔑まれたからと、ちょっかいをかけてきては嬉しそうににこにことし、用事ができる度にやたらと呼び出してくるこの変わった貴人は、やはりよほど変わっているのだろうと帰納的にぐるぐると考えてしまう。
好奇心が故に攫われ誘き出す餌とされたのであろう自分を、本来彼自身の道を拓くために被ったはずの宦官の仮面を捨て、禁軍を動かし前線を張り続け、手を血に汚した挙句尊き身に傷を入れるなど。
その実自信のない彼が、顔だけのはりぼてかと問うから男前になったではないかと返しただけなのに、不眠不休のぼろぼろの体でありながら愛おしさを溢れさせるなど。これまで、趣味が悪いにもほどがあると何度思ったか。こちらは別段構って欲しいような素振りすらした覚えはない。むしろ面倒でどうでも良くて、ただ人間的には見た目より地味で粘着質だけども、実直でたまに妙に素直なあたりは好ましいとは思っていたがそれくらいのものだった。
他に幾らでも選びようがある人間なのに、何故自分なのだろうか。
女なら国を傾けたであろう美貌、見目とは反する実直さ、慈悲ではなく同じ目線で考えようとし命を容易く扱わない考え方。突出したものがない、と嘆くくせに、その力は文武共に努力の到達点としては結構な高位にあり。その上皇弟と来ている。政略も考えねばならず、むしろ"選ばねばならない"立場にあるべきものが。
「お前を妻にする」
妃、とは言わなかったのは何故だろうか。面倒でよく考えていなかったが、そういうことだったのだなとふと思った。
自分の道を拓くために東宮であることを拒み、加えて皇族であることも拒むような男。自らに焼印を押すような莫迦。臣下として、閑職であろうが雑用であろうが、尊き血に縛られずに歩むことを、もうずっと前から夢に見ている夢想者。それが皇弟だったのだ。
後宮の試金石としてそのかんばせを大いに利用し、人と場を気をすることに慣れた様には驕りを感じることもあったが、皇弟という殿上人にしてはむしろ果てしなく地味な驕りであるとも言えた。権力より自分に備わる力を行使することを第一としているような、そういう権力の座に似合わない向かない男だ。
しかしよくもまぁ、主上も宦官の真似事をするなど許したものだと思う。直轄の副官である高順をつけてまで。しかしそれほど大事であるのだ、と思うとわからぬまでもない気もする。
気の済むようにやらせれば、気が済むかもしれない。気が済まないなら、またその時よく話をしても良い。
そういう考えであったのかは知らないが、ともかく口約束の賭けに乗って自由を許すというのは、男系継承をとりながらも男の少ない現在の茘の皇族にあっては破格の扱いとも言える。
主上は下級には手をつけても良いと言っていたようで、もし気になるものがいれば囲えば良いくらいに思っていたのかも知れない。女の一人でも惚れれば、そこに皇族たる責務を思い出させるつけめもあろうかと。
しかし惚れたのはよりによって花街育ちの下賤の娘。血筋で言えば羅の者だが、父を追い出し跡目を盗った鬼才の軍師が妓女に産ませた娘ときては、あまり良い顔はされないものだ。それは尊き血の者にとって当然考慮せねばならないことでもあった。それでも羅の者ならば、妃にしてなんらおかしくない正当性を持たせることは可能ではある。が彼はそれを選ぶつもりがない。
任氏の心の向きは、妃とはせずあくまで妻とするというところに、己の人生と想い人の人生との落とし所をつけ、最良を求めるところにあるのだと気がつくのにどれほどかかったろうか。必ず納得できる状況にして見せる、と強気にとれる言葉も、妻にすると口にしてなお、それが命とならぬようにこちらの退路を残す言葉でもあったのだ。
だから、長い間甘えていた。不快でしかない間柄なら、身分差を盾に逃げ続ければ良いことだった。例えば医官付き官女の名で医学薬学を学ぶ場を設けられたときも、結局全力で逃げることは選ばなかった。無医村となりそうな、あの薬草の爺医の跡目として姿を眩ませる、なんていう手もとろうと思えばとれた。幾ら国の重鎮たる三方の推薦があろうと、あの人達ならば逃げても罰しはしなかっただろう。嫌ならただ断れば良いのに、とかなり怒られそうな気はするが。
ともかく、結局は断れるわけがない、と逃げ出すことを選ばず、半ばずるずるとその隣の居心地の良さに甘えていたことに気がつくまでに長い時間が経ってしまった。
その間にもまぁ、いろいろとあるにはあったが…ふざけ合うことを楽しく感じたこともあったし、莫迦だと酷く腹を立てたこともあった。日々忙殺されながらこの愛も大してわからない女に思慕を寄せ続ける姿を見ているうち、ついにはその優しさ実直さに心配と苛立ちを覚えるようになってしまった。
そのなんでも背負い込む姿に養父の姿が重なってしまうことに気がついてしまった。
だから何度もいらついても、嫌いになれないのだ。権力者なのに権力を嫌うその甘さ、それぞれに目を向け最良を目指そうとする優しすぎる考え方。そのせいで仕事を抱え込み自分の身を粉にしているのに、万人の評価など要らぬ、知っていて欲しい者が知っていればそれで良いなどと言ってしまう人の良さ。
「長く仕えていますが、月の君は優しすぎるのです」
歳の離れた兄皇と同輩の乳兄弟である高順に言わせても、任氏という男はつくづく皇族にすら向かない男であると思う。
主上との違いは、やはり慈悲を下せるか否かなのだ。皇帝となるべくして天として育まれた主上には国体を雑多な一個の塊として動かさねばならぬという視点がある。個人ではなく万民の子孫まで見通し万のために千を殺す判断を冷静に行える素地がある。
しかしあくまでも皇族として早くに成熟すべく一つのものを愛することを阻害されて育ってきた筈の瑞月という男は、その身に天を宿すどころか天に近いところからさえ降りることを望むようになった。その視座は殿上人ではなく人として横並びに近い。共に考え共に最良を求めようとする。それは国の頂に座すにはあまりに精神を削るやり方だが、それが彼の人なのだ。
あくまでも己を利用して、が第一であり、他者を利用するのが下手でそも嫌うきらいがある。それはある種己の道を求めるからこその意地のような部分もあるのかも知れないが、権力を行使するのではなくあくまでも己のもてる力を基本として地道に一つ一つ積み上げる。
その周到さに困ってしまうこともあったが、強引なようで強引ではなくいつもどこかに退路を残しているそのやり方はやはり甘いと言わざるを得ない。が、それが彼の望みなのだと思うとなんとも言えない気持ちにもなった。あくまでも選択の余地を残すそのやり方、それは甘えを許容するやり方だ。
政略や優位性など彼の頭にはなく、人として唯一の想いを持っているのだと漸くにして解った、というより受け入れたのはつい最近と言って良い。領内とは言え異国と言っても良いような遠い地で、ほんの少し他愛もない言葉を交わすだけで綻び安らぐ彼を見て、自分だから見せる顔、自分だから癒しとなっているところもあるのかもしれないということに目を向けざるを得なかった。
面倒な御方だと遠ざけるようでいて、こんな面倒な女に拘らなければ良いのにとも思っていたが、それは任氏という仮面を使った男にとっての最良かは知らぬけれど、それでもこんな女に拘るより余程楽な筈だと決めつけていたからだ。自分がどうなのか、何を望むのかというところの正味は二人の間においては考えぬようにしていた。
それが、たった一言。
もちろん状況もあったが、それだけでひっくり返されてしまった。
感情に流されないことは大事だが、それを言い訳にするなと。
流されていたわけでは勿論ない。だから自分のことには蓋をしていた。
でもそれは言い訳にして良いものではない。わかっているつもりだった。言い訳ではなく現実を考えているつもりだったし、それも事実だ。
けれど、そう言われて何故か任氏のもとに向かわずにいられなかった。顔を見たかったのだろうか、声を聞きたかったのだろうか。あるいは安心したかったのだろうか。それはよくはわからない。
今度という今度は無事では済まない。巨大な政治の思惑に攫われた身体が無事に済むとは流石に思えなかった。助かったと思えばまた死を覚悟せねばならず、助けられたと思えば守ってくれた者が深手を負い。
不安と悔恨と疲労とが混ざり合って重たく肩にのしかかるなか、一人体を休めることより急いだ。
きっと自分の居場所を確かめたかったのだろう、そう思うことにしたが、果たして安らぎを得たのは互いにぼろぼろの体で抱き合って床に転がるなどという恥も外聞もない状況であった。数日分の汗と垢と血に塗れたままに、抱きすくめられて臭いを嗅がれて。恥ずかしくてたまらない筈でももはや抗えず。
どうかしているのではないかとしか感じられない熱量に返せるものはない。その満ち満ちたる想いを枯らさず、心を満たしてあげられるほどの何かは自分にはない。そうとしか思えなかった。そうとしか思えないのに、何故あのややこしく面倒な皇弟殿に付き合っているのか、と自問するとどうにもぐるぐるとしてわからなくなってしまう。尚更、眠りに落ちた彼に唇を寄せるなど。
安堵と安心を覚えるのはそうだ。けれどもそれ以上に面倒で、ややこしく、周りもヤキモキし、尚更話が拗れかねないような中で、何故そばにいるのだろうか。確かに居心地が良く安堵があり、ついからかいたくなるような気持ちにもなる。それだけなら友のようなものと言っても良いのかもしれない。
でも不意に指を絡められると、何故か胸苦しく動悸がしたり、顔が熱くなったり汗をかいてしまったり。恥ずかしくて居心地が悪いのだけども、それが嫌悪ではないことくらいわかっている。わかっているから、もやもやしてしまう。身分や仕事のことなどいろいろと考えもするが、一番大きなことはやはり。
返せないのに、受け入れ応じてしまって良いのか。というところになるだろうか。
勿論自由も欲しい。狭苦しい世界に押し込められるようなことは本意であるわけがない。同時に一人の人間が手を伸ばせる範囲などたかが知れていることをいやというほど感じてもいた。むしろ、自分は既に普通の人間の何倍もの密度の経験をしてきており、そもやりたいことは薬学の追求。羽ばたいて回りたいという願望ともまた違う。やりようはある内容であるし、任氏ならば願い出ればできる限り叶えてくれるだろう。
しかし、その鉄をも溶かすような熱量に比べてしまえば。とぐるぐる思考は廻り埒が明かなかったのだが。
考えておかばならぬことは山積みと言って良いのだろうが、今ひとつ一つ一つ詳細に取り上げようとするとやはり思考は散り散りになりなんともまとまらない。任氏は主上の弟ではなく子かも知れない、直系の皇位継承権を持つ東宮を降りても、それは皇弟としてであり、もし実子であるととなるとまた相当人揉めることともなりそうで、もはやその域になると面倒云々よりも自分がそばにいることが足を引っ張る以外にどうあり得るかすらまったく見当もつかなかった。主上も皇后も阿多もそんな愚かしいことはしないだろうとは思うし、気持ち一つも自由とは言い難い瑞月という人間のその己の人生を求め足掻く姿を知っているならば尚更ではないかとも。少なくとも、最後の最後まで巻き込むつもりもなくそのために奔走している。それは憶測であってもわかってやらねばならないとすら思った。
どうなるかは不確定だが、未来の幻想に躊躇したまま何もせぬより、今ある見通しの中で現実を手にした方がずっと良い。そう肚が決まってしまえば、皇弟妃くらいは受け入れてやろうと、そのように覚悟が定まった。
「これくらいは許されるべきだろう」などと言いながら、そっと額に口付けを残すだけのその意気地のなさというか、決して無理やりには立ち入らぬ優しさのようなものに気がつくと、もうこれほどまでに自分を大事に愛する人間など、それを受け入れてしまえる人間などいないだろうと。
同時に、政争の種にならぬよう、妻になれぬ場合二人の子は諦めねばならぬ。一人が生まれるために幾人も亡くなることが容易く想像できる未来をわざわざ選びたくはない。それはぼんやりとだろうが、任氏も「玉葉后を敵に回したくない」という猫猫の言葉を受けてわかっているのだろう。
だから「妻にする」と言ったのだ。
少なくとも子を成す成さぬなど、わざわざ考えずに自然と共に在ることのできる明日を任氏は望んでいる。
ただ、それを具体的に言及するとなると、やはり男であり理解の及ばぬところがあったらしい。己がもっとよく考えねばならなかったのに、状況に流されそうになったことを非常に悔いていた。本来必要のない薬を飲ませ、それでさえ十全でなく孕めば堕胎せねばならぬ、というのは現実的に言葉とするだけでも重たい。もちろん、全てを遂げずとも体温を分け合うだけでもよかった筈なのだが、任氏の動揺は深かった。
気まずい思いもあったが、それほど大事に思っているということでもあった。余りに優しいのだな、と思う。自分とて自身の選択で、明言のないことを準備し、自ら受け入れて向かったのだ。そこまで動揺しなくとも良いはずであるのに。
しかしこれを考えると、果たして抱かれたかったのだろうか? 彼が我慢していることを、想いの証に示す以上の意味を考えたろうか? とも思考は散り散りに走り出す。あまりにあちらこちらに散ってしまいよくわからないので放っていた。だがある日ふと。
生娘であり妓女の嗜みを仕込まれた自分には、行為に対して特に特別に思うことはない。模擬体験ばかりでくすぐったい以上のことはわからず、またまぐわったことなどあろうはずもなく、色恋に期待もしていなかったのだから。
けれども、あの日面映い想いで寝所に入ったことを思い出すと、面映いことが顔に出るくらいであったことを考えると、行為そのもの、というよりも身体中で体温を分け合うことの気恥ずかしさであったり、安堵であったりを惟うことを幸福に捉えていたのだと気がついた。
自分にはあんな温度はないが、ぬるま湯よりは温いような男女の情はどうや思うよりずっときちんと備わっていたのだ。
なんだ、乾いているのではなく、渇いていたのか。
つかえていた何かがするりと抜け落ち、足元に水たまりをつくりはじめるような不思議な心地がした。
瑞々しい動きが元より枯れ果てていたわけではない。
渇きしか知らぬが故に期待もなく、乾いていることだけが見えていた。きっとそういうことなのだろう。潤し方もしらず受け取り方も知らず、半端に失う恐れがあるのなら撥ね付けて仕舞えば良いと。
相手に返せぬから、心を、関係を壊してしまうかもしれないという予感は、それはそれで間違いではないのだろうが、そも自分は受け取ることさえどこか恐れていたのだ。
恐れていたのは、その相手の心の泉が枯れてしまうことだけではなかった。その末にほらやっぱりと人を繋ぐ情を否定し失望し枯れ落ちてしまうことだ。そんなつもりはなくとも、それを恐れ逃げていたのだろう。心の動きはだが初めて新鮮に踊り、余りに鋭く自らを貫くようだった。
豊かな瑞々しい泉はこの胸には今はまだない。あるのはせいぜい沼だろう。
だが、貫かれた心の隙に目をやれば、少しずつ少しずつ湧き出す瑞々しい想いがあった。必要なのは温度でもない、溺れてしまうような深い湖でもない。小さく備わる器を壊さぬよう、だが渇きに喘がぬようゆっくりと枯れずに澱むことなく湧きつづけるぬるま湯なのかも知れない。それはやがてゆっくりと溢れ流れ出しごく小さな沼を泉に変えるかも知れない。
かの任氏という男は己までも焼き尽くすような熱量を持ちながら、その溶けた鉄のような想いを流し込むことはせず、ずっと雨を降らせていた。己の心に気がつき刺し貫かれるまで、長い時間をかけて溺れぬように壊れぬようにゆるゆると。受け取ってくれないかと恐る恐る、雨垂れが石を穿つかのように。時にその勢いが強くなり過ぎたと思えば、はっとしてまた大事に潤し続ける。
そのような変わった人間はそうはいない。いや、それこそあの貴人くらいなものだ。だから、応えられる。受け止めたいと思えた。
仮に帝位を継がねばならぬなら、たった一人を愛し守ることができぬ立場にならざるを得ないなら、そのあるがままの美しさを囲い歪めてしまうならば、解き放ったほうがずっと良いとまで口にしたその姿を目にしたとき、その胸に抱えている熱量の意味がわかる気がした。
鉄を溶かすような温度に見えて、そうではない。余りに膨大な質量を伴う、人肌より少し暖かな日向を思わせる温度。湧き出すそれを少しずつ少しずつ優しく降らせる雨にしてきた男は、きっと加減を間違えれば自分こそが溺れそうな苦しいほどの質量をもってこの身を想っているらしい。捉え方を違えていたのだ。枯れるどころか、雨を降らせることができなければその堤が決壊してしまうことで心を壊して仕舞いかねない。膨大な質量そのままに堤を壊した泥流は、本来彼が望んだ自分の生を押しつぶし、国家のために命を消耗するだけの部品へと彼の形を押し込めるかもしれない。それでも、愛した女のあるがままを守れないならば解き放ったほうがよほど良いと。
幾ら切り離して思考してみても、知るか、とはもはや思えなかった。
…とにかく、変わっている。本当に変わっている。なぜこんな女を愛したのか皆目見当もつかない。特殊趣味にもほどがある。
その優しすぎる雨を知って、自分は何を返せるだろうか。
肌だろうか、叶うならば新たな命だろうか? これからの生をその側に伴って生きることだろうか。
しかしいずれも、すぐに訪れるものではないことはわかっている。
ではなにか。少しでも素直な言葉だろうか。それならば、すぐにでもできることだった。
「ならないでくださいね」
「なりたくないな」
そばにいたい、とはまだ言えないけども。せめてこれくらいは。
彼のやけに嬉しそうな顔を見つめる。
こんな、安らいで落ち着ける時間がもっと続くように。たまには素直に笑顔でも見せてやろう。きっと気恥ずかしくて目を合わせられないだろうけども。
それでも。
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