世界から音が消え、自分の呼吸の音と背後から怪物が迫ると音だけが聞こえた。視界の端には歯を食いしばり、瞳に恐怖を湛えながら走る姿が見える。迫り来る死の音にお互いを気遣う余裕もなく、少年と少女はただ走り続けた。
ダンジョン五階層で起こった異常事態。管理機関から定められた階層脅威度において中層最高ランクのモンスター、ミノタウロスが上層に現れたのである。
油断していたとしかいえない。ダンジョンに潜り始めた頃に抱いていた警戒が知らずのうちに緩み、危機感は薄れて、自分たちならいけるだろうという慢心が、二人を死に追いやろうとしていた。
下級冒険者ではどう足掻いても勝ち目がない怪物に、情けなくも背を向けて走ることしかできない。体を支配するのは死への恐怖で、一歩足を進めるごとに脳内で自身が背後の化け物に八つ裂きにされている情景が鮮明になっていく。
終わりはあまりにも呆気なく訪れる。多くの冒険者がダンジョンで命を落としたように、数秒後には二人の駆け出し冒険者も物言わぬ存在になっているのだろう。
『ヴゥムゥンッ!』
ミノタウロスの蹄が地面を抉り、二人が走っていた足場が巻き込まれた。
「【森羅よ、万象よ、母なる愛の元へ帰伏せよ】!」
唱えられた超短文詠唱は過去一の速度を誇り、襲い掛からんとしているミノタウロスの行動を遅延させる。──が、それも一瞬のことで。自身の魔法が僅かな延命にしかならなかったことに、ヒルダは目を見開いた。驚愕と恐怖に体が強張る。動けなくなった少女の体の前に、庇うようにして腕が出される。
ヒルダが視線が隣の少年へと動くと同時に、ミノタウロスの断末魔が上がり、血飛沫が舞った。
見開かれる深紅の瞳が向く先を追うと、蒼の軽装に包まれた細身の女性が立っていた。
精緻な人形のような少女に息を飲む。
(剣姫……!)
オラリオで知らない者はいないほどの有名人。Lv.5の第一級冒険者、アイズ・ヴァレンシュタインが剣の切っ先からミノタウロスの血を滴らせていた。
「あの……大丈夫、ですか?」
呆然と少女を見つめるヒルダとベルに声がかけられる。その問いかけに、ヒルダは意識を取り戻し口を開く。
「だい―」
「だぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
大丈夫と伝えようとしたヒルダの言葉を遮ぎったのは、隣から響く大音量の叫び声だった。反射的に顔を顰めるヒルダの姿が見えていないのか、ベルはがばっとはね起き、全速力で逃げ出した。
「ぇ」
「……」
ベルが発してるであろう奇声がダンジョン内に木霊する。その場に残されたのは呆気にとられる少女二人と、少々離れた場所から笑いを堪えようとして堪えきれていない狼人の男が一人。少年の奇行と奇声により、先程までヒルダが感じていた恐怖はすっかりと無くなっていた。
***
「あの、ありがとうございました」
「ううん……気にしないで」
のろのろと立ち上がり、助けてくれたアイズに頭を下げる。剣に付着した血を払い、鞘にしまった少女は言葉少なに首を横に振る。
「怪我は……?」
「全部返り血なので、大丈夫です」
頭からべったりと血がついているが、これは目の前の少女が刻んだミノタウロスの血である。鼻がひん曲がりそうな匂いが自身から香ってくることに、ヒルダは僅かに眉を顰めたが、あと少しで自分が血祭りになる所だったのである。感謝こそすれ恨むなどあり得ない。
「アイズ、やめろ。雑魚に構うな」
少女の後ろに立つ狼人は先程まで笑い声を上げていて楽しそうな様子だったのに、急に不機嫌になってしまったようで、彼の舌打ちが響いた。灰の髪をかき上げ、剣呑な目つきをしてヒルダを睨む青年は、アイズと同じく第一級冒険者である。
「んだよ、文句でもあんのか?」
「……どうすれば、あなたたちみたいに強くなれますか?」
「ハァ?」
怪訝そうに寄せられる眉。こちらを見下ろす琥珀をヒルダはただ見つめ続けた。
「…‥強くなりてえ、なんてほざいてる雑魚には無理だな。とっとと冒険者辞めちまえ。てめぇらみたいな奴を見ると反吐が出る」
「ベートさん」
答えになっていない上に暴言を吐かれ、ヒルダの目が見開かれる。咎めるように狼人の名を呼ぶアイズと自身の顔をまじまじと凝視する黒妖精の少女を一瞥し、ベートは鼻を鳴らした。
上まで送っていくというアイズの申し出を丁重に断り、ヒルダは一人地上へと続く道を歩いていた。冒険者達は真っ赤に染まり、異様な匂いを放つヒルダとすれ違って、ぎょっと目を丸くし二度見をしていたが、少女に声をかける者はいなかった。
疲労が蓄積した体を引きずって、冒険者のための公共施設の一つ、シャワールームへと入ったヒルダは装備を脱ぐこともせずに、シャワーの水栓を捻り頭から冷水に当たり始めた。
固まっていた血が溶け、赤黒く染まっていた髪が元の紫銀を取り戻し、代わりに赤く染まった水がタイルに広がっていく。
ぼたぼたと落ちていく水に瞳を閉じた。瞼の裏に先程起こった出来事が浮かび上がる。
三階層から一気に五階層まで突っ切って、到達した瞬間にミノタウロスに遭遇。襲い掛かる怪物から逃げ出し、醜態をさらした。なんて情けない。自身の姿を振り返ると滑稽で、どうしようもなく弱い自分に溜息が出る。灰の狼人の言葉が脳裏を過る。彼の言う通りだ。足りなかった。覚悟も力も、何もかもが。
あの人であればミノタウロスなんて一瞬で斬り伏せる。例え自身の力が及ばない敵だとしても、立ち向かうはずだ。そうでなければ、Lv.6という高みに登れるはずがない。もっと、もっと強くならなければ。
冷え切った水とは温度の異なる液体は少女の頬を伝い、シャワーの水と共に流れていった。
今日の出来事で、自分がどれだけ甘い考えを持っていたのか分かった。今以上に努力しなければいけない。全てを使ってでも、彼を越えなければいけない。
強くなりたい。強くならなければいけない……いや、なる。
付着した血液を全て洗い流したヒルダは思いを新たに再びダンジョンへと向かった。
その日、ヘスティアは眷属二人に発現した希少スキルを目にして、その小さな頭を抱えることになる。
《スキル》
仁愛献身(エルスカ・フレーゼ)
早熟する。
愛が続く限り効果継続。
愛の丈により効果増幅。