「……先生?」
にゃーお。と、彼の代わりに、か細い声が返事を寄越した。
私の手元で餌を食べていた筈の子猫は、小動物特有の浮気性で、足音の方向へと忍び寄ってゆく。
「カヨコだ。こんにちは」
彼は私の名前を呼んで、小さく挙げた手をゆらゆら。
ざあざあと降り注ぐ雨の中。濡れたスニーカーで水溜りを蹴飛ばして、静かに歩み寄ってくる。
「この子の世話をしてるの?」
「ううん、世話って程じゃない。うちにはそんな余裕も無いし……。でも、お腹空かせてそうだったから、ね」
彼は安物のビニール傘を畳んで、足元に擦り寄る猫を抱き上げた。
とても嬉しそうなみゃあという声が、はっきりと聞こえた。黒い猫は濡れた毛並みを震えさせて、彼の腕の中でご満悦な様子。すらりとしてそれなりに身長のある彼の肘の高さは十分に高いだろうに、呑気なものだ。
「……濡れちゃうよ?」
「もう猫ちゃんは濡れてるから、良いかなって」
「そっちじゃなくて。先生の方」
「ああ、そういうこと。カヨコは良い子だね」
彼はそう言って、猫の顔に鼻を近づける。
心底愛おしむように、目を瞑る。
──それを見ていながら。
とてもつまらないことだとは思うけれど。
そう言われたかったわけではないけれど。
彼がそこで、優しいという言葉を使わなかったことが、妙に気にかかった。
「それにしても、この子は人懐っこいね」
「……うん。人馴れしてる。もしかしたら飼い猫だったのかもね」
そんな胸中を押し留めながら、答える。
お世辞にも綺麗とは言えない黒い毛並みを撫でていた彼は、少しだけ表情を曇らせる。
「捨て猫ってこと?」
「分かんないよ。そうかも、って思っただけ。私にも懐く子は珍しいからね」
私の顔は怖いから。
言外に覗かせたその自虐を、彼は見透かして、笑う。
「そうなの。カヨコは可愛いから、猫にも好かれるものだと思ってたよ」
からかっているのか、本気で言っているのか、判然としない口調だった。
「……怒るよ」
私は彼と特別親しい訳では無い。
今出会ったのも偶然だ。
だから。
彼が私をどう思っているかは、全くと言っていいほど分からない。
一緒にライブに行ったりはしたけれど、隣で観ている彼は、あまり趣味が合うようでは無かったし。
私が彼に抱く印象が薄いのと同じで。
きっと彼だって、私のことはなんとも思っていないんだろう。
「あっ」
「あっ」
そんな気まずい沈黙に、耐えきれなかったのかもしれない。
彼の腕から不意にぴょんと飛んで、猫は走って行ってしまった。
たちまち彼の首が折れて、微かに白い溜め息が宙に溶ける。
「……ごめん」
「なんで謝るの。……別に怒ってない。先生もやっぱり、私の顔が怖いって思ってるんでしょ」
「違う違う。油断したから、申し訳ないなって思って」
「猫は気分屋だから仕方無いでしょ。私の飼い猫ならともかく、そういう訳でもないんだからさ」
「……それもそっか」
何故だか寂しそうに言って、彼は傘を手に取る。
もうとっくに彼は頭からびしょびしょんなのに、ばさんと開く。水滴が拍子に飛び散って、きらきらと光る。
「……カヨコはこれから何処に行くの?」
「私? 事務所に戻るよ。先生は?」
「そっか。私もシャーレに戻ろうと思っててね。帰りがけなら夜ご飯でも一緒にどうかなって思ってたんだけど」
「……そういうのは、きっと私以外の子に言ってあげると喜ぶよ」
先生のことを好きな子は、いっぱいいるから。
「カヨコは嫌だった?」
「嫌じゃないけど……もったいないよ。色々」
「そっか」
逆光に陰って、その表情は見えなかった。
「じゃあね、風引かないように気を付けて」
淡白に手を振って彼は帰ってゆく。
暗い路地裏から、まだ少しだけでも光のある表通りに向けて、歩いてゆく。
「……ふう」
そんな彼を見送って、反対方向に歩きながら。
私は、──私が言った「勿体無い」を、彼がどう解釈したのか、それが少しだけ気になった。
彼の言葉の使い方や考え方は、どうにも、他の人とは違っているように思えたから。
▲▼▲
人通りは少なくて。
だから、その人影は一層目立って見えた。
「あ、先生」
「久し振りだね、カヨコ」
しとどに雨の降る夜の街。
夜景と言えるほど綺麗でもない、下品な光。黴の生えたような蒸れた匂い。あまりロマンチックな気配を見せない世界で、彼は相変わらず胡散臭く笑っている。
「何やってるの?」
「ヘビメタバンドのライブ帰り。席が割と空いてて、焦らなくても混雑しないから、のんびり帰ろうかなって」
「それでおめかししてるんだ。……ライブかあ。好きだねえ。私も呼んでくれたら良かったのに」
一緒に行ったときには、しきりに耳を押さえてたくせに。
少しだけ嫌なことを思ってしまって、すぐに溜息を吐く。これは私の悪い癖だ。彼の悪癖のせいでもあるけれど。
「付き合わせるのも悪いかなって」
「まあ、一人で行くのも良いよね」
ほら、あんまり行きたいって思ってないんじゃん。
「そういえば、一昨日くらいにあの黒猫いたよ」
「……ああ、あの子ね。元気だった?」
「またこっちに寄って来てくれて嬉しかったよ。私には猫に愛される特性があるのかも」
当然みたいに私の隣を歩きながら、言葉通り、彼は心底嬉しそうだ。
私のバンドよりも、猫の方が好きらしい。
「それにしても、今日のカヨコは大人っぽくて可愛いね」
「またそういうこと言う」
「ピアス穴空けてるんだ。可愛いね。私は怖くてできないんだけど」
「何それ。子供じゃないんだから」
「子供に言われた……」
今日着けてるのは、銀色のリング状のもの。
「でも。これの価値が分かるんだったら、空けても良いかもって、思うよ。お目が高いね」
私の、お気に入り。
あんまり高価では無いけれど。
「そうかな。私はなんでも可愛く見えるからアレだけど」
「……へえ」
「カヨコのセンスに合ってるのかな。カヨコが着けてるものは全部可愛い気がするよ」
「ああ、……そういう意味」
やっぱり、私と先生は噛み合わない。
逆に、わざとらしいおべっかだって分かるくらいだった方がマシだって思うくらい。
「……先生は」
「うん?」
「先生は、今日はどんな用事があったの?」
もう容姿を語られるのには体力を使い過ぎるから、私は話題を変えることにした。
「私はカヨコに会いに来たんだよ」
「……」
「ごめんって。今日はゲヘナの風紀委員に用事があったから。あんまり私必要無かった気もするけどね」
そっか。
やっぱり先生はダブルスタンダード。
いつも、その時目の前にいる生徒に対して、まっすぐで。
私が今ここで彼と別れたら、すぐに他の誰かのことを考え始めるんだろう。
「頑張ってるね」
「私なんかより生徒の皆の方がよっぽど偉いよ。私は自分でやりたいことを選んでる訳でもないからね」
そっと彼が空を見上げる。
私も、目線だけでそれを追いかける。
曇った空は、ただ黒いだけ。何も特別なことはない。
「ご飯、一緒に食べる?」
「遠慮しとく。ワンドリンク制だったんだけど、結構量があったんだよね。お腹空いてないや」
「そっか」
それから、便利屋の三人の話をぽつぽつとした。
彼はじゃあねとまた遠慮がちに手を振って、駅の方へと帰っていった。
相変わらず、しとしと、じめじめと、煮えきらない雨が振っていた。
彼の骨の歪んだビニール傘を、なぜだか小さくなっていく背中に似ていると思った。
「外しとこうかな。落としたら大変」
ぼうっとそれが消えていくまで見守って、重たい金属の塊を耳から外してポケットに仕舞い、歩き出す。夜の明かりはいっそう小さくなって、目先もおぼつかない。
イヤホンで耳を塞ぐ。
喧騒で脳を潤す。
ライブは終わった。
もう、重低音が身体を貫いてゆくことは、暫くない。
非日常の終わりは、妙に寂しい。
その寂しさを嫌いじゃないと言えるほど、私は成熟していない。
「はぁ……」
憂鬱に身を浸しながら、上着の中で手を握る。
他人の目からも可愛く見えるらしいピアスを、ずっと握りしめている。
聴こえる歌詞は遠くでぼやけている。
▲▼▲
かっこっ、かっこっ、かっこっ、かっ、
たっらららっ。
不意に、店内放送がシンコペイテッド・クロックを流していた。
だから、嫌な予感はしていたけれど。
「うわ……こんなに……」
買い物を終えて、ショッピングモールから外に出ると、土砂降りの雨が降っていた。
最近の天気予報は、あまりあてにならないみたいだ。悪くもない誰かを非難したくなるくらいには、気が滅入る。
「……」
黙考。それから、スマートフォンを取り出して、雨雲の行先を調べてみる。
「十五分……」
なら、わざわざ濡れなくても良いか。
傘を買う必要も無い。
「あ、カヨコだ。元気?」
そう思って、引き返そうとしたところで。
聞き馴染みのある、声がした。
「雨宿り中?」
相変わらず、女性みたいに細い身体の先生だ。
「……目立つね、先生は」
「そう?」
彼の髪型は艶のあるストレートな黒髪を首の辺りで斜めに綺麗に切り揃えているという、とても癖の強い造形に仕上がっている。割とミュージシャンにいてもおかしくないくらいだ。
こういうことを言うと失礼かもしれないけど、こんな姿で「ピアス穴が怖い」なんて言うのは、やっぱり変だと思う。
「傘、持って出てなかったんだ。こんな雨が来るなんて、予報じゃ言ってなかったから」
「そうね。私が今傘を持ってるのは奇跡に近いし、気持ちは凄く分かる」
彼がそう言って彼が示したのは、前まで使っていたビニール傘とは違った傘だった。
それはまっすぐで歪んでいない、黒い蝙蝠傘。
「丁度、生徒からもらったところなんだ。可愛いでしょ」
「可愛い……かはさておき。似合うと思うよ」
黒いスーツに黒い傘、妙に怪しい風貌。
全部揃えばあんまり堅気にも見えない。
まるで私みたい。なんて言うのは、あんまりにも自虐的で、あんまりにも傲慢だけど、そう思う。
「ありがと。で、カヨコも入る? 今日はもう予定無いから、送るよ」
良いよ。悪いし。十五分待てば、どうせ止むんだから。
そう言うのは簡単だった。
きっと、そう言った方が簡単だった。
「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「‼」
だけど、少しだけ思うところはあって。
少しだけの勇気と共に、私は否定の代わりに肯定を口にする。
「……自分から誘っておいて、そういう反応する?」
「いやごめん。嫌がられるつもりで言ったもんで」
「嫌がられると思うならやめればいいのに」
「そういう訳にはいかないんだよ」
はい、と、彼は傘をこちらに差し出した。
ばたばたと音を立てる天蓋に入って、彼の隣。
──濡れちゃうよ?
──もう猫ちゃんは濡れてるから、良いかなって。
一緒に濡れてはくれないんだね。
「……あの猫の時みたいに、さ」
「どうかした?」
「ううん。なんでも」
「そういえば身体冷えてない? コーヒーか紅茶、飲む?」
「あのさ」
「はい」
「この辺に、私が好きな喫茶店があるんだけど。寄ってく時間ある?」
「あ、無視された訳じゃなかったんだ。良かった、流石に懲りろって思われたかと」
「思ってたよ」
そっと、彼のスーツの裾を引っ張る。
「あっち」
「楽しみ」
「そう。きっと気に入るよ」
私より少しだけ背の高い彼を、仰ぎ見る。
「……懲りろって、ずっと思ってた。けど」
彼は少し藍色が入った瞳でこちらを見つめ返している。
それがちょっと眩しすぎて、ふいと視線を逸らした。
「なんか、……私も変に意地張るの、つまんないなって思ったから」
溜息混じりの言葉。
彼は少し、嬉しそうに見えた。
「ね、嫌がられても突っ込む意識って大事でしょ」
「……こんなので根負けするの、私くらいだから。あ、ここだよ」
「あら、綺麗な胡蝶蘭。軒先にあるだけでなんかポイント高いね」
「ね。雰囲気良いでしょ」
からんからんと、鈴が鳴る。蝶番が軋む。
乱雑に濡れた傘を閉じて、傘立てに突き刺した彼の後ろを着いて入る。その更に後ろの雨脚は、一層強くなったみたいだった。
▲▼▲
「君、何してるの」
「……あー」
雨雲。
それが一層影を強めさせる、そんな路地裏で。
知らない大人が、私に声を掛ける。
「……、…………、……」
右から左に言葉を流している間に、聴こえた言葉をちょっとずつ繋ぎ合わせる。
どうも、私を怪しい薬の売人か何かだと勘違いしているらしい。なんだそれは。
ただ、そういうふうに誤解されるのは、慣れている。
それを解く方法があまりないことも、だから知っている。
でも、これに限っては仕方ないと思っている。
──はあああああ!!!? そんなことでカヨコさんにケチつけたんですか!!!? バカなんですか!!!? ほら、謝ってください!!! 私にじゃありません、カヨコさんに!!! え、良い? 良く無いですぅ!!!! カヨコさんが良くても私が良くないんですぅ!!!!
私は、変に同情されたいとも思わないし、わざわざそれに怒りを覚えるような大袈裟な人間とは趣味が合わないと思う。
勿論、そういうのが特段嫌だというわけではない。ただ、そんなことで人を責めないであげて欲しいって思いの方が強い。特段嫌味な言い方をされたということもないなら、だけど。
私が不愉快な思いをしたことってことは、そんなに重要なことじゃない。
大体、私だって自分で怒る能力くらいはある。
肩代わりされる必要はない。赤ちゃんじゃないんだから。
「…………‼ …………、……」
私は悪いことをした訳じゃない。
その上で、相手も悪くない。職務があるのだから。
仕方ないのだ。
私がこの顔で生まれたのが、強いて言うなら悪いんだし。
「あら、カヨコだ。何やってるの?」
「先生だ」
そうやって思っていると、不意に私を呼ぶ彼がいたものだから。
殆ど反射で、声を出していた。
「というか珍しい組み合わせ。そっちの刑事さんも久し振りですね」
「彼女とはお知り合いですか?」
「カヨコは私の愛する生徒ですが、何か?」
「そういう言い回しをされると貴方を引っ張っていく必要が生まれるっていっつも言ってるでしょう」
「……先生って、いっつもそういうこと言ってるんだ。他の娘にも」
「……僕、邪魔ですかね?」
「違うの、そういうのじゃないの、そういうのになったらもう逮捕で良いですから。いや、まあなんか別に悪いことじゃないらしいですけども」
「いや、脱線し過ぎましたね。カヨコがどうかしましたか?」
三つの傘が、せわしなく密集している。
雨がしとしとと降り続けている。
「いえ。こんな場所に一人でいたものですから、何かいかがわしいことでもあるのかと」
「え。カヨコ? えっちなことしてんの?」
「はぁ……。してないよ……」
「そういうのではなくてですね?」
「じゃあ誤解でしょ」
「……私のこと、なんだと思ってるの」
「まあ、シャーレの先生が言うなら信用しますが……では一体何をしていたのです?」
彼はきょとんとしてこっちを見る。
もうなんだかこれからの展開が察してしまって、溜息が出る。
「猫ちゃん?」
「そう。……今日はいないのかなって、思っただけ」
結局、先生立ち会いのもと手荷物検査をして、それで終わりだった。
身分証明が実は結構危うい立場だから、割と本気で助かったと言える。
「カヨコ、いかがわしいもの本当に持ってない? 見せたくなかったら私にだけ見せてくれたら良いからね?」
「……」
「……」
「ありがとうって、素直に言わせて欲しかったよ」
「ごめんって」
二人で並んで、静かな街を歩く。
「でも、真面目な話。ああいうことがよくあるんだったら、すぐに電話でもなんでも私を呼んでね」
「……わかった。怖がらせてるのはこっちだしね」
「私はカヨコのことは可愛いって思ってるけど、まあ当然そうじゃない人もいるのも、また仕方の無いことだからね」
彼の足取りは、不自然に一箇所に向かっている。
わざわざ追求する理由も、それをやめさせる理由も無いから、私も黙って着いてゆく。
「そんな世界だからこそ、私は何回でも言うからね。カヨコは可愛いって」
「……もう、良いから」
「良くないよ。それに、怪しそうな人に声をかけるのがあの人の仕事なんだとしたら、私は同じように私の使命を全うする必要があるでしょ?」
「……私が可愛いって言い続けるのは、使命なの?」
「カヨコは可愛いからね」
水溜まりを避けて、彼は歩いている。
きっとそれは。──私が隣にいるから。
「……やっぱり、ありがとう」
「どういたしまして。またいつでも頼ってね」
ひらひらと、気障っぽく手を振る。
そんな彼の距離感が、心地良く思える。
末期だ。
「じゃあ、入って」
そうして、喫茶店に辿り着く。
軒先には、少し萎びた胡蝶蘭が揺れている。
「いらっしゃい、カヨコちゃん。……お。今日も先生と一緒か」
「こんにちは、マスター。お久しぶりです」
「また来てくれて嬉しいよ」
「いえいえ。私もここの紅茶に会いたくて仕方が無かったもので」
薄暗くて、静かで、狭いけれど、どこか安心できる。
そんな喫茶店。
綺麗な花があって、意味の無いだろうアンティークが無作為に並んでいるだけの机。料理、茶菓子、珈琲、紅茶。それらが立てる蒸気。理屈もなく、ただただそれらが、妙に愛おしい。
客足は多くない。今も私と彼しかいない。
便利屋の皆すら知らない場所。
私が、独りになりたいときによく来る場所。
「今日は何を?」
「前はナポリタン食べたし、今回はアイスティーとオムライスにしよっかな」
「……私はブラックコーヒー」
「それだけ? 私が奢るから、何か食べない?」
「……じゃあ、お言葉に甘えるよ。何にしようかな」
「今は期間限定で白桃のタルトが入ってるよ」
「へえ、良いじゃん。それにする」
「じゃあタルト二つで」
「……もう。食べ過ぎだよ」
彼は子供みたいにはしゃいでいる。
この空間を壊さない、絶妙なダウナーさで。
指二本を立てて、細目が笑う。
「良かったね、カヨコちゃん」
「……どうしたの?」
犬の店主は、私にだけ聞こえる声で言った。
言うだけ言って私の質問には答えず、台所へ戻っていった。
「観葉植物もお花も、綺麗に手入れされてるな……」
「先生って、結構花が好きなんだね。ハルカ……とは、ちょっと違うか」
「ハルカのアレも凄く良い趣味だと思うよ。……ん、なんか文字面通りに受け取られない言い方になったな?」
「それくらいは分かるよ」
「花くらいなら、自分で育ててシャーレに置いてみたりできるんじゃない?」
「私の管轄外で置いてる子は結構いるけど、私個人では育てたくないんだよね。見るのは好きだけどね」
「へえ。なんで?」
「ペットもそうだし、花とか植物もそうなんだけど、どうしても私より先に死んでしまうものだから」
窓を伝う水滴をぼんやりと二人で眺めながら、静かに会話をし続ける。
彼の声の調子は変わらない。
ずっと、低空飛行。
「私は、そういうのを引きずってしまうから。好きになったものが目の前で壊れたり、死んだりっていうのが。コップを割るのですら、私には駄目でね」
「……そうなんだ」
「こういうところを割り切れる性格じゃない人には──無機物はともかく、命を預かる資格は無いと思うんだよ。植物も、動物もね」
私が、それに返事をしようとする前に。
お盆に載った料理が運ばれてきて。
彼は綺麗な瞳を取り戻し。
無邪気に写真を撮って、とても美味しそうに食べ始めた。
「そういう写真、SNSに上げるの?」
「いや? そういうのはやってないよ。疎いから」
──彼を目の前に、飲み慣れたブラックコーヒーを口に含む。
「先生、ちょっと砂糖取って」
「はいはい。どうぞ。あ、カヨコもオムライス一口食べる? 絶品だよ、ほんとに」
「先生は本当に美味しそうに食べてくれますね。作った甲斐があるってものです」
「実際に美味しいんですもの」
ケチャップ味のご飯を嚥下して、少しだけ甘くなったコーヒーを一口飲み込んだ。
言おうとしていた、自分でもどんなものだったのか分からない言葉が、喉を流れてゆく。
苦かった。
「美味しいね、カヨコ」
「……そうだね。先生」
▲▼▲
「最近、ずっと雨……依頼が来ない……」
「別にそれは関係ないでしょ? 雨でも晴れでも依頼は来ないじゃん?」
「それは……そうね……」
「う〜ん、アルちゃんほんとに弱ってるね〜」
「仕方ないでしょう……? だってここ最近……殆ど何も食べてないんだもの……」
「私、ちょっと買い出し行ってくるね」
「行ってらっしゃい……あの……できたら、私にも食べ物が欲しいのだけれど……」
「あれ、カヨコちゃん、耳のとこ変えた? 可愛いね」
「……目敏いね、ムツキは」
傘を差す。
雨の街へ繰り出して、コンビニに入る。
買えるものはあまり多くないけど。
「……」
ぐるりと回って歩いてゆく。
店を出て、好きでもない街を歩いてゆく。
雨の中を、ゆっくりと。
「……」
路地裏に入る。
黒い姿を探す。
そこには数匹の猫がいた。
黒猫はいなかった。
「……」
少しだけそれらと戯れて、立ち上がる。
「帰ろうか」
今日は、そういう日だった。
▲▼▲
「…………先生?」
見覚えのある黒い蝙蝠傘が、こんな大雨の中、丁寧に畳まれて壁に立てかけられていた。
それを持って、路地裏に入る。
そこには。
暗がりの中、ビルの外壁と室外機に挟まれた背中が、ぽつんと一つ。
しゃがんで、何かを見下げている。
「…………カヨコ。……」
雨音に掻き消されて、続く声は聞き取れなかった。
或いは、何も言えなかったのかもしれなかった。
「カヨコ」
いつもいつも、元気で、よく通る声をしていた筈の彼が、雨音にすら負けるような、掠れるような声を上げている。
それは、どれほどの違和感か。
どれほど、私の心を翳らせるか・
「先生。濡れちゃうよ」
「もう手遅れだから、別に」
「……どうしたの? 何かあった?」
彼は一度も振り返らない。
ただ、ぼたぼたと全身から雫を垂らしている。
スーツの濡れ具合から見るに、よっぽど長い時間そのままの姿勢でいたらしい。ぴくりとも動かない彼の姿は、血の通っているものとは到底思えなかった。最早、ただのオブジェクトとそう変わらない。
「カヨコ」
「うん」
「……この辺にどこか、静かな場所はあるかな」
聞き取りづらい小さな声で、彼は言った。
立ち上がったその腕の中には、黒い猫だったものが丸くなっていた。
「轢かれたのかな。私が来たときはもう死んでた」
ずぶ濡れになりながら、彼は歩く。
「あそこに来る途中で轢かれたのか、死にそうになって、やっとの思いであそこまで行ったのか……」
使われもしない蝙蝠傘を持って後ろを着いてゆく私には、少しも目線を向けない。
多分、何も見ちゃいない。
「……ごめんね、カヨコ」
「……先生は悪くないでしょ。仕方ないことだから」
「多分、私は──カヨコを待ってた。あんな格好で動かないまま、カヨコに慰められたかった。……そうなんだろうなって、思ってる」
やはり、彼は私の前に立って、俯いたまま歩いている。表情を窺い知ることはできない。何をどう思ってそんな言葉を吐いたのかも、分からない。
「……それって、悪いことかな」
「自分でやっといてなんだけど、こういう傷付いてますよー、みたいなアピールは、気色悪くて仕方ない」
先生の口からそんなに強い言葉が出るのは珍しい、気がする。
新鮮過ぎてびっくりする。
猫が死んだことを危うく忘れるくらい。
「……あとね、純粋にね」
まあ、やっぱり忘れっぱなしではいられなかったけど。
彼は続けて、こう言ったから。
「カヨコには見て欲しくなかったんだよ。この子の死体なんて」
「猫は死期を察したら自分で消えるって言うでしょ。カヨコのためにも、この子のためにも、そっちの方が良いのかなって思ってたんだ」
「……ここ?」
「うん。森……っていうか。なんか、ね。変な場所だよ」
鬱蒼とした木々の群れ。
市街地を、少しだけ外れた一区画。
何のためにあるのか分からない場所。
「……車通りは無いけど、人は結構来るんだよね、ここ。人懐っこいこの子も、轢かれる心配の無い場所で、沢山の人と一緒にいられるのかもしれないよ」
「……それは、好都合だね」
濡れた土を、素手で彼は掘り返し続けた。
私には一切手伝わせないで黙々と作業をするものだから、時間がどれだけかかるかと少し不安だったけれど、──あまり大きい猫でも無かったから──果たして、五分くらいで小さな穴ができた。私は後ろで意味もなく傘を差したまま、見守った。
彼は丁寧に、愛おしむように、慈しむように、猫を埋葬した。
「カヨコは、何か言ってあげたいこととかある?」
二度と目を開かない黒猫に土を被せる段になって、少しだけ聞き取りやすくなった声で、彼は私にそう言った。
私は彼と入れ替わると、その場にしゃがんで、彼に聞こえないくらい小さな声で二、三言、お別れの挨拶をした。
彼はそれ以前もそれ以降も、ずっと黙っていた。その両手はぼろぼろに傷付いていて、それは私が気付かなかっただけで、多分、あの路地裏に居たときからそうだったんじゃないかな、なんて思う。
「……ご飯、食べに行こっか」
「この格好で入れる場所、あるかな……」
「一回着替えるなりなんなりしようよ。事務所寄ってシャワー浴びよ」
「……うん。そうする」
今日になって初めて、彼がこっちに視線を向けた。
沢山の雫をぼたぼたと溢しながら、髪は崩れて、赤いような青いような白いような顔色で、彼は引き攣ったみたいに笑っていて、
「……先生は優しいね」
「そうかな……」
私は、本心からそう思った。
「こういうのって大丈夫? あの刑事さんに見つかったら多分逮捕されるよ?」
「気にしないで。あんまりキャピキャピした趣味じゃないし、違和感無いよ」
「そ、そう?」
「線細いしね。ねえ、先生は女装に興味ない?」
「先生としてよろしくないよそれ」
先生に私の服を貸して、傷付いた手を軽く消毒して、それから二人でご飯を食べに行った。
スーツと髪型を取っ払った彼はただの美人だった。
蝙蝠傘が似合う、柔和で綺麗な人だった。
大きなピザを一つ頼んで、二人で食べた。
彼は子供みたいにジンジャーエールを飲みながら、大きな口でピザ頬張っては、やっぱり子供みたいにぼろぼろと泣いた。
先生が泣いているのを見たのは、先生が好きだったというアーティストが活動をやめたとき以来だ。
少しはその人の音楽を知っていた私は、彼に付き合って、一緒にそれにかこつけたコラボカフェに行った。
彼はそこでもちょっとだけ泣いた。その時は可愛い一面もあるなと思ったくらいだったけれど、
今は、……少し羨ましい。
「……餌付けでもしてあげれば良かったのかな。何なら、飼ってあげるべきだったかな」
「先生が選んだことでしょ。選択したことは何も間違ってないし、……あの子にとっても、無責任に拾われるより、よっぽど良かったんじゃないかな。まあ、先生は結構無責任に女の子を誑し込んでるみたいだけど」
「そんなつもりはさらさらございませんが……」
店員の眼がどんどん怪しい者を見る眼になっている。けれど、それは気にしないことにした。
ただ、彼を見る。
先生がいつもそうしているみたいに、他者を置き去りに、目の前の人に心を砕いてみたいと、そう感じたから。
「……あの子はね、先生」
安っぽくて脂濃い生地を飲み込む。
こういうのも、たまには悪くない。彼と一緒なら。
「きっと、私たちが知らないだけで、沢山思い出の場所があったはずなんだよ。でも、最期の死に場所に選んだのは、先生の目の前だった。それはきっと──私や先生のことを好きでいてくれたからだと思うよ。あの子は先生のせいだなんて、きっと思ってない」
それを、エゴに塗れた考えと捉える人もいるだろう。
先生の涙だってそうだ。彼にその資格は無いと思う人も、いるかもしれない。
私はそれを否定できるほど、偉くない。
人間は小動物の前ではどうしても正気ではいられない。勝手に自分の言葉を代弁させたり、自分の都合で好きになって、自分の思い通りにいかなくて嫌いになったりする。そのスタンスは人によって違って、私の好きなものも、嫌いなものも、どちらもある。
私は、彼の愛し方を尊敬している。
自由を奪うことなく、ただ愛しく思い続けて寄り添おうとした姿を、誰が詰ろうと、愛している。
「だから、後悔はしないであげて」
帰って、私もちょっとだけ泣いた。
猫が死んだこと自体は仕方の無いことだったと割り切ってはいたけれど、記憶の中でとても嬉しそうにあの子と戯れていた先生をぼんやりと思い浮かべていたら、ほんの少しだけ、涙腺に来るものがあった。
また、その涙を、少しだけ嬉しいと思った。
それは決して褒められたことではなかったかもしれないけれど──彼と同じような優しさが、私の心に少しでもあればいいのに、ということは、ずっと思っていたことだったから。
『今日はごめん。また服は洗って返すね』
──はずだったのが、彼からそんなモモトークが来て、性懲りもなく礼ではなく謝罪をのたまうこの男に真剣に説教をしてやりたくなって、私の感傷は全部まとめて引っ込んでしまった。
『そういうときは先にお礼を言うものだよ』
『それもそうだね。ありがとう、カヨコ』
『服も、また手が空いたときで良いから』
『愛してる。おやすみなさい』
「…………はぁ」
……次会った暁には、この男を絶対に殺そう。
ベッドの中で、そう決めた。
▲▼▲
『おはよう。今日予定通りにそっち行くね』
モモトークに届いた通知を、無感情に見下ろした。
『おはよう。久し振りになるね』
打ち込んで、消してしまって、結局、既読だけを返した。
目覚めたてで潤んだ視界はぼやけて、何も像を結ばない。
窓の外には静かな雨音。
それ以外に何も音の無い筈の部屋を、何故だか雑音が支配しているように思えて仕方がない。
「……、あー」
今日、駄目な日だ。
ぴしりと頭蓋に走った亀裂を押さえながら、呆然と呟いた。
声には出なかった。喉が動いただけで、発せられる音は何も無かった。
傘を差すのも億劫で、街を歩く。
何の理由もなく、全てを投げ出したくなる日がある。
希薄な希死念慮に支配される。私のプシュケーが剥離して宙を舞っているかのように、身体が重くて卑しくて。
特段の理由があるのではない。強いて言うなら、今まで少しずつ溜まっていた自己嫌悪の負債が、いっぺんに溢れているからだろう。
いや、きっと──それは嘘なんだろう。
今日に限っては。
「カヨコ」
「先生、おはよう」
「……濡れちゃうよ」
「今日は、そういう気分だから」
昼だというのに人気のない道端で、私の視界に映るただ一人は、とても分かりやすく困惑していた。
「どうしたの? 何か、あった?」
かつて無い程に優しく、彼は問うてくれた。けれど、私はそれに対する答えを持っていない。
だから、ちょっとだけ笑って見せてみる。きっと、無様な顔をしているだろうと思いながら。
「……喫茶店の話、聞いた?」
「うん。マスターがもう体力が厳しいから、休みを増やすって……」
「行ったんだ。……誰かと一緒に?」
「ううん。カヨコを呼ぶ時間が無かったら、いっつも一人で行ってた。あんまり、人に薦めたいとは思わなくて」
ゆっくりと距離を縮めながら、私は歩く。
彼に向かって、真っ直ぐと歩く。耳朶を打つ彼の声だけが、今この場で唯一、私を愛撫してくれる。
「先生も、そう思ってくれたんだ。……嬉しい」
私は掛け値なしの本音でそう言って、彼の目の前に立った。傘には入らない、ぎりぎりの距離を保って。
彼はますます困惑した様子だった。私の服が入った紙袋を腕から提げて、棒立ちになっている。
「……カヨコが」
「うん」
「あの喫茶店を、私に紹介してくれて、凄く嬉しかったんだ」
彼は、一歩前に出た。
もう十分に濡れている私を、傘に入れてくれた。
「気に入ったのは勿論そうだけどね。それ以上に、きっとカヨコには、あの場所の静かさは──癒しというか、心の拠り所みたいなところなんだろうなってことは、すぐ分かったから」
「……うん」
「私も、そこに居て良いんだって。カヨコがそう思ってくれたかは分からないけど、」
「そう思ってたよ」
彼のネクタイを手に取った。
それが、私ができる精一杯だった。
「……先生のことは、あんまり好きじゃなかった。今も、そうかも」
「……ごめんなさい」
「でも、信用してる。先生は私の好きな物を、私と似た尺度で愛してくれるって。先生なら、なんだか、……分かってくれるっていうのは違うかもしれないけど、……」
「うん、そうだね……きっと、私と先生の世界は共存できるって、そういうことだと思う。大なり小なり、個人の世界っていうか……価値観、かな。それをどこかで欠けさせたり、どこかで歪ませたり、それが人と関わるってことだと思ってる。だけど、先生の世界は、私の隣に並んでくれる、から……」
ここまで必死に言葉を紡いだのは、もしかすると初めてかもしれない。
私を分かって欲しいなんて、そんなことを思ったことはなかった。
分かり合えないまま、一緒に居る。そういうことの方が多くて、それが間違いだとは一つも思わない。私の今の居場所はそうやってできた大切な場所。
だけど、先生にだけは、私を分かって欲しいと思う。
何故だか、そう思ってしまう。
「……ごめん」
今までサボってきたツケか、私の言葉は不明瞭。
なんだ、個人の世界って。
「謝らないで」
それでも、彼は受け入れてくれる。
だからこそ、申し訳ないとも言えるのだけれど。
「……ごめん」
「無限ループかな、これ」
彼が微かに笑ったことが、俯いたままでも、なんとなくわかった。
私の視界にはいっぱいに、絶え間なく揺れ続ける、私を映す水溜りがあった。
「でもね。……そうやって生まれた関わりも、永遠じゃないんだって……分かってたのに」
──私と先生の間にあった繋がりは、少しずつ無くなっている。
どんどん、彼の中での私の存在が、希薄になっている。元から用事も無しに気軽に会うような関係では無かったけれど、……その用事ですら、もう作れないかもしれない。偶然出会うことも、無くなるかもしれない。
馬鹿げていると笑ってくれても構わない。
だけど、私は、本気で。
「今日、貸した服が返ってきたら、──もう二度と、先生に会えない気がしたから」
自嘲混じりに溜息を吐く。相手にはどうしようもないことを言ってしまった自分に、嫌気が差す。
言いたくない言葉。
けれど、私は、言ってしまう。貴方を困らせてしまうと分かっていながら、それでも。
だって、私の目の前に居ない貴方は、私のことを一番に考えてはくれないから……。
「……私は、もっと──先生と一緒にいたい、よ」
──不意に。
雨脚が強くなった。
私の全身に雨粒が降り注いでいた。
傘が無くなったからだ。
彼が、安いビニール傘を取り落として、私を抱き締めたからだった。
「……カヨコ」
「……」
「先生っぽいこと言っていい?」
「……先生から先生らしいこと、聞いたことないけど」
今までで一番近い場所に、彼がいる。
甘い香りと柔らかな体温を持った、彼がいる。
「古い時代の話ね。哲学っていうのは、「知恵を愛する」って意味を示す言葉だった。……飛躍させると、相手の持つ知恵とか、そこから派生した思想を尊重して愛すること、それが哲学なのかもしれないね」
「……哲学」
「カヨコの言う世界の共存っていうのは、もしかしたら原理的に言う哲学と同じかもね」
「私は、カヨコの世界を愛してるよ」
ぎこちない動きで。
私の肩に乗った彼の首に、私も腕を回した。
彼の言った言葉は、あまりピンと来なかった。
けれどそれは、普通に言われるよりも嬉しい、「愛してる」なのかもしれない──とは、思った。
「……ねえ、先生」
「何?」
「最初に、あの黒猫に会った時──先生は、私を良い子だって言ったよね」
気付けば、そんな言葉が口をついて出た。
それは、ずっと、聞きたかったことだった。
「そうだっけ? ……そうだったような気がしてきたな」
「うん。……優しいとは言わなかったのが、私には不思議だった。私、優しい人って言われるの、あんまり好きじゃないから。……なんでわかったのかな、って」
彼は私を抱きしめたまま、黙った。
沈黙が過ぎて行く。
ますます身体が湿った頃、彼はもう一度、口を開いた。
「私がそうなんだけどね」
「うん」
「どうしても溢れてしまった自嘲的な言葉には、そんなことないよ、じゃなくて──それでも好きだよ、って返して欲しい。それは、私の心の澱で、寧ろ一番本音に近い場所にある言葉だから。私を傷付ける言葉ではあるけれど、それと同時に、私を愛している言葉だから。どうか、頭ごなしに否定するんじゃなくて、そんな想いを含めて肯定して欲しいって、思う」
「何となく、カヨコはきっと、自分が優しいとは思ってないだろうなって思ったんだ。だから、そういう言葉を選んだんだ。カヨコのことを否定しないで、肯定できるように。……多分、無意識なんだけど」
今度は、すぐに理解できた。
それは──これ以上なく、私の世界に寄り添う言葉だった。
「……怖い顔してる女に、よくそこまで気を遣えるね」
「カヨコは可愛いからね」
「……やっぱり。それ、そういうことなんだ」
「……そうでもあるし、ただの本心でもあるよ」
視界が歪む。
雨粒が入らないように彼の顔に胸を埋めるけれど、それでも尚、溢れる雫があった。
「……先生の世界は、綺麗だね」
「そうかな」
「うん。……うん。先生は優しいよ」
「ありがとう」
私は、傘を差してくれる人よりも、一緒に濡れてくれる人が好きだ。
私の知らない、私の良いところを探してくれる人が好きだ。
傘を手放してでも抱き締めることを選んでくれる、そんな貴方が好きだ。
「……ねえ、先生」
濡れた身体を、もう少しだけ強く抱き締める。
もう、この場所に誰がいようが構わない。
誰が見ていたってどうでもいい。
ずっと、このまま、……。
「……カヨコ」
「────」
▲▼▲
「シャワー、一緒に浴びようか」
「……うん」
『休憩、』しに来たホテルは、なんだか清潔感と俗っぽさを両立させたような、というより堪え切れない俗っぽさに浸食されたみたいな、そんな不思議な函だった。
ベッド。避妊具。その他、色々なおもちゃ。その場にあるどれもこれもが、醜悪なものに見える。一生懸命に取り繕っている皮をべろりと剥がす為だけの装置みたいだ。率直に告げると、行列に並んでおいて暇人しかいないのかって言うようなものでしょ、と、彼は笑った。……声は震えていたけれど。
それが終わったくらいで、社長から連絡が来ていたことに気付いた。
誤魔化し方が分からなかったから、先生とちょっと休憩してるとだけ伝えた。……ムツキにはバレるかもしれない。でも、ムツキには多分、早かれ遅かれ、どこかでバレる。
一方の彼はベッドサイドにスマートフォンを投げて以来、ちらりともそちらを見ない。
……嬉しかった。
「…………どう?」
「……丁度良い、と、思う」
誘っておきながら、こんな場所に放り出されて、寒さと合わせて委縮していた私の素肌があんまり冷たくて驚いたのか、彼は念入りにお湯で私の身体を温めてくれた。
基礎体温がそもそも低いことは黙っておいたから、沢山心配してくれた。
「……」
当たり前なのだけれど。
私は誰かに裸を晒したことなんて、一度も無い。
「……緊張してる?」
「うん。……それもあるし、なんだか……貧相に見えたから……」
「……綺麗だと思うよ」
「そっ……か」
裸だと、それが嘘じゃないことがすぐに分かる。
裸の付き合いってのは、こういうことを言うのかもしれない。
「それは丸腰って意味だから……ちょっと違うかな……」
心を読まないで。
「あと、……あんまり見ないで」
「先生も見てるでしょ。……私の胸」
「……心を読まないで」
「読まなくても分かるよ……」
まあ。
二人で、付かず離れずくらいの距離でいて。
どっちも下を向いているのだから、そりゃそうとしか。
お互い様だ。……私が先生のそれを見て嬉しいと思うのと一緒。
先生も私のそれを見て、私が一定以上は乗り気だってことを理解して、安堵しているのだろうから。簡単に比較できるくらいには、私の小さな桃色は形を変えているのだし。
「……失礼なことを聞くようだけどさ」
震えた声は、シャワーと共に降ってくる。
普段沈黙を厭わない彼は、今初めて、必死に会話を回そうとしている。
「カヨコって、初めて?」
「……うん。先生は?」
胸を彼の胸板に押し付けると凄く分かりやすく背中が跳ねるのが面白くて、ふにふにと遊んでいると、
彼はいっそうぎこちない表情になって、
お湯と湯気の向こう側から、そっぽを向いて、答えた。
「えっと……。生徒相手だと、初めて……」
「へえ、そうなん……」
──?
生徒相手、では。
初めて。
「……だ?」
ということは?
ぐす。
「ああああああ、カヨコ、泣かないで。違うんだよ、外で色々あったのよ」
シャワーが止まって、彼は今まで見たことのないくらい慌てていた。
「冗談だよ。騙されちゃったね」
「嘘だ絶対嘘だ、目赤いもん……傷付いた?」
「目が赤いのは元から」
「ち、誓って言うけど、今は誰とも関係は無いからね‼」
「それはなんとなく分かってる。信じるけど」
でも。
それでも。
「嘘だったら、死んでもらうから」
「その時は大人しく、大人らしく死ぬよ」
正面から彼を見据える。
彼は、慈しむように私を見つめている。
華奢な指が、私の濡れた頬をそっと撫でた。
なんとなく、目を瞑る。
「……許してくれた?」
「最初から、別に怒ってはないよ」
言わないけど、……今のは今ので、初めてだったよ。
言ってあげないけどね。
「……ねえ、ところでさ。こういうとき、何処まで洗うの?」
「いや、私も疎いし……全身洗っとけばいいんじゃない?」
「じゃあ、そうしよっか」
「どうでもいいけど、先生ってほんとに細いよね」
「貧相でしょ。自炊してるとどうしてもこうなるね」
▲▼▲
「雑に抱いてね」
「蝶より花よりとか……そういうのは望んでないから」
「先生の時間を奪いたい、先生との繋がりが欲しい、たったそれだけの行為なんだし。無機物みたいに都合よく、レイプするみたいにして欲しい。初めてだから、ちょっと抵抗しちゃうかもしれないけど、気にしないで。私に許されてるのは、それだけだから」
「傷跡が残るくらいで良いよ」
──本気になるのが、怖いから。
私は確かに、直前になってそう言ったはず。
気持ち良くなれるなんて、これっぽっちも思ってなかった。ただ、本当に、本心で、繋がりが欲しいだけだった。そのために使える物を使っただけで、それは浅ましいにも程のある行動で、……軽蔑されるべき行動で。
痛みの罰があって、丁度良い。
そう思ってたのに。
「────っ……♡♡♡♡♡」
最初は、ちょっと痛かった。抉れるような痛みと、喪った傷心が、血液になって溢れた。
なのに、すぐに、脳髄が消し飛んだみたいな激しい電気信号が頭を貫いて、私の全てをぐちゃぐちゃにしてしまった。
「やだっ……やめて、優しくしないでっ♡♡」
「……カヨコ」
「なんでっ……やだっていったのにっ!! せんせいっ!!! ずるいっ!!!」
「気持ちいい?」
私を抱き締めて動く彼は、ゆっくりと、舐るように支配する。
──まるで、愛しているみたいに。
「やめて、ねえ、せんせいっ……♡♡♡♡」
「ごめんね。私には無理だよ」
「だって、私っ……本気になっちゃうよ……?」
「本気で好きになって、本気でずっと一緒にいたいって思っちゃうよ……?」
「優しくしないで、勘違いさせないで、甘えさせないで……っ♡♡」
「……それは無理」
私は。
よがって、眦に涙を湛えて、
彼に身体を預けて、見上げた先の視線に射抜かれて、
「私も、本気だから。だから──カヨコも、一緒に……」
ばつん、と、何かが千切れる音がした。
「……先生」
私から、控えめに、キスをした。
彼はそれを優しく受け入れて、それから私を抱く腕に力を込めた。
「愛してるって、言って」
「……愛してるよ。カヨコ」
「……嘘じゃないよね?」
「本当だよ」
何度根負けさせられればいいんだろう。
そう思いながら、私は絶頂を迎えた。それは暖かくて、満ち足りていて、幸せな感覚だった。
窓の外では、相変わらず雨が降っていた。
この部屋はそれ以上に酷く湿っていて、滴っていて、静かで、ただ居心地が良いだけの、
二人だけの世界だった。
▲▼▲
「……私、先生に大仰に恋してるとか、そんなのじゃないと思う」
「……え、急に何? ここまでしておいて?」
「でも、多分……死ぬときは、先生の隣で死にたいと思ってる。それまで、ずっと傍にいて欲しい。私が死んだら、泣いて欲しい」
隣で横たわる彼の手を握った。
「それを、人は、愛してるって言うのかな」
派手に胸を焦がす訳でも。
身勝手に想って涙を流す訳でも。
きっと無い。
ただ、貴方の隣が、世界で一番安心していられる場所だっていう、それだけのこと。
「愛してるよ、先生。責任取って、……ずっと私の世界の隣にいてね」
それだけで十分だ。
私には、きっと。
▲▼▲
夜の間中ずっと降っていた雨は、いつの間にか止んだらしい。
カーテンの隙間から、光が差し込む。
目を開く。そこは自室の薄い布団。二人分の質量を包んで、どうにも窮屈そうに見える。
「……カヨコ」
額を合わせたまま眠っている彼女の、冷淡で規則的な寝息が愛おしい。
ここには喧騒は無い。
ただ、静かな空間がある。たまに彼女が爆音で音楽を流すことはあるけれど、彼女が愛するものなら、きっと自分も愛せるだろうと思う。
首筋をなぞる。引っ掛かる部分を乗り越えて、鎖骨まで指が辿り着く。
じくじくと痛むのは、三日月の形につけられた傷跡。肩口にも同じものがある。きっと鏡で見れば赤い斑点が沢山ついている筈だ。傷跡が残るくらいでいい、だなんて、誰がどの口で言っていたのか。思い出して、小さく笑ってしまう。
「……気になる?」
「……外出歩けないでしょこんなの」
「気にしない方がいいんじゃない?」
脳まで溶かすようなウィスパーボイスが聞こえて、彼女が目を覚ましたことを知る。
「起こしちゃった?」
「まあ、動いたらそうなるよ。……仕方ない」
「外す?」
「……もうちょっとだけ、そのままでいて」
首に着けたチョーカー。
お揃いのそれは、間が一本の鎖で繋がれている。片方が動けば、もう片方の首も引っ張られる。そもそも。可動域が少ない。
「……なんだか、夢みたいだね」
「そうかな」
「うん。……昔の私に言っても、きっと信じてもらえないね」
だから。
できる動きなんて、一つしかない。
億劫そうに彼女が脚を差し込む。
布団の中で隠れた細い指を見つけて、自分の指で絡めとる。
目の前の綺麗な赤い目に落ちて行く。
「……私はね。いつかこうなる気がしてたよ」
「……そうなの?」
「というか、こうなってくれたらいいなって思ってた」
「いつからかは分からないけど。理由もなく、なんとなく、ね」
「それを愛してるって言うんだよ」
「……そうなのかな」
「先生が教えてくれたことだよ」
私は彼の耳に囁いた。
銀色のピアスが、揺れていた。
Pixivでもアルターエゴという名義で色々書いてます。文字数の目安は1万弱から2万程度です。好評なら他の生徒の共依存小説も投稿していく予定なので、評価やコメントで応援してくださると幸いです。特に感想コメント。ください。よろしくお願いします。