「ヘグニ・ラグナールさんにこれを渡してほしいんです!お願いします!」
都市最強の一角であるフレイヤ・ファミリアの本拠地、
褐色の肌に尖った耳、目を引く容姿は妖精の特徴そのものであった。歌う小鳥を思わせる声は、常日頃団員同士の戦闘が行われる地には似つかわしくない。
少女に対するは門の番人であるフレイヤ・ファミリアの戦闘員である。男は何度拒絶してもその場を退こうとしない少女を鬱陶しげに見つめていた。
「無理だと言っている」
「これを渡してくれるだけでいいんです!お願いします」
差し出されたのは何十枚もの封筒である。経年劣化しているらしく紙の色が変質していた。
「うちのホームはゴミ箱ではない」
「ゴ……!?」
男は野生の犬猫を追い払うかのように手を振る。ゴミ箱という物言いに少女は絶句し固まったが、次の瞬間には男の手に分厚い束となっている封筒をねじ込もうとしてきた。
「おい、やめろ!」
思わず少女を突き飛ばそうと動いた手を、男は慌ててひっこめた。少女が華奢で、男が少しでも突けば折れてしまいそうな外見をしていたからである。このオラリオにおいて外見で判断することは愚か極まりないというほかないが、男は仮にも二級冒険者である。それもフレイヤ・ファミリアの。目の前の少女が鍛えているかそうでないかは一目で分かった。
フレイヤ・ファミリアの戦闘員が一般人に害を負わせたと広まる、などあってはならない。主神に見初められた人間として、神の名に泥を塗る行為をするわけにはいかないのである。
もしも少女が、主神フレイヤに用があるなど宣うのであれば、彼女を害する可能性がある者として処理できたが、少女の目当てはファミリアの幹部であるヘグニ・ラグナールである。容姿端麗な妖精を応援する婦女がいることは男も知っているが、こうしてホームまで詰めかけてくる者は初めて出会った。今男の手にねじ込まれようとしている封筒の束は、ヘグニへの熱い思いが綴られているのだろう。
勘弁してくれよ、と男はげんなりと顔を歪めた。オラリオの住民にさえ恐れられているホームに訪れた気概は評価したいが、そこまでするならヘグニ本人に直接渡してほしい。そもそも、二級冒険者である男と一級冒険者かつファミリアの幹部であるヘグニの立ち位置は天と地ほどの差がある。少女の手紙をヘグニへと渡せる保証はない。
冷たく突き放しても、常人であれば怯んで逃げるであろう圧をかけても、少女は依然男の目の前に震える足で立っている。少女と男の攻防は既に数十分も続いている。段々と男の顔には苛立ちが浮かび始めていた。
「騒がしいわね」
脳を震わせるような甘美な声が男と少女の耳に届く。鈴を転がすような音が耳に届いた瞬間、男はその場へ片膝をついていた。目が眩むほどの美貌と色香を振りまきながら彼らの前に現れたのは、男の主神、フレイヤである。
「フレイヤ様……!お耳汚し申し訳ございません!」
地面を打ち付けるほど頭を下げた男を一瞥すると、フレイヤは男のすぐ横に立つ少女へと視線を移した。
「これを、ヘグニ・ラグナールさんに、渡してほしくて来ました」
緊張で顔を強張らせた少女は封筒の束を見る。少女に釣られるように視線を落としたフレイヤは、その分厚さに目を細めた。
「恋文?」
「……そうです!」
数秒考え込んだ少女は、視線を女神へと移すと首を縦に振った。僅かに目を見張ったフレイヤは「あら」と、手のひらで口を覆った。隠された口元は緩んでいる。
こんなにも堂々と自身の眷属へとアプローチしに訪れた人間がどれほどいただろうか。退屈していた日常に突然与えられた少しばかりの刺激に、フレイヤの好奇心が頭をもたげる。
「いいわ、彼女を通してちょうだい」
男は驚愕に目を見開いたが、敬愛する主神の言葉である。恭しく頭を垂れ、彼女の言葉に従った。
「それで、ヘグニに会いたいの?」
「はい!」
ホームの室内へと案内された黒妖精の少女は、フレイヤの問いかけにしっかりと頷いた。女神の近くには従者である猪人が控えている。200cを越える巨体を持つ男は、来訪者の一挙手一投足を見逃すまいと少女を見つめていた。少女が怪しい挙動を見せた瞬間、少女の体は男によってぺしゃんこに潰されてしまうだろう。
片や超越存在、片やオラリオで最強の武人。どんな悪党であっても尻尾を巻いて逃げ出すに違いない。限界まで引き延ばされた糸のような緊張感は少女の喉をからからに乾燥させていた。
場を支配する圧力に押しつぶされてしまいそうだ。足の親指に力を込める。気を抜いたらそのまま倒れてしまいそうだった。
それでも、少女には成し遂げなければいけないことがあった。目の前の女神がくれたチャンスを逃すわけにはいかない。
恐らく、自分は眼前の神に見定められているのだろう。自分の手の中にある封筒をヘグニ・ラグナールに渡せるかどうかは今、この瞬間の自分の振る舞いにかかっている。
「さっきは恋文と聞いたけど……、本当はその手紙に何が書いてあるのかしら?」
「それは……女神様と言えども、お見せすることはできません」
猪人の指先が動く。
「ですが、この手紙は決して彼を──貴女の眷属を、貴女の子を害するものではありません」
フレイヤが見初めた眷属が呪詛も使えなさそうな少女が持ってきた手紙に害されるとは一ミリたりとも思っていないが、時に文字は人を狂わせる。
どうか、ご慈悲をと頭を垂れる少女の姿を銀の瞳が捉えた。少女の言葉に嘘は一切ない。神の目は人の嘘を見抜き、人の持つ性質を理解できる。それに加えて、フレイヤは子の魂の輝きを見ることができる。少女は言うまでもなく善の側に位置する者であり、少女の魂は小さいながらも曇りなく輝いてた。
「いいわ。会わせてあげる」
フレイヤの言葉に少女は若葉色の瞳を輝かせ、表情を明るくさせる。「ありがとうございます」と言った少女が頭を下げると、薄紫にも見える銀の長髪がさらりと揺れた。
***
今から何十年も前の話ではあるが、ヘグニ・ラグナールはかつて王であった。
白妖精と黒妖精の二つの国を内包する妖精の孤島「ヒャズニング」で、同胞たちから無能の王と謗られながら、卓越した剣技で戦の王として担がれていた。
ヘグニは失望も希望も向けない闇を好む。王であるはずなのに誰よりも軽視されているヘグニの味方は闇しかいなかった。
閉鎖された土地に縛られていたヘグニを救ったのは、ヘグニの所属するファミリアの主神、美と愛の女神、フレイヤである。
ヘディンとの一騎打ちの中、彼女が目の前に現れ、「国を滅ぼした」と告げたときほど驚いたことはない。あのときのことは、今もヘグニの中で鮮明な記憶として残っている。
王の責務から解き放たれたヘグニには、フレイヤが全てだった。敬愛する女神のために、己を研鑽することは一国の王であったときよりも日々を色づかせた。
宿敵との決着はついていないし、気にかかることは数々あれど、ヘグニは快適に過ごしたと言えよう。今、この瞬間までは。
ダンジョンから戻ったヘグニの視界に現れた黒妖精の少女は、ヘグニの思考を停止させた。薄紫にも見える銀の髪に、若草色の瞳。少女の柔和な顔立ちはヘグニの心の柔らかな所を刺激して、遥か昔に封じた暖かな記憶を思い起こさせた。
「──」
ヘグニの口から溢れた言葉に少女が目を見開く。見る見るうちに若草色が滲み、一筋の涙が頬を伝った。
少女が涙する様子に元々停止していたヘグニの思考は更に錆びつき、体の動きすら止まった。一級冒険者とは到底思えない挙動である。
涙を拭った少女が、ヘグニへと近づく。ヘグニは肩を跳ねさせたが、足の裏がその場に固定されたかのように動かなかった。
「ヘグニ・ラグナールさん」
名を呼ばれたヘグニは返事すらできない状態である。心臓が口から飛び出て胃の中も飛び出そうだ。背中には尋常じゃないほどの冷や汗が伝っている。防具の下の衣服をびっちょびちょにするヘグニはかつてないほど取り乱していた。
「……」
「貴方へ向けた手紙です。是非、一度、読んでください」
差し出された封筒にはヘグニの名が、見覚えのある筆跡によって綴られていた。封じたはずの記憶が、脳裏をよぎる。目の前の少女に似た黒妖精の女性が微笑みかけてきた。
「よ、読めない……」
やっとのことで絞り出した言葉は少女の頼みを拒絶する内容で。傷ついた顔をする少女にヘグニの胃は捩じ切られているように痛んだ。胃の内容物を全て吐きそうだ。
褐色の肌を真っ青にするヘグニと再び涙が溢れそうな少女。
どうしようもない状況に、一石が投じられる。
「貰ってあげないの?」
女神の言葉をきっかけにヘグニの体は弾け飛ぶように動いた。少女から距離を取り、女神が現れた方向へと膝をつく。
「お、恐れ多くも申し上げますが、私に……あ、あの手紙を受け取ることはできかねます……!」
「あら、そう」
必死の思いで言葉を紡ぐヘグニに、フレイヤは何てことはないように頬に手を当てた。それなら仕方ない、とでも言いそうな雰囲気だ。それもそのはず、フレイヤにとって自身の眷属と今日初めて出会った少女を秤にかけると、天秤は圧倒的に前者へと傾く。ヘグニが受け取らないと言うのなら彼の意思を尊重するまでである。
己を責める様子がないフレイヤの姿に内心ほっとする。そんなヘグニの肩に小さな衝撃が走った。
「──ばかっ」
先程まで悲しみに満ちていた少女の顔は怒りによって歪んでいた。瞳から溢れる大粒の涙は少女の頬、顎を伝って床へと落ちる。ヘグニに向けられた手の中に先程まで彼女が持っていた封筒はない。それらはヘグニの肩に当たり、床に散らばっていた。
失望の色を浮かべる少女の顔を直視することが堪えられなくなったヘグニは顔を背ける。遠ざかっていく足音が耳に届いた。
「よかったのかしら?」
ホームを去っていった少女の後ろ姿を見送る女神の問いかけにヘグニは顔を俯かせることしかできなかった。