偽・ウマ娘ZERO ~不滅の桜~   作:風見ひなた(TS団大首領)

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第11話「悪魔の取引」

 ――自分ともあろうものがどうかしていた。

 

 トレーナー室に帰った岡野は、水道の前でじゃぶじゃぶと顔を洗いながら己の未熟さを痛感していた。こともあろうに、担当ウマ娘の前であんな顔を見せてしまうとは。

 絶対にあんな顔を見せるべきではなかった。

 

 担当ウマ娘がライバルに比べて劣っていることへの失望。

 それを心の中で思うならともかく、態度に見せてしまうなど言語道断だ。

 

 あの後で慌ててフォローを入れたものの、ビゼンニシキに強いショックを与えてしまったことは明らかだった。この一件が後々、彼女をサポートしていくうえで尾を引かなければいいのだが……。

 何か特別なことでもして、ビゼンニシキとの信頼関係を取り戻す必要があるかもしれない。不良(ツッパリ)の真似事をしているが、彼女はあれで繊細なところがある。さてレースを観戦に行くか、一緒にスポーツ用品でも買いに行くか……。

 それにつけても、と岡野はタオルで顔を拭いながら独りごちた。

 

 

「あのシンボリルドルフの走りときたら、なんという美しさだろう。そろそろキャリアもベテランに達しようかというボクでも、あれほど完成されたウマ娘を見たことがない。それもまだジュニア期の、デビューする前の青さであれだ。

 

 近年の日本のウマ娘で白眉といえば“スーパーカー”マルゼンスキーだが、ボクに言わせればシンボリルドルフこそが最高の外車にふさわしいと思う。それもシンボリ家が生み出した、日本の風土の中で生み出された和魂洋才の極致だ。海外の叡智を取り入れて進歩してきた日本魂の集大成として、これほどしっくりくるウマ娘がいるだろうか?

 それに強いだけでなく、とても賢そうだった。顔に気品があるというか、じつにきれいな顔じゃあないか。目の輝き、耳の使い方を見れば、彼女の賢さはボクにでもわかる。

 

 悲しいといえばボクが彼女の専属トレーナーになってあげられないことだ。実にバカなことをした。毎朝ルドルフが練習する姿を見届け、レースに臨む彼女の背を叩いて『テイク・イット・イージーだぜ』と励ます立場になれるチャンスをみすみす見逃してしまうとは。ボク以上に彼女を羽ばたかせてあげられる人材など、どこにもいはしないのに。

 

 ああ、こんなことを言えばビゼンニシキは破廉恥な男だと軽蔑するだろうか。しかしシンボリルドルフにはボクをしてそうさせてしまうだけの魔性があるのだ」

 

 

 岡野君。

 

 恐ろしいことにこのぺらぺらとまくしたてている謎ポエムは全部独り言である。

 それにしても、ビゼンニシキの機嫌を取らなくてはという舌の根も乾かぬうちにこの言いぐさ。岡野トレーナーとは、こういう男であった。そういうところやぞ。

 

 

「へえー、そんなふうに思ってくれてるのなら話は早いや」

 

 

 岡野が即興ポエム朗読会を開いていた真っ最中に、ガラッと音を立てて扉が開いた。

 

 

「誰だ!?」

 

「どうも、魔性のウマ娘シンボリルドルフだよ」

 

 

 シンボリルドルフはVサインで登場し、ニヤッと笑った。その頬はちょっぴり赤い。

ドア越しに朗読会の内容を聞いていたらしい。

 アレを聞かされてドン引きどころか照れているあたり、やはり相性はピッタリと見える。

 

 

「なんと……」

 

「お邪魔するよー。さて、お話といこうか」

 

 

 絶句する岡野をよそに、ずかずかとトレーナー室に入り込んできたシンボリルドルフは岡野の机の正面に置かれていた椅子に座り込む。

 そこはビゼンニシキがいつも座っている席だったが、岡野の目にはようやく正しい所有者を得たように映った。

 

 何という神々しい輝きだろうか。座っているだけで滲み出る、この覇気はどうだ。

 天が祝福した才能とは、これほどまでに違って見えるものなのか。

 シンボリルドルフの才能に早くも心酔している岡野にとっては、神威がヒトの形をとって顕現したかのような存在であった。

 テスコスールに言わせれば「ただのあつかましいクソガキですよアレ」と切って捨てるところだが、世の中の多くの人はシンボリルドルフから岡野と同じ印象を抱くだろう。

 

 

「ボクに話とは?」

 

「キミもさっき言ってたじゃないか。ボクの専属トレーナーに乗り換えないかってお誘いだよ」

 

「……そ、それは」

 

 

 ひょっとしたら、と思っていた提案を口にされて、岡野は言葉に詰まる。

 シンボリルドルフが持ちかけた提案は、およそトレーナーとして絶対に飲めない……飲んではいけないものだった。

 

 担当ウマ娘を見捨てて、そのライバルに鞍替えする。

 

 それはトレーナーとして最低の裏切り行為だ。

 先にビゼンニシキと約束していたから、とかそういうレベルの問題ではない。

 こんな裏切りを働いたら、この先トレーナーとして二度とやっていけない。二度と岡野を担当トレーナーにするウマ娘は現れなくなるというほどの信用問題だ。

 

 だってそうだろう。

 担当ウマ娘が苦しんでいるときには共に苦しみ、悩みを共有するのがトレーナーたる者のあるべき姿のはず。それが担当している娘よりも強そうなウマ娘が現れたら担当を見捨て、強い方にホイホイと乗り換えるようなヤツを、この先誰が信用するというのか?

 

 今はいいだろう。シンボリルドルフの担当生活は少なくともシニア期1年目を含む3年以上は続く。だが、その後は? シンボリルドルフの担当を外れた後に、彼をトレーナーに選ぶウマ娘は現れるのか?

 それ以前に、学園理事会がこの裏切りを見過ごすものだろうか。

 

 

「ああ、理事会の制裁を恐れているの? それなら大丈夫だよ。シンボリ家は全面的にキミをバックアップする。今の情勢でボクのおじいさまに文句を言える人なんていないからね」

 

 

 岡野の心を読んだように、シンボリルドルフは笑顔を浮かべる。

 

 確かに彼女の言う通りだった。

 昨今のシンボリ家の権勢はすさまじく、学園理事会のみならずURAにも国内随一の発言力を持っている。たかがトレーナー一人の去就を巡る問題など、その発言力の前では大したものでもない。

 ビゼンニシキの実家は噴飯モノだろうが、いかに地元では名士といえども、URA内部まで影響力を浸透させているシンボリ家の前では相手になるまい。

 

 となれば、シンボリルドルフに鞍替えする上での障害はないも同然。

 

 後の問題は、この誘いを受ければこの先彼女以外のトレーナーになる機会は二度と訪れないかもしれないという、ただ一点だった。

 早い話が、シンボリルドルフはこう言っているのだ。

 

 お前のトレーナー人生をすべて自分に捧げろと。

 

 自分というウマ娘が欲しいなら、その代価としてお前のすべてを寄越せというのだった。

 

 

「…………」

 

 

 岡野は言葉に窮した。

 

 シンボリルドルフの専属トレーナーになれる、唯一無二の機会が向こうから来た。

 このタイミングを逃せば、彼女はもう二度と自分を見ない。一生後悔することになるだろう。

 

 だが、そのために全てを捨てられるか? これまで培ってきたキャリアも、名声も、信用も、仁義も、すべてかなぐり捨ててこの小娘に託すことができるか?

 

 気が付けば岡野の額からは、だらだらと脂汗が滴り落ちていた。

 

 

「まあ、ゆっくり悩んでよ。ボクも即答しろとは言わないからさ」

 

 

 そんな彼を尻目に、ルドルフは鼻歌を歌いながらトレーナー室の壁に並んだトロフィーを眺める。

 それはこれまで担当してきたウマ娘たちとの、かけがえのない絆の証だった。

 本来ならビゼンニシキとの絆の証も、そこに並ぶはずの。

 

 はっとしたように、岡野は目を開く。

 

 やはり断るべきだ。

 ボクのワガママのために、自分を信じてくれるあの娘の信頼をドブに捨てる気か。

 それが大人の男のすることなのか。

 

 そんな岡野の内心を知ってか知らずか、シンボリルドルフは視線を壁の写真に向ける。それは海外の写真だった。

 アメリカは西海岸、土をほじくり返して作られた、日本のものとは比べ物にならないワイルドなダート。その上を勢いよく駆ける海外のウマ娘たち。ワイルドで荒々しく、そして日本よりも格段にエネルギーに満ちた走り。

 

 

「キミ、アメリカに何度も遠征に行ったんだってね。すごいな、今のトレセン学園にキミくらい海外挑戦の経験がある人なんて何人いるだろうね」

 

「…………」

 

「だけど悲しいかな、未だ遠征には成功していない。日本のレースのレベルは海外から見れば低く、相手にもされていないのが実情だよね」

 

 

 その写真は岡野の憧れだった。

 彼がトレーナーとしてデビューしてから数年後、初めて教え子にオークスの冠を被せてあげたとき、彼の師匠がプレゼントしてくれたアメリカ西海岸への旅行。

 そこでアメリカのレースを見て以来、岡野の魂はかの地に囚われてしまった。

 

 それほどまでに、アメリカのレースは日本とはレベルが違った。

 広大なアメリカ全土から集まった選りすぐりのエリートたちの頂上決戦。ウマ娘たちのレベルも、観客の熱気も、太陽の暑さも、何もかもが日本とは比べ物にならなかった。

 

 何としてもあの土地でレースに勝たせたい。日本で勝てるだけではない、アメリカでも通用するほどのウマ娘を育て上げたい。

 それが岡野のトレーナーとしての見果てぬ目標となった。

 

 以来何度となく教え子を育て上げては海外に挑戦しているが、未だにその夢は形を結んではいなかった。

 

 そんな岡野の心を読んだかのように、シンボリルドルフは決定的なセリフを口にする。

 

 

「ボクならできるよ」

 

「できる、とは」

 

 

 カラカラに乾いた舌で、岡野は言葉を絞り出す。

 シンボリルドルフはにいっと小悪魔のように笑うと、もう一度言った。

 

 

「ボクなら海外のGⅠで勝てるよ。勝ちたいんでしょ? 育てたいんでしょ? 海外のGⅠで勝てるウマ娘をさ」

 

「それ、は……」

 

「シンボリ家当主は……ボクのおじいさまは西欧のレースに魅せられている。自分の命があるうちになんとしても西欧の大レース、キングジョージ&エリザベス賞や凱旋門賞を勝てるウマ娘を見たくてしょうがないんだ。そのために西欧から最先端のスポーツ科学や栄養学を取り入れ、大枚をはたいて訓練所まで作り上げるほどにね。ボクやいとこのシリウスシンボリは、シンボリ家が心血を注いで作り上げた、『海外で勝つためのウマ娘』だ。キミの本望はアメリカでの勝利とはいえ、海外で勝利するという点においてボクらの目的は一致しているよね?」

 

 

 確かに。確かに、そうだ。

 それが自分のトレーナー生活における最上の望み。

 国内のGⅠでは足りない。海外で、アメリカで。

 あの駆け出しの若き日に見た夢を、現実のものとしたい。

 

 それが果たせるのなら……残りのトレーナー人生をすべて費やしてもいいのではないか?

 

 

「ビゼンニシキに義理立てするのはわかるよ。それがオトナのあるべき判断だよね。だけどさ、あの子で海外に勝てると思う? あの子をいくら育て上げたとしても、世界最強を争う舞台で戦えるほどのレベルになってくれるかな?」

 

 

 無理だ。そう否定せざるを得なかった。

 あの無邪気な笑顔を思い出す。

 

 

『アンタと一緒なら、ウチは日本一を獲れるし! クラシック三冠、やってやんよ!』

 

 

 たかが日本一。クラシック三冠()()()に拘泥するような子では話にならない。

 

 心の迷いに翻弄される岡野に、シンボリルドルフは凛々しい笑顔を浮かべた。

 

 

「繰り返すよ、ボクならできる。ボクは日本一なんかじゃ収まらないよ。最低でもGⅠなら7冠、そして目指すは世界最強だ」

 

「7冠……」

 

 

 あまりにもあまりな大言壮語だった。

 あの生ける伝説、“最強の戦士”の二つ名で知られる史上2人目のクラシック三冠達成者、シンザンですら5冠。

 彼女がその歴史的快挙を達成して以来20年、「シンザンを超えろ」をスローガンに彼女の記録に挑戦し続けて、未だその記録を更新した者はいない。

 

 それを彼女はやってのけると言う。自分の才能を疑う素振りなど、まるで見せず。

 まるで確定された未来を告げるように、彼女は言うのだ。

 

 

「ボクならキングジョージ&エリザベス賞*1だって獲ってみせる。キミが望むならアメリカでも走ってあげる。サンルイレイ・ステークス*2でも何でも獲ってあげるとも。でもただひとつ、それを成すには足りないものがある。――キミというトレーナーだ」

 

「ボクが必要だと、そう言うのかい?」

 

「そうとも。さあ、だから」

 

 

 シンボリルドルフは凛々しい笑顔を浮かべながら、彼に右手を差し伸べた。

 

 

「ボクの手を取ってよ。ボクだけのトレーナーになってよ。いつだってボクだけを見て、ボクにすべてを捧げてよ。そうすればボクは、キミに最高の勝利をもたらしてあげる」

 

 

 天使のような笑顔でもたらされた、悪魔の誘惑。

 

 岡野は迷い、葛藤し、考えあぐねて、そして――。

 

 悪魔との契約に手を出した。

 

 

「ありがとう」

 

 

 小刻みに震える岡野の手をぎゅっと胸元に抱きしめて、シンボリルドルフは微笑んだ。まるで長年の秘めた恋が叶った乙女のように。

 好敵手を奈落まで突き落としたばかりとは思えないほど、清楚可憐な笑みで。

 

 

「これでボクたち地獄の底まで一緒だよ、トレーナー」

 

「ああ……よろしく頼む、シンボリルドルフ」

 

 

 

=============

 

 

 

「シンボリ……ルドルフッッ!!」

 

 

 ビゼンニシキの荒れようといったらなかった。

 

 即日岡野からトレーナー解約を一方的に突き付けられたビゼンニシキは、いかに追いすがろうと言葉を重ねようと、そのすべてを拒絶された。

 そしてその理由が、よりにもよって自分の好敵手、シンボリルドルフの専属トレーナーになるからだというのだ。

 

 こんな仕打ちは許せるものではなかった。

 レースで負けるならまだわかる。だけど、政治を利用して他人のトレーナーを奪うなど、それがウマ娘のすることか。

 そしてシンボリルドルフの口車に乗ってビゼンニシキを裏切った岡野も、そんな男に信頼を預けていたバカな自分にも腹が立って仕方がなかった。

 

 ビゼンニシキにとって不幸だったのは、彼女は不良ぶってはいても、心の底から腐り切っているようなウマ娘ではなかったことだ。

 本当に腐っていれば、暴力に訴えただろう。シンボリルドルフの部屋まで怒鳴り込んで、喧嘩の果てに制裁として腕の一本くらいは折ったのかもしれない。

 しかしビゼンニシキは怒りを暴力に向けるようなウマ娘ではなかった。

 

 彼女は激情のままに、グラウンドを駆け出した。

 

 

「シンボリルドルフッ!! 畜生! 畜生ッッ!!」

 

 

 その名に怒りを込めて絶叫しながら、ビゼンニシキはただ走り続ける。

 見守るウマ娘たちは例外なくその姿に怯え、シンボリルドルフがビゼンニシキに何をしたのかを知った。

 

 しかしただ一人だけ、彼女に併走する者があった。

 

 

「誰だッ!?」

 

「ダイアナソロンですわ」

 

 

 ペースも何も無視してただ怒りのままに走り続けるビゼンニシキに、ダイアナソロンはぴったりと寄り添いながら歩調を合わせる。

 そして、走りながら深く頭を下げた。

 

 

「同門の不始末、心からお詫び申し上げます」

 

「お前に詫びられたって……ッ!! 意味ねえだろッ!! お前はアイツじゃねえッ!!」

 

「その通りです。しかしそれでも貴女に何かして差し上げたいのです。わたくしにできるのはこんなことくらいですが」

 

「そんな自己満足ッ……」

 

 

 そう言い捨てようとして、ビゼンニシキはぐっと空を見上げた。

 目から何かが滝のように滴り始めたからだ。それがまるで泣いているように見えたら、とてもシャバいから……。ビゼンニシキはそれが汗だということにしたかった。

 

 脚を止めて、空を見上げながら佇むビゼンニシキを、ダイアナソロンはそっと抱きしめた。

 

 

「見返して……見返してやりてぇよ……」

 

「ええ。見返しましょう。復讐しましょう。貴女にはその権利がありますわ」

 

 

 ダイアナソロンはビゼンニシキに頷き、その言い分を肯定する。

 

 

「貴女の強さを見せましょう。お前が見下したウマ娘は、お前が捨てたウマ娘は、こんなに強いのだと……見せてやりましょう」

 

「……っぐ。うあああああ……ああああああぁぁぁぁ……!!」

 

 

 四月の末の夕暮れ。まだ低い茜の空に、震える声が吸い込まれていく。

 

 

 

============

 

 

「遺憾ッ!! 貴様、何を考えてこのような暴挙をしでかしたッ!!」

 

 

 理事長室に喚問された岡野を待っていたのは、青筋を立てた理事長の怒鳴り声だった。長く伸ばした金髪と均整の取れた美しいプロポーションが魅力的なスレンダーな女性だが、今は額に血管が浮き出た鬼のような形相をしている。

 

 理事長にしてはまだ年若い女性だが、彼女はかつてフランス、イギリスを転戦したカナダ出身のアスリートだ。引退後は教職を志望していたが、その才能に目を付けたURAによって招聘され、中央トレセン学園の理事長に就任した。

 普段は鷹揚な雰囲気を演出している彼女だが、激高するとかつての鉄火場を潜り抜けた頃の一面が顔を出す。

 

 今はまさにその鬼の一面が表れているときだった。

 

 それも仕方がないことだろう。

 未来ある生徒を私欲で手ひどく裏切ったトレーナーなど、断じて許せるものではない。

 

 

「暴挙? いいえ、ボクはただ日本の将来を憂いただけのことですよ」

 

「日本の将来だと?」

 

「ええ。シンボリルドルフという日本が世界に誇るべき才能を、このまま埋もれさせてしまっては大きな損失になります。だから、ボクが彼女のトレーナーになった。この選択は将来の日本にとって大きな利益をもたらすでしょう」

 

「論外ッ!! 語るにも値しない妄言で煙に巻こうとするなッ!! 私は貴様がビゼンニシキを裏切ったことを問題にしているんだッ!!」

 

 

 怒りのあまりにピクピクと眉を引き攣らせながら、理事長は机を叩く。

 海外出身の理事長は、感情が極まると二字熟語を口にする独特の癖があった。

 

 

「いいか、岡野。トレセン学園はそのような裏切りを働くトレーナーを決して許容しない。トレセン学園の全てはウマ娘たちの幸せのためにあるからだ。レースで負けて悲しい想いをする生徒が出るのは仕方ない。レースの喜びも悲しみも一枚の賞状の裏表で、彼女たちもそれを承知で試合に臨んでいるからだ。だがッ!」

 

 

 ギロリと鋭い視線で、秋月理事長は岡野を睨み付ける。

 

 

「これは違うだろうが。お前たちトレーナーは、ウマ娘を支えるためにいるのだぞ! それがウマ娘を、ただの私欲で裏切るなど言語道断ッ! 恥を知れッ!!」

 

「ええ、支えますとも。シンボリルドルフをね。彼女はボクを必要としていますから」

 

「愚昧ッ! 話にならんッ!!」

 

 

 まるで挑発するかのように飄々とした態度を崩さない岡野に、理事長は舌打ちしながら閉じた扇子を突き付ける。

 

 

「いいか、貴様がこれからすべきことはただ一つ。今すぐシンボリルドルフとの契約を白紙に戻し、ビゼンニシキに土下座して詫びろ。そしてビゼンニシキが承諾するのであれば、再契約を結んで元の鞘に戻り、以降は身を粉にして彼女のために尽くせ。学園に所属するトレーナーである以上、拒否権はない。それが呑めないのなら」

 

「呑めないなら?」

 

「懲戒を心せよ。私は本気だ、ウマ娘のためにならないトレーナーなどこの学園にはいらん」

 

「ははははははは!」

 

 

 声を上げて笑い出した岡野に、理事長は気味悪いものを見たような顔をした。

 実際ポエムを一人大声で詠唱する男は気持ち悪いけど。

 

 

「……何がおかしい?」

 

「いえ。理事長の貴方は私を不要だとおっしゃいますが、理事会の御歴々はそうは思っておられないようですよ。理事会の方々の直筆で、この度の人事を認めるという念書がここに」

 

「なんだと……」

 

 

 全身緑づくめの服装をした秘書が、岡野が懐から取り出した書状を改める。

 その中身を熟読した彼女は、困惑も露わな困り顔を浮かべた。

 

 

「……理事長、どうやら本物のようです。シンボリ家やメジロ家の御当主を筆頭に、彼がシンボリルドルフさんの専属トレーナーに就任することを認めると」

 

「姑息ッ! 貴様、こんな手を使ってまで……シンボリ家もシンボリ家だ、恥知らずが!」

 

「なに、ウマ娘と違って人間は目的のためなら汚い手も使うというだけのことですよ。ウマ娘の貴方にはわからないかもしれませんがね。理事会も一枚岩ではないようだ」

 

 

 理事長はギリッと奥歯を食いしばり、帽子の中のウマ耳を絞る。

 

 まだ理事長が着任してから数年しか経っていない、地盤固めが万全ではない時代だった。これが数十年後なら話は違っただろう。公正と清廉を好む秋月理事長は、徐々に学園からシンボリ家やメジロ家といった外圧を排除して、正しくウマ娘の幸せのための学園へと作り替えていくからだ。やがてその思想の種は、跡を継いだ彼女の娘の代に花開くことだろう。

 

 しかし今はまだ闇が色濃い昭和の時代。

 理事長の権威はまだ万全ではなく、理事会は外部によって牛耳られていた。

 彼女はまだ海外から招聘されてきたばかりの、雇われ理事長に過ぎないのだ。

 

 歯噛みする理事長を見やり、肩を竦めた岡野は理事長室を後にしようと背を向ける。

 

 

「待てッ! 話はまだ終わっていないぞッ!」

 

「終わりですとも。もうこれ以上は貴方の口出しできる範囲ではない」

 

 

 そして、思い出したように首だけ振り返り、岡野は不敵な笑みで言い捨てた。

 

 

「まあ、見ていてください。ボクが選んだウマ娘が強かったと証明してみせますよ」

 

 

*1
凱旋門賞や英ダービーと並ぶ欧州最高峰格付けのレース

*2
当時の米国西海岸で最高峰格付けの芝レース




心の中のデジたん
「言うわけがないでしょう! ルドトレさんが! そんなことを!!」

言いましたし、やりました(史実)。
二次創作とはいえウマ娘という心優しいキャラクターばかりの作品で再現していいのかと悩みましたが、史実でやったことをなかったことにはできないので……。

アプリ版のルドトレさんのことは忘れてください。岡野君は完全に別人です。
アプリのルドルフもルドトレも、この作品には登場していません。
この作品にいるのは史実から解釈した別キャラです。
よろしくお願いします。


以下キャラ解説。

=========


〇シンボリルドルフ

こうすればビゼンニシキもやる気になるよね!って思ったからやった。
無邪気で他人の痛みがわからない子。
わからせが必要です。


〇ビゼンニシキ

シンボリルドルフ被害者の会筆頭。
健気な不良少女。

書いてるうちになんか愛しくなってきました。


〇ダイアナソロン

他人の痛みがわかる子。
苦しむ子を放っておけない。
できることは少ないけれど、共感してあげることはできる。


〇ルドトレ

岡野君。
大人の中でも価値観がやばい人。

史実でもビゼンニシキを捨ててルドルフに乗り換えたのは事実なんですが、それが馬ではなくウマ娘になるとすっごい生々しくなりますね……。
ちなみに史実では弥生賞まではルドルフにもビゼンニシキにも乗ってて、弥生賞でどちらに乗るか迫られた結果としてビゼンニシキと決別したんですが、この話ではジュニア期の4月に即決別したことにしています。

謎ポエムは『ルドルフの背』をエミュレートしました。
史実の鞍上はさすがにあれを一人朗読会するような奇人じゃないです。深くお詫びします。
「ボクが選んだ方が強いと思ってください」は東スポnoteにも記事があるし、多分本当に言った。


〇理事長

ウマ娘名はノーザンテースト。
今は秋月むつき理事長。
清廉潔白な経営姿勢を旨としているが、大人の事情にはまだ勝てない。
ギャロップダイナたち「ダイナ」冠のウマ娘たちには特に優しい。

やよいちゃんのお母さんというオリ設定。
やよいちゃんがアプリ版で言われてるように見た目通りの少女だとすると、親がノーザンテーストって解釈になりました。


〇緑の秘書

時代を越えてあなたは何度私たちの前に現れるのだ、トキノミノ……(文章はここで途切れている)
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