アントニオ・クルーズは教授である。
海洋教授として講義を受け持ち、他の研究者と並んで調査を進める。
特に海底の深海生物についてが専門で、未知の巨大生物が存在していると主張している……が、一笑に付されてしまっている。
とはいえ。
学生への講義においては一般的なものばかりだ。
他の教授と手を組んで、次代の芽を育てるために知識という名の水を与えるのだ。
「先生! ここのページ、もう一回読み上げてもらえませんか」
「先生! そこの問題、解説をお願いします! 逃げないで」
「先生! あっちょっと目をそらさないでごめんってばあ」
「先生。さっきから目の前で質問してる人って……」
俺は教授で、意欲的な生徒は大歓迎だ。
生徒は、だが。
終わりの挨拶の後、返事もまばらに、彼らは立ち去っていく。あの中でどれだけの人間がこの道に進むのかはわからないが、いつの日か大成することを願おう。
ところでだ。
「アントニオ、授業って学生に広く公開されてるものでしょ。なんで私の質問を無視したの〜?」
なぜ、愛する妻がここにいるんだ。
彼女は植物学者のオリヴィア。俺とは形だけの結婚関係を結んでいる仲だ。
いま、彼女は非番で家にいるはずだが。
「つれないことを言うわね。いち研究者として、そして妻として受講することは何もおかしくないと思うけれど?」
後者に違和感を覚えないのは流石オリヴィアと言ったところか。
俺と比べても、実地研究や発表で登壇し、目鼻立ちも整っている彼女は顔が広い。
わざわざ俺の講義を聞きに来る必要などはない。そも、今回の授業範囲については基礎的なものだ、彼女も修めているだろう。
呆れ顔を向ける俺に対し、なんだとう、と感情の読み難い瞳を向けてくる。
もう学生もだいぶ少なくなった教室の中で、彼女の溌剌とした声はよく通る。
本に目を落としていた彼らもこちらに目線を向けるほどに。
「いい、アントニオ。私たちは互いのことをもっとよく知るべきよ。いくら同じ屋根の下、同じ食事をとっていると言っても、あなたは自分のことを話してくれないじゃない。
なので、今日はあなたのことを付け回すから」
いきなり何を言い始めるんだこのお転婆は。野山を駆け回っていた頃と大差ないんじゃないか。
彼女は他の同性と比べても身長が高い。こちらを真正面に見据えて指を突きつけてくる。
澄んだ海の目が、虹彩を押し付けてくる。
「返事がないってことは肯定でしょ。さあ、この後行く場所は知ってるわ」
昼食時の食堂。夕方の大講堂。帰り道の買い物。
並んで歩きながら言葉を交わす。
「君はずいぶんと俺の生活に興味を惹かれていたみたいだが。そんな面白いものはなかっただろう」
まさか。
とっっても面白かったわよ。
他の先生たちとも食事をして、学生たちの質問に答えて、商店にも顔が知られてて。
偏屈学者で有名だったのに、いつの間に交友が広がっていたの?
「そりゃあ、君と結婚の体をとったからだ。自分だけならどうでもいいが、人の顔に泥を塗るのはな」
初めての舞踏会でプレゼントを用意してなかった人がよく言うわね。忘れたとは言わせないわよ。
「それについては……、いや、すまなかった。だからそういう目を向けないでくれ、その目は苦手だ」
ふうん?
旦那様の目を見て話すことも許されないなんて。
ちゃんと私の目を見ないと、公衆の面前でキスでもしてあげようかしら。
「そういったことは言うもんじゃない。わかった、ディナーは何がいいかな、レディ。君の望むものを」
そうこなくっちゃ。
それなら、あっちのお店に行きましょう!
前から気になってたデザートがあるの!
「ああ、お気の向くままに」
夕餉も済んで、晩酌の時間。
最近オリヴィアは酒を飲むとふざけることが多いから控えていたんだが、本人からのご要望とあっては仕方がない。
柱時計が時を告げる。今は星が空を照らす時間だ。
「でもね、アントニオ。私は怒ってるの。なんでそんなにも女性と関わるようになってたのよ」
あれはただの仕事関係だと何度も説明したんだが、お気に召さない様子。
そもそも、俺相手に特別な感情を抱く相手なぞ居るはずもない。
それは目の前の彼女も同じだ。アルコールを摂取して桃色に染まった頬も、家の中で乱れた髪も、透き通るような瞳だって、俺を見ることはない。
彼女は“アントニオとの結婚生活”を楽しんでいるのではなく、“オリヴィアの結婚生活”を楽しんでいる。
「ねえ、聞いてるの、今日だって私が最前列に居たっていうのに全然見てくれなかったじゃない」
それはそうだろう。あの授業は学生が主人だ。
君だって、あの程度なら知っているだろう?
……なぜそんなふくれっ面なんだ。
「へえー、私の愛すべき旦那様の主人は学生とー。ふうーん。じゃあ私は一体あなたの何なのかしらー」
妻だろう。
というか俺の主人にでもなりたいのか? ずいぶんと乱雑なご主人さまだ。
「へ。
あ、いや。
えっと。
ああそうだ! じゃあご主人さまとして命じます。私に講義をしなさい、一対一で!」
講義って言ってもなあ、どんなものが。
そう尋ねようとしても彼女の好奇心が爛々と燃えている目と視線が合う。
これは困ったどうしたものか。
いや、ひとつおもしろいものがあるな。
「え、料理? 確かに私はあまりしてないけれど。あっいや洗濯と掃除とかだったら料理で、ハイ……」
よし。お転婆お嬢様も、このあと一人で暮らすことになるかもしれない。せめて自炊のひとつやふたつ。
なぜかじっと見られている。
「そうね、せっかくだし、お手本を見せてくれないかしら。ね、ほら袖まくりとかね」
「……オリヴィア。今日はここまでにしておこうか。酒を飲んでるときに料理はするもんじゃないからな、うん」
いいえ、何を言っているの。
まだ夜は長いのだから。ほら作りましょう?
あなたから誘ったのだから。
「やめよう。な、いい子だから」
私の手料理が食べられない……?
ご主人さまだよ私、私の言う事聞けるよね。
「悪かったから、そのとんでもないことになってるフライパンから離れてくれ……!!」
いやまだこれからだから!! いけるし、ほらトーストっぽくなってるし!!!
「おやお二人様。ずいぶんと急がれていたようで。昨日はお楽しみだったのかね」
たまにはこういうおふざけものも。