「月さま月さま」
「何だ?雀さん雀さん」
「やーですよぅ、猫さんと同じ返し方なんて、なんて仲良しですか」
「いやお前が猫猫に声をかけるのと同じ話し方をするから、真似てみただけだが」
「いくら右手が使い物にならなくなっても女は女ですよぅ、他の女と仲良しなんて猫猫さんに毒ですよぅ」
なんとも愉快で扱いづらい有能な者だ。
直属は阿多元妃、馬閃の兄馬良の連れ合い。神出鬼没でどこから拾ったやらわからぬ得体の知らない情報を洗わせたら一級なのだが。
「手がどうこうというのは、それはそうだろう。まぁ毒はむしろ喜ぶかもしれんな…」
対して面白くもない力の抜ける気楽な冗句を飛ばしても構わない相手だというのは、まぁ一つありがたいかもしれない。
仕事の話なのか、単にからかいにきたのかわからないこともままあるのが少し困るところ。
「この毒は喜びません、絶対ですー」
「まぁ俺たちの恩人が毒になることはない、安心すべきだな」
かすかしか動くことのなくなった右手をちらと見ながら。
「そんなの分かりませんよぅ。月さま月さまなんて猫猫さんの前で呼んだら睨まれてしまいますぅ」
にこにこと冗談重ねてくるあたり今日は仕事の話ではないのか。暇なら茶でも出すが、生憎自分はもう少し処理を進めないと時間が取れないし、馬良を先に休憩させるか…など考えていると。
「雀、一応私がいることは忘れないでくれ」
簾帷の向こうから馬良の弱弱しい声がとどく。
「もちろん忘れてなんかないですよ。可愛らしい事言うと今夜ひっついて離れませんよぅ?」
この夫婦もまぁよく変わっているものだ。
「"暇なら馬良を少し休ませて茶でも"、なんていい事考えてくださったりしてそうですね」
「人の考えを読まないでくれ」
顔に書いてある、とはこの雀が口にするが、大抵の考えは読まれてしまう。便利だが迂闊なことは考えられんなぁとも。
「そりゃ迂闊なことを考えたら雀さん猫猫さんに告げ口してしまいますよぅ。"ところで今日は何なのだ"、なのですが一つ面白い耳よりな世間話にきたのです」
会話を一人でこなしてしまうあたり、実に器用だ。
「馬良さん馬良さん、ちょっと先に茶でも淹れててくださいな」
勝手に旦那を追い出してしまうあたりはなんと言えば良いのだろうか。
勝手知ったる我が旦那…いやそれはそうか。
まぁどちら道休憩を取らせるつもりであるし、雀も後で行くだろうから構わないことだ。
「さて、一応猫猫さんの名誉というか羞恥に配慮が必要なので外してもらったのですが」
外させるからには理由があるに違いないのだが、猫猫のこととなると聞き捨てならない。
「ほう、猫猫の名誉と羞恥とは聞かぬわけにもいけないな」
「あっ、月の君きらきらがでておりますよ」
「きらきらで結構」
でないとニヤついてしまうかもしれんな。
我ながら猫猫のことになると莫迦だとは思う。
「親莫迦ならぬ猫猫莫迦ですねぇー」
「何とでも言ってくれ」
「よっ、猫猫莫迦っ」
存外悪くない気分であった。
にこにことそんなことを言われては。
「で、なんなんだ」
任氏は身を一つずいと乗り出し耳を傾けた。
雀も「はは、では失礼をば」など戯けつつその耳に寄る。本来適切な礼のはずではある。
これならば馬良を先に出す必要はなかったのでは?など思ったがらいやこうやって耳打ちする算段をしていたわけでもないしな、と任氏は雀の小さく絞った声に集中する。また、目の前でコソコソと耳打ちというのも馬良にとって気持ちの良いものではなかろうし。
「猫猫さんは背中が弱いのです」
「背中…?」
「くすぐったく、ぞくぞくしてしまうのです」
足の裏ならば意趣返しに嫌というほどくすぐってやった、あれは水蓮が教えてくれたか。背中もくすぐったく弱いのは知っている。
「ああ、くすぐったいことなら」
しかし、はてぞくぞくとは?まぁこうして耳打ちするあたりそれは嫌悪感とは別物なのだろうが。
「それはそれは可愛らしいのです。触れるだけでなく可愛らしいところを補充されたくなったら…おすすめなのですよぅ」
ということである。ほほうと任氏は顔を引っ込めると雀の目をじっと見据えた。
至って真面目に聞いており真剣であるが故に天上の威厳を伴う。
見る者が見れば「威厳を出すところがくだらなすぎます」と一蹴りされたかもしれない。
「それは、時と場を選ばねばな」
「月の君、それはもう流石に選ばないと猫猫さんが可哀想ですよぅ」
「ふむ、それはどのような」
「ゾクゾク、なら閨褥の中にございますよぅ」
月の君ったら野暮なことをお聞きになりますぅ、と細い目をさらに細めて揶揄うように。
「閨褥の中とは、これは、また」
真剣なものから転じて赤らんだ任氏の顔には随分と詳しいのだなと書いてある。
「私も女でありますから、よってくすぐった時の具合でおおよそわかるのでございますよ」
「…なぜいきなり真顔に」
こればかりは真剣だからです、と雀は普段と似合わぬ、そして少し品を欠く話の内容にも似合わぬキリッとした顔を見せる。ついでにおそらく内腿もかなり弱い気がする、と付け加えてきたが、何をどこまで探っているのやら。
「でもきっちり雰囲気も身体もあたためてからでないと途端に面白くなってしまいますから、注意なのですよぅ」
途端に元通りであるが。
しかし閨のことを言ってくるとは、随分と間の悪いというか。いつかしら不甲斐なさ甘さに打ちひしがれた男としては複雑な気もする。
悪意がないのはよくわかる、むしろ背を押しているような風も。
「月さま月さま」
「雀さん雀さん、なんだろうか?」
同じようなやりとりに、雀が「だからだめですよぅ」とおかしそうに笑う。
「"今日は随分砕けているなぁ"とお思いでしょうが、本日はお察しのように雀さんは猫猫さんの友人として参りましたので」
にかっと明快な笑顔。
掴みどころがないようでいて、このことには何の偽りもないと腹を曝けてしまうような。
「つまり、猫猫さんを大事で猫猫さんの大事な月の君は雀さんにとっても大事な人になるわけですよぅ」
「はあ」
「はぁ、ではないです。それで月の君ご自身にも申し上げたいことがあるのです」
まぁつまり役の上下であるとか位などは関係なしに、間接的に近しいとも言える一人の人間として、という事なのだろう。
「聞かせてくれないか」
任氏の顔には何の抵抗感も顕れておらず、なるほどこういうふうに位に縛られない、むしろ捨てたがるような人物だから猫猫も向き合う気になったのだな、とおどけた表情のなかで雀は思う。
「ひとまとめに言ってしまうと、月の君は何かと我慢しすぎなのです」
任氏の目が大きく見開かれたかと思うと、次には目を合わせていることに耐えられぬという風に目を逸らした。
「そうだなぁ…それは、まぁ仕方ないだろう」
情けないことではあるんだが、と苦笑いを浮かべつつ。
「ちょっとだけ素直にで良いのです、あなた様の自然な姿は猫猫さんの好物なのですよぅ」
「そう言われると、意識してしまうが…」
しかし、突然部下兼部下の妻にこんな助言をもらうとは、奇異なものだと思う。気安く思われているならなんだかんだ嬉しい事ではあるが。
「月の君が月さまでなくなり任氏様になられる時にも、それまでにもお役立ていただきたいのですよぅ。お二人とも忙しいので、ふれあいの時間は少しでも濃密に」
まぁこういうところまで突っ込んだ話をしてしまえるというのは、友として猫猫が幸福であるべく、というところなのだろうなと任氏は思う。下世話な部類の話だが、要は仲良くしろと言っているのだ。
「…すごいことを言っているところ悪いが茶を淹れたよ。菓子を出しておくからお話が終わったら早く」
「馬良さん無粋ですよ。でも、ありがとうございますー」
こっそりゆらっと薄い気配で顔を出した馬良に返事をしながら、後ろ手に右手を下げたまま小さくしっしとひらひら。
「お前…右手…」
任氏が唖然と指さしている。
「あらあらこれは。まだまだ猫猫さんにはしーですよ月の君。もっともっと良くなってからびっくりさせたいのです」
腰から背骨に沿って瘴気が抜けるような、ほっと深いため息が出た。
流石に元の通りにはならないのだろうが、この猫猫を救った有能な女の手がある程度用を成せるようになれば、猫もきっと安堵するだろう。そしてその手が少しでも機能を取り戻すことが任氏にとっても純粋に喜ばしかった。
「そうか」
嚙み含めるようなつぶやきがこぼれた。
このふざけたようで抜け目ない女があえて見せたのだ、おおよそ、少しはこちらの胸のつかえを軽くしてやろうだとかそういう意図があるには違いなかった。
「月の君には、ですから遠慮なく猫猫さんのことを可愛がってあげて欲しいのです、こんなことでもどこかで気になるでしょう?殿上人のくせしてそのくらいお優しいことはよく存じておりますぅ」
また目を細めてにこにこ飄々と。
「まったく敵わんな」
血に塗れズタボロで帰ってきた二人の様相は未だに記憶に鮮やかで、なるほど確かに、人生を左右する後遺症を負った身近な者が幸福の背後にあるというのはどこかで引っかかり続けることだったろう。
「しかし、しかしだな。…猫猫にも早く教えてやった方がいいのではないか?」
いくらびっくりさせたいとは言っても。
「それはお楽しみの方が良いのですよぅ。私の腕の専任ならば、治療の間はおしゃべりなど仕事の最中の息抜きもできますし。なによりびっくり笑顔にさせたいのです」
「いや、もっとよく動くようになってからとなると笑顔を通り越して泣いてしまうかもしれないぞ」
どころか、下手をするとこっぴどく怒られそうでもある。
この雀は猫猫を個人的にいたく気に入っており「両想いですよぅ」などよく戯れているが…どうせなら可能な限り障りがなくなってから知らせたいというのは、それだけ猫猫の心に引っかかりを残しているだろう悔恨に近い気持ちを打ち消してやりたいのだろう。
良い友を得たな。任氏はこのひょうきんな振る舞いの女に首を垂れて感謝をせねばと思う。すでに何度も謝意は伝えてあったが、対等な一人の人間として忘れてはならないことであった。仕事の最中の息抜きも度がすぎなければ目を瞑る。
「やですよぅ、月の君ったら私の考えがわかってらっしゃる。そんな察しも感謝も、もっともっと猫猫さんに注いでくださいな」
「猫猫のこととなるとなぁ…」
任氏は右の頬を軽く掻きつつそれが難しいのだ、とまた苦笑いした。
「ともかく喜ばしい事だ。それで、馬良には」
「馬良さんにもこれ以上動くことはまだ秘密なのです、びっくりさせられるときまで素直に甘えておくのです」
「なるほど、な」
「月の君、羨ましいなんて思ったらダメですよ、猫猫さんには猫猫さんの距離の掴み方詰め方があるので、素直に甘えてくれるまでじっと我慢ですよぅ」
「お前もあまり読まないでくれないか」
左手で瞼を隠して天井を仰ぐ。
「さて私の話ばかりしても面白くないです。よーく覚えていてください、とっても可愛いらしいですからー」
「あぁ、背中、だな。覚えておく」
「ではでは、私は馬良さんに甘えてきますのでこれにて失礼しますー」
左手のみの拱手で爛々とした細い目だけを覗かせながら。
あれは本当に楽しみにしていそうな目だ。
これ以上、というからには本当はもう少し動くのか。まぁとりあえずは黙しておこう、当人の意向は大事であるし。
「本当に、得難い人物が周りにいてくれて助かるな」
しばし一人となった執務室で、お節介であったりじっと見守ってくれたり、時に突っ走って失敗などする身近な者達を思いつつ、任氏はさて、と仕事の筆をとった。