フレイヤ・ファミリアの本拠地から逃げるように立ち去った少女は、人目を避けるように薄暗い路地裏へと辿り着いていた。ず、と鼻を啜る少女の視界は歪み、揺れている。
彼にはもう既に新しい居場所があるのだから、もう何十年も経っているのだから、不快にさせるかもしれない。けれど、母の気持ちを知ってほしいという思いは止められず、オラリオまで来てしまった。
今更現れた自分の存在を彼が拒絶する可能性は、低くはなかった。二度と顔を見せるな、と言われる覚悟さえしていた。
実際は――もっと酷いものだった。
顔を歪め、辛そうな顔をして、ただ一言読めないと零した黒い妖精は、少女の願いも、少女の母親の気持ちも拒絶した。
なんて残酷な妖精だろう。迷惑だと一蹴された方がどれだけよかっただろうか。床に臥せた母が言っていた通りだ。臆病で、不器用で、口下手で、なにより優しい妖精。あの様子だと母のことも忘れていないのだろう。
だからこそ、拒絶してほしくなかった。ただ、受け取ってくれるだけでよかった。もっと冷静に対応するはずだった。泣く予定なんてなかった。
少女は、先程の男の心の動きが何故だか手に取るように理解できてしまい――だからこそ、感情が抑えきれなくなってしまった。
十五年前、少女はオラリオから遠く離れた辺境も辺境、田舎の中の田舎の地にて生まれた。本来であれば少女は半世紀以上前に母親の腹から出てくる予定であったが、母親本人の魔法によって成長を遅らされ、何十年もかけて腹の中で育てられた。
一つの命を何十年も腹の中に留める。人知を超えた技だ。母体に負担がかからないはずない。少女を出産した女は床に臥せるようになった。それでも九年間、命の灯を燃やしながら我が子を愛情深く育て、六年前に少女の前で息を引き取った。
母はずっと、ずっと、最期まで一人の妖精を想い続けた。生き別れてしまった愛しい人との思い出を語る母は本当に幸せそうで、思い出の中の男女はお互いを大切にしていたと、少女は幼いながらにそう感じていた。
母が天へと召されて遺品を整理しているときに、母が男へと向けて何十枚も綴った手紙を見つけたのである。家の中に隠されるように置かれた手紙の束を前に少女は一つの決意を抱いた。何年かかったとしてもこの手紙を男の元へ届けよう、と。
そして、六年の時を経て、ようやく男の元へ辿り着いたのである。
男は──少女の父親は、少女と同じ髪と瞳の色を持っていた。少女は父の姿を視界に入れ、熱に浮かされ視界もはっきりとしていない母が少女の事を「ヘグニ」と呼んだ理由を知ることとなった。同じ色彩を持つ男の拒絶は少女を打ちのめし、少女は自分の情けなさと男の残酷さに涙を流している。
一匹の妖精の心が傷ついた。目まぐるしく変わる世界では、取り上げられもしない些細な事情。当人にとっては絶望的でも、他者にはちっぽけなものである。少女の足が止まっても、世界は動いていく。
しかし、悲しみに打ちひしがれる者に、絶望を味わう者に救いの手が差し出されるのも、また事実である。
「君、大丈夫かい?こんな所にいると危ないよ」
かけられた声に膝に埋めていた顔を上げる。長く艶のある黒髪を二つに結った幼い少女が、こちらを見下ろしていた。
人とは異なる異質な美しさに、その幼い容姿に似合わない体格。一目見て、目の前の幼い少女が上位存在であることを悟った黒妖精の少女は、慌てて姿勢を正した。
「見苦しい所をお見せして申し訳ございません」
飛び上がるように立ちあがり、目の前の女神よりも視線が高くなることに気づいて膝をつく少女に、幼い女神は苦笑いを浮かべた。
「見苦しくなんかないさ……ボクはヘスティア。君は?」
「ヒルダと申します……」
「ヒルダくんか。いい名前だね」
微笑みを浮かべるヘスティアに名前を褒められ、ヒルダは面映ゆい気持ちになった。遥か昔、聖女と謳われた先祖の名を基に与えられた名前はヒルダが持つ母親の数少ない遺産である。
「ところで、泣いていたようだけど……何かあったのかい?」
「それは……」
俯くヒルダは悲し気に目を伏せた。僅かに和らいでいた心が再び重くなる。
「よければボクに話してみないかい?幾分か気も紛れるんじゃないかな」
いつも通りバイト終わりに眷属勧誘に勤しんでいたヘスティアは、偶然涙を流して路地裏へと駆ける少女を見つけた。迷子の子どものような後ろ姿は、居場所を守る光である炎を司るヘスティアにとって見過ごせるものではなかった。
***
「何だいその男!酷い奴だな!」
ヒルダが先程までの話を語ると、ヘスティアは目を吊り上げ、男――ヒルダの父親に怒り始めた。
ヘグニとの関係は彼の迷惑になるかもしれないと思い、彼の名は伏せたが、少女がかいつまんで述べた話に女神は憤りを見せた。その怒りは、ともすれば本人よりも強いもので、少女は思わず目を見張る。
神の中には凄惨な境遇に置かれた人間を面白がって揶揄うような仕方のない性格をしている者もいるというが、目の前の女神はまごうことなき善神であった。頬を膨らませて怒るヘスティアに少女の頬が緩む。
「ありがとうございます、ヘスティア様」
「ボクは何もしてないけど……」
頭を下げるとヘスティアはきょとんと首を傾げた。そんなことないと首を横に振るヒルダ。話したことで整理がついたのか、女神の反応に心が救われたのか、どちらか定かではないが、事実、鬱々とした気分は晴れやかになっていた。
「まあ、君の気が楽になったならよかったよ。……ところで」
「君、この先何をしていくか、決まっているのかい?」
「この先……?」
目を丸くする。ヒルダの目的は、父親に母親が綴った手紙を届けるというものだった。そのためだけに、長い長い道のりを進み、何年もかけてオラリオへ辿り着いたのだ。今、ヒルダの手に母の手紙はない。正確には父に投げつけて、そのままにしてきてしまったのだが。
「何も考えてなかった」と呟くヒルダにヘスティアはぴょんっと結った髪を動かす。きょろきょろと視線を動かし、落ち着かない様子のヘスティアに、今度はヒルダが首を傾げた。
言いにくそうに口をもごもごと動かすヘスティアは、心中で葛藤していた。少女を見かけるまではヘスティアはファミリアの勧誘を行っていたのである。
何せヘスティア・ファミリアは超零細ファミリア。眷属はたったの一人。その一人も数日前に恩恵を授けたばかりだ。
神であるヘスティアは人の性質が粗方把握でき、目の前の少女はヘスティアと相性が悪くなさそうだった。おまけにどこの派閥にも所属していない上に、この先の目的もないという。
ここで、勧誘しようか。いや、しかし、それは何だか少女が弱っている所につけこむように思える。
うんうんと唸るヘスティアをヒルダは不思議そうに見つめている。奇妙な沈黙が一人と一柱の間に流れ、十数秒その状態が続いた。ついに頭を抱えたヘスティアは、もうなんとでもなれ!という具合に口を開いた。
「やることがないなら、ボクのファミリアに入らないかい!?」
「え?」
「いやあ実は、ボクは絶賛眷属募集中でね!今日も勧誘に勤しんでいたんだけど、中々集まらなくてさ!それで、君が良ければ、ボクのファミリアに入ってほしいなあ、って……」
段々と弱まっていく声量と萎れていくツインテール。ヘスティアがオラリオに訪れて、何度子どもに勧誘を断られただろう。その記憶が走馬灯のようにヘスティアの頭を過る。また断られてしまうかもしれない、と弱気になったヘスティアは何も言わないヒルダの様子を伺った。
ヒルダはヘスティアをまじまじと見つめ、考え込んでいるようだった。少女が思考する時間がとてつもなく長い。ともすればヘスティア自身が過ごしてきた年月と同等のように感じる数秒が過ぎ、ヒルダはようやく口を開いた。
「お力になれるかはわかりませんが……よろしくお願いします」
「……?……え!?いいのかい!?」
一瞬、ヒルダの言葉が理解できなかったヘスティアはそれはもう驚いた。地面から数センチほど浮き、二つに結った髪もアンテナのように逆立つ。
「はい、是非……と言っても、私でヘスティア様のお役に立てるかは分かりませんが」
「何を言ってるんだい!入ってくれるだけで百人力、いや千人力さ!」
何せヘスティアのファミリアは眷属がたった一人しかいない超零細ファミリア。頬を上気させたヘスティアの勢いに目を丸くするヒルダは、女神の愛らしい姿に頬を緩ませ、破顔した。
フレイヤファミリアの面々は暫く出てきません(予定)