次の日の朝に代表から呼び出しを食らって、私は事務所に足を運んでいた。
「来たか……前日はご苦労だった。依頼人は写真を受け取って満足したようだ」
「あれでですか?」
「何かぶつぶつ呟いていてまともな精神状態には見えなかったが、依頼金は支払われたから問題ない」
仇を打ってくれだのなんだの言っていたわりに早々に切り上げたな。
ようは、自分の気を晴らせるならその相手は誰でもよかったってことか。
好感は持てないが、裏路地の人間としては正しい判断だ。どんなことも割り切って、簡単に忘れられるならそれに越したことはないから。
「その話は置いて本題に入ろう。最近、黒い沈黙が暴れ回っているという話はお前も知っているな」
「ピアニストの発生以降、怪しい研究施設や組織を壊滅させているとか……親指傘下のルマノスカルテルと中指までやられたって聞きましたけど。それがどうかしたんですか?」
「黒い沈黙の件で、セブン協会とハナ協会から情報提供の要請が出されている。セブン協会の方は確実な情報ならば50万眼の報奨金を支払うそうだ」
セブンと……ハナ? 情報調査専門協会であるセブン協会が黒い沈黙の情報を集めているのは理解できるが、相手が特色とはいえフィクサー総括協会のハナ協会がいちフィクサーの情報を欲しがるなんて……何かあるのか?
フィクサー事務所がやられた事例が数件あるにしても、ハナ協会が直接関わるような案件では無いと思うのだが。
「ハナ協会の方は少し特殊でな……少し長くなるが、説明しておこう」
訝しげにしているのが代表に伝わったのか、代表はさらなる説明を始めた。
代表曰く、どうやら今回の情報提供の要請はハナ協会全体としてのものではなく、ハナ協会3課の個人から出されているもののようだ。個人的に黒い沈黙の動向を探っているようだが……知り合いか何かなのだろうか。
「お前は9区の出身だっただろう。ピアニスト発生時も9区にいたというお前なら、黒い沈黙について何か知っているかもしれないと思ってな」
ピアニスト……か。
L社の蒸発と共にその巣で起こった、光によって都市が照らされた3日間の白夜。それに続いて起こった4日間暗黒が都市を飲み込んだ黒昼。この白夜・黒昼以降に発生するようになったねじれ現象という、人が突然化け物へと変貌する現象。
最初のねじれであるピアニストは、9区の住民を8割方殺害した。
このピアニストを鎮圧するためにハナ協会が差し向けたのが、黒い沈黙というフィクサーだ。
ハナ協会から黒の色をさずかったフィクサーで、特色の実力は1級以上だ。
彼がいると周囲の音が消え、静寂の中で武器が振るわれる音だけ聞こえることから黒い沈黙と呼ばれている。
そのうえ常に黒い仮面を付けていることから、素顔を知るものは誰もいない。
「そうですね……一度だけ話をしたことがあります。ピアニストの事件以降、ある組織に捕まっていた時のことです」
……ピアニストが発生したあの時、その鳥肌が立つ演奏を9区の一番遠い場所で聞いた。その時はたまたま裏路地のチェーン店であるハムハムパンパンにスペシャルサンドイッチを買いに行っていて、自宅からは離れていた。
――その日、父と母……それから弟と私は、じゃんけんで負けた人が全員分のサンドイッチを買いに行くという話をしていた。都市の居住区ではよくある、家族の日常だ。
結果だけ言うと、じゃんけんで負けたのは私だった。そのときのことを未だに鮮明に思い出せる。見事なまでの一人負けであった。
負けた瞬間は、なんてついてないんだと自分の不幸を呪ったが、両親の笑顔と弟の期待で輝いた瞳を見てどうでも良くなった。
よく考えれば親の金でスペシャルサンドイッチが食べられるのだから、この位のことはして当然だ。そう自分を納得させて、売り切れないうちに早く買って来ようと急いで家を出た。
家を出て店まで行き、サンドイッチを買う。簡単な事だった。私の幸福はとても些細で、簡単なものだった。裏路地での生活は決して豊かなものではないけど、小さなことを幸せだと感じることができる。こんな生活が続けばいいと思っていた。
だが、それは幸福だけに限らなかった。私にとっての苦痛も簡単に訪れるものだったのだ。
どこかから、美しいピアノの旋律が聞こえた。それはどこかもの悲しげだったが、確かな情熱が伴っていた。
その演奏は歪んでいた。
そこに才能を感じないはずなのに、どうしても美しいと感じずにはいられなかった。聞き入らずにはいられなかった。
その演奏は歪んでいた。
狂気を感じるのに、誰に対する恨みも感じない。ただただ、旋律はそこに込められた愛に従順だった。
長い間その場に突っ立って演奏を聴いていた。私が心を取り戻したのは、目の前で店主が倒れた時だった。正気に戻って後ろを振り向いたときには既に全てが遅かった。
私の世界は壊れていた。私の日常は壊れていた。私の幸せは壊れていた。私の安息は壊れていた。私の感情は壊れていた……。
そこから見えたのは都市にそびえ立つ巨大な鍵盤と、そこから発生する音符によって崩壊した居住区だけだ。それ以外には何も無い。
全てを一瞬にして失っていたのだ。
ただ、それを知ったときには簡単に受け入れることは出来なかった。
旋律が止むまで、絶望に打ちひしがれながら呆然と立ち尽くしていた。
いつの間にか、あのおぞましくも尊い演奏は終わっていた。それに気づいてハッとした私は、すぐに自分の家に向かって走り出していた。最後の希望だった……全てを無くしたなんて信じたくなかった。
希望的観測だった。なぜなら、都市は非現実的であると同時に、残酷なまでに現実的だ。
そこに例外はなく、私の帰るべき家は……帰りを楽しみに待っていた家族は、跡形もなく姿を消していた。
残ったのは、この惨状を見て空が流した涙が溜まってできた濁った水溜まりだけだ。
いや、本当は知っている。降っていたのはただの雨だった。本当に泣いていたのは誰だったかも知っている。
――その日、都市に無意味な慟哭が響いた。
時が経ち、家族と住む家を失った私は9区でネズミまがいのことをしていた。
当時の私とネズミの違いと言えばそうだな……大きな違いは無いが、強いて言うなら常に孤独であったことだろう。
あの環境でひとりで生き残れたのは、まさに奇跡としか言いようがない。
長い間そんな生活を続けていたせいか、崩壊した9区で盗んだものを売って生計を立てる私のことはそれなりに広まっていた。
そのおかげか、『野良猫』の名で呼ばれ始めていた私の元には盗みの依頼が入ってくるようになった。個人からの依頼が来たり、ごく稀にだが小規模な組織から依頼が来たりもしていた。
だが、裏路地で金に関係する仕事は恨みを買いやすい。相手の同意なく物を奪う、盗みという行為は特にそうだった。そんな生活をして、長く続くわけがなかったのだ。
ある日、個人から一件の依頼が来た。
内容は隣人に貸したまま返ってこない大事な物品を、密かに持ってきて欲しいというありふれたもの。
指定された住居に侵入し、頼まれたものを探して持って帰るだけ。実際、依頼自体は簡単に終わった。
――ただ、その後が問題であった。
実は私が盗みに入った場所が、ピアニストの事件以降、9区で頭角を現してきた組織であるロサの研究室……その拠点の一つであるということが発覚したのだ。
それが分かったとき、真っ先に依頼人の顔が思い浮かんだ。
人間の脳というのは奇妙だ。害を与えたときのことはすぐに忘れるのに、与えられたときのことは簡単に思い出せる。
それが害を与えたことがあるものに、害を与えた返されたとなるとなおさらだ。
結論から言うと、依頼人は以前盗みに入った住居の家主だった。家が空く時間を調べるために何度か顔を見ていたので、記憶の片隅にはあったため思い出せた。
その時は依頼が全く入って来なかったので、自主的に盗みを働いていた。このまま依頼が来ないで飢え死にするのも嫌だと思って、いつもより多くものを盗っていったのを覚えている。
そうやって欲を出したのがいけなかった。嵌められたと勘づいたときには、既にロサの研究室の組織員たちが私の寝床に入ってきていた。
その後は――
「――そこまででいい」
「……え?」
予想外の所で話を止められて思わず変な声が出た。困惑を隠さず顔に出すが、それを見た代表が軽く鼻を鳴らしてから口を開く。
「お前の身体についた無数の傷痕を見るに、気分のいい話じゃないんだろう? それに今欲しいのは黒い沈黙に関する情報だ。要点だけ押さえて話してくれ」
「……わかりました。簡単に言いますと、ロサの研究室に捕まった私を救ったのが黒い沈黙でした。救ったと言っても、本人にその気はなさそうでしたが」
初めてその姿を見た時は、救世主が現れたと錯覚した。この人は私を地獄から救うために来たのだと。そんな、今になって考えると寒気がするほど甘ったれた考えが私の頭を支配していたのだ。
馬鹿みたいな考えが消え去ったのは、彼の仮面の奥にある瞳を覗いた瞬間だ。
彼の瞳の色はあまりにも憎悪に満ち溢れていた。何に対してかは分からないが、とにかく強烈な恨みを彼の視線からは感じ取れた。
そんなものを全て吐き出すかのような勢いで、彼は研究室を壊滅させていったのだ。
「その後、黒い沈黙は一人生き残った私に対して白夜・黒昼。そしてねじれの情報を聞き出そうとしてきました。私がロサの研究室の関係者ではないことがわかっていたのか、あまり期待していないようでしたが。知らないと言うとあっさり引き下がりましたね」
「白夜・黒昼。それにねじれか……。黒い沈黙はねじれの発生原因を探しているわけだ。なら、不審なことをしている事務所や組織が壊滅させられたのもそれが原因か? だが、それらと全く関係なさそうな組織もかなりの数がやられている」
……この情報は不確かな部分が多い。
正直黒い沈黙と直接話しをしても、彼が何をしたくてロサの研究室を壊滅させたのかよく分からなかった。ねじれ等の情報を集めているようにも思えたが、それにしてはやり方が雑だった。
……考えても仕方がないか。とりあえずの問題は、こんな情報を7級フィクサー事務所が言って協会が信じるかどうかだ。
「今回のことは協会に伝えておく」
「もし報奨金が得られなかった場合は?」
「心配するな。既に何件か都市怪談級に該当する依頼を引き受けている」
「ということは……」
「お前にも一件任せるつもりだ」
都市怪談……今までは猫探しだったり、先輩の仕事について行ったりと、一人でまともな仕事を受け持ったことはなかったが、四回目にしてようやくか。
それで、肝心の依頼内容だが……。
「お前に任せる仕事は単純だ。元槍派組織員のこの男を始末してこい」
代表はポケットから一枚の写真を取りだして渡してきた。
受け取って確認すると、そこには額に傷がある悪人面の男の横顔が写されていた。身体に刺青が入っていることが分かるため、ネズミなんかよりよっぽど手強い相手だろう。
「期限は3日だ。早めの処理を頼む」
「了解しました」
今回の仕事は少し苦労しそうだ。