玲瓏事務所   作:小説 魂

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苦痛の種

 そこではいつも同じ光景が広がっていた。苦痛をより巨大な苦痛が飲み込んでいく。

 都市ではよくある光景だ。異常だったのはその苦痛の輪に私が加わっていたことだった。

 いや……もっと異常なのは、その輪を外から眺める者が存在していたことだろうか。

 

「No.26の傷痕はどうだ」

「はい、最初の傷痕発生から約二週間が経過していますが、何度か施術室に入れたことによって、その数は増加しています」

「具体的な傷痕の数は?」

「5つです」

 

 硝子一枚隔てた先で交わされる会話は、私たちを人として扱わないようなものだった。

 それを死人ような目で、なんの希望も持たずに見ている私たち。

 きっと、このまま腐っていくのだろうと思っていた。

 

「なんでそんなにつまらなそうな顔してるの?」

 

 ――意外にも、その声は私たちの中から聞こえてきた。

 私たちの中に存在する異端が気になり、声の主を探す。

 

 そいつは私のすぐ後ろにいた。

 どうやらこちらに向かって声をかけていたようで、振り返ってすぐ目が合った。そこに居たのは私と同じくらいの歳の女だった。

 魅入られるとはまさにこの事だ。私たちの中で唯一生気を感じられる黄金に輝く瞳を見つめていると、吸い込まれるような錯覚が起こった。

 彼女の黒い髪がその黄金を引き立たせているのだろう。暗闇の中で導きを見つけたが如く、気づけば私は手を伸ばしていた。

 

 だが、突如として伸ばした手を強く握られたことによって、私は正気を取り戻す。

 

「ッ何してる!」

「何って……あなたから手を伸ばして来たんでしょ? 握手しようって意味かと思ったのだけど」

「離せッ」

 

 怖かった。死んだような私が、こんなにも生きているやつに触れたことが。

 部屋にいた他の連中の視線が私たちに向く。だがこちらを一瞥した後、一切興味を持たない顔で皆が床や天井を見つめだした。

 

 その様子を見て安心した。こいつらは死んでいる。私も同じだ。やはり目の前の女が異常なだけなのだ。

 

「酷いわね。あなた、たしか野良猫でしょ」

 

 コイツ……なぜそのことを知っている。

 その名は私がここに来る前、裏路地で呼ばれていた通り名だ。

 

 対して有名でもないはずのその名をここで呼ばれたことに対し、私は少なからず動揺した。

 

「私の名前はミラ、あなたは?」

 

 驚いて固まっている私を見て好機だと思ったのか、女は名乗り始めた。

 関わりたくないことを態度と行動で示したばかりなのだが、女はそんなこと無関係に人の心へ踏み入ろうとしてくる。

 

「お前に教える名前なんてない」

「じゃあ野良猫で!」

 

 おい、勝手に話を進めるな。こっちは端からお前と関わる気は無いんだよ。

 それにここじゃもう、裏路地で何やってたとかは関係ないだろ。野良猫の名で呼ぶのはやめろ。

 

「その名前で呼ぶな。不愉快だ」

「だって、本名を言ってくれないんだもの」

 

 お前になんて言うわけないだろう。それにどうせ、近々どちらかが死ぬことになる。

 名前なんて知っても無意味だ。

 

「当たり前だろ」

「どうやったら教えてくれる?」

 

 面倒なやつだな。これ以上話していると頭がおかしくなりそうだ。

 とはいえ、無視しても永遠と話しかけられる未来が見える。ここは適当にあしらおう。

 

「お前が死ぬなら、本名でもなんでも教えてやる」

「……ふーん」

 

 流石にこれで諦めただろう。名乗るつもりは一切ないことが相手に伝わったはずだ。

 

「No.7、No.9、施術室に入れ」

 

 外から聞こえてきたその言葉に、目の前にいる女の身体がぴくりと反応した。

 どうやら助け舟が出たようだ。

 

 それにしても、随分と数字の若いもの同士だな。しかも数字があまりも近い。

 いつもなら数字が若いほうが帰ってくるのだが、今回はどちらが帰ってくるか予想がつかないな。

 

「呼ばれちゃった。また後で会おうね」

「帰ってくるな」

 

 どうやら私の気持ちは伝わっていなかったようだ。面倒なことこの上ない。

 しかし……なぜこの女は、ここにいる他の連中でなく、私に対して興味を持ったのだろうか。

 

 

 

 最悪だ……気分が悪い。

 私の人生における三つの苦痛のうちの一つ。その出会い。

 

 思い出すだけでも嫌な記憶。

 だが、嫌なのはあの女のことではなかった。

 待っている最悪の結末。それから目を背けるには、あの女を思い出してはいけないのだ。

 

 随分と長い記憶を思い出したものだ。いつもの一瞬のフラッシュバックでは無い。そんなものでは今の状況は覆せない。

 

 全二十箇所ある傷痕のうち、一箇所を残して全てを開いた。

 開かずに残した傷痕は腹部に横一線についているもので、他の傷痕とは比べ物にならないほど大きいため、今まで開いたことは一度もない。

 開く傷痕が大きければ、当然リスクも大きいからだ。開いたが最後、恐らく私の身体は傷痕に呑まれ、この世から消滅することになる。

 

 だから、ここだけは開かない。もちろん、他の傷痕を開くことにもリスクはあるが、状況に合わせた数を開けばそれは最小限に抑えられる。

 それでも、ここまでの数を開いたのは……あのとき以来だ。

 

 前に一歩踏み出そうとする。きっとこれを考えているこの瞬間に、既に何歩も前に進み終えているのだろうが、脳はそれを知覚していない。頭が理解するよりも先に身体が動く。

 制御しきれないほど上昇した身体能力。それは、自分の動きを目で追えないほどのものだ。

 当然、複雑な動きなどできるはずがない。

 できることはただ一つ。

 

 ――一直線に突っ込むだけだ。

 やることは既に決まっている。

 何秒後にカロリーナ先輩のもとに着くかを予測し、目標地点に到着する直前で傷痕を閉じることで、自身の動きを制御できる状態にする。

 そして短剣を男の横腹に突き刺し、カロリーナ先輩を救出するのだ。

 

 そう決意した次の瞬間、私の体はさらに加速した。

 

 この速度だと……三秒か。

 傷痕を閉じるタイミングを見計らう。もし計算を間違えて突っ込んでいけば、衝突して相手諸共死ぬことになる。

 失敗は許されない。重圧が緊張と恐怖が私を蝕む。

 

 ……大丈夫だ。あの時も成功しただろう。

 過去の成功体験を思い出し、何とか冷静さを保つ。

 

 さあ、あと一秒だ。

 閉じる傷跡に意識を向け……。

 

 ――ここだ!

 

 自分を信じて約半分の傷跡を閉じる。速度が徐々に低下し、それに伴って把握できなかった周囲の状況がわかってきた。

 

「ッ速すぎるだろ」

 

 男との距離は……丁度いいな。完璧なタイミングだ。突然至近距離まで接近されことに驚いた男は、回避のためにその場から飛びのこうとする。

 だが、傷を負って疲弊しきった身体では私の動きには対応できない。

 

 短剣を握った手を前に突き出す。

 そして、短剣はそのまま男の横腹に吸い込まれていき……一瞬、男の姿がぶれた。

 

「へ?」

 

 短剣は虚空を通過し、何者にも突き刺さることは無かった。

 ありえない……不意をついて、確実に当たる攻撃だったはずだ。途中で減速したとはいえ、目で追うのがやっとの速度だった。

 先程までの動きから、この男は高くても6級フィクサー程度の実力だと当たりをつけていた。

 

 だが違った。私が可能な範囲で出せる全力を出したと言っていい攻撃を、完璧に対処してきた。

 偶然なんてものじゃない。飛び退いたのが偶然だとしても、至近距離まで近づいていた短剣を回避できる身体能力を持っている事実は変わらない。

 

 あの三秒間、私の身体能力は3級フィクサーにも劣らないほどのものになっていた。さっきまでの男の動きでは躱すことなんてできるはずない。しかも、こいつは左肩を負傷しているんだぞ。

 

 ……実力を隠していたのか。私たちを油断させるために。

 

 この男が3級フィクサー並の力を持っているのなら、短剣を空振り、大きな隙をさらしている今の状態はまずい。

 

 相手の反撃を警戒して直ぐに男の方に身体を向けると、男は胸を押さえて息を切らしていた。

 

「はぁ……はぁ……なんだよ今の」

 

 なんだ? なぜ隙をついて攻撃してこなかった。

 無防備な状態を、目の前で晒していたというのに。

 

 男の様子を伺う。

 ……やけに疲弊している。身体能力の高さの割に、体力が無さすぎないか。

 

 見ている感じでは、こちらを油断させる演技というわけでもなさそうだな。

 よく分からないが、何はともあれチャンスだ。相手の動きが止まっている今この瞬間なら、簡単に撤退できる。

 

 そう判断して即座にカロリーナ先輩のもとへ行き、彼女を背中に担ぐ。

 少々重いが、傷痕を開いているおかげで動くことに問題は無い。

 

「よく担げるね〜」

「……静かにしていてください」

 

 カロリーナ先輩の軽口に対応しつつ、ロイド先輩の方に顔を向ける。

 すると、ロイド先輩が私のその動きを見て軽く頷いた。

 どうやら、私の意図が伝わったようだ。

 

 ロイド先輩は根暗男との戦いを切りあげ、後方に向かって駆け出した。

 

 それに合わせて私も走り出す。目指すはこの空間の出入口である扉だ。

 

「逃げるつもりか!」

 

 私たちが背中を向けたのを見て、ブロンドヘアの女が追ってくるが、あの速度なら追いつかれることは無いだろう。

 

 その予想は正しく、扉の前に到着したが、女との距離はかなり離れている。

 私はそれを確認して取っ手を握り、その扉を開け放つ。

 

 扉に入る直前に聞こえたのは、どこからか鳴り響く、やけにうるさい心臓の鼓動だった。

 

 

 

 扉の先はあの面廊と繋がっていた。どうやら、あの空間から脱出することに成功したらしい。あとは図書館から出ることができれば依頼は達成したも同然だ。

 

「……どうやら館長様のお見送りはないらしいな。あの性格で何もしてこないのが驚きだ」

 

 ロイド先輩が言うように、あの機械がなにか仕掛けてくるかと思っていたのだが、何もしてこないらしい。

 試練から逃げ出した私たちのことは、もうゲストとみなしていないということだろうか。

 

 唯一の不安要素も消えたため、ようやく一息つくことができる状況になった。

 

「グウェン〜。ありがとう〜、助かったよ〜」

「次からはもう少し考えて行動してください」

 

 肩に担いでいるカロリーナ先輩が礼を言ってきたが、こちらからは先程の戦闘での行動に苦言を呈しておく。

 やけに間延びした声は、もうこの際放っておくにしても、独断専行でやられかけたことに対して反省の色が見えないところはいただけない。

 しかし、ロイド先輩が咎めないということは、こういったことは日常茶飯事なのだろう。

 カロリーナ先輩は背中を任せたくなるようなタイプではないな、絶対に。

 

 そうこうしているうちに、私たちは図書館の出口にたどり着いた。

 

 情報によると扉の先は、招待状を使用した場所に繋がっているようだ。

 つまり、この扉はうちの事務所と繋がっているということ。

 

 図書館の位置はL社の巣にあるようなので、帰る手間が省けた。

 そもそも、いつまでも傷痕を開いているわけにはいかないので、カロリーナ先輩を担いで事務所まで戻るなんて無理があったしな。

 

 そんなことを考えていたら、いつの間にかロイド先輩が扉に手をかけていた。

 

 こんな場所からは一秒でも早く出たいといった感じだな。

 私も賛成だ。仕事だからこんな場所に来たが、個人的にここに行くかと聞かれたら確実にノーだ。

 

 そうしてロイド先輩は扉を開け、先へ進んでいく。

 私はそれに倣い、扉の向こう側へと歩き出した。

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