「あなたって、グズでマヌケよね。それに、ノロマ。いいから、早くやってよ」
ケタケタと渡井《わたらい》沙良《さら》は笑っている。いつもの、あの笑顔だ。人を人とも思わないような、それでいて無垢な笑顔。
誰もが、彼女を愛す理由。童顔で、いつも笑顔で、茶色の髪も、彼女をいっそうより、可愛らしく思わせる。
けれど、私にとって、その笑顔は悪魔の笑みでしかなかった。
みんなは小悪魔だなんて言うけど、あれはそんなものじゃない。そう、口にできたら、どれだけ良かったか。
いつものように、トイレの便器に手を入れて、水を掬う。
そして、それをそのまま飲む。
その様子を背後から彼女たちは笑って見ている。
目の前には私を撮るスマホが置いてある。いつものように、私を脅して、いつものように私で遊んで、いつものように笑いものにする。
彼女たちは楽しんでいるのだ。とても、無垢で、残酷なことをしてるなんてことも知らずに。
思考が途切れ、目の前の現実に意識が向く。ただの水。それはなんの味もしないはずなのに、吐きそうな気分になる。
私は一体何をしているのだろう?
その問いに、答えてくれる人はどこにもいない。
ただただ、私は言われた通り水を飲んだ。
昼休みの遊びが終わって、彼女たちは満足したのか、ワイワイといつものメンバーで固まって帰っていく。
私は、食べることのできなかった昼食を片付けるために、急いで帰る。
向かう場所は誰もいないあの廃屋。
外見は、よくある白塗りの塗装をされた壁なのだが、時間が経っているからかところどころ汚れている。屋根はボロボロでつつけば崩れそうだ。
人がいなくなってからそれなりに立っているからか、草はよく生えていてまさに、「ぼーぼーに生えている」という言葉が相応しい有様。
辺りに人がいないのを確認して、急いで入る。草をかき分けて裏庭に。ガラスの割れた掃き出し窓の中を通り、家の中へ入った。
置き去りにされたソファに座って、ご飯を食べる。
弁当箱には、いつもの冷凍食品のみ。冷凍食品のご飯に一品だけの冷凍食品の唐揚げ。
ついさっきまで汚れた水を飲んでいた。一度口をゆすいだとはいえ、もう一度、口を洗いたくなる。けれど、口の中を洗うことはできない。
こんな廃屋に水なんてないし、水筒の中身は彼女らに捨てられた。
不快感の中、時間の経った不味くはないが美味しくもない食事をする。ご飯を食べると言うより、腹を満たすために食べているだけだ。
食べ終わると、片付けをする。来たばかりの時は埃だらけだったこの場所も、今では綺麗に整えられている。
それもこれも、私がしているから。自慢ではないが、私は掃除が上手い。上手くなるべくしてなったとも言えるが、それは少々詩的すぎるかもしれない。
淡々と片付けて、後始末をして、廃屋を出る。
出る時は、人がいないことを確認しにくいので、しょうがないので当たり前のように出る。
町内の人は私が一人で遊んでいると思ってくれるだろう。もしかしたら、問題になるかもしれないが、今のところ、そういった事態に陥ったことはない。
私は悠々と家へと向かう。その足取りが、重いことには意識を向けない。
ただ、いつか、解放されるだろうと言い聞かせて、私は歩く。
ガチャッ
扉を開けて、家の中に入る。すると、玄関からでもキッチンルームで母親がバタバタしているのがわかった。
バタン
扉を閉めて、靴を脱く。そのまま、廊下を歩いて、ダイニングルームに向かう。ダイニングルームの1箇所にしか階段はないので、2階の自室にはダイニングルームを通らなければいけない。
「あら、帰ったの。『ただいま』も言えないなんて、そんな子に育てた覚えはないのだけど?」
「……ただいま」
掠《かす》れた声が出る。
「本当にあなたは……。それより、私は出かけるから」
「……どこに、ですか?」
平坦で、無感情な声。この人を前にすると、いつもこうなる。執拗な躾《しつけ》という名の虐待だと知ってから何年も経っている。
けれど、知ってもなお、私はこの関係を変えようとは思わなかった。
もし、周囲に言ってしまえば、今よりひどくなる。そんな未来が見えたから。
「わからないの? 仁《ひとし》さんを迎えに行くのよ」
そう言う母の表情は明るい。
これが、帰っって来たらどうなるのか、それはわからない。ただ、平穏にことが過ぎてくれればそれで十分だ、とそう願う。
「それじゃあ、私は行くから。ちゃんと留守番しておくのよ」
そういって、ダイニングルームを出て、出掛けていく母親。
私はその場に一人残された。
◆
カチャカチャ、と音を立てながら、食器を片付ける。これは、母親が今日食べた昼ごはんに使った食器だろう。
水が満杯に入った食器を手に取り、水を拭き取る。そして、拭き終わったそれを水切り台に置いて、また新しい食器を取る。
四枚の皿とコップ一つ、数分で終わる作業だ。
ジャアァァァ
蛇口から流れる水に手を当てながら、その様子をじっと見つめる。そっと、その水を掬って、飲む。
けれど、水は喉に詰まり、吐き出してしまう。
なんてくだらないことをしているのだろうと思いながら、キュッ、と蛇口を止める。
「はぁ、はぁ」と息をしながら、流し台にかすかに映る私の表情を見つめる。
ひどい顔をしている。それは、流し台が汚れているからか、本当にひどい顔をしているのか、私自身にもわからなかった。
タオルで手を雑に拭いて、時計を見る。炊飯器にタイマーを設置して、5時半に炊き終わるようにする。
そのまま、何かに追い立てられるように、2階へと上がる。
ダンダンダン、と不快な音を奏でる階段。
カチャッと音を立てて私はようやく自室に入る。
殺風景な部屋が私を迎える。制服から、部屋着に着替えるため、クローゼットを開ける。
見たくないものから目を逸らすように、急いで着替える。
この時間が、私にとっては一番苦痛かもしれない。
着替え終わると、学校の宿題を片付けに入る。
本当は行きたくない学校、行く意味を感じない学校。それでも、こんないわれたことをやっているのは母がそうするように言うから。
カリカリ、とシャーペンで数学の問題を解く。
すると、『ザァァァ──』と窓の外から雨音が聞こえてきた。顔を上げれば、土砂降りの雨。天気予報では『雨が降るかもしれない』とアナウンサーが言っていたが、ここまで降るとは聞いていなかった。
1時間半ほど経って、宿題を片付け終われば、5時を過ぎていた。
急いで、というわけではないが、それでも少し早足で階段を降りる。
炊飯器は炊き終わっていないが、もうそろそろご飯の準備を始めたほうがいいのだろう。とは言っても、私の一人分だけなので、そこまで豪華にはできない。せいぜい、おかず二品が許される限界だろう。
ほうれん草と胡麻を和《あ》えて、昼ごはんと同じ唐揚げをチンする。その間にお湯を沸かして、インスタントのお味噌汁を準備する。
なんとも、安上がりな晩御飯の出来上がりだ。
もっそもっそ、と昼ごはんよりは美味しい晩御飯を食べ終えた。
父が帰ってきたのは、その時だった。
扉を開ける音が聞こえる。
「楓乃《かの》」
私の名前を呼ぶ父の声。ゾワリ、と体が震える。
「ご飯は?」
荒々しく、鞄と、少し雨に濡れたスーツをソファに放り投げて、ネクタイを緩める父。
「お母さんと食べたんじゃないの?」
震える声で、答える。父の機嫌が悪い。
「あぁ? 食ってねぇよ」
ぞんざいな口調で、否定する父。母と喧嘩をしたのだろう。
よくあることだ。週に何回行われるかは、両手で数えなければいけない程度には。
「それで、ご飯は?」
「母さんと食べると思って、作ってない……」
「あ゛!? ふざけるなよ!」
顔を赤くして、叫んでくる。
「お前は、俺に養われてるんだぞ! 料理を作らないでどうする! お前の服も、食事も、学校に行かせてやってるのも、なにもかも全部、俺の金なんだぞ! お前を育ててやったのに、なんだその薄情な態度は!」
吐き捨てるように、彼は言い続ける。
「だいたいお前は!」
こちらに目を向け、近寄って来る。あぁ、いつものように殴られるのかな? それともなんて思ってると、彼は私の首を押さえてきた。
そうか、今日はこのパターンか。
グッ、と喉奥に親指を押し込まれる。伸びた爪が引っかかって痛い。
「お前は……くそっ」
彼は、何かに気付いたのか、それとも我に帰ったのか、私の首から手を離して、部屋を出ていく。
向かったのは洗面所だろう。
私は、首を触って傷の様子を確認する。少し触れた程度では痛みを感じない。
内出血はしていないだろう。後で鏡を見ようと思いながら、途中で止まっていた食器の片付けを再開する。
キュッ
キュッ
ジャァァァァァァ
冷たい水が手に染みる。初冬も過ぎて、冬に入ってきた、最近。夜も冷えてきて、外は手が悴《かじか》むほどの寒さになる。
水切り台に洗った食器を乗せ、息を一息吐く。
なんてことない毎日。変わらない毎日。親に縛られる毎日。学校に囚われる毎日。
何のために生きているのか、それが、わからない。いや、この悩みは多くの人が、何千も前から考えてきて、それでもなお、答えることができない問いだ。私が、そう簡単に答えるなんて、自惚れてはいない。
それでも、
「楓乃。ごめんな」
父の弱々しい声が聞こえてきた。あぁ、こうなるのか。と、心のどこかで私の声がする。
「すまん」
台所の前に立つ私の背に立ち、肩を抱いてくる。
彼の頬から伝う涙が、肩に落ちる。
「ごめんな」
私の首筋に顔を埋め、泣いて謝る。
「許してくれるよな?」
ダミ声で、それでいてせがむような声。
「……はい」
私はいつものように彼を受け入れた。ずっと昔から、そうしているように。
翌日、父はもういなかった。仕事に出たのだろう。
時計は7時を指している。
だるく、重い体を上げて、辺りを見回す。私は、父の部屋に横たわっていた。
今日は、薬を使わなくてよかったかな、そう思いながら、私は、いそいそと学校に出る準備をしはじめた。
◇◆◇◆◇◆◇
学校では、いつものように振る舞う。
いつも通り、いつも通り、そう言い聞かせながら、授業を聞き、イジメを受ける。昨日みたいなことがあると、いつもこんなことをしてる気がする。そんなことをつらつらと考えながら、家に帰った。
廃屋には行かなかった。今日は食べ物を捨てられたから。
鍵を学校の鞄から出して、扉を開ける。
「遅かったわね」
目の前には母が立っていた。
家の窓から、私が帰って来るのが見えたのだろう。
いつもの、高飛車と言いたくなるような声を出して、彼女はこちらを向いている。
「……ただいま」
なんとも言えない、沈黙が流れる。その沈黙を先に破ったのは彼女の方だった。
「あなたのどこを仁さんは気に入ったのやら。このアバズレ」
おおよそ、母親の言う言葉ではないような言葉で私を責める。
私はうつむき、玄関の床の木目を数える。
母に逆らってはいけないのだ。少しでも機嫌を損ねれば、暴力は当たり前。ただ、聞いてるだけでも怒らせることがある。
「下を見てないで、こっちを向きなさい!」
肩がビクリ、と震える。恐る恐る、視線を上げて、前を向く。
「こちらにきなさい」
そう言って、彼女はダイニングの隣にあるリビングへと入っていく。
また、躾《しつけ》が始まるのだろう。そう思うと、気がだるい。
「返事は!」
「……はい」
機械のように言われたことを淡々とこなす。そこに、一切の感情も伴《ともな》うことはない。ただの作業だ。
リビングルームにつくと、彼女は、ろくに吸いもしないタバコを取り出す。
「上を脱ぎなさい」
言われた通りに、上半身裸になる。
彼女は、私の前でライターでタバコに火をつけ、「スゥー」とタバコを吸う。そして、そのまま私の顔に「ふぅ〜」煙を吐く。
白い煙が私の目に染《し》みる。息を吸えば、いつもの慣れ親しんだ匂いと、けむたさを覚える。
「速く後ろを向きなさい。いつものように、黙ったまま、動かないで」
高圧的な、彼女の声が、嫌に耳に残る。
後ろを向けば、裏庭が目に入る。ただの手入れのされていない人工芝と垣根が見えるだけ。
けれど、それらに浸っている余裕はない。
「ッッッ……!?」
何度やっても慣れない痛みが背中に走る。
「あの人もあの人よね。どうして、あなたを愛すのかしら」
彼女は、父にわかるように、背中に跡をつけていく。
痛みで泣き喚いていたのは随分前だ。もう、悲鳴をあげても意味がないことぐらいわかっている。昨夜、「またやられたのか」と笑いながら父が言っていたのを思い出した。彼も、助けてはくれないのだ。
ただただ、耐える。いつか、この痛みから、この地獄から解放される日を想像して。
ただ、待ち望んでいるだけでは意味がないのかもしれない。けど、大人になれば、私は解放される。あと数年で、私は解放されるのだ。
そう信じながら、私は、母が満足するまで、待つ。
タバコを押しつけられても、水を浴びせられても、ベルトで叩かれても。
彼女はわかっている。そして、慣れている、どれだけやれば気絶しないか。どれだけやれば、倒れないか。
30分の長い、躾が終わって、彼女は満足したのか、「風呂に入ってきなさい」と言って、タバコを吸った。
私は言いつけ通り、風呂に入ることにした。
時計を見れば、5時だった。