ブルーアーカイブ共依存短編小説集   作:人格分裂

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間宵シグレと破滅願望抱えながら酩酊する話

 白という色は、世俗的には綺麗だ、純粋だ、と言われるけれど。

 それは要は、何にも染まっていない、無味無臭で無感動で虚ろで空っぽというだけのことなのだと思う。

 綺麗ではあるだろう。汚れてはいないのだから。──汚れを受け入れる度量すら無いのだから。

 究極の自己完結。付け入る余地も別の解釈を探す余地もない。

「……つまんない」

 ──寒いのは良い。

 ──飢えているのは良い。

 そんなもの、酔っていれば全部忘れられる。後でのしかかって来ようが知ったことか。私はそれらを恐ろしいとは思わない。何故なら自分の意志で、──それが例え一時的であったとしても──消失させられるからだ、そうと知っているからだ。脳にその事実があれば、脅威には成り得ない。

 

 ただ、私にとって不都合なのは。

 窓の外を全て覆い隠そうとする雪の白。

 私の世界を封殺する、圧し潰す、どうにもできない眩い白の浸食。

 それと、孤独と退屈。

 

 これは駄目だ。

 これがあると、そもそも酔えないから。

 酔えないということは眠れないということで、

 つまりは、どうしようと逃げられないということになる。

 まあ、これがなんとも面倒だ。

 処理のできない悪感情というものは、むやみに不整脈を誘発して、私を苛苛させる。

 そう──丁度今みたいに。 

 

 

 

 窓の外では、吹雪が止んでいた。

 割れた時計をちらりと眺める。……最後の食事から、三十六時間が経過しているらしい。

「っ……ふぅ。行こうか……」

 壁に預けた背中から、全身に力を流す。

 痙攣した筋肉を縒り合わせて、ようやく立ち上がる。

 

 ゼリーを喉へと押し込んで、歩き出す。

 ……ノドカが帰ってこなくなって、既に二日が経過していた。

 

 ▲▼▲

 

 いつも死にたいなと思っている。

 ……いや、少し盛った。正確に言うなら──生きていたくないな、と、思っている。

 生きるには馬鹿げたコストがかかる。

 勿論金がかかる。ここでいう金は生活費だけじゃない。死にたくなる気持ちを軽減するための娯楽費用も含めて、だ。死にたくならないように金がかかり、それで金が減って不安になって死にたくなる。希死念慮のクソみたいな無限ループ。

 そんでもって更に、生きていく、その道には不可避のストレスが立ちふさがる。先述の不安もそう、対人関係に絡むものもそう、その癖一人でいればそれはそれで孤独感が辛い。

 なんとなく分かっていただけただろうか。

 死ぬのは怖いのだ。

 死ぬのが怖くなきゃ不安なんて感じないし、金もそうかからない。

 死にたくない。

 だから死にたい。

 生きていたくない。

 生きていたくない。

 生きていたくない。

 

 コストを払いたくない。踏み倒したい。その結果、死んでいなければ、生きていなくても良い。

 植物になりたいのかもしれない。

 

 本当は酒を飲みたいのだ。だけど、私の職業と立場はそれを許さない。

 ……それは欺瞞だ。

 それを許さないのは他でもなく私なのだ。

 

 自分で言うことでは無いのだけれど、私はまあ律儀なのだ。

 ただそれと同時に、律儀であることに見返りを求めるカスでもある。

 それが当然であるという理由で当然のような顔で当たり前に義理を通すことの出来る人間が羨ましいのである。

 人はそれを聖人君子とでも呼ぶのだろうか。

 私もきっと外面だけなら聖人君子だ。そうだったら、良いな。

 そう見られたい。褒められたい。

 なんて──聖人君子なら考えない不純な動機で、私は律儀なのである。だから余計死にたくなる。

 

 ああ、死にたい。

 私の小さな脳味噌が導く結論なんて、だいたいそれだ。

 

 

 

 だからこうして、白の山の中に立ち竦んでいる。

 

 

 ──身体の輪郭が溶け堕ちそうな感覚。

 吹雪と一体化して、塵になってしまいそうな、そんな痛み。

「……本気で死ぬかもしれん」

 灰色のロングコートを命綱に、ぎりぎりで意識を保っている。

 歯の根が合わないフェイズは超えて、もう身体がぴくりとも動かない。関節と筋肉が凍り付いている。

 足元に積もった雪の高さは脛まで。

 このまま頭まで浸かれば命は無い。何なら遺体も見つからない。

「えー……死ぬの俺?」

 

「死にたい訳では無いんだけど?」

 返事は無い。

 電波は圏外。

 人はこうして死に至る。自分の意志とは無関係に。

 いや、自分の脚でここに来たことに間違いは無いのだけれど──。

 

 なんだか色々限界になった辺りで丁度仕事が全部片付いて。

 新しい何かが飛んでくる前に、こっちが飛んでしまおうと。

 そうして、ここまで夢遊病みたいに彷徨って。

 

「……独りか」

 

 まあ、仕方ない。

 身勝手に動いたのは他でもない自分自身だ。

 道連れを作らなかった、作れなかったのは、自分の責任だ。

 

「……嫌だなぁ。……死にたくは、ないんだけどなあ……」

「え。先生?」

「……ん、え?」

「先生、ねえ、聴こえてる?」

 

 ──そこで聞こえた、凍り付いた鼓膜を震わせる低い声を。

 

「久し振りだね。何やってるの?」

「……久し振り。逆にシグレは何やってるの?」

 

 ただの幻聴と切って捨てられなかったのは、

 命を拾うためには取り得であり、また、みっともない部分なのだろうな。と、少し思う。

 

「死にたいの?」

「まあ、そうとも言える」

「じゃあ、ほっとこうか?」

「それはやめて」

「まだ未練はあるの?」

「そうとも言えるね」

 

「先生ってめんどくさいね」

「否定できないのが辛いな」

 

「まあ、良いよ。取り敢えず旧校舎行こうか。動ける?」

「ごめん、無理」

「……ふぅん? じゃあ、どんな運ばれ方されても文句言わないでね」

 

 ▲▼▲

 

「とうちゃーく」

 幾日ぶりか、なんだか自分の声が妙にご機嫌に聞こえて、少しだけ驚いた。

「……もうお嫁にいけない」

 彼は私の腕の中。長い灰色の前髪に手を突っ込んで、両眼を隠している。恥ずかしそうなその頬に、思わずキスをしてやろうかと考える。

「……つらい」

 私にお姫様だっこをされたのがそこまで効いたらしい。子犬みたいだ。……実際、あんまり背が高い訳では無いし。

「そんなに嫌だった?」

「嫌と言うか……はぁ。一人の大人としてプライドが壊された気分だよ」

「いつも私のプライドを破壊する大人が何を言ってるんだか」

 

「……何のこと?」

 きょとん、という擬音が似合う表情で、彼はこちらを覗き見た。

 長い、暗い灰色の髪。後頭部にくるりと弧を巻いた三つ編み、前髪は特に右目に偏っていて、完全に露出した左とは対照的にちらちらと赤い光を見え隠れさせている。

 さらに右の耳からは金と蒼の大きなピアスを垂らしている。白い肌は不健康で、黒いチョーカーも相まってなんだか病んでいそう。

 特徴的な姿、過激な様相。けれど、顔立ちも相まって、彼からは鋭利でかっこいいというよりも──背伸びをしていて可愛らしいという印象を受ける。

「……先生は相変わらずカラフルだねえ」

「でしょ。死ぬほどウケが悪くて哀しいけどね」

「私はそっちの方が良いと思うけどね。だって無彩色ってつまんないし」

 

 ……返事が帰ってこない。

 不審に思って隣を見ると、がちがちに凍っていた筋肉がようやく解けたのか、全身を震えさせていた。

 がちがちと歯を鳴らしている。

 擬音が一緒。

「寒い?」

「頭おかしくなりそう」

「これに懲りたら二度としない方が良いよ。腕とか凍死してたら切除しなきゃいけなくなるからね」

「除雪で切除」

「何も面白くないからね」

 呆れながら、毛布を持ってきてあげる。

 濡れた服を脱がせて半裸にさせて、上から数枚被せてやる。

 うん。私は優しい。口には出さないけど。

「大人がどうこう言うんだったらさ。こうやって生徒に世話を焼かせない方が良いんじゃない?」

「……ごめん」

 揶揄うように私が言うと、彼は目に見える程しょんぼりとしてしまう。

 彼は確かに派手な格好をしているけれど、誰よりも素直で、妙なところで繊細で、やっぱり可愛らしい。

 大人っぽさが欲しいならそういうところを引っ込めれば良いと思う反面、

 ……そんな先生は嫌だと思う心の方が、より声が大きい。

「先生は手がかかるねえ」

 わしゃわしゃ、と、バスタオルで頭を拭いてあげる。

 まるで犬みたいに無抵抗なのは、その気力すら無いからだ。多分。

「お酒飲む? 少しは身体が火照るかもよ」

「飲まない」

 彼は断る。

 分かっていて、質問をしている。

 

 だって彼は、変に真面目で。

 だけど私は、そんな先生があんまり好きじゃないから。

 

 ▲▼▲

 

 崩れた壁面に凭れて、氷みたいに冷えた空気がじんわりと背中を蝕んでいくのを感じている。

 きっと、隣にいる彼も同じだろう。 

 腕を伸ばせば触れられそうな距離。けれどこの寒さの中では互いの身体は縮こまってしまっていて──ああ。それだけの空間も詰められない。

「……何があったのか。聞いてあげようか?」

 そう思いながら、沈黙を破って、切り出した。

「わざわざここまで来るくらいだし、私に話し相手になって欲しかったんでしょ?」

 いつもなら、誰かといるときの沈黙を私は厭わない。

 けれど、今は喋っていたい気持ちだった。相手は誰でも良いけれど──それが彼なら、きっと一番な気がして。

「……そうかな。そうかもね」

 返事はぎこちなかった。緊張しているのかもしれない。

 私も私で、彼の言葉の合間に挟まる行間に怯えているものだから、あまり責められたものではないのだけれど。

「……へえ。私に会いたかったんだ?」

「そこまでは考えてなかったかな」

「……リップサービスって知ってる?」

 私たちの会話は妙に間延びしていて、また、酷くテンポが悪い。

 普段は黙っていてもノドカが勝手に喋ってくれるせいで──それはそれで好ましいのだけれど──先生も私も、自分から会話を始めるということが無い。経験がない。どうすればいいか、分からない。

 二人だけで話す機会なんて、そうなかった。

「私は先生に会いたかったけどなぁ」

「……そう?」

「うん」

 今まで気付いていなかったけれど、意識し始めると、それはなんだか少し──寂しいような気がする。

 自分の一番の友人が、実は自分とは違う誰かとの方が仲が良い、みたいな。

 好きだと思っていた作品の作者が、別の名義を使っているのを見つけてしまった、みたいな。

「……でもね、なんでもないんだよ」

「ふうん?」

 そんな郷愁に、彼は気付いてはくれないのだけれど。

「そうなの?」

 必死に目を細めて、拗ねているアピールをしてみる。彼が本当にそれで心を動かす人間なら、最初からそうしていると分かっていながら。

 視線の先の彼の瞳は、不思議そうに倦んでいた。

 そうして、すぐに、ひび割れた床に視線を戻した。私のことなんて、やっぱり眼中にない。

「動機とか、理由とか。……そんなもの他の場所に探すことができるくらい、私は高尚でも無ければ傲慢でもないから……」

 そうして深刻な響きを以て放たれた卑屈な言葉は、毛布に包まっているせいでびっくりするほど滑稽で──だからこそ一周回って、陰惨なものだった。

 回りくどくて、面倒くさい。

 その真意は結局、

「全部、自分のせいってこと?」

 

 生憎、私には分かってあげられない感性だ。

 彼の自虐的な性質は最早自傷癖の領域に片足を突っ込んでいるレベルであって、なんだかもう救えない。

 いつも呑気な顔の裏で、誰よりも暗い。

 なんだか、自分が幸せになることを恐れているようにすら思うくらい。

 

「そうだね。……私は強欲だからね。小さな不満ですぐに何もかも投げ出したくなるものなのよ」

 座ったまま、膝に顔を埋める。

 ちゃり、と、ピアスが擦れて鳴る。

 口だけの同情を幾つか思い浮かべて、結局、溜息と一緒に消し飛ばす。

 白い息と一緒に、大気に溶けて行く。手で払った。邪魔だ。

「ふーん。飲む?」

 結局、選ばれたのはそれ。

 私のダメなところだ。そして、美徳だ。

「飲まない。……すぐに私を酔わせようとするのはやめてくれないかね」

「失敬な。これはれっきとしたソフトドリンクだよ」

 くぐもった声の落ちるところ目がけて、ごろごろと、瓶を転がす。

 胡乱げな顔で彼が受け取ったそれの中身は、正真正銘、ただのベリー系のジュースだ。

 勿論、手作りの。

「……もしかして、私が触れたものは全部嫌だったりする? だったら、うん。仕方無いって諦めるよ」

「そんなことはないよ。……ごめんね」

 横目に見ていると、彼はようやく少しだけ心を乱したみたいで、溜息を交えながら栓を開ける。

 たちまち広がる芳醇な苺の香り。

「……でもさ。シグレがいつもお酒薦めてくるから悪いんだよ」

「ん? ああ、さっきの? 別に気にしてないよ?」

「……じゃあ、良いんだけど」

 一口、喉に含んで、薄く咀嚼して、小さな喉仏が上下する。

 今日になって初めて綻んだ口角を、見逃してはあげない。

「先生は苺とか、ブルーベリーとか、そういうのが好きだったでしょ?」

「……よく覚えてるね。意外」

 どういう意味合いが籠っているのか、分からない苦笑。

「そりゃあ、先生のことだからね」

 深読みを勝手に味わって、苦さを噛み殺して、そうして無理矢理言葉を紡ぐ。

 ……私が当番でシャーレに行くたびに、ケーキやらスイーツやらを奢ってくれるのだから、覚えているに決まっているだろう。

 まあ──それは、彼にとっては日常なのかもしれないけれど。

 

 ──それにしても、意外とは。

 

「……先生はいまいち私を勘違いしてると思うんだよね」

「そう?」

「私、……先生が思ってるより、先生のこと好きだと思うんだけどねえ。私の愛、伝わってないみたいだなあ」

 なんだか意地悪な気持ち。

 妙に重くて、寒々しい。

「なんだそれは」

 彼は訝しげに返す。

 相変わらず布団に包まったまま、相変わらず動かすのは首の角度を少しだけ。

「急に変なこと言わないの」

「私にとっては急じゃないんだよ、先生」

「……どう受け取ったら良いか分かんないんだよね、そういうの」

「まあ、先生はそうだよね」

 ……冷たい声が、割れた壁面に染み込んでいく。

 彼は不思議そうに私を見ている。

 ごめん、と、言葉を飲み込んだ。きっと困惑されて終わりだ。

 ああ、……でも、そうなんだ。

 誰よりも私が意外に思うくらい、私は──。

      まあ、いいや。

「一緒に温泉入ってあげられるくらいは、先生のこと好きだよ?」

「あー……温泉、良いな」

 お。

 意外に乗り気なのかな?

「入る?」

「良い? 多少は温まるかなって」

「……一緒に入りたいんだ。すけべ」

「いや、それは良い」

「…………ねえ先生、リップサービスって知ってる?」

 だけど彼は、なんだか眠そうに、やっぱり溜息を吐いた。

 溜息を吐きたいのはこっちなんだけど──体力が殆ど残ってないのだろうし、仕方がないか。

「まあ良いよ。……温泉上がったら、フルーツ牛乳淹れてあげるね」

 ……そう言って見送ったけど、どうも身体がまだ痺れているらしく足取りがふらふらだったから、もう一度お姫様だっこで運んであげた。

「ごめんね……」

「可愛いから、別にいいよ?」

「……なんかそれはやだ……」

「お姫様はわがままだね」

 

 ▲▼▲

 

「シグレって、果物好きだよね」

「まあそうだね。227号で食べられるものがそれ以外無いってのもあるけど」

「あーそっか」

 

「なんでそんなこと聞いたの?」

「いやね。果物のケーキが美味しい店を見つけたんだけど、こっち来てまで果物食べたくないかなって」

 

「……行こうか?」

「良いの?」

「先生と一緒に食べられる機会を逃すほど、私は馬鹿じゃないよ」

 

 彼は木苺のタルト。

 私はマスカットのショートケーキ。

 

「お口に合うと良いんだけど」

「……美味しいよ。凄く」

「うん。嬉しいよ」

 

 ──なんだか。

 テラス席で、優雅に紅茶を飲んで、美味しそうにタルトの欠片を頬張って。

 目の前で微笑む彼は、……どう形容したらいいのか分からないけど。

 

 とっても、……綺麗、だ。

 

「ねえ先生、あの店って今日も開いてるのかな」

「気に入った?」

「うん。他のも食べてみたいかなって」

 

 半分ほんと、半分嘘。

 虚言を貫いて、私は彼の隣を歩く。

 

 ブルーベリーのケーキと、林檎のパイ。

 

 妖精みたいな、先生。

 

 妖艶で、綺麗で、普段仕事をしているときとは何かが違う。

 人を惹き付ける何かを持っている。

 浮世離れしたみたいな雰囲気を醸成している。

 

 まるで別人だ、という訳では無いのだ。

 なのに、明確に先生とは違う貴方がいる。

 もどかしい。

 

「美味しいね」

「良かった」

 

 他人事みたいに、人が良いんだろうな、と、思う。

 じゃなきゃこんな職業に就いてはいないのだろうけど。

 そこまで考えて、ふと思った。

「……ねえ、先生ってさ。先生やってて、嫌だって思うことはあるの?」

「そんな資格なんてないのに偉そうに喋るときとかかな」

 

 

 ──彼の返答は、とても早くて。

「そっか」

「そうだよ」

 それを境に、彼の幻想は消えてしまって。

 ああ、きっと──本気で言っているんだ。

 

 ▲▼▲

 

「良いお湯だねえ」

「そうだね」

 タオルを巻いただけの裸身に、彼は目線をくれないで、答える。

 少しは希死念慮もマシになったみたいで、表情筋もほぐれているように見える。

「女の子が入ってきたんだから、少しは動揺したら?」

「動揺して欲しいなら全裸で入って来なよ」

「……良いよ?」

「……悪かった、失言だよ」

 肩と肩が触れ合う距離で、相変わらず退屈な雪山を湯気越しに見つめている。

「寒いの、ちょっとは大丈夫になった?」

「うん。……ここに来てよかった」

「……」

 そういうことはさ。

 ……いや、まあ良いか。

「ありがとね、シグレ」

「……私?」

「シグレと話してると落ち着くよ。……ごめんね、付き合わせちゃって」

「もう。調子が良いね、先生は」

 月を見上げる。

 暗い暗い夜の中、校舎から漏れ出る静かな灯りよりもよっぽどそれは眩しくて。

 隣の彼の陰影が、ぼんやりと浮かび上がって、けれど、克明さは失われている。

 表情はあまり見えない。

 ……少しだけ、怖い。

 

 少し濁った水面が揺れる。

 持ち上げた不透明な液体の向こう側は見えないでいる。

 

 傍にいる貴方の身体が、呼吸に合わせて静かに膨らんで、萎む。

 ……貴方の心根は、それ以上に濁っていて、ああ。何も分からない。

 

「……ノドカは?」

「さあ。図書館に行くって言ったっきり、連絡が取れないんだよね」

「……大丈夫?」

「大丈夫なら大丈夫だし、大丈夫じゃないなら大丈夫じゃないよ」

 

 まあ、この場所でそういうことが起きれば、十中八九大丈夫じゃない。

 でも、独りで、莫迦みたいな薄着でこんなところに来てしまう彼なら、きっとそこまで重要視しないだろう。

 

「私にできることはある?」

「私のメンタルケアとか?」

「……難しいことを言うね」

「そうかな」

 

「……でも、そうだね。寂しいのは、……辛いね」

 

 彼は静かに言って、そっと、私の頭を撫でた。

 彼の手はあんまり暖かくないけれど、その分、優しかった。

 

 ▲▼▲ 

 

 彼に会ったのは、どれくらいぶりだろう。二週間くらいは開いただろうか。

 まあ、こんな僻地に先生が来ることは少ないし、私もあんまり頻繁に来いと言われても困る。

 

 私は冷淡で淡白だから、あんまり寂しいと思わないで済む。

 ノドカはもう少しそわそわしているけれど、私は会えない日よりも会えた日を尊重するから。

 

「フルーツ牛乳、美味しい?」

「うん。凄く美味しいよ」

 

 ……先生はどうなのだろう。

 毎日毎日、誰かと会って、喋って、でもその度に自分のことが嫌になって、そんな日々の繰り返し。

 寂しいのが辛い、なんて──一体、誰の台詞なのか。

「……ねえ、先生」

「何?」

「真面目な話なんだけどさ。……先生はお酒、飲まないの?」

 浴衣の裾を持ち上げて、寒い廊下を歩いてゆく。

 後ろから、ひたひたと、裸足が追ってくる。

 

「飲むのは好きだよ。弱い訳じゃないしね。ただ、やっぱり先生だから、ね」

「……そっか」

 

 ……それは、初めて聞いた。

 つまり、真面目に答えてくれた、って、解釈しても良いのか。

 

「……ねえ、飲まない?」

「シグレと?」

「うん。……メンタルヘルス、的な?」

 

 振り返ることはできなかった。

 臆病な私は、それが怖くて。

 

 

「……ちょっとだけなら、いいよ。こっちおいで」  

 

 ──だから。

 こういうときに限って外さない彼は、少しずるいんじゃないかと思うのだ。

 勿論、ただの照れ隠しだけど。

 

 ▲▼▲

 

 初めて会ったときは──彼は私の知らない人種だったから、興味が少しあったくらいだった。

 レッドウィンターの過激派とは違って、私は指揮が凄いとか全然どうでも良いし──ああ、そのときは一緒にお酒でも飲めたら良いなって思ってたのか。

 

 別に、期待を裏切られたとは思わなかった。

 ノドカくらいはからかい甲斐があるし、なんだか愛嬌があるし。

 ……まあ、一緒にお酒は飲んでくれないし、変なところで律儀で真面目で、

 でも、そういうところが大人っぽいところなのかなあ、なんて思ってた。

 それ以上には、特に何とも、思ってはいなかった。

 

 だけど、……今は。

 

「はい、ワインとウィスキー、どっちがお好みかな?」

「どっちも飲めるよ。好きなの持ってきて」

 

 勘違いなら、恥ずかしいなで終わる話。

 それでいい。そっちの方が良い。だってそれが一番幸せで分かりやすくて、一過性の恥辱で済むのだし。

 

」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」

 

 確かめるのが怖いから言えないけど、

   先生って結構私に似てると思わない? なんてね

 

     「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「

 

 なんだかなあ。

 先生って。

 大人って。

 結局、私より数年先に生まれただけの私なんだろうなって思うのだ。

 

「美味しいでしょ」

「喉燃えるだろこんなの」

 

 偽り。

 立場は偽り。

 責任も偽り。

 貴方にそんなものは必要ないだろうに。

 貴方がわざわざ背負う義理も無いだろうに。

 

「……どう? 少しは酔ってきた?」

「そこらの大人なら酔い潰れて朝まで起きれねえレベルのアルコール摂取量だよ」

「その割には平気そうだね」

「あんまり平気じゃないよ? 表に出ないだけ。凄いのはシグレだよ。未成年が」

「褒めても何も出ないよ?」

「判決が出るだけだ」

 

 目がとろんとしている。

 頬が赤くて、なんだか林檎みたいだ。

 けれど、こうしてみると思ったよりちゃんと男性らしい体格をしている。色々、おっきい。

 

 いや、遠近法か。

 私、思えば今、先生の全身に抱き着いてる状態だし。

 

「……ねえ先生」

「どうしたの」

「死にたいって思うの、やめたら?」

 

「本題はそれなの?」

「良い具合にひねくれ始めたか」

「なんだ、それ」

 

 彼は胡乱気に目を細めて、幾分か妖艶になった流し目と共に私の頭を撫でる。

 互いになんだかぐちゃぐちゃになって、なんだかよく分からない。

 先生は私を強いと評したけれど、当の私も現状はよく分からない酔い方をしているのだから意味が分からない。

 なんだこれ。

 誰かと一緒に飲んでたら気が大きくなる、みたいな話なのか、これが。

「……あのさあ、好きな人が死にたいって言ってて実際死にかけてる場面に遭遇した私の気持ちも考えてよ。死にたいのはこっちだよ」

「なんだ、シグレって私のこと好きなんだ?」

「好きだよ」

 

 いつの間にか、ね。

 妖精みたいに綺麗な先生が好きだったし、

 そうじゃなくても、堅苦しい中でぎこちなく笑う先生は可愛いし。

 

 けど、明確に一番好きなのは、今みたいな。

 どうでもいいこと全部忘れて、意味もなく笑って、そんな今の酩酊の貴方かもしれない。

 

「……ねーえ。真面目なのは良いけど、それで自分を追い詰めすぎちゃ元も子も無いよ?」

「正論だね」

「……先生はそういうの向いてないんだからさ。お酒飲んで忘れるとか、しても良いと思うな」

 

「そうかな」

「そうだと思うよ?」

 尻尾をふりふり。

 火照った体温を交換して、センシティブな話題を一段飛び越し交感する。

 好感はとっくに、ちぐはぐに狂っている。

 ああ、歪んでいる。歪んでいる。針がそもそもねじ曲がっている。

 針の根元が向けた先と実際に示された値が狂う。

 なんだこれは。なんだ私は。

「だって、私はそういうめんどくさいこと考えてない先生の方が好きだもん」

 

「……へえ」

「今みたいな先生の方が、綺麗だと思うよ」

「今みたいな?」

「うん。なんだか、妖精みたいな、ね」

「……」

 

 

「変なことを言うね。……ペルソナみたいな話?」

「あー、外的側面か。割とそういう話かも」

 

 度数の高いウィスキーを呷って、いつになくエロく灰の髪を振り払って、彼は言う。

 

「シグレ」

「なに?」

「実は私も、……私のこと嫌いなんだよね」

 

 

 知ってる。

 そう言おうとした。

 けれど、口を噤んだ。

 

「私って何なんだろう」

「……」

「シグレが好きな私の方が、まだマシなのは、何となく分かってる気がするんだけどね」

 

 彼の瞳が、また淀んでいた。

 けれど、幻想はそのままだ。

 

 

 ああ。

 感情に名前を付けるのは難しい。

 

 教えて欲しい。

 怒りと恋情の混ざったこの感情を。

 

「あー……先生って可愛いよね……」

「何だ急に。ほんとに何だ急に」

 

 ノドカと意見が合わない理由が、ようやくわかった。

 彼は、確かに他の生徒から見ればかっこいいのかもしれない。

 

 ただ、私は。

 先生を守りたいと思っているから。

 そう思うのか。

 或いは、虫篭の中に捕えたいと思ってしまうから、

 愛玩するみたいな目しか向けられないのか。

 

「ねえ、先生。私と結婚しない?」

「いいよー。私がこの会話を朝まで覚えてたならね」

「やった。絶対忘れてるけど、私」

「だろうね」

 

 いつか見た、美しい貴方が。

 死にたい、死にたい、なんて。

 そんな言葉で殺されてゆくのが、哀しいくらい嫌で、

 そんな穢され方が、おぞましいくらいに、憎い。

 

 軽率にキスを交わした。

 なんだかふわふわしていた。

 見違える程暖かかった。

 

「ねえ、先生」

「なに?」

「なんでもない」

 

 

「シグレ」

「ん?」

「寂しいのは、多少はマシになった?」

「全然。心にはぽっかりと穴があいてるよ」

「可哀想に」

「そう思うならもっと呑んで」

「……」

「飲ませたいだけだろ、って眼だね」

「いや。……良いよ、もっと飲もう」

「優しいね」

「私もそう思うよ」

 

 やはりキスをする。

 貞操を切り売りしている。対価は何だろう。妙に幸せだから何でも良いか。

 

 

「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「(戯言)」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」

 

 

 取るに足らない脊髄会話。

 脊髄の何パーセントかはもう蒸留酒だろうな。

 

「すきだよ」

 

 何度言ったかな。

 

「……」

 

 言いたいことは言えたかな。

 

 ああ、久し振りに眠れる。

 漠然とそう思ったのは、きっと。

 支えてくれる彼が、あんまりにも素敵に見えたから。

 そのぬるい体温が、酷く心地よかったから。

 

 あんまり熱くても溶けちゃうし。

 あんまり冷たいと、凍ってしまうからね。

 

  

 

 ▲▼▲

 

 床に直で座り込んだ肩に、頭を載せて、彼女は眠る。

 

「……」

 

 俺ももうすぐ眠るだろう。

 明日のことなんて考えられない。けれど、生徒のことは考えられる。

 

 優しく彼女を地に降ろして、這う様に前後不覚、毛布を手繰る。

 

 

 

 

「シグレ」

 

 

 

「おやすみ」

 

 何も解決していない。

 何も起こってはいない。

 どうすればいい。

 

 そう思いながら、死にたいとは思わないのは、酒のせいか。

 そうじゃないな。

 

 

 

 ──今みたいな先生の方が、綺麗だと思うよ、なんて。

 

 彼女が言うものだから。

 

 ああ、くそ。

 前は拒めたのに。

 結局このまま一緒に寝てしまうか。

 ……それでも良いか。

 

  

 

 

 雪が来る。

 白が来る。

 拍動を除けば、ほぼ死人のような状態で。

 寒さから、ただ二人で寄り添って逃げるように、眠っていた。




シグレの好意は公式でも捉えどころがないので難しかったです。負けた気はしていませんがまた何処かでリベンジできたらいいなと思ってます。
読んでくださってありがとうございます。評価、感想、お待ちしています。
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