赤より紅い夢
「──私のミスでした」
気が付いた時には、そこは電車の中だった。
しかし電車にしては人がいない。
乗客であろう3人は白い服を着た空色の髪の女性と、その子の真向かいに座るように二人の男が座っている。
この光景は、普通ならば閑散とした鉄道の中なのだろうなと考えて終わる光景なのだろう。
しかし、3者揃ってその身体はボロボロで出血はひどく、今すぐにでも治療をしなければ生死すら危うくなるかもしれない。そんな状態のようにも見えるその光景は、どう考えても普通ではなかった。
そんな重症の3人の中で、空色の髪──正確には、内側を桃色で染めたパステルカラーの長髪の女性。彼女だけが意識を保っていると言える。
その女性は真向かいで眠るように座っている雰囲気を見せる二人へと、言葉を継げていた。
「私の選択、そしてそれによって招かれたこの全ての状況。結局、この結果にたどり着いて初めて、あなたたちの方が正しかったことを悟るだなんて……」
その言葉には、どんな思いが込められていたのだろうか。
反省、後悔、懺悔、慚愧……あるいは、悔悟なのだろうか?
どんな言葉にしてもその全容は解明できないのだろう。
彼女の言葉は、それを知っている者たちにしか分からないのだから。
3人は灰色に染まった街を知っている。
3人は煙と緋色の血潮で包まれた瓦礫を知っている。
3人は、自分たち以上に重く辛い感情を背負わざるを得なくなった生徒がいる可能性を、知っている。
「……今更、図々しいですがお願いします。先生、そして、神主さん」
女性は、静かに、それでいてしっかりとした言葉で目の前の二人へと声を語る。
二人は頷くこともせず、ただ座っていた。
眠っているのか、はたまたもしや。
しかし女性はそれを気にせず、あたかも分かってくれることを知っていると言った様子で言葉を発し続けた。
「きっと私の話は忘れてしまうでしょうが、それでも構いません」
「何も思い出せなくても、おそらくあなたは同じ状況で、同じ選択をされるでしょうから」
「そして……みんなは恐ろしく思うかもしれません、嫌ってしまうかもしれません。でも、最後には必ず、良い選択を選べると──そう信じられるみんなだから、きっと、不可能ではないですから」
長くもあり、短くもある。
数分にも満たないその文章を語り終えた時、3人の座っている電車が大きく揺れた気がした。
きっと何か、大きな大きな分岐点に差し掛かったのだろう。
この分岐点はとても数が多く、ここから多少の間、揺れは収まらないだろう。
そんな揺れの中でも、女性は気にも留めないような毅然とした態度で、二人に語り続けていた。
「ですから……大事なのは経験ではなく、選択」
「あなたにしかできない選択の数々」
「みんなにしかできない選択の数々」
その言葉に、様々な記憶が思い出される。
それは、彼女たちの青春。
守るべき情景。
そして、あり得てほしかった光景が形どられていく。
それは、彼女たちの理想。
貫くべき幻想。
無数の彼女たちの願い、喜び、幸せ。
それらは記憶の片隅にあって──そして、消えていく。
「責任を負うものについて、話したことがありましたね」
「あの時の私にはわかりませんでしたが……今なら理解できます」
「大人としての、責任と義務。そして、その延長線上にあった、あなたたちの選択」
「それが意味する、心延えも」
彼女は思い出しているのだろう。
目の前で眠っているかのような二人との記憶を。
それは激しい論争であったり、優しい食事の時間であったり……
それぞれの理想を、幻想を星空の下で語り合ったりもした、楽しくも儚すぎた、一季節の微かな泡影。
「ですから、先生」
「ですから、神主さん」
「私が信じられる大人である、あなたたちになら」
「この捻じれて歪んだ終着点とは、また別の結果を……」
彼女は気が付いたのだろうか。
目の前で静かに佇む二人の瞼が、静かに動いていたことを。
微かに開いた瞼には、彼女の後ろの窓から見える、夜明けの光を受け取っていた。
「そこへつながる選択肢は……きっと見つかるはずです」
夜明けの光を背にした彼女の姿は逆光により暗くなり、二人はその姿を黒っぽくしか見られていなかったのだろうか。
きちんと話していたのが彼女だとわかってくれただろうか。
確かめようにも、もう時間が近づいていた。
夜明けの光はだんだんと眩しくなり、電車内を輝かしく包み始めた。
「だから先生、神主さん……」
「どうか……」
その言葉に、二人はどう返しただろうか。
その記憶は最初からすべて、深い深いまどろみの中へと、沈み消えていくのだった。
3人の中の1人──スーツ姿をした大人である『先生』は、夢と化した記憶の断片の中で最後に電車の扉が開く機械的な音を聞いた気がした。
まるで、終点──いや、始発点にたどり着いたかのような、清々しい音の響き方だったと記憶して……そして、その記憶はやっぱり夢の物だったので、記憶からもあっという間に消えていくのだった。
ただ、悪くない目覚めとなったことを残して。
「……紅いな」
「紅いですねえ」
この日、仲正イチカは生まれて初めて、霧の消し方について検索した。
その理由はいたって単純。
「いやー……うーん……紅いっすねえ……」
自分たちが本部として使っている部屋。
そこを紅い霧が我が物顔で蹂躙していたからであった。
学園都市キヴォトスには、百を超える膨大な数の学園が存在するが、その中でもトリニティ総合学園ほどの大きさを持つ学校はそうそう存在しない。
ちょうど自治区の境目にある橋を渡るような目と鼻の先に憎きゲヘナ学園というトリニティと同規模の勢力を構える学校があるが、それでも総合的な礼節と清楚感とその他もろもろに関して完膚なきまでに圧倒していると言えるのが、イチカの通うトリニティ総合学園なのだ。
そんなトリニティ総合学園の自治区は今、襲撃を受けていた。
本来ならその襲撃に対してイチカを始めとしたトリニティの治安を守る正義実現委員会の面々が出動するのだが、今回は『原因が判明するまで待機もしくは通常業務に勤しむべし』という、異例の命令が上層部から下された。
「うーん……まだ偵察隊は帰ってこないんですかね……」
「待ってろ。すぐに答えは出る」
「っていうか、この紅い霧ってみんなが思っているような個人が出したものなんすかね? 百年に一度の異常気象って可能性もなくはないじゃないっすか」
イチカは不思議に思っている。
なぜか正義実現委員会の中でも飛び切りのパワーを持つ剣先ツルギ先輩と、身の丈に合わない大きなアンチマテリアルライフルを片手に担ぎながらソファに座っている後輩の静山マシロ。
この二人を始めとして、トリニティの上層部たちも一堂に『誰かのせい』だと言い放っているのだ。
今現在、正義実現委員会の偵察隊がトリニティの今まで怪しくなかったところを重点的に捜査を行っており、結果が届くのを今か今かと待っている。
それが現在の状況なのだが。
それはイチカにとって、とてもとても、不思議なことだった。
世界では異常気象が問題となってきているというのだから、紅い霧だってあり得るのでは。
そう思ってしまうのも当然だった。
「違う」
「違うんすか?」
「ああ。……これは、『異変』だ。明確な」
「はぁ……」
ツルギは鋭い四白眼をギロリとイチカに向けて、そう告げた。
生まれ持っての凄みと目つきが生み出す猛烈な威圧感によってその顔は恐ろしい表情だとツルギを見て他人は感じるだろうが、正義実現委員会のエリートはツルギの感情をある程度は理解できる。
今のツルギは比較的冷静な方だ。
「そういえば、イチカ先輩は前回の異変の時に一般民を避難していたから、異変と立ち会うのって初めてになるんじゃないですか?」
「あー……そうかもしんないっすね。前回の異変ってどんなのだったんすか? なんかヤバいのが襲撃したって話だったみたいっすけど」
イチカは前回の異変時に、トリニティ自治区の市民たちを避難所へと護送する任務を行っていた。
実際の戦場はトリニティ自治区から遠く離れた場所だったが、先生が連邦捜査部としての権限を行使してツルギやマシロたちと、他の学校のエリートたちを招集して対応に当たったというのだからその規模感は相当の物だったのだろう。
「前回の異変は『吸血鬼異変』と呼ばれています。その言葉の通りに、吸血鬼が『幻想』より他の妖怪を率いてキヴォトスに侵攻した近年稀にみる大異変でした」
「吸血鬼っすか……血を吸い取られるんすか? やっぱり」
「あの戦いの中で血を吸う余裕なんてなかったみたいですけどね。でもまあ、それでも他の妖怪に比べたら力はだいぶありました。ツルギ先輩の猛攻と競り合うぐらいなんですから」
「うわあ……それはすごいっすねえ」
この世でツルギの猛攻に敵うほどの存在が幻想にいるとは、とイチカは感嘆した。
ツルギはキヴォトスでも一二を争うレベルでの実力者であり、特に注目するべきはその肉体の頑強さ。
まるで戦車か、装甲車か、要塞か。数マガジン分もの弾丸を喰らっても痣程度で済ませるその肉体の強度に任せて捨て身で繰り出される二丁のショットガンによる猛撃、それがツルギという女の恐ろしさとして語られている。
そんな彼女と攻防を繰り広げたとは。
吸血鬼とはなんと恐ろしい存在なのだろうかとイチカは若干の身震いを感じた。
「それで、その吸血鬼ってどうなったんすか?」
「その吸血鬼は『幻想』に還されたみたいですね。さすがに『幻想』側もあれほど大規模な襲撃をさせるつもりはなかったようで、主犯の吸血鬼は向こうで厳しいを処分を受けているみたいっす」
その言葉を聞いてほっとしている自分がいることを、イチカは否定する気はなかった。
キヴォトスの隣にあって隣にない場所である『幻想』は自分たちの理解が及ばない自治区。そこではテロリストが日々闊歩するゲヘナ自治区以上に凶悪な存在がたむろしているという話を聞く。
もし『幻想』でもこの異変は日常であるがゆえに許されるようなことがあったら……イチカがそう考えていた節は、確かにあった。
「そんな前回の異変と比べて、今回の異変はどんな印象なんすか? 異変って感じたのなら、何かしら似ているんすよね?」
「うーん、似ているって言えば、似ているような……」
「……似たような霧を扱う吸血鬼がいた。あの時は黒かったが……似ている」
「えっ、そんな吸血鬼いましたっけ」
「……前線には、出てなかった」
「……あー、確かにいたような……いなかったような……。でも、確かにあの時の黒い霧と似ているんですよね。この迷惑さとかが」
そういってマシロは自分の首元に纏わりついてきた紅い霧を手でシッシッと追い払う。
紅い霧は部屋のライトに照らされて、本来であれば美麗で豪華さがありつつも落ち着いた雰囲気のする、ゆたりと寛げる休憩室出会った場所を赤色に染め上げてしまっていた。
紅い霧はトリニティ自治区の四方八方に湧き、街中のみに留まらず、部屋の中にまで侵入を果たしている。
これでもこの部屋に備え付けられてある換気扇を回しているのだが、まるで風呂場に残るしつこいカビのようにこびりついてしまっている。電力代の無駄を考えて、もうそろそろ換気扇を止めるべきだろうか。あと寒いから止めたいという本音を隠す生徒も多少はいる。
「比較的明るい色なのが幸いですよ。黒い霧の時は散々でしたから。視界に入るたびに狙撃ができなくなっちゃって」
それは確かに悲惨だと思う。
マシロの武器は全長2メートルを優に超えるアンチマテリアルライフル、すなわちスナイパーライフルであり、それを巧みに操るマシロはれっきとした狙撃手なのだが、狙撃手に必要不可欠な視界の確保という問題を難問にさせてしまったのが黒い霧だった。
本来なら高所、隠れやすい場所、狙いやすい場所というだけでいいのだが、そんな場所は黒い霧がとっくに占領していた。
追い払おうと身動きすればそれだけで他の妖怪に見つかる危険性だってあり、狙撃ポイントを見つけるのに苦労したという。
そのうえ、狙撃ポイントを見つけてもそこがいつ黒い霧によって制圧されるかという緊張感を余分に足さなくてはならないのも苦労感を割り増しにさせていた。
それに比べれば、イチカたちの目の前を染め上げる紅い霧は比較的狙撃手としては問題ない部類になるのだろう。
赤く視界を染めはするものの、透明度があるため視界不良とまではいかない。
それにしても、ここ数時間、自分たちが出動する案件が出てきていないとは……イチカは状況の大きさを改めて理解する。
トリニティ自治区はゲヘナ自治区ほどではないがスケバンなどの不良生徒は少なからず存在しており、彼らによる狼藉は後を尽きないのだが……この紅い霧が出てからというもの、そんな事件がばったりと消えてしまった。
1日における事件数が2ケタを下回るなんてことが起きるのは非常に珍しい。
これが紅い霧の異変によるものなのかは不明だが、今現在トリニティ自治区には不要な外出を控えるようにという知らせが出ているのが影響しているのだと思うと、風紀を取り締まる立場の者として異変というものの重大さを実感せざるを得なくなるのだ。
「──ただいま戻りました」
「ハスミ先輩、お帰りなさい」
偵察部隊が行動を開始してもう10時間を超えようとしていたところでようやく、偵察部隊を任されていた羽川ハスミが帰ってきた。
「それで、見つかったんですか? 異変の発生源」
「ええ。先にティーパーティに報告する必要があったから遅れてしまいましたが……今回の異変の発生源を確認することができました。そしてこれからトリニティ各位の部隊と共に、私たちは異変解決へ赴くことになるでしょう」
その発言に部屋の中にいた正義実現委員会の空気は固まった。
当然だろう、とイチカは冷や汗を流しながら思う。
前回の異変の時はエリートを集めた選抜隊で解決したが、今回はトリニティの力のみで解決しようとしているのだから。
ハスミの発言に対し、とある正義実現委員会の生徒が質問を行おうと、声を出した。
「その、シャーレの先生のお力を借りる事は……できないのでしょうか?」
「その意見は当然のことです。現に今、シャーレの先生もトリニティの現状に対して協力を申し込んでいると聞いています」
「で、でしたらぜひ受け入れるべきでは……」
「しかし、シャーレに頼ってばかりではいけない。これもまた事実です」
シャーレの応援、それはすなわち、シャーレの特権を用いて他自治区の生徒を戦闘に参加させる権限のことを指し示す。
前回の吸血鬼異変はまさにその権限のフル活用だった。
トリニティ、ゲヘナ、ミレニアム、そしてその他の学校の有力者たちが一堂に吸血鬼たちと交戦することができたのは、シャーレという組織の力があったからこそなのだ。
「今回の異変はトリニティに存在する戦力のみで撃破する。これがティーパーティが出した結論です」
「そう……ですか……」
その言葉に正義実現委員会の一生徒は首を垂れる。
今回の異変と前回の異変とで異なる点が一つ。
その一つがこの選択をティーパーティに下していた。
それはこの異変がトリニティ自治区のみにしか被害を及ぼしていない点だ。
前回の異変では吸血鬼ら強力な妖怪は一つの場所に集めることができたが、それでも多数の妖怪が様々な自治区を攻撃した。
それに比べて、この異変ではまだトリニティ自治区しか被害を被っていないのだ。
もしも、これが様々な自治区に被害をもたらしている異変だったなら、ティーパーティも即座にシャーレへの協力を望んだだろうが……このままでは『自分たちだけでは地元の異変解決さえできない無能集団』とゲヘナに嗤われる可能性がある。
それは今後の両校の勢力の均衡を保つためになんとしてでも避けたいのがティーパーティの……ひいてはトリニティ生徒会の現ホストである桐藤ナギサの考えだった。
「……心配するな」
「ツルギ委員長……」
「私たちが出るんだ。負ける戦いじゃない」
そう後輩に伝えるツルギの顔は、いつもと同じような恐ろしい形相ではあったが、こういう時には正義実現委員会にとって頼もしく感じるのだ。
「──ハスミ、いつ出るんだ?」
「今現在、シスターフッドと救護騎士団が異変解決のための選抜部隊を編制しています。そちらの準備が終わり次第、突撃が可能です」
「わかった。場所は?」
「自治区西側、かつて使われていた時計台のある森林です。そこにいつの間にか、紅い館が建っていたと」
偵察部隊曰く、そこには血色のいい赤色の建材で建てられた、悪趣味と言えるほどに紅い館が今は動かなくなって捨て去られ、忘れられていた時計台の跡地に建造されていた、と。
そして、その館の門の前には一人の女性が立っており、おそらくは『幻想』の者……妖怪だろうというのが、偵察部隊の報告だった。
「そして、その報告を無線で行っていた偵察部隊は──未だ、帰ってきておりません」
「……!」
「その者は最後にこう言っていました。『門番がこっちを見ている』──と」
「ちゃんと離れていたんですよね?」
「当然です。1キロは離れていたと聞いています。……マシロさんには、撃ちぬけてしまう距離ですけど」
とはいえきちんと森林の茂みの中に身を隠し、気配を悟られないように徹底しておきながらのこれなのだ。
その偵察部隊には非はないだろう。
「それで、こちらからは誰を選抜するんすか?」
「選抜……ああ、そのことでしたら、私たち正義実現委員会はほぼ全員で現場へと向かいます」
「……へ? ぜ、全員っすか?」
「……私も、さすがに過剰戦力なのでは、と申し上げたのですが……」
「だろうな。『幻想』の妖怪は、一筋縄じゃ行かない。……きちんと用意できる全戦力を使いたいんだろうな」
ましては吸血鬼。
ツルギの意見を聞いたみんなは固唾を飲む。
きっとこれから始まる作戦は、数か月前に自分たちに大きなダメージを負わせた大事件……アリウス分校による襲撃事件をも超えうるのではないか、と。
そんな可能性を考えながら、各員はてきぱきと、武装のチェックを整えて出撃を待つことになったのだった。
その屋敷は、奇妙だった。
その庭には綺麗な噴水と、きちんと整えられた花畑がありながらも手入れするものはいないように見える。
カーテンは全て閉まっており、日の光など挿し込みそうになく。
そして何より……その館は紅かった。
紅いペンキを頭からかぶったのではないかと疑うほどに、不気味なくらいに、紅くて紅くてたまらなかった。
霧により紅く染まった光が、カーテンを照らす。
外から見るよりも数の多い窓のある廊下を進んでいった先にある1つの部屋。
そこはまるで悪魔の宴会場。
紅い部屋の中で綺麗で律儀に白いテーブルクロスを敷かれているその長いテーブルは、この部屋に集う人々の影をしっかりと写し取ってくれていた。
「ふふふ、紅霧の広がり具合は順調なようね。さすがよ、パチェ」
そうご機嫌に告げているのは、部屋の大きなステンドグラスを背にして大きな椅子に座る女。
その女は背丈こそ低く、10代前半ほどの小柄さではあったが……
それでも『幻想』の者として、吸血鬼として相応しいと思えるような、立派な黒い羽を背中に生やしていた。
パチェ、と呼ばれた女は座りながら頭を下げる。
「ええ。ご要望通りの拡散スピードにしてあげたわ。でも……」
「どうかしたのかしら、言ってみて頂戴?」
「……この世界、思った以上に広いわ。このままだと紅霧はキヴォトス全域を覆いつくすまでかなりの時間がかかってしまう」
「なるほど……」
「先に言っておくけど、これ以上の出力は出せないわ。いくらこの紅魔館が魔力的に素晴らしい祭壇だとしても、限界というものがあるのよ」
そう不遜にも吸血鬼である彼女に答えるその女の瞳には、一切の恐怖はなかった。
そこにあったのは信頼であり、信用。
いくらあなたは怖い妖怪でも、私の言葉なら聞き届けるという、無言の信頼がそこにはあった。
いくらかの沈黙が続き、吸血鬼のティーカップが空っぽになった。
「咲夜」
「はい」
吸血鬼が一言呼べば、何処からともなくメイドの女が吸血鬼の傍に現れる。
メイドが現れるまでには過程というものは存在しなかった。一瞬、瞬きをする間にその姿を現したのだ。
ただ、呼ばれた時にはそこにいる。それがまるで大前提とでも言うかのように、その光景は当然のように行われる。
そしてメイドは持ってきたティーポッドからティーカップへと、良い香りを放つ紅茶を注ぎ入れた。
それを吸血鬼は優雅に一口。
「──わかったわ、パチェ。紅魔館でも無理、と……」
「……ためが長いわよ、レミィ」
「ごめんなさいね、ちょうどいま、面白い運命を感じたものだから」
「面白い運命?」
「ええ。ふふふ、まさか、ねえ」
クスクスと笑う吸血鬼のその姿はまるで子供のよう。
「でも、安心して、パチェ。ここで無理なら、別の場所でさらに紅霧を蒔けばいいだけなのよ」
「別の場所?」
「ええ。──この近くにある学園とやら。そこを奪い、魔術の祭壇として利用すればいいのよ」
しかし、その発言はこの場にいる者たち以外を考えない、まさに非情外道の価値観。
吸血鬼としての冷酷な価値観そのものだった。
「……ということは、侵攻を?」
「ええ。不満かしら?」
「レミィも分かってると思っていたわ。ここキヴォトスの強さというものを」
「あら、わかっていないわけじゃないわ」
「だったらそんな無謀を噛ますわけないじゃない。前回の侵攻を見て、何も学ばなかったのかしら?」
その発言を受けて、吸血鬼は笑った。
ふふふふふ、ふふふふふ、まるで地ならしのようにこの館を揺らすほどの強大な力を零しながら、笑った。
「問題はないわ。前の侵攻を見てこそなのよ」
「……作戦があるの? 本当に?」
「ええ。そのためには、これから来る学園の異変解決者たちを一掃する必要があるけど」
「……わかったわ。そこまで言うなら、信じてあげる。レミィ」
「ええ、大手を振って信じなさい。──このレミリア・スカーレットの引き起こす紅霧異変……これでキヴォトスは私たち紅魔館の手に堕ちるのだから」
その自信に満ちた言葉と笑みを一瞥した女は、静かにゆっくりと、部屋を後にした。
「……」
場所は変わって、とある地下室。
そこには様々な残骸が散らばっていた。
人形だったもの、ぬいぐるみだったもの、洋服だったもの……それらは全て破片と化していて、無残に部屋中に散らばってしまっている。
そしてその中央に、まるで大きなお人形と見間違うような、見目麗しい少女がぺたりと座っていた。
「……大丈夫」
少女はぽつり、ぽつりと呟き続ける。
「大丈夫、だから…………私は、大丈夫…………」
その言葉は、自身の存在証明。
自分の価値を定める言葉。
あるいは──自分を誤魔化す、まやかしの言葉。
「私は──吸血鬼の、フランだから」
その言葉を呟いたと同時に、少女の目の前の人形が──跡形もないほどに粉々になった。
まるで、吸血鬼による惨殺のステージと見間違うほどに、無残に。