連日ダンジョンへと潜り、ダンジョンが生み出す独特な空気にも慣れ始めた頃、ヒルダが魔法を試したいと言い出した。
ヘスティアによって神の恩恵を刻まれた当初から、既に魔法が発現していたが、探索に慣れた頃に試すべきというヒルダ自身の意向によって、今まで日の目を見ることがなかったのである。
「あのコボルトとか、どう?」
場所は一階層。ベルの人差し指の先には、1匹のコボルトがのしのしと歩いていた。辺りを見ても他に仲間はいないようで、魔法の試し撃ちには最適な条件といえよう。
魔法を発動するためのトリガーは既に背中に刻まれている。あとは魔力を制御し、それを唱えるだけだ。
「【森羅よ、万象よ、母なる愛の元へ帰伏せよ】」
淀みなく紡がれる言葉と共に少女の体内で魔力が練られる。
「【ディセ・ラトル】」
「ギッ!?」
コボルトの困惑したような声がダンジョン内に響いた。自身の身に何が起こったかを把握できず、混乱しているコボルトはやけにゆっくりと辺りを見回したあと、その場から逃れようと駆け出した。
「……なるほど」
駆け出したコボルトを眺め、ヒルダは頷いた。まるでこちらを煽っているかのようにのろのろと動くコボルトを見て、自身の魔法の効果を把握したのである。
ヒルダの魔法【ディセ・ラトル】は対象を減速させる効果を持つ。
「何となく察してたけど、行動阻害の魔法だね」
駆け出して1Mも進んでいないコボルトの首を刎ね、落ちた魔石を拾った。
「じゃあ次に行こうか、ベル。……ベル?」
少年の返事がないことを不思議に思って振り返ると、何やら考え事をしているのか、ベルは薄い青に覆われた天井を見つめていた。
少年の肩に手を置く。その衝撃で思考が戻ってきたのか、ベルははっとこちらに視線を合わせた。
「わ、ごめん!探索進めるんだよね、行こっか」
「いいけど……疲れてる?今日はやめにしようか?」
体調を慮るヒルダに、ベルは慌てて首を振った。
「いや、大丈夫だよ。まだ来たばっかりだし……」
「そう?ならいいけど」
そう言いながらも訝しげな視線を向けてくるヒルダに、ベルは頬を掻き、気まずげに口を開いた。
「その……いいなあって思って」
「……魔法のこと?」
「うん……」
恥ずかしげに俯くベル。ヒルダは彼が、ヒルダが魔法を持っていると分かったときにやたらと興奮していたことを思い出した。
「一応、私は妖精だしね。ベルも、」
そのうち魔法が発現するよ、と言いかけて口を噤んだ。魔法の発現条件は神にすら把握できないと言う。
気休めを言って希望を持たせない方がいいのかもしれない。
そう考えたヒルダは気休めの代わりに、
「魔導書買えば、魔法が発現するらしいよ」
現実的な魔法習得への道を提示した。
「そうなの!?」
ベルの瞳が輝き、
「うん。まあそれなりに値が張るみたいだけど」
しゅん、と暗くなった。
ヘスティア・ファミリアは超零細派閥。一日の食い扶持を稼ぐのに精一杯な現状では、魔導書の購入など夢のまた夢だった。
「ファミリアにもうちょっと余裕が出来たらさ、魔導書買うためのお金、貯めていこう?」
肩を落とし、見るからにしょげてしまったベルに、ヒルダは慰めるように彼の肩を軽く叩く。「うん……!」と頷いて笑みを見せるベルにヒルダは満足そうに微笑んだ。
***
月が昇り、暗闇が都市を覆う。昼間は活気がある広場は打って変わったように静まり返っていた。
廃れた協会の地下で暗闇の中ヘスティアの意識が覚醒する。変な時間に目が覚めてしまったな、と身動ぎを一つ。瞼を閉じて、再び眠りにつこうとするヘスティアの耳に、カタンと小さな音が届いた。
(誰だ……?)
ヘスティアの体が強張り、手に力が入った。そろそろと上体を起こし、目を凝らす。闇の中で蠢く人影と目が合う。
「ヒ、ヒルダ君!?」
「ヘスティア様……」
赤く染まった腕を庇うようによろよろと歩くヒルダに、ヘスティアは寝台から飛び降りて近寄った。
「君は……またダンジョンに行ったのかい!?」
「……」
視線が逸らされる。返答はなくともヒルダのバツの悪そうな表情がヘスティアの問いに対しての答えを表していた。
はあ、と大きな溜息を吐いたヘスティアは少女の腕を自身の肩に回して支える。
「言いたいことはあるけど……とりあえず治療をした方がいい」
ほら、座ってと促され素直に椅子へと腰をかける。長時間ダンジョンにて酷使されたヒルダの体は悲鳴をあげていた。椅子に体を預けた瞬間、全身が鉛になったかのような感覚がした。
ポーションと共に水を渡され、一息ついた所にヒルダの前に座ったヘスティアが「それで」と口を開いた。
「どうしてヒルダくんはこんな時間まで起きてるのかな?」
目を弓形に細め口角をあげるヘスティアの笑みは瑕疵がなく、慈愛すら感じられる。
怒っている。
信心深いものが目にすれば崇めてしまいそうな神々しい笑みの中に確かな怒りを感じて、ヒルダはそっと視線を逸らした。
無言の攻防が続き、折れたのはヘスティアだった。完璧な角度を保っていた口角を戻し、嘆息した。
「せめて、一言伝えてからダンジョンに向かってくれないかい?前もそうだったけど、怪我してぼろぼろの君を暗闇の中で発見するのは心臓が縮み上がりそうなんだ」
「……すみません」
居心地悪そうに瞳を伏せるヒルダに、ヘスティアは再び溜息を吐いた。
以前もそうだった。少女は初めてダンジョンに潜ったその日の夜、ホームを抜け出し、今日と同じように眠りから目覚めたヘスティアの目の前にぼろぼろの姿で返ってきたのである。
額からの出血という目に見えて派手な怪我を負った自身の眷属に、ヘスティアはこれまでの
翌日尋ねると「ダンジョンに行ってました」と簡潔に答えられ、ヒルダの答える様子があまりにも普通であったので、ヘスティアはそれ以上話を掘り下げる事ができなかったのである。
初めてのダンジョンにテンションが上がっちゃったのかな、とダンジョン最弱を倒したことを報告しにきた別の眷属を思い出しながら、その時は疑問を飲み込んだのだが、二度目となるとそうも言ってられない。
ヘスティアは戦いを司る神ではないが、ダンジョンにてソロで活動することの無謀さくらいは知っている。確実にベルと探索した方が楽であろう。わざわざベルもヘスティアも眠りについた時間帯に向かうということは、それなりの理由があるのだろうが、少女が夜中にこそこそとダンジョンに潜る理由が全く見当がつかない。が、二度あることは三度あるという。少女はこれからも夜中に一人でこっそりとダンジョンに潜るのだろう。ヘスティアはそう確信していた。
ならば、今このときに少女の本音を聞いておいた方がいいのではないか。ヘスティアはそう考えたのだが、無言を貫くヒルダの意志は固そうで、揺らぎそうにない。きっと、口を割らないだろう。ならば、無理に話を聞く事もない。
そう結論付け、雰囲気を柔らかく一変させたヘスティアにヒルダはほっと息を吐いた。
ヒルダが夜中にダンジョンに潜っていた理由はとてつもなく私的なものだ。ヘスティアやベルに余計な心配をかけたくない。既にヘスティアにバレてしまっているので、隠し通すことは無理かもしれないが私的な感情に二人を付き合わせることはできない。二人はそんなことないと言うだろうが、だからこそ、である。
元々、ヒルダがオラリオに来た目的は母親の手紙を父親に届けるためであった。形式に問わないのであれば、届けるという目的は達成したのだが──しかし。
あれで、届けたと言うのだろうか?
手紙拒絶事件のショックから、冷静になったヒルダの胸中に疑問が浮かんだ。
母からの手紙である。彼にとっては恋人もしくは妻であるが、泣いて喜びながら読むべきではなかろうか。少なくともヒルダが彼の立場ならば、母の思いが詰まった何十年分の手紙という至上の物を目にして読まないという選択肢はない。存在に感謝しながら読むだろう。
読めない、ではない。受け取りかねる、ではない。彼には母の思いがたっぷりと詰まった手紙を読む義務があるし、受け取らなければいけない。
それが、母から愛されて母を愛したものとしての最低限の責務であろう。
ヒルダはそう考えていた。手紙を届けるという当初の目的が手紙を読ませるというものに変化していることに、ヒルダは気づいていなかった。しかし、ヘグニに対して「いや手紙読めよ」という思いはどんどんと膨れていって、抱えきれないほどに大きくなった。
しかし、ヘグニのあの様子であればきっと封を開くということすらしなさそうだ。
ならば──。
少女が捻り出した結論は「彼よりも強くなってボコボコにして負かして、手紙を読んでもらおう」というエルフらしからぬ筋肉に脳が支配されてしまったかのようなものだった。
この思考に至るまで、たった数秒。ヒルダは母親が絡むと少々思考力が低下する性質だった。
ヘスティアに拾われたのは僥倖だった。強くなるにはダンジョンへ行かなければいけない。零細とはいえ探索系ファミリアに入団できたのは大きな一歩となった。
当時の私よくやった、とヘスティアファミリアに入ることを決めた過去の自分に賞賛を送りながら、ヒルダは「ヘグニ・ラグナールを伸すくらい強くなる」という他の冒険者が聞けば頭を疑うような目標を打ち立て、夜な夜なダンジョンへと潜るようになったのである。
一応、冷静な部分は残っているため「自分の目的のためにベルとヘスティア様を付き合わせてられない」という至極真っ当な判断はできるものの、意思の炎を燃やしているヒルダを止められる者はいない。それこそ、当事者であるヘグニか母親でなければ止められないだろう。
ヒルダは自身を産んで、育ててくれた母親がこの世で一番大好きだった。愛されている自信があったし、ヒルダもまた母のことを愛していた。
なので、母の愛したヘグニが母の愛を受け取るのも当然のことだと考えているのである。
傲慢な程に家族の愛を疑わないヒルダは、母の愛のために父親を超えることを決めたのだ。