今宵は特別な夜であった筈では。
自分が未だ世話役をつとめる坊ちゃんが、初めて心から想う女に出会い、通じ合い。
その様を傍観者として見てきたが、流石に意気地がないのかもしれないと多少なりとももやもやとする。
水蓮が見たのはとぼとぼと寝所を去る娘の背中。
当人はきっとその背中に「なんだか話が違う」とか「せっかく準備したのに」などやれやれな雰囲気を貼り付けているのだろうけども。
相変わらず、肝心なところは冷静による切り貼りで上手く均衡を取ろうとしている。
老獪と言って良い齢の分だけ女をやって来た水蓮からすると、そんな時くらい思ったことをきちんとぶつれば良いのに、と背を撫でてあげたくなる。
主従ではなく
様々配慮したきちんとした準備をしていたが、大方あの娘であるので問われれば馬鹿正直に答えただろう。そういうところはもっと伝え上手にやれば良いことで、言葉は足りぬよりマシだがあれば良いものでもない。
心に足りぬ言葉はでぬというが、捻り出しても尽くしても伝わらないことというものはある。言葉以外も大いにみなければ。
坊ちゃんも同じだ。
猫猫の準備とはつまり任氏のことも己のことも考えてのこと。それはおそらくながら十分に理解したであろうけども。
けれども、それだけの覚悟を受け取ったなら、自分も腹を決めねばならないのが本来。それに肌を合わせると言っても、何も最後まで全てを遂げなくとも良いのだ。密に触れ合い温もりを分け合うだけでも、任氏のみならずその心に向き合い自分自身をも受け入れた彼女も…もっと直接的に肌を通して互いの心に触れることで幸福を感じられただろうに。
当てずっぽうに近い推論でいろいろと浮かぶ気持ちをさてあの二人のためにどう使える言葉になるかと考えながら、しかしこれは大筋違えた話でもないだろうという確信めいたものがある。
己の願いのために己を道具としても、結局他者を利用までしきれぬ甘さを抱えたままに能力を己にばかり求めてたころに比べれば、表に見える胆力は随分と成長したものの、それでは十分と言えぬことはまだまだある。それは権力の座を捨てることを望んでも大した変わりはなく。人生の段階を踏んでいくことはより深くひたむきに他者と向き合うことだ。
男としてはまだまだ"坊ちゃん"と言わざるを得ない。
「老婆は老婆らしく、たまには余計な世話を焼きましょうかね」
水蓮は二人それぞれのことを案じつつ、頬に手をやりどうしたものかと首を捻った。
さて程々に日数が流れた、昼前のことである。
「小猫、あとで私に少し付き合ってね」
非番であることを把握している抜け目ない老女は、宿舎を尋ねるなり矢継ぎ早に猫猫に告げると否やを言わせぬかのように背を向けた。
見えもしないし聞こえもしないが、(うげ)と顔をしかめているだろうことはわかっている。
昨日の今日というわけでもないが、あれからまともに私的なことを話したかというとそれはなく、まだ思い出せばもやもやとする頃ではあろう。そこに水蓮とくれば、確かに歓迎すべき事態が待っていそうなものではないが、それにしてもその察しをもう少し上手く使えないものか。
多分に守りに傾いているのに、好奇心に幾度殺されかけたら気が済むのかという行動力をも持っているこの娘。その割に自らも推すべきところを推せなかったであろうことを思うと。
「わかりました」
「ゆっくりしましょうね、それが今日の仕事」
説教じみたことは言いたくないし、人の色恋に口を出す者は馬に蹴られても仕方がない。
けれども時にはお節介で馬ごと焼き尽くしても許されるべきだ。長く生きている分。導きとまでは言わぬけども。
慰みと癒しと、次につながる何かを早く見て欲しい。老い先ながいわけでもないこの身からすると、容易く出会えない相手と想いあっている今をもっと、互いに大事にしてほしくて仕方がないのだな、と。青臭く二人を思う気持ちが老いと似合わず少しおかしくもあったが。
「まずは美味しいお茶でも淹れようかしら」
猫猫が支度のために引っ込むと、肩の力を抜きながらひとりごちた。
さてどう伝えたものかしらと思案しながら。
「それで、今日はどうされたのですか?」
水蓮の私室前に小さく設えられた庭の卓に座ると、早速日頃にない茶菓子が振る舞われた。西国の酒の風味を効かせた甘味。貝のような形を模して焼かれている。客人用と言ってよい、ちょっとした茶受けには似合わないものだ。
洋酒の香りに小腹が早く摂取せよと喉をつつくが、それよりも話を進めなければならないだろうと猫猫は早々に切り出す。
「まぁまぁ、気になるでしょうけどまずはお茶を一服してちょうだい」
あくまでも穏やかでにこやかな老婆の勧めに拒否をするわけにもいかず、しっとりと甘く薫る柔らかな菓子に手をつける。
誘うや否や有無を言わせぬ背を向けた強硬さとはうって変わってこの朗らかさ、むしろ恐ろしいような気がしなくもないが。
「おいしいです」
辛党の猫猫も、この甘味には驚いたようで素直に口にした。
つい、口元が綻んでいた。深い瑠璃紺を湛えた瞳も、心なしかきらきらと。
「あら、ありがとう。美味しくなるように頑張った甲斐があるわ」
湯呑みを傾けつつ、水蓮は孫を見守るかのように優しく笑みを深めた。
「そうそう、うちの坊ちゃんがごめんなさいね」
「あ…いぇ…」
唐突ですらあった。
むぐむぐと菓子と茶を嚥下する様子をにこにこ見ていたと思ったらこれである。
もちろん答えの用意などない。大方あの夜のことだろうとは思っていたが…なんと答えたものか。ただ曖昧に返すしかなく声が消えいりそうになる。
ホントだよ!とやさぐれたいような気持ちも確かにあるような、いやしかし自分の示した用意に、改めて二人の間を大事にしなければならないと謝意まで見せた人を責められないような。
「やりようはあったかもしれませんし、言いようもあったかもしれません。でも、任氏さまが…なんというか、我慢を──」
「そうね、何も言えないわよね」
皆まで言わせず、猫猫の言葉をついだ水蓮は視線を落としながら、だがやれやれやっぱりと苦々しく唇を歪ませた。
「やりようも言いようも、それは小猫にもあったかもしれないけれど、あの坊ちゃんにはもっとあったのよねぇ、絶対」
最愛を受け止めて度量を示せないのに夫婦だの、たとえ状況が許すようになったとて今の心持ちでは…と水蓮は思う。
「大人と言われる歳になっても、器が足りないわ。目の前のあなたのことをもっと気にかけてあげるべきだったのに」
ごめんなさいね、とまた謝意を重ねる。
だいたい、猫猫に行儀見習いのようにみっちりとしごきをかけ、坊ちゃんには過保護にしていたのがこの老齢の侍女であったのだ。鬼婆までは思わずとも、半端な甘えを許さぬ恐ろしい教官ではあった。
が、今日はまるで、猫猫を孫のように可愛がり任氏の振る舞いに愚痴をこぼすというか、世話を見てきた自分の責も含ませているような。
「いやいや、そんなそんな」
こうも言われるといよいよ返す言葉がない。慌てて両手を胸の前でひらひらと。
それを言うなら、己が甘かったと打ちひしがれる様子のあった任氏に寄り添うこともまた度量ではなかったか…。
「いいえ、力をもつ者として立場を弁えて育たねばならなかった身ですもの。妻になってほしいあなた一人さえも安心もさせられず、包みもできずに夫になりたいだなんて」
自分の持つ力、言葉にすれば命ずることともなり得ることは十分過ぎるほどわかっているはず。大人として弁え考えることと、人として男として度量を育てることとは似て非なるもの。なのに。
この点は水蓮の強く思うところであった。
しかしどうだろうか、私は不安だったろうか。
幾許か思案した猫猫はだがそうではないと思う。
ただ真剣な様子の彼にのまれてしまったというか、もう一歩踏み込んで側にいられなかった自分も器が足りないのではないだろうか。いやそれより。
「それでも、私よりはずっと大人なようには思います」
追い求める一つごとに邁進している自分とは違い、抱えるものがあまりに広く多い。その中でずっとこんな愛もたいしてわからない女を大事にして来た。
悪戯を仕掛けたり、時に突っ走ってしまったりと大人げないところは、確かにあるのだけど。でも思い返せば、この自分に関することばかりなような…。
確かに大人としての仮面ではない、相応の不器用な素顔をずっと見て来たから自分の中にも好意が育ったのは事実と言って良いが、それでも、その責任を放り出さない姿勢は。
「でも、度を過ぎて不器用でしょう?」
「でも、それがいいんです」
水蓮に返したその瞳の真っ直ぐさと青さといったら。
「あらまぁ…」
水蓮はつい嬉しげに顔を明るくした。
「え、あ…いやあの、いまのはなしで」
背けた横顔も頬はほんのりと赤く染まって。なんと可愛らしいことだろうか。
わかりにくくはあるが、猫猫は注がれた想いに息苦しく溺れるばかりの小娘ではないのだと改めて思う。
「それは是非坊ちゃんに、言ってさしあげて」
にこりというべきかにんまりというべきか、なんとも名状し難い笑顔を向けられて、猫猫は余計に顔が熱くなるのを感じた。
「その、善処します」
「はい」
天を望まず人を希んだ月の君も、この愛想にかける猫娘の口からそのように聞けば天にも昇る気持ちになるだろう。
いつも冷静で淡々としているこの娘が、自分自身の不意の言葉に顔を赤らめるなど。多分、色恋も傍観しかせず遠ざけてきたが故に自分の心の
まぁそれはそれとして。
ひとしきりにこにこと猫猫を見つめた水蓮は茶を一口含む。
「でも不器用だからと、あまり坊ちゃんに合わせてあげてもだめですからね?」
視線を湯呑みに落としつつ。
ただ一方的に大事にしようとしても、それが相手の本意で無いならあまり意味はない。皇族と妃ではなく、一臣下とその妻となる未来を見つめるならば余計にそれをわかっていねば。
「一応、釘は刺したりしてるつもりなんですけど」
はは、と困り笑いなどして見せる。
ああ、この笑顔も坊ちゃんに見せてあげたい。こんな素顔を曝けてしまうくらいには、猫猫は月の君に近しい者達にもこころを許しているのだ、言わずもがな
「どんな釘かしら」
「補充の仕方とか時と場とか…数万の民と私を天秤にかけるなとか…」
ああ、という顔で水蓮は声もなく苦笑いを浮かべた。それはそれで…確かに月の君は色恋にはまるで子供で、そして情に脆い。彼自身が望むように、天をいただくには才が足りぬ。というより、優しすぎる。仮の名の読みの通り、天にはなれぬ人の子。
しかし水蓮が指すのはそれではなく。
「そうね、それもわかるけれど。…あなたの気持ちも望みも、あの子に伝えなくては」
ついにあの子呼ばわりである。なるほどこの大姑にかかればまだまだ任氏など子供だろうけれども。
「私の望みですか」
「そう、あの子とあなたがどうありたいか、どうなりたいか。その道筋をどう望むのか」
いきなり難しいことを言う。
猫猫は唸った。この身を望まれ、心に応えることを受け入れ、そしてこの先何があるだろう。
冷淡にもなれないお人好しの天上人にいらいらしたことは幾度かあるけれども、あれは要らぬ苦労を背負い込むやり方に、そうして疲憊する姿にどうにかならないかと歯痒く思ったからで。
あの人のやり方がどうこうであるという感想くらいは抱いてきたものの。
二人がどうなりたいか、猫猫がそれをどのように望んでいるのか。
とてもややこしい。
(私の望み、ねぇ…)
確かに貴人の男と平民の女という立場で線をずっと引いてきたが、そういうものがなければ、もっと早くにすんなり夫婦になっていた、かもしれない。自分自身、おそらく相手がこの心に届くようなまっすぐな気持ちを持っていたならさほどのこだわりはなかったはずであり。
ただ、その計り知れぬ真っ直ぐな一念がもっとも困難であったろうことは、自分にも幾分、いやかなり要因があるが。
ただ、無駄な火種とならないことが今は求められるだけのことであり…まぁその点についてはこの歳で悠長にはしていられないというのは一面の事実であるが……できるなら…ごちゃごちゃしたことは置いておいて、のんびり一緒に過ごしたり。
「いろいろ考えずに、自然とそばにいたい。かなと」
あんなに熱い気持ちは多分持ってない。けれど暖かく、照れくささを伴った、胸がちょっとつかえるような苦しい気持ちを抱くのはあの人にだけだ。こんなにも自分の居場所を感じるのはあの人だけだ。
我がつよく、愛想の使い方はあまり知らず、薬と毒が大好きで、おやじの背中を追いかけるように医学を学び。一人でも淡々と暮らせる人間であったと思うし、今も概ね事実そうだろう。
でも、その傍らに。心地よい贅沢なぬるま湯に心の強張りを解きながら、望まれるならその側に。そうして
「多分、任氏さまだから夫婦になれるのだと思えるのです」
単に求められたから、ではなく。
「そう。言葉にできる時が来たらいいわね。あの子飛び上がるんじゃないかしら」
きっと目を白黒させながら、浮き足だって抱きしめられるのだろうな。
そんな彼の姿が浮かび、猫猫は思わず苦笑いを浮かべた。
「空も飛べるかもしれませんねぇ…。いやそれは自惚れすぎですけど」
水蓮は口元を押さえてころころと笑った。きっと飛ぶに違いないとでも言いたげに。
まぁ閨褥のことはそれはそれではあろうけども、それは想いを遂げることの一部だ。軽くはみないが重く扱い過ぎないくらいで。伴う責任の重さを余りに真正面から受け止めれば、やはりあの真面目な男は考え込んでしまう。
もっと単純に、共に過ごす時間、その時々に心を通わせられるように、足りない言葉をうめていくほうが大事なのであろう。
きっとまだまだ言葉は足りない。言葉だけでないいろいろな互いへの表現も足りない。それは臆病な二人のせいだ。
命になどならないから、この心は命でどうにかなるようなものでないから、もっと素直にありたいし、あって欲しい。
好きですとかお慕いしてますとかさらりと言える柄ではないけれども、簡単に言葉にできなくても伝えられる事は伝えたい。
できるなら近々にも、こんな傷だらけの貧相な無愛想女がいいのなら、離れませんよ、とでも言ってやりたい。
「水蓮様」
「なぁに、小猫」
「任氏さまはなんでこんな女がよかったんでしょう?」
「うふふ、さぁ…?」
そんなことは本人に聞け、という事だろう。
「それもいつか聞けると良いわね」
水蓮が嬉しそうに笑う様子に、ふっと己の言葉に恥ずかしくなり猫猫は目を伏せた。
「やっぱり特殊しゅ…」
「なにかしら」
水蓮の目がギラリと光り、また言葉を間違えたと悟った。
猫猫はまずこの癖をどうにかしないといけないな、と日の高くなった空を仰いだ。