偽・ウマ娘ZERO ~不滅の桜~ 作:風見ひなた(TS団大首領)
「さあ走れ! 走れ! 隊列を崩すなよ!」
自転車に乗って檄を飛ばすチーフの言葉に追い立てられながら、チーム・ポルックスの5人のウマ娘たちが一列になって学園のジョギングコースを駆けていく。
先頭に立つカツラギエースがホイッスルを吹いてリズムを作り、続いてテスコスール、スズパレード、スズマッハ、そして最後にギャロップダイナ。落伍者を出さないように現状で一番脚が遅いスズパレードを真ん中に配置して、ギャロップダイナが列のテンポがズレていないかを監督する形だ。
「こら、スール! エースを抜かそうとするんじゃない! ペースを守れ!」
テスコスールがもっと早く走りたそうにうずうずしているのをチーフが見咎めて、声を張り上げる。
「でも、これじゃ物足りません。もっと全力でなければ力が付かないのでは?」
「稽古で全力を出すな、ドアホ。これは脚力と心肺を鍛えるだけじゃない。一定のペースで走る能力と、他の走者の動きに合わせる能力の訓練も兼ねてるんだ。レースってのは、ずっと全力で走ればいいわけじゃねえ。序盤中盤は他のウマ娘に合わせたペースで走り、終盤で一気に勝負を決める……そういった頭脳プレイが重要なんだよ」
「でも、最初から最後までずっと全力で一番前を走ればいいわけですよね?」
「おつむが先頭民族なのか?」
チーフは自転車をこぎながら、呆れ返った顔を向けた。
確かにこの後の時代にはそういった大逃げを得意とするウマ娘も出てくるのだが、この時代の常識では博打以外の何物でもない戦術である。というか、現代の視点から言ってもはっきり言って無謀だ。
レースでは逃げる者よりも追う者の方が有利である。何故なら逃げる側はスタミナが続く限りひたすら走らないといけないが、追う側は休みながら走れるからだ。ペースを落として力を溜め、最後に爆発させて一気に抜き去ればいい。どう考えたってそっちの方が楽だ。
とはいえ、チーフにはどうしてテスコスールが「逃げ」に拘るのかはわかっている。
テスコガビーがそうやって桜花賞を勝ったからだ。
あの10バ身以上をつけた痛快な大差勝ちが、今も瞳の奥に焼き付いて離れない。
チーフにはよくわかる。彼だってそうだからだ。
だが。
「そういうことは、しっかりとした実力が身についてから言うんだな。逃げ切れる力もないくせに、ガワだけ真似しようとしても下手こくだけだぞ」
「ぶう……」
明らかに不服そうに頬を膨らませるテスコスール。
そんな彼女に、チーフはふんと鼻で笑ってみせた。
「ガビーもこうやってチームメイトと練習していたが? 特にカブラヤオーとの併走はそりゃもう真剣に向き合っていたもんだがな」
「…………」
テスコスールは俄かに背筋を伸ばし、カツラギエースにぴったりと歩調を合わせ始める。
単純な彼女の様子に思わず吹き出しながらも、チーフは思った。
(……少しまずい叱り方だったかな)
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「ぜえーーー……ぜえーーーー……」
「お疲れ様~♪ 冷たい麦茶用意してあるから、しっかり水分補給してね~!」
バテバテになったウマ娘たちに、サブトレがやかんを配っていく。
ちなみにポルックスの中で一番バテているのは、スズパレードではなくスズマッハだった。スズパレードは脚こそ遅いものの、自分で子供の頃から山で遊んで鍛えたと言っていたとおり、心肺機能はかなり発達しているようだ。
逆にスズマッハは脚は速いが、スタミナには少々難がある。
「イヒヒ、どうだ新入りども。ポルックスのトレーニングはまだまだこんなもんじゃねえぞぉ~! こんな序の口で音を上げてちゃ、先が思いやられるぜぇ~!」
なお、二番目にバテているのはこんなことを言っているギャロップダイナである。
スズパレードと同じくらいに幼い見た目をしている彼女は、相応に体が未成熟だ。しかし新入りホヤホヤの下級生たちに舐められたくないのか、頑張って強がっていた。足元はプルプルしていたが。
「はい、チーフもどうぞ」
「ああ、ありがとう」
サブトレから水筒を手渡されたチーフは、麦茶を注いでうまそうに飲んだ。
自転車に乗っていたとはいえウマ娘の速度と持久力についていくのはかなりきついはずなのだが、まるで大したことないように泰然としている。
「さて、脚を動かした後は腕と腰のトレーニングだ。これからジムに行くぞ、全員駆け足! 予約時間に遅れるなよ!」
「ひえ~!?」
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腕立て伏せ、ダンベル・ロー、階段昇降、スクワット、背筋運動といったトレーニングをみっちりと叩き込まれ、仕上げにベンチプレスでギリギリまで絞られたウマ娘たちは、さすがに口を利く余裕もなく床に転がっていた。
新入り3人だけでなく、カツラギエースとギャロップダイナも精魂尽き果てた顔でダウンしている。
彼女らが絶対に怪我しないように、眼鏡の奥で目を皿のようにして監督していたチーフはうむ、とひとつ頷くと、パンパンと手を叩いた。
「はい、全員起立! 体が冷えないうちにストレッチだ! 床の上で体を冷やすと怪我の元になるぞ! 関節をしっかり伸ばせ!」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って……」
ふらふらと立ち上がったスズパレードが、込み上げる吐き気を堪えながら口を開く。
「あの……腕や腰の筋肉を鍛えることに、意味あるの? あたしたちがやるのはかけっこであって、レスリング大会じゃないんだよ……?」
「当然ある。無意味にこんなことはさせん」
チーフは平然と頷き、言葉を続ける。
「走るという運動は、全身運動だ。腕と足は連動しているし、両脚を支えるのは腰だ。速く走りたいなら腕を大きく振らなくてはいけないし、いくら脚の筋肉が発達しても、腰が弱ければ力を十二分に発揮できない。……腕と脚が連動しているのは、感覚として理解できるだろう?」
「……うん、わかる」
スズパレードはぶんぶんと前後に大きく腕を振りながら数歩を歩き、こくりと頷いた。
「だろ? だから、下半身を鍛えたいなら上半身も合わせて鍛えるべきなんだよ」
これは別に特別なことを言っているわけではない。
当時のランナーのトレーニングの常識として、上半身と下半身の連動という概念は既に存在していた。トレーニング教本にもしっかりと書かれている。
アプリ版で某筋肉大好きウマ娘や淑女風ゴリラウマ娘やサイボーグウマ娘が脚力だけでなく腕力もしっかり鍛える描写があるのは、速く走るためには上半身のトレーニングを怠ってはならないからだ。……いや、鉄球を圧縮するのはやりすぎでは?
チーフの指導もそう特別なことではない。
特別な部分があるとすれば、その鍛え方がより効率的であるということぐらいか。
「まあ、別に1日で全身鍛える必要はない。今日はチュートリアルとして一通りやってもらったが、実際には上半身を鍛える日、下半身を鍛える日、勉強の日の3つを繰り返してやってもらう形だな」
「勉強の日……っていうのは?」
スズパレードが少々うげっとした顔になり、チーフはそれに苦笑を浮かべる。
「別に数学や英語を教えようってわけじゃない、レースの勉強だよ。お前たちが走るレース場の構造や、フォームの矯正をする日を作ろうって話だ。トレーニングだけ繰り返すと逆に筋肉が痩せていくからな。適度に休む日を作って、超回復によって効率よく筋肉を増やしながら、ついでに知識を身に付けていこうって話さ」
「ちょー回復……?」
スズパレードは小首を傾げ、ようやく身を起こしたスズマッハに知ってる?と視線で問いかける。
スズマッハはふるふると首を振って、訝しげにチーフに尋ねた。
「あの~、すみません~。超回復というのはなんですか~?」
「あー……今の日本では知られてないが、西洋にはそういうスポーツ科学の理論があるんだ」
チーフは親指でごりごりとこめかみを揉みながら、言葉を続ける。
「ざっくりと説明すると、筋トレをすると筋肉の中のグリコーゲンっていうエネルギーの元になる成分が消費されるんだ。しかし筋トレの後に時間を置くと、グリコーゲンは筋トレする前よりも増え、より激しい運動負荷に耐えられるようになる。これが超回復だ」
「へえー……」
「そのグリコーゲンというものの最大値を増やすことで、もっとたくさん運動できるようになるというわけですか~?」
「そうだ。超回復は24時間から48時間のサイクルで行われることがわかっている。だから上半身だけ鍛える日、下半身だけ鍛える日、勉強の日のサイクルで鍛えると効率的にトレーニングできるのさ」
「なるほど~」
ぽんと掌を合わせて、こくこくと頷くスズマッハ。
我が意を得たりと彼女に大きく頷きを返してから、チーフはじろりとテスコスールを睨み付けた。
「……だから、自主トレが厳禁の理由もわかるよな、スール? グリコーゲンの回復を待っている間に運動したら、せっかくの超回復のサイクルが台無しになるんだよ。だから自主トレはするな。いいな、絶対にするなよ」
「またそれですか!? 私ばかり名指しにして、どれだけ信用ないんですか!?」
「これに関しては俺はこれっぽっちも信用してねえッ!!」
チーフはスズパレードを指差した。
「いいか、こいつは素直だから言いつけは破らん」
続いてスズマッハに指を向ける。
「こいつは理屈で納得したらきちんと守れる」
最後にテスコスールに指を突き付けて、言った。
「お前はやる! 『今日は気分がいいからちょっと体をいじめても平気ですよね♪』とかぬかして唐突に無理をしでかす! 根本的に人の話を聞いてないタイプ、それがお前だ!」
「な……何を根拠に……! そんなふうに決めつけられるのは心外です! ええ、まったく失礼極まりないっ……!!」
テスコスールはとっさに眼を逸らし、口の中でぶつぶつと文句を呟く。その瞳はキョロキョロと激しく左右に動き、どう見たって図星をさされて動揺していた。
「……こんなに語るに落ちてる奴、初めて見たぜ。イヒヒ」
「マッハ、パレード。悪いけどスールが自主トレしようとしてるのを見かけたら、止めてやってくれよ」
チームリーダーのカツラギエースの頼みに、スズマッハとスズパレードは「わかりました~」「わかったよ」と頷いた。
2人を見たテスコスールは、ショックを受けたように後ずさる。
「なんてことです……!? 入部2日目にして私が孤立している……!!」
「イヒヒ、孤立するのが嫌なら馴れ合う努力をしろよな~」
そんなことを言いつつギャロップダイナが飛びついて首に腕を回してくるのを、テスコスールは嫌そうな顔で身じろぎして振りほどこうとしている。
サブトレがその光景を微笑ましそうに眺めているのに、チーフは苦笑を浮かべた。
……実際は孤立しているどころか、みんなスールを心配しているんだがな。
「ああ、そうそう。忘れないうちにご褒美をあげないとな」
「ご褒美!? なに? スイーツとか?」
「まあ、甘いものではある」
眼を輝かせてウキウキと飛び跳ねるスズパレード。
一方、ギャロップダイナはうげっ……と顔をしかめている。
そんなダイナの表情をあえて無視して、チーフは尋ねた。
「缶と固形、どっちがいい?」
「えっ……? 缶って、フルーツの缶詰とか? じゃあ缶のがいいな」
「固形! 固形にしとけ!」
「えっ、えっ?」
先輩に忠告されてうろたえるスズパレードを尻目に、チーフは持ってきた段ボール箱をごそごそと漁った。
「缶だな。よしよし。みんなこっちを食べないから助かるよ」
そう言って、チーフはスズパレードの腕をがしっと握ると、手のひらの上に黄色い缶を置いた。
スズパレードは目をぱちくりさせて、『カロリーメイト』と英語で書かれた缶を眺める。
「……これ、何?」
「カロリーメイトだ。ポカリスエットと同じメーカーの製品でな、炭水化物とたんぱく質とビタミンといった栄養素をバランスよく摂取できる」
「へえー……ジュース?」
「まあ、そのようなものだ」
「……オレはこいつをジュースと呼びたくねえ。これはもっと別の何かだ」
「じゃあなんなんだよ」
「……おかゆ的な何か」
まさにその通りであった。
液体タイプのカロリーメイトは1979年に発売された、缶入りの流動食である。
人体に必要な栄養素をバランス良く摂取できるため、保存食としてだけでなく、アスリートの栄養補助食品としてもこの時代から親しまれてきた。
ちなみにこの時代はミルク味しかない。
「オレはクッキーの方もらうわ……」
「はいはい。牛乳も合わせて飲めよ」
段ボールに手を突っ込んで固形タイプを取り出したギャロップダイナに、チーフが牛乳を紙コップに注いでやる。
固形タイプはちょうどこの年の4月に発売されたものだ。発売に先んじて試供品としてメーカーに勤めるチーフの友達が大量にくれたので、ギャロップダイナはもっぱらこちらばかり食べていた。ちなみにこの時代はチーズ味しかない。
「もぐもぐ……あ、これ割といけますね~。口がパサパサしますが~。牛乳は必須かもです~」
「あ、本当ですね。意外とおいしいです」
「だろぉ? クッキーは割といけるんだよな。ただ、缶は……」
「ぷはーーっ! おいしーーーっ!!」
「何ぃ!? ありえん!!」
「……あたしは缶のも別に嫌いじゃないぞ。ダイナが缶を嫌いすぎてるだけだろ」
「あの~、私も缶の方もらってみてもいいですか~?」
ワイワイとカロリーメイトを食べているウマ娘たちの姿に、うむうむとチーフは頷く。
「いいか、運動後30分以内に食事をとるのが一番体に吸収されやすいんだ。食ったものはしっかり血となり肉となるからな」
その言葉に、スズマッハの缶を開ける手がぴたりと止まる。
「や、やっぱりダイエットしなきゃなので、缶はやめとこうかな~……なんて」
「あん? ダイエットなんかせんでいい。そんな言葉は忘れろ」
チーフは眼鏡をギラリと光らせながら、腕を組んだ。
「アスリート、いわんや育ち盛りのお前たちにとっては食うのもトレーニングと心得ろ! よく遊び、よく食い、よく寝る! その3つがトレーニングの基本中の基本だ! まあ実際太り気味になったら減量はしてもらうが、まずは太れ! 肉をつけろ! 痩せるのは太りすぎてから考えればいい!」
「ふ、太るとか肉が付くとか言わないでください~! 確かに理論としてはそうなのかもですけど、デリカシー! デリカシーですよチーフさん~!!」
「あははっ、ごめんね~! この人そういう女の子の機微とか全然だめなのよ~!」
ケラケラと笑うサブトレに、チーフは不本意そうにむうと呻いた。
新しく取り出した紙コップに牛乳を注ぎ、やけ酒を呷るようにぐびりとやる。
(年頃のウマ娘の扱いは難しいな……)
中学生の女の子ほど、アラサーのおっさんにとって付き合いにくい生き物もそうはいないだろう。正直に言って、彼女たちとスムーズな意思疎通を計れている同僚たちが彼にはちょっと遠い存在に見える。
まあ、(多分)嫌われてないだけマシか……。
なんだかんだ言いながら缶のカロリーメイトに口を付け、半分をテスコスールに押し付けるスズマッハである。多分口に合わないとかじゃなくて、半分をテスコスールに飲ませることで太る共犯者を作りたい心理と見えた。
おやつタイムの後に念入りにストレッチをして、最後にサブトレが一人一人マッサージがてらの触診で異常がないかを確かめる。
「よーし、では今日のトレーニングはこれで終わり! 明日は勉強の日にするぞ。各自、しっかり晩飯を食い、最低8時間はぐっすり寝ること! 以上!」
「礼!」
『ご指導ありがとうございました!』
カツラギエースとギャロップダイナにならって、新入り3人が頭を下げる。
ぺこりと礼をしながら、先輩たちって結構礼儀正しいんだとスズパレードは意外に思った。
カツラギエースはどこか蛮カラというか、口調もちょっと荒っぽい感じがあるし、ギャロップダイナは常識なんかくだらねえぜ!みたいなロック精神を前面に押し出しているように見える。
しかし実際にはカツラギエースは口調に似合わない礼儀正しい人柄で、ギャロップダイナも思っていたほど非常識でもないようだ。
……初日だけかもしれないが。
頭を上げると、とっくに弛緩した雰囲気が漂っていた。
ギャロップダイナはテスコスールを気に入ったのか、さっそくダル絡みしてウザがられている。
「よ~うスール、オマエ肉派? 魚派? オススメのメニュー教えてやるからよ~、一緒にメシいこ~ぜぃ。ひとっ風呂浴びて19時になったら集合な」
「えっ、いえ。一人で食べられますからご心配なく」
「そんな悲しいこと言うなよぉ~。みんなで同じ釜の飯食って連帯感ってヤツを楽しもうぜぇ~」
「いえ、一人で食べた方が楽しいので」
「クレーィジ~!!」
「ちなみにこの時期は肉よりも鯛やサワラがうまいんだ。あたしが焼き魚定食の選び方を教えてやるよ」
「私の話を聞いてませんよね先輩がた!?」
「聞いてるぜ! 無視してるだけだ!」
「それは聞いてないと言うんですが!?」
「ヒューーッ! クレイジー!!」
早速先輩2人に囲まれているテスコスールに、スズマッハは微笑ましいものを見る目を向けた。
それにしても、とスズマッハは今日のトレーニングの内容を思い出す。
「ポルックスのトレーニング、なんだか思ったよりも普通でびっくりしましたね~」
「え、そう? なんだか怪我は絶対させないっていうからすごくぬるいのかなと思ってたけど、むしろかなりハードで、あたしはそっちのがびっくりしたよぉ」
スズパレードは不思議そうな顔で、スズマッハの言葉に首を傾げる。
「ちょー回復とか全然知らないお話出てくるし、3つのサイクルでトレーニングするっていうのも初耳だし。ねえチーフ、こういうのってどこで知ったの? トレーナー学校で教えてるなら他のトレーナーもやってると思うけど、そんなことないよね?」
水を向けられたチーフは、顎をさすりながらそうだなと頷いた。
「これは西洋の最先端のスポーツ科学だよ。チーム・カストルが解散した後、俺はしばらく海外に留学していてな。そこでこのスポーツ科学を学んだのさ。おそらく現在日本でこの知識をトレーニングに取り入れているのは、俺と一か所だけかもしれんな」
「へえー、すごいんだねチーフって!」
おおーと素直に驚くスズパレード。
スズマッハはじっとチーフの顔を見つめるが、その眼鏡は曇っており、ガラスの向こうの目の動きはうかがえなかった。
「それで、マッハ。普通でびっくりしたって何のこと?」
「えっ?」
スズマッハは突然スズパレードに水を向けられ、上ずった声を上げる。
「だから、さっき言ってたじゃん。思ったより普通でびっくりしたって。マッハはいったいどんなのを想像してたの?」
「あ、ああ。その話ですか~。いえ……その」
スズマッハは少し顔を赤くしながら、もじもじと両手の指を絡ませた。
「効率的、効率的とおっしゃるので~……。何かその、ものすごく練習の効率が高まるすごい秘密兵器のようなものが出てくるかと……」
「秘密兵器って、たとえば?」
「え……その、大リーグ養成ギブスとか~、謎のマシンとか~。ど、ドラえもんのひみつ道具みたいな、みるみる強くなる不思議な道具とか……」
言っているうちに自分の想像がいかに子供じみているかを再認識して、スズマッハの顔がどんどん真っ赤に染まっていく。
「い、言わせないでください~!」
「あははは! マッハもドラえもんとか見るんだ。なんだか安心しちゃった!」
「あ、安心ってなんですか~! 私だって人並みにアニメぐらい見ますよ~!」
「ふふふ。それにしてもあっという間に強くなれる秘密兵器だなんて。さすがにそんなものないよね~、チーフ!」
「ははははは! あるぞ?」
『……あるの!?』
ぎょっとした顔でスズパレードとスズマッハがチーフを見つめると、彼は至極淡々とした顔で頷きを返した。
「うむ。非常に効果的なトレーニングができる秘密兵器は存在する」
「じゃあなんで使わないの? あ、今は基礎段階で、これから使うとか?」
「いや、存在は知っているが、ここにはないだけだ」
そう言って、チーフは眼鏡をぎらりと光らせた。
「短期間に心肺機能を飛躍的に強化し、強靭な足腰を身に付けられる……その秘密兵器の名を、『
「はんろ……? 行商でもするの?」
「それは販路ですよ~、パレード」
「うむ、ツッコミ助かる」
丁度切らしてたチーフが頷き、横からサブトレが口を挟む。
「坂路というのはつまり坂道。坂を利用したトレーニングコースのことだよ~!」
「それもただの坂じゃダメだ。急勾配でかつ、ウッドチップを敷き詰めて整備し、脚への負担を軽くしたものでなくてはならん。ただ、これが日本にはなくてな」
「あれがあればみるみる鍛えられるって、チーフ昔っから言ってるのよね」
スズパレードはきょとんとした目で、首を傾げた。
「へえ~。そんなに効果的なものなら、学園にも導入すればいいのにね」
「前から理事長には陳情しているんだ。しかしいくらデータを示して有効性を説いても、なかなか話が進まん。確かに巨額の費用が必要なことは理解はしているし、無から金は湧いてこないだろうが……しかしどうしても欲しいのだ」
「まあ、そんな便利なものがあれば誰もが使いたがるでしょうし~。逆に誰も使えないというのなら、ある意味で平等なのかもしれませんね~」
スズマッハの言葉に、チーフはうむと頷いた。
「確かにそれはそうだな。今の日本でアレを持っているのは、シンボリ家くらいのものだろう」
その単語に、スズパレードとスズマッハは顔を見合わせた。
『シンボリ家……?』
「ああ。シンボリ家というのは、西欧のレースを制覇するという一点に心血を注ぐ名門の一族でな。特に現当主は西洋事情に明るく、スポーツ科学の理論を貪欲に取り込んでいる。今の日本で最新鋭のスポーツ科学を取り入れているのは、俺以外にはシンボリ家だけだろう」
「そのシンボリ家が、坂路という秘密兵器を持っている……というのですか~?」
「ああ、シンボリ家は富豪でな。実家だけでなく、山の中にトレーニング用の拠点を持っているそうだ。その拠点に、坂路が設けられていると聞く」
チーフはコリコリとこめかみをこすり、首を竦めた。
「シンボリ家のウマ娘は、学園に入る前からそこで厳しい鍛錬を積んでいるそうだ。だから、まあ……もしお前たちが戦うことになれば、強敵になる。もしかしたら今の日本のウマ娘では、誰一人として太刀打ちできんかもしれん」
「……そこまで実力差があるというのですか」
「そこを埋めるのがトレーナーの仕事だがな。しかし、厳しいぞ。どうにかしてこちらも坂路がほしいところだが。……マッハ、そんな顔をするということは、いるのか? 同期にシンボリ家が……」
「います。シンボリルドルフという子が」
「………………」
チーフの呼吸が止まる。
やがて、たっぷり1分の沈黙ののちに、ふーーっと長い息を吐いた。
「そうか……ルドルフか」
「ご存じなのですか~?」
「面識はないが、噂だけな。当主曰く『天が遣わしたウマ娘』。これまでも、これからも並ぶ者なく、日本だけでなく世界をも制する最強のウマ娘だと豪語していた」
「それはまた……随分吹いたものですね~」
教室で調子に乗って同期全員にケンカを売り、挙句教師に叩かれて涙目になっていた小柄な少女の姿を思い返しつつ、スズマッハは小首を傾げる。
あれが史上最高にして過去にも未来にも並ぶ者なき、世界最強のウマ娘の姿かなあ?
チーフはすごく深刻な顔をしているが、どうも認識に齟齬がある気もする。
「私には、そこまでのウマ娘には見えませんでしたが~。確かに強そうでしたが、私でも巡り合わせ次第では勝ちの目も見えそうでしたよ~」
「ふうむ……」
ややあって、チーフは首を振りながら小さく笑った。
「ま、シンボリルドルフと同期になったというのは少々ショッキングな話ではあるが……。明るい材料もなくはない」
「それは~?」
「どんなに恐ろしい竜であっても、卵を孵す者がいなければただの卵さ」
「つまり~、彼女にトレーナーさんがいないうちは無害だと~?」
「ああ。もちろんシンボリ家が用意したトレーナーがこれまでも付いているだろうし、当然有能なのだろうが……。しかしウマ娘が真の力を引き出せるのは、運命的なトレーナーと出会ったときだ。運命っていう言葉も非科学的だが、しかしそう呼ぶしかない現象は確かにある」
「私も運命の絆はあると思いますよ~」
「あたしも!」
「……そうだな」
この子たちの運命の絆が、俺に繋がっていればいいが。
そうであれば、ほんのわずかでも勝機を与えてあげられるかもしれない。
そんなことを心のどこかで思いながら、チーフは眼鏡を光らせる。
「マッハがそう感じたのなら、おそらくまだシンボリルドルフは片翼の鳥、目覚めを待つ竜の卵だ。彼女はまだ運命のトレーナーに巡り合えていない。このまま出会うことがなければ、あるいは出会う時期が遅いのなら、マッハたちの障害にはならないかもしれない」
「なるほど~」
スズマッハはほっとしたように手を合わせる。
だが。
言わなければならない。
チーフは瞳を閉じ、最悪の想定を口にした。
「だが、もし彼女が早い時期から運命の相手と出会ったとしたら……もはや誰も、勝てないかもしれんな」
あからさまにフラグなのだ……!