「沙良に彼氏できたんだって」
教室で、そう騒いでるクラスメイトたち。
「え、だれだれ?」
みんな興味津々で集まっている。
「ここだけの話、1年の文《あき》って子らしいよ」
大声で言っておきながら、ここだけの話とは、なんぞやと思うが、彼ら彼女らはそんなことは関係ないのだろう。
ただ、騒いで、楽しめれれば十分なのだ。彼ら彼女らに深い意味はない。知ってる言葉を、適当に使って、それらしいことを言っているだけだ。
けれど、その中に私の気になったことがあった。『沙良に彼氏ができた』と、彼女は言った。
あの、沙良にである。私を散々いじめて、楽しんでいる彼女。彼女に、彼氏ができた。
世は何と不幸なことか。幸福な人を支えるために、とてつもない量の不幸を、多くの人が背負わされている。
この世に救いがないなんてことは、誰もが、口にしてきた。私は、それを再認識しただけなのだろう。
けれど、言いたい。私の幸福は、どこにあるのか、と。私が報われる時は来るのか、と。
仄暗い感情と、持て余すことしかできない悲しみを噛み締めて、私は席を立った。
彼らの話によれば、沙良は彼氏と一緒らしい。今日、いじめに遭うことはなさそうだ。そう思いながら、図書館へと自然に足が向かう。
あそこには、誰もこないから。
◆
図書室は、静かで落ち着く。本の匂いが、私の心を安らがせる。
私は小説を読むことが好きではない。昔は、物語の登場人物に、その世界観に魅了されたこともあった。
けれど、何作か読むにつれ、小説は一気に面白くなくなり、私の想像の世界も色褪せていった。
小説を読めば、私より幸せな人がいる。小説を読めば、つまらない陳腐《ちんぷ》な言葉を吐く、つまらない登場人物たちがいる。
どれもこれも、私のことを馬鹿にしているようにしか思えないようになった。
全てが、うまくいく主人公。彼、もしくは彼女には、踏み越えることが約束された障壁が立ちはだかるが、それはただの小道具でしかない。そして、何より嫌いな主人公に恋したくらいで、盲目的に、順従的になる愚かな恋人役。
彼はヒーローという役でしかないのだ。彼女は、ヒロインという役でしかないのだ。彼らは、役に縛られ、操られているだけの、そんな人物なのだ。
まだ、愚かで、救いのない物語の方が心を癒してくれる。けれど、それと同時に、この世界には素晴らしいものなどないということを違う人生《ものがたり》で教えてくれるだけだ。
結局、私が得たのは『本を読むなら、辞書や、図鑑などのほうが100倍役に立つ』という事実だけ。
けど、本を借りることはしない。運悪く、母の機嫌を損ねるかもしれないのだ。
前に、一度それで殴られた。『あなたは、こんな本を読んでる暇があったら勉強しなさい』と、言われた。
私は本の背を撫でながら、歩く。
読む時間を、今度いつ取れるのかわからないのだ。面白そうなものをすぐにとって、席に座った。
『世界で一番美しい元素図鑑』とやらで、何冊も出ているらしい。
私は、それを捲《めく》りながら、久しぶりに静かな昼休みを過ごした。
◇◆◇◆◇◆◇
久しぶりに、イジメのない日を過ごした放課後、私は、なんともなしに、廃屋に入った。
別に、そこで何かすることがあったわけではない。ただ、なんとなく、行こうと思ったのだ。
敢《あ》えて、理由を挙げるとするなら、少し、気掛かりな思いを感じたからだ。ただ、それだけだ。
いつものように、裏庭から室内に入る。
空を見上げれば、曇ってきている。雨が降るかもしれない。
鞄の中を探り、仕舞ってある折り畳み傘を確認する。手に取れば、いつも持ち歩いている紺色の傘だ。
私は、それを確認して安堵すると、再びソファに座って、庭を眺める。
いつもと変わらない光景が、そこにはある。
ポツ
ポツ
と、雨粒が、屋根に当たる音がする。
サァァァァァァァァァァァ…………
と、耳に自然と入ってくる雨音。目を閉じて、耳をそばだてるとよくわかるのだ。それは、心を浄化してくれるような、あまりに綺麗で、自然を感じさせる音だった。
「どうしてここにいるの?」
ハッ、と目を見開けば、目の前に20代後半であろう男性が立っていた。
「……すみません」
何と言えばわからなくて、思わず謝罪の言葉が出た。
「……君は、どうしてここにいるのかな?」
再び、彼は私に問うてきた。怒っているというより、不思議がっている様子だ。
「静かで、誰もこないから……」
ぶっきらぼうな答え。私でも愛想が良くないと思う。
「そう、ここは僕のひいお爺さんの家なんだ」
「……そうなんですか」
そう答えてから、考える。そう言った、ということはこの家は彼か、もしくは彼の父親が所有しているのだろうか、と。
「俺は、この家の様子を見てくるように言われたんだ。けど、意外と汚れてなくてね。君が掃除をしていたのかい?」
「は、はい」
「……そう怯えなくて良いよ。とって食うわけじゃないんだから」
さわやかな笑みで、彼はそう言った。改めて見ても、不思議な人だ。
ボサボサの黒髪に、いかにも服装に興味がないというような単色の服とズボン。
ただ、彼が美青年だからか、その服装も無駄にきまっていた。
「まぁ、この建物も、あと数ヶ月もしたら取り壊しになると思うから、それまでに次の場所でも探した方がいいと思うよ。けどまぁ、取り壊されるまでは来てもいいよ」
彼は残念そうに、壁を撫でながら、そう言った。
「そ、それって」
そこまで言って、何を言えばいいのかわからなくなった。何を言うつもりだったのかもわからない。ただ、無性に、何かを言いたかったのだ。
その様子を見た彼は
「あと数日はここにくるつもりだから、何か聞きたいなら、その時に聞いたらいいよ」
彼は、そう笑顔で言って、掃き出し窓から去っていった。
私は、その様子を、『そこから出ていくんだ』なんて思いながら見ていた。
その時、さっきまで降っていた雨がもうあがっていたことに気づいた。
空は暗くなりかけている。
私は、母に怒られるかな、と思いながら、急いで帰った。
結局、母親には怒られた。父がいる手前、さすがに、暴力は振るわなかったけど、それでも烈火の如く怒る、と言う言葉は彼女のためにある言葉ではなかろうかと思ったほどだ。
けれど、父も母も不思議な人だ。
父は、母の私への暴力を知っていながら、放置している。しかしながら、私のことを自分のものと言っている。
母は父の私への性的暴力を知っていながら、父を責めるどころか、私を責めている。父のことは一切責めたことがないのだ。
彼らの、心理はよくわからない。わかりたいとも思わないが。
イジメが、鳴りを潜めたことで、私は昼休みの自由時間を手にすることができた。
イジメ、とはそう言うものなのだろう。彼女らは、私をイジメて遊んでいたことを忘れて、次の楽しみ──つまり、沙良とその彼氏についての話題だ──に移ったのだ。
それ自体は、いいことだと。けれど、いつ彼女らがイジメを再開するかはわかったものではないのだ。
今は目新しさ故に、沙良とその彼氏についての話題で面白おかしく楽しんでいるようだが、それも時間が経てば当たり前の光景となる。そうすれば、彼女らは再び、私のことを思い出すだろう。
どうにか、することはできないのか。いや、どうにもできないだろう。
彼女らは、また、気が向いたら始めるのだ。それは気分の問題であり、私がどうこうできるような問題ではないのだ。
……なら、私はいつ解放されるのだろう?
高校に上がったら?
もしも、彼女たちの一人でも同じ学校にいけば、またイジメられるかもしれない。
私は、どうすればいいのだろうか。
5時限目が始まってからHRの時まで、私はそんなことばかり考えていた。
先生の「号令」の合図が出されると、日直が「起立、気をつけ、礼」と言う。それに合わせて、私も立ち上がって、礼をした。
ガタガタ、と机を動かして、前に寄せる音が教室内に響く。私も、鞄を持って、机を寄せる。
私はそのまま掃除当番ではないので、教室を出る。
私の前には数名のクラスメイトが歩いていた。中には沙良の姿もあった。歩幅とスピードを落として、距離を取る。触らぬ神になんとやら、だ。
その後ろ姿を見ていると、一人の男子生徒が、彼女らに近寄った。
彼は、私が知っている人だった。
足を止め、彼を見つめる。
彼は、沙良と一緒に、歩き去っていく。
その様子を見つめながら、私は思った。これまで、知ろうとしなかったから知らなかったのだろうが、彼は図書委員の人だった。
今日も、私は彼を図書室で見たのだ。間違いない。
私は一人、ほくそ笑んだ。
私は、見つけたのだ。
彼女に、復讐をし、二度とイジメを受けない方法を。
人は、弱いものはイジメるが、一度、強いと思ったらイジメるなんてことはしない。
あぁ、そういうことなのだ。
つまりは、私は、彼を……。