「呑み直し、ですか」
「ああ、この間は追い返してしまったからな。罪滅ぼしに良い酒を用意したんだ」
二人が並ぶといよいよそっくりだなぁ。
猫猫の視線の先には、"暇があるなら火急で参れ"とせっかく手が空いて休める日に離宮まで呼び出された任氏と、瓢箪をからげて一足先に一杯やっている阿多。
火急の用、とのことで離宮にバタバタやってきたのだが、通された四阿に在ったのは酒器と肴の並んだ卓、そしてほろ酔いの美人であった。
「どうした、嫌か?」
「嫌も何ももう参りましたし、お付き合いいたしますよ」
思わず宦官の仮面を忘れ面食らったような顔をしていたが、拍子抜けしたようにふっと短い息を漏らした任氏は、では失礼をばと腰掛ける。よくわからないが、帰るのも無礼であるし。
「猫猫といったな、そなたも掛けなさい。酒は好きだろう?」
「いえ、私は…」
「いいから。私が言うのだからゆっくりとかすれば良い」
宴ならばともかく、貴人がサシで酌み交わそうという席に同席あるいはお相伴になるのは気が引ける。というか、面倒なのだが。できれば辞して薬草取りの散策に行きたいくらいだ。だいたいなぜ一緒に呼ばれたのか。
それに先ほどの任氏のあの態度は何であろうか。阿多と任氏の関係性の程度を知らぬ猫猫から見れば、要らぬ揉め事の火種を作ってくれるなよ、くらいには思う。
(まぁ休息日を邪魔してくれたのだから少しは不貞腐れる気分もわからないでもないが…)
繰り返しながら非常に面倒だが、命じられては仕方がない。
猫猫は拱手の袖の下で溜め息を逃して、それでは、と小さく下座に収まる。
これならまだ任氏さまとサシの方が余計には気を遣わない分良いくらいだ。いや、それはそれでまた悪戯してきそうで嫌なのだが。
「それにしても突然ですね、日取りを打診していただければきちんと準備を整えて参じたのですが」
髪を馬の尾に結わえた身の丈六尺の美人の微かに剣呑な目つきに、阿多は可笑しげに目を細めた。
「思い立ったが吉日というしな、良い酒だから早く酌み交わしたかったのだ」
「それで、何故薬屋も?」
「以前に愚痴を聞いてもらったことがあったので、その借りを返さねばと思っていた。
宮に応援に行ったとは言え一介の下女の名をわざわざ覚えていたらしいが、やたらに分かりやすく「猫猫」と強調したあたり、薬屋の呼称をよく思わない様子がある。
愚痴…?なんのことだ?という顔で任氏がこちらを見やるが、詳しく説明するのは面倒であるし不用意に阿多の話の中身にふれるのも良くないだろう。
猫猫はそっけなく「そんなこともあったかもしれませんね」
と流しておいた。
聡い…?という顔をしたなら完全に無視してやったところであった。
「そう、そんなこともあったのだよ。全部を知らないと気が済まないかね、任氏殿」
揶揄うように盃を煽る。
「いえ、そういうわけでは」と参ったように眉を下げながら、しかしめざとく
「手酌はやめろ」と自分でを盃を満たそうとしていた猫猫から酒器を取り上げる。
器も杯も玻璃であり、物が良い。香りからすると良い酒とは
「ただ、阿多殿と薬…猫猫に接点があったかと」
任氏はそれを不思議に思ったらしい。一瞬鋭くなった阿多の目に言い直しつつ、とくとくと猫猫の杯に琥珀の酒を注ぎながら。
「お前を呼びつけた日に、城壁でな。そうであろう?」
「あ、ふぁい」
ジト目で燻製肉をもしゃもしゃと咀嚼しはじめたところにいきなり話を振られ、返事は少々間の抜けたものとなった。不敬だろうか?いや今のは大丈夫なはず。など少しだけおっかなびっくりと。
むぐむぐ急いで酒で飲みくだし「そこで少しお話をうかがったのです」
と任氏に向き直った。(何でいきなり名前を?)という目はしたまま。
「…なるほど。にしても食べながら返事をするな」
「遠慮するなとのことですので。その時もお酒をいただきました」
やたらと任氏にはスーンとしているのが目につくが、これが二人の関係なのだろうか、と阿多が苦く笑う。
さて城壁にて、ということは、ふらりと出ていって戻ってくるやいなやスッキリしたから帰れと追い出されたあの日、降ってきた猫猫を受け止めた、阿多が後宮で過ごした最後の夜である。
「まったく。しかし、なかなか聞き上手なようだな」
酒が深くなりそうだ、という予感をもったのになにやら顔をさっぱりとさせてきた阿多の様子を思い出し、任氏は素直にそのように思った。
「いえ、私はただ聞いただけです。ちょうど機がよかったのでしょう」
任氏さまを呼びつけて追い出して泣かせたのは阿多様だったのか。
なるほど位にしても齢にしても任氏に勝ち目はなさそうである。
ふーんしかし大の男が泣くほどとは、など思いつつ酒瓶を手に取る猫猫。
当人は猫猫を抱っこしたまま涙を流したことなど忘れたかのように振る舞っており、なんだか気に入らない気もする。
「だから手酌は…お前もう二杯目か」
「はい、大変美味しいお酒なので。肴もとても」
確かなかなかに強い酒であった筈…猫猫の酒精への耐性はかなり強いが、飲み過ぎぬように見ておかねばならんか?など考えながらまたとくとくと。
「任氏さま袖が塩に触れてますよ」
「おっとこれは」
脂の臭いのある燻製肉に添えるための香草塩が袖を薄く汚している。
さっと取り出した手拭いで袖を払ってやる様に阿多はおかしげに目を細めた。
「しかし二人は主従というにも、仲が良いな」
ほんのりと小皺の浮かぶ眦には優しさが載っている。
「いやいやいや、単に世話の焼ける主人です」
「お前なぁ…いや、たしかに焼いてもらっているが」
主人、という言葉をどうとるべきかな、など阿多は二人を眺めながらこっそりと考えてみる。
うへぇ、と顰めっ面を作る猫猫に、突っ込みつつも世話をかけている自覚はあるらしい任氏。
まだ酒も入ってもないのに、仮面を忘れるほど心地よいのだろうか。
仕事で見せる顔を忘れそうになる程自然な顔をしている。
「ところで、髪の結え方がいつもとは違うが…」
「ああ、実は」
久々の手隙の一日である。ゆっくりとした時間にのそりと起き出した任氏は、近場の森に鍛錬がてら散策でもと考えた。馬閃を伴えば護衛は十分であるし、どうせなら道中少しばかり街も見ておきたい。このところの激務を思えば、是非に仕事を思い出さぬ場所が必要であった。お付きの者らもなるべく休むよう言ってある。
と思っていたところに猫猫が朝餉を片付けにきた。休まないのか?と見ていると「このくらいはやらないとと思いまして」こういう義理堅いところはまた好ましい。
「すまないんだが、後で化粧のようなものを頼めるか?」
「は?」
「郊外の森に散策など考えているんだが、街にも寄りたくてな、簡単な変装だけしようかと」
はー面倒、という顔をしていた娘が森と聞いてやおら向き直った。
「ならば、良い森があります!」フンスと鼻息も荒くおすすめの南の森を力説する猫猫である。なるほど猫猫の足ではちと遠い場所であるらしい。もちろん、薬草毒虫が目当てであろうが、あまり深く立ち入らなければ問題なかろうし鍛錬は別にせずとも良かった。
ということで、街歩きの際に美丈夫が騒がれないよう、一つ結びに簡素に平服と大きな痣の仮粧を、と段取りしたところにお呼びの使者が参ったわけで。
「あー…それは、すまないことをした」
気分転換が思いがけず連れ立ってのお出かけになった筈の任氏と、時期の薬草を採取したかったであろう猫猫それぞれに。呼び出された馬閃はよくわからないという顔をしながら別室で茶を振る舞われている。
ならば深酒にならぬよう早く切り上げるとするか…?まぁ二人の興の乗り方でも見ておけばよいか、また追い返すのも流石に、な。
「いえ、私は美味しいお酒がいただけるので全く」
「まぁ、また散策程度はする時間があるでしょうから」
猫猫はすこしそっけないくらいあっさりしているが、任氏はしょうがないという顔を隠せていないようだ。まぁそもまだ一口も手をつけていないのだし興も乗りようがなかろうが。
阿多が申し訳なさそうに目を伏せたのを見てか、猫猫はおかわりにと手にとった酒器を任氏に差し向けた。
「任氏さまもいい加減いただいたらいかがですか?」
「そうだな、何故か酌ばかりしていた…という間に四杯目か…?結構な量が入るだろうこの杯は」
「いえいえそんな三杯です」
「嘘をつけ、俺が話してる間に手酌してただろう」
「はいはい飲み過ぎないようにしますから怖い顔はしないでください。お先にどうぞ任氏さま」
「強いのは知っているが、ほどほどにな」
かすかに呆れの滲んだ、しかし少しばかり幼い笑みで応えながら任氏は杯を受ける。
(
何と良い笑顔を見せることか。少年臭さが残るが数年もすればまた男臭くなるのであろう。阿多の目には猫猫が羨ましいほどに映る。
高順に聞いた話では風明の件で多数が処分された際も、この娘の意思を尊重する向きで動いたという。結果すれ違いに猫猫は解雇、宦官殿がいじいじときのこを生やしたため見かねて周りが動いたらしい。
そういうあたりもっとうまく伝え合えるようにならねばならんぞ、と言いたいが言ってわかるものでもなし。
見目素晴らしい妃達が言い寄っても全く動じることなく淡々と役割を果たしてきたこの男が、この可愛らしいが地味な娘を側に置いて離さないというのも面白い。
娘は娘で、冷たくあしらったりする割には随分素直に接しているように見え…。線引きはあるが、危ういほど自然体な瞬間があちこちにある。
「大胆で強靭なところもあるが、存外肝が小さい」
どうやら二人ともだ。口の中だけで呟いておく。
時が経つほどに"選べなくなる"こともある、というのは自分より一回り以上若いこの二人にはまだわからぬでも仕方ないことかもしれない。
自分自身、もう彼らの齢時分には道を選べぬ身となっていた。
そうなる前に、ではなくもっともっと前に、自分の真ん中に問わねばならない。問うて、しっかり己にも相手にも事態にも向き合わねばならない。
きっと月は自分のためにこの娘を縛ることを選ばないだろう。確証はないが、東宮であることも皇族であることも拒むというのはそういう心持ちだと阿多は思う。
それでも、それぞれの立場故に簡単に口にできぬこともなせぬこともあろうけども。
「しかし良く呑むなぁお前は」
「ん?お酌しましょうか?」
「そういうことではないし俺はまだ良い。それより阿多殿にも」
「阿多様なら手酌どころか喇叭ですよ、どこを見てるんですか」
「お前がどんどん呑むからだろう…。強い酒だし少しは心配しているんだ」
「つまり私をずっと見ていると…?」
しかしこれ、いい肴なような胸焼けするような。
愛のように大胆な想いも力も、そうそうないものだ。
だからこそ、早くその大きさに気がついて欲しい。
「愛のように大胆に、うむいい言葉だ」
「はい何と…?」
任氏がつぶやきに気が付いたように。
「いいや、独り言さ。さ、任氏殿も呑むといい。愛のように大胆にな」
からりと笑った阿多はまだ中身の残る任氏の杯にどぼどぼと酒を満たして溢れさせた。
また飲み直しで良いか。これで帰らぬなら酔いが回ってしまう前に少し腹に溜まるものを出して二人を返そう、まだ散策にいくにも間に合うだろうし。
酒に濡れた服をさっさと脱がそうとする猫娘と、顔を赤らめて自分で拭こうとする男。娘ときたら、何故名前をというジト目をしたくせに、その頬はほんのりと一瞬酒気より早くあからんでいて。
目が合った月がとまっていたぞ。
くくっと笑いを堪える。
いいから早く帰っておでかけしてしまえ。
元気に長生きせねばならない理由が増えたのだ。喜ばしいではないか。
酔いとは別に愉快で楽しみでたまらない気持ちが湧き上がり、阿多はまたからりと笑った。