「ねえアントニオ。あの手品の続き、教えてくれない?」
そうオリヴィアが問いかけたのは時計の針が天頂を跨いだ頃だった。
窓の外はガス灯の揺れが庭に差し込むのみで、月と星すら四角い枠からは覗くことが叶わない。
部屋の中、テーブルの中央に置かれたランプが煌々と酒に浸った二人の顔を濡らしている。
話はとあるパーティーでのことだった。新婚夫婦としてパーティーに招待され、陽気な学生に絡まれた海洋学者アントニオはひとつコインマジックを見せてやることにした。それは予想外に彼らに“ウケ”、また妻のオリヴィアにも”ウケた”ようだった。
この夫婦は学者といえども、変わり者の二人が隠れ蓑として結婚しただけの形だけのものだ。
アントニオ・クルーズ、38歳既婚、海洋学者。それが彼の情報であり、すべてと言っても過言ではない。
妻はオリヴィアといい、植物学者だ。30歳になるというが、その片鱗を見せない美貌と言動から学生に慕われている。
そして変人でもある。
そう、変人だ。
アントニオは研究のため、オリヴィアは自由のために偽装結婚をした。
クレイジーなものを好み、野山を駆け回って実地研究を行い、新しいものへと興味を惹かれる。それがオリヴィアだ。
そのはずだった。
そのはずだったのだが。
「アントニオ? 約束、忘れたわけないわよね。まさかプレゼントだけじゃなくてこんな美人の妻との約束まで忘れちゃったのかしら~?」
オリヴィアは変人だ。路銀稼ぎのために身に着けた”ちゃち”なコインマジックひとつに執心するようなことがあるだろうか?
おそらく酔が回ってしまっているのだろうとアントニオは考えていた。
パーティーで種明かしをしたときにも顔が赤く、酔いが回ってしまっていて内容を忘れてしまっていたのかもしれない。
仕方がない、ここは一つ手ほどきしようか。
カトラリーとワイングラスの並ぶテーブルに気をつけて、彼は立ち上がった。
オリヴィア・クルーズ、30歳既婚、植物学者。自由人。それが彼女の情報であり、ひと目見ただけでそれは理解できるだろう。
夫はアントニオといい、海洋学者だ。38歳になり、無精髭を生やしてスーツも着古している。
そして変人でもある。
そう、変人だ。
海洋学者の端くれであり、学会にも名を連ねている。名声を欲しているが、そのために不自然な手段を取ってしまうことがある。
深海には未知の生物が居ると考え、巨大生物の存在を解明しようとしているが、荒唐無稽さには素人にも笑われてしまう。
普段は作り笑いで講義を行い、自身の研究に固執している。それがアントニオだ。
そのはずだった。
そのはずだったのだが。
「忘れてしまったなら仕方ない。少し手ほどきしようか、オリヴィア」
アントニオは変人だ。だというのに、なぜ影の濃い目が、ボタンを外したシャツが、まくりあげられた袖が艶美に見えるのだろう。
彼は元来すばらしく顔が良いわけではない。きっと酒のせいなのだろう。オリヴィアはそう言い聞かせていた。
パーティーでの仕草がアルコールで火照ったまぶたに浮かび上がる。
ああ、確かあのときもこんなふうに近くで…?
「オリヴィア、コインの持ち方は覚えているか? そういうふうに掌で抱えて、後はそうだな、指を貸してくれ」
いやあの時よりも。近づいて屈んだ彼は、無遠慮に、だが優しく右手を取って指をひらき、中指と薬指の間にコインを差し込んでくる。
確かこの硬貨はハーフダラーとか言ったな、などと熱に浮かされた頭でぼんやり考える。
アントニオの手が触れるたびに、自分とは違う、掠れた肌と骨ばった指の感触が伝わる。
残された指で彼の手を引っ掻いたり、なでたりしながら時間が過ぎていくのにただ任せてしまう。
「ふむ、なかなかセンスがあるみたいだな。かなり自然体で持てているし、他の指を遊ばせる事ができるとは。やはりオリヴィアは才があるな」
無駄にかしこまった言い方をするせいで何を言いたいのかよくわからなかったが、どうやら私を褒めてくれたらしい。
なんだかそれがおかしくて、思わず笑いが漏れてしまう。
深夜、二人しかいないダイニングでは、コインの擦れる音と私の声ばかりが響いてしまう。
なぜか彼の声は沈むように消えて、食器に映る姿と私に触れている手だけが存在を表しているようだった。
「アントニオ、さっき遊ばせるとか言ってたけど、もしかしてまた学生と遊びにいったの? 女学生だったりしないわよね」
そんな彼女の言葉を聞くと、アントニオは考えを改めた。
酔っているというよりも酩酊しているな。確かにいつもより長い時間食事をしていたが、ワインを開けるのが早かっただろうか。
互いに学者という身、二日酔いというのは仕事に響く。だが明日は休息日だ、そういうわけで久しぶりにディナーを一緒に取っていたが、これは朝食はオートミールだけでいいかもしれない。
ちらりと彼女のグラスを見ると、確かに空になっている。三杯はあけていたはずだ。
すこしコインを持ったまま返答を考える。学生とカフェに行くときには基本彼女は付いてきている。
だが、前もそういう弁解をしたところ怪しまれてしまったことがあった、どうしたものか。
「ねえ、どうなの? 私の手をとって、目を見て答えてくれないかしら」
息をついて彼女の目を見る。どうやらすでに怪しんでいるらしい。
爽やかな青い瞳はこちらを見据え、右手は握って離そうとしない。
以前と同じように返答を試みるが。
「ふうん? 三日前に送られてきた招待状の内容すら忘れてしまう、愛しい愛しい旦那様は私に嘘をつくのね。
「昨日、学生と一緒に歩いていたじゃない」
あれは講義で質問があったから、そのまま次の授業にまで送っていっただけだ。
それだけなのだが、どうやらレディは信用ならないらしい。
かがんで手を握っていた俺を引っ張り、大きく立たせて手を両手で掴んでくる。
これでは本当の夫婦喧嘩みたいじゃないか。アルコール摂取は控えさせたほうが良いな。
「オリヴィア、学生の話はさっきので終わりだよ。いきなり立たせてどうしたいんだ」
どうやら旦那様は私のことを妻とは考えていないようだ。
確かに式をあげた当時は自由のためにと考えていたが、先日のパーティーで私を惚れさせたのはそっちなのに!
あのとき、親族にも関係者にも姿を見せて外堀は埋めたはずなのに、もう。
彼の手は酒のせいか汗ばんでいる。
食事の時緩めたシャツからは鎖骨が見えている。
彼が一つ話すたびに、ワイン混じりの呼気がこちらを惑わせる。
あのとき、やめてと言ったはずでしょう!
「オリヴィア!? まて、どうしたんだ、悪酔いしたのか、水を持ってこないと――」
彼の指はなんだか少ししょっぱかった。
それはそうだ汗をかいているのだから、だけれどなんだかそれが私だけがその味を知っていることで。
私だけがこの男を知っているのだから。本当の笑顔も、焦った顔も、汗の味も、唾液の味も、仕草だって、無防備な姿も。
だって私は妻なのに、誰とも知らない女子に取られるなんて。しかも本人が自覚していないとか!
「痛っ、歯をたてたのか…? おい、オリヴィア…大丈夫か、」
うるさいなあ、少しぐらい誰のものなのか見せつけないと。
指輪だって買ってくれないし、デートだってあまり行ってくれないし。
このコインはなんのつもりなのかしら。指輪の代わり?
人が誘っても咎めるくせに、本人は無自覚で誘っているなんて、こんなこと!
「おり、ヴィアぁ!?」
ちょっと引っ張っただけでこっちに倒れ込んでくれた。
へえ、乗り気だったのかしら?
なら少しだけ味見してもいいわよね、鎖骨も喉仏も鼻も耳も。
でも唇はそっちからがいいわ。
いっそ、その目も――。
「おはようオリヴィア。昨日は遅くまで起きていたから簡単なものしか用意していないぞ」
目を覚ましてみれば、自室に寝かされていた。
昨日のことを思い返して少しの間ベッドの中で悶えていたけれど、同じ屋根の下、出会わないというわけにはいかない。
恐る恐るダイニングの扉を開けると、アントニオはすでに朝食を取っていた。
夜のことは嘘のように、ランプは光りを閉じて、窓から陽が差し込んでいる。
テーブルクロスにはミルクとオートミールばかりの質素な食事が並んでいた。
なんだ、夢を見ただけらしい。そりゃそうだ、この歳になってあんな行動、恥ずかしくて出来やしない。
とはいえ、アントニオの方は向けそうもない。少し目線を落として麦をかっこむ。
今日は休息日だ。どこかデートにでも、
「そうだオリヴィア。あとでコインを返してくれ」