起きた事象、読んだこと、知ったこと、その他全てを正確に覚えていられる超記憶能力──。
他の人間から見れば便利で便利で仕方なく思える能力だろう。それこそ、喉から手が出る程に。
当の私も、この能力を持っているからこそこの場所にいると言っても過言ではない。
同僚の持つ超演算能力や超解読能力と同じだ。
周りでは私しか持っていない、特殊な才能。
私が他人から求められるために、必要な才能。
──しかし、思うに。
私の能力以上に自身に影響を与えている能力は無いのではないのだろうか。
ある種、個性とは、人間が自前で備える才能をどのように扱うかということ、その集積であると言える。
莫大な戦闘力を持つ人間が、それで他人を迫害する粗暴な人物になる。相対して、弱きを助け強気を挫く人格者となる。
飛び抜けた頭脳を持つ人物が、その結果他者を見下す高慢な人物になるか、社会全体を巻き込むムーヴメントを巻き起こそうと画策する野心家になるか、或いは愚者を利用して私腹を肥やす下郎になるか。
言葉に表し難いカリスマ性を備えた人物が、テロリストになるか、王になるか。
本人の意思を以て才能を操り、自身の能力の範囲を測り、それによって得られた経験、交流、出来事を参照し、結果として人格が形成される。それが人間だ。
対して私という人格は、自分の能力──このあらゆる知識を吸収する超大規模のカメラロール、それに張り付けられたエゴなのだ、と、自分で勝手にそう思っている。
私──生塩ノアに、最初から主導権というものは存在しないのだ。
記録機械に等しい記憶能力を持っているせいで、本当にそれらしい考え方しかできないマリオネット。それが私なのだ。それは、人間の人格を形成する為に最も大きなファクターとなる「記憶」に対するスタンスが、普通の人間と大きく異なる故に。
私には経験が無い。
私には思い出が無い。
私にあるのはただ記憶だけ。鮮烈に胸を高揚させる出来事も、ただのくだらない日常風景も、どうにも消えない哀しさも、全てが並列に扱われ平等に記録される私の頭には、
どこか、無機質な観念が備わってしまったらしい。
ユウカちゃんを揶揄うのが楽しい。彼女が可愛らしい。
詩を詠むことが楽しい。詩人が過去に残した作品が美しい。
セミナーという空間は居心地が良い。仕事に取り組むのが楽しい。
そんな感情を懐くその裏で、それらをどこか冷たく俯瞰している私がいる。
だから、この自身が疎ましい、ということはなくて、
だから、この能力を呪っている、という訳でも無くて、
──ええ。私はただ、貴方がどうにも憎いのですよ。先生。
▲▼▲
ページに白紙が続く。
それ自体は珍しいことではない。私の仕事は記録するべきことするべきでないことの取捨選択なのだから。
様々なことを綴ったノートとメモのアーカイブは色ごとに分けられていて、その判別は一瞬。
白紙が続いているのはピンク色の小さなメモ。
貴方の所作と、行動を、それぞれ記したもの。
先生が消えて、どれくらい経ったか──そんな簡単な郷愁に耽ることもできない私は、二か月と九日と十八時間だなんてつまらない自答を弾き出す。
あれだけ多忙に見えた彼だけれど、彼がいなくなった後でもキヴォトスはいつも通りに回っていた。まるで最初から彼なんて存在はいなかったかのようだった。或いは、彼がいた方が非日常で、彼がいない今の状況こそが日常であるかのようだった。
けれど、私が忘れていないということは、彼は確実に存在していたのだということだ。そこに疑問を持つ私ではない。
ただ、それはあくまで私自身の異能のせいであったようで、ミレニアムの生徒を見ていると、彼の存在は彼女たちの中から忘れられつつあるように思える。
……こう見ると、彼は誰かの支えになるというよりも生徒一人一人が自分の脚で歩いて行ける強さを手に入れられるように行動していたのだということが良く分かる。
最初から自分が消えることを分かり切っていたかのようだ。
皆、彼の消失を悲しむのではなかった。
彼という白昼夢から覚めたかのような、それで人生が変わったかのような、晴れ晴れとした顔でいる。
……ユウカちゃんだけは、どこかずっと寂しそうに彼を想っている。
……私はページを手繰る。
彼が私へ、別れを示唆したような発言をしたことがあったかどうか。
私はページを手繰る。
私はページを手繰る。
こうして先生を思い出していないと、やがて皆の記憶から彼がいなくなってしまった後に、私までもが彼の実在を疑ってしまう気がするから。
私はページを手繰る。
全てを一言一句正確に描写できるほどに読み込んでいるのに、それでも手繰る。
私が求めている記述なんて何処にも無いと、そう知っている私は、それでも。
……認めよう。
私は、ただ彼を思い出していたいだけ。
忘れない私にも、思い出したいことはあるのだ。
▲▼▲
ユウカちゃんによれば、「先生」とは、頼りがいが無く、逆にすぐ他人を頼るけれど、柔和なところがあるせいで妙にこちらが甘くなってしまって困る、そんな人らしい。
「こんにちは、生塩ノアちゃん。早瀬から話は聞いてるよ」
彼女の分析は間違っていなかった。と、直感的に知る。
叩いていたキーボードから指を離し、くるりと振り返った彼の表情は、静かで、優しい。
「こちらも噂はかねがね。……ユウカちゃんとも、随分仲が良いらしいですね?」
「そうだね、私は全然が仕事できないから、早瀬には頭が上がらないんだよ。……早瀬、私の文句とか言ってた……? 心当たりはいっぱいあって……」
文句、と言うべきか、少し悩む。アレは、どちらかと言えば惚気に近い。
彼女は世話焼きで、なおかつ有能だ。故に敬遠されることが多い。だから、正当に自身の働きを受け止めてくれる人間がいるならば、どれだけ良いだろうかと思っていたところ。実際、目の前の気弱そうな優男は見るからに彼女と相性がいい。
「……まあ、愚痴を聞かないと言えば嘘にはなりますが……それも含めてユウカちゃんは楽しそうにしていますし、大丈夫だと思いますよ?」
「そっか。……なら、嬉しいな」
▲▼▲
ユウカちゃんは、きっと彼のことが好きだった。
そして彼は、ユウカちゃんに感謝していたと思う。
▲▼▲
「どうしたの、忘れ物?」
「いえ、雨が降ってまして。少し待って帰ろうかと」
「傘、貸してあげようか」
「先生は一本しか持っていませんよね?」
「見せてなかったっけ?」
「無駄ですよ。先生がそんなことで風邪引いたら、私がユウカちゃんに怒られちゃいます」
「じゃあ、一緒に入って帰ろうか。丁度私も帰るところでね」
「……え」
「あ、嫌だった?」
「せ、先生から言い出すとは思わなかっただけです……が……」
「揶揄われてばかりだと思うなよ?」
「じゃあ、行こうか」
黒い蝙蝠傘は狭くて、
雨の夜の曇天は肌寒くて、
触れ合う肩だけが、
否、私の頬も同じく赤い。
「……眼鏡びっちゃびちゃじゃねえか」
「前、見えてますか?」
「ぼんやりとだけ」
「……そうですか」
彼の裾を握る。
私にはそれが精一杯。
「じゃあね、生塩。冷えるから体には気を付けて。良い夢見なよ」
▲▼▲
「先生は、私のことをノアとは呼んでくれないのですか?」
「……何故?」
「……いえ。ユウカちゃんが零してまして。私含めて、皆下の名前で呼ばれる方が慣れているので、名字だけだと自分のことだと認識しきれないんです」
「まあ、確かに私も先生じゃなくて本名で呼ばれたらそうなるかもしれない……なるほどな、一応気を遣ってるつもりだったけど、そんな弊害が出てたのか」
「失礼ですが、どういった気遣いのつもりなんですか? 正直、私も生塩と呼ばれているのは違和感があって……」
……先生は、深い溜息を吐いて、頭を掻いた。
彼は焦ったり、疲れたりすると、いつも頭に手をやる癖がある。
「純粋に、私が慣れてないんだよ。ファーストネーム呼び、仇名呼び。……そもそも、私なんぞに馴れ馴れしくされたくないかな、とか思ってしまう」
「そう、ですか」
「距離をあんまり詰めるのも、それはそれでどうかと思うし。でも結局私の我儘以上のものじゃないからね、なんとか努力してみようか」
先生は、いつもいつも自分を卑下する。
多くの女の子に頼りにされていて、少なくとも好意的に見られていることは明白で、けれどそれを前提とした立ち振る舞いをすることはない。
その真意は、未だ不明。
「では丁度良い機会ですし、私で試しましょうか?」
「……良いの?」
「勿論です。私も先生にファーストネームで呼ばれてみたいですし」
「こうやって明言しておかないと先生は駄目でしょう? 私で慣れておくのが良いかと」
「……生塩には敵わねえな」
「いーえ、先生?」
頭に手をやって、ゆっくりと深呼吸。
咳払い。困ったようにちらりとこちらを見て、それから身体で向き直る。
「……ノア」
「はい、なんですか?」
「いや、続きは特にない……」
「愛の告白でも、私は構いませんよ?」
普段の通りに揶揄したつもりだったのに、私の声は震えていた。
理由は明白だけれど、それに気が付かないふりで乗り切って、微笑みかける。
「うし……ノアに告白したら詩集になって内容全部広まりそうでなんかやだ」
「ふふ」
「どうした?」
「いえ、……少し、気恥ずかしいなと」
「呼び方のこと? やっぱり戻そうか?」
「いえ、それには及びません。是非、これからもそれで呼んでください」
約束ですよ、と言うと、彼は分かった、と静かに返した。
「じゃあなんか、改めてよろしく。ノア」
「…………」
「ほんとにどうかした?」
「……今のは分かってやってますね?」
「……ごめんなさい」
「いえ、良いんですよ。……先生なんかに揶揄われるような隙を晒した方が悪いです」
「なんだテメエ」
ノア。私の名前。
彼が最初に下の名前で呼んだのは、私。
その声色を、鮮明に記憶している。記憶に刻まれて、消えそうにないその響きが、
今でもなお、どうしようもなく愛おしい。
「……好きですよ、先生」
「ダウト」
▲▼▲
「早瀬、本当に申し訳ないんだけど、また書類の整理やってくれないかな……?」
「ま、た、ですか? もう、ほんとに先生はダメダメですね。貯めて誰かに頼らないといけなくなる前に、計画的に終わらせてくださいっていつも言ってるじゃないですか……お財布も一緒ですよ? こんなことしてあげるのなんて私だけなんですから」
「ああ、それならもう私の方で処理しておきましたよ」
「えっ」
「はっ?」
示し合わせたように、二人が振り返る。
自慢げに口角が上がってゆくのを、自身でも感じる。
「ちょ、ちょっとノア、今絶対私が『私だけ~』って言うの待ってて言ったでしょ⁉」
「さあ、どうでしょうか? はい、こちらが書類です。お納めくださいな」
「あ、ありがとうノア……ごめんノア……」
「先生‼ 私には謝ったことないのになんでノアにだけは…………ノア?」
訝し気に睨むユウカちゃんは相変わらず可愛い。
申し訳ないとは思っている。
けれど、そうなってしまったのだから仕方がない。
だから、揶揄の材料に使いたくなるのも、これもまた、しょうがない。
「じゃあ先生、私偉いですよね? いつもの、お願いします」
「待って待って、いつの間にそんなに仲良くなったの⁉ いつものって何⁉」
うん。
楽しい。
「え、今やるの? ほんとに?」
「ノアが適当言ってるんじゃなくて⁉」
──ユウカちゃんはショックというよりも、本気で驚いているらしい。
そんな彼女を尻目に、彼はこちらに向かって静かに歩いてくる。
「ノア、いつもありがとう」
そう言って、先生は私の頭を優しく撫でた。
──ユウカちゃんの言った通り、ただ適当に言っただけの私の頭を。
「…………先生、ノア誑かしてずっとこんなことしてるんですか?」
「待って思ってたより早瀬の反応が怖い。違う違う、ね、ノア」
「そ、そうですよ先生。私から言いだしておいてあれですけど、許可なく女性の髪を触るのは良くないですよ。何と言うか……私じゃなきゃ恐らく……いえ、ほぼ確実に拗れますし、あの、その、私以外にそういうことしない方が良いですしないでください、いや、私は……嫌じゃないですけど」
「ノア声ちっちゃ⁉」
「私も聞いたことないそんな声⁉ 全然聞こえなかったわよ⁉ なんて言ったの⁉」
二人とも、この時だけは耳が遠くなっていたらしい。
「じゃあ、ちょっと用事あるし出かけてくる」
「そうですか。お気をつけてくださいね、先生」
「いや待ってください、私はまだ納得してませんからね⁉ もう、帰ってきたらちゃんと説明してもらいますからね‼」
そうして白いコートを羽織って出て行った彼を見送って、
それが、私が最後に見た彼の姿だった。
▲▼▲
──横恋慕。
順番が少し違うだけで、どうして私だけが苦しまなくてならないのだろう。
それは私が好きなのが彼だけじゃないからだ。私よりも何倍も彼女の方が彼に信頼されているからだ。
私はお世辞にも正々堂々と彼に接していたとは言えないからだ。それは私がこんな感情を懐くことに慣れていないからだ。静かに笑う彼を、思い浮かべて居続けられるからだ。
眠れない夜が、忘れられない夜が、どうしても私を苛む。
後悔も苦痛も恋慕も悦びも、片時だって私を焼き焦がしている。忘れていたことをふと思い出して苦しむのではない。意識がある時間は、常にそれが頭を支配している。
ほんの些細な出来事ですら硝子の中に閉じ込めて砂時計にするように抱き締めていられる私の記憶はいつだって卑しくも彼で私を愛撫する。そしてその度に彼女と私を見比べて、どうしても嫌になって、延々と終わらない。
──ああ、それでも、私は本気で彼に名前を呼ばれたかった。
私だけの特別なものが欲しかった。
私しか持っていない彼との記憶と、明確な音が欲しかった。
──ノア。
「せん、せい……」
汚れたシーツを雑に放り投げて、穢れた身を引きずって、呪いの様な記憶を纏って、私は今日も貴方のいない世界を歩いてゆく。
私は忘れない。
私の記憶は風化しない。
それを知っていて消えてしまった貴方が、憎い。
いい思い出なんて無い。トラウマも無い。過去に捨てて行けるものなんて何一つない。
『だから、私だけが気付く』
「──先生?」
知らない紫煙を立ち上らせる黒い影。
▲▼▲
「……久し振りだね、ノア」
「そうですね。先生」
暗い部屋。清潔と鬱屈が詰まった空間。生気は無く、呼吸の度に肺が凍りそうな雰囲気を感じる。
「何をしてらっしゃるんですか?」
「シャーレから来てる仕事で、こっちで処理できるものだけ貰ってやってる。俺……じゃない、私みたいな無能でも誰も頼れないとなるとやれることは増えるらしい」
「……先生がここにいることは?」
「連邦生徒会でも場所は知らない。ノアだけだよ。……まったく、よくわかったね」
「偶然です、よ」
「皆は元気かな?」
「ええ。……ユウカちゃんだけは、少し寂しそうです」
「そっか」
狭い部屋で、気だるげに彼は座っている。
掠れ気味な声も、眼鏡の奥の淀んだ黒い瞳も、記憶の中にある彼のものと大きく違わない。
「……煙草、始めたのですか?」
その目の前に、私は正座をしている。
手を伸ばせば届く距離、抱きしめるには足りない距離。
「いや、もう吸わない。不味い。……出来心でちょっとベランダ出ただけで速攻バレるとか、本当についてないな」
自嘲気味に、笑う。
痛々しい表情。
「……何が、あったんですか?」
「撃たれた」
「流れ弾じゃない。明確に殺されかけた。四発」
「それで」
「傷は治ったけど、恥ずかしいことに、外に出れなくなった。──ここから外に出ると、次はもう命が無いかもしれない。そう思うだけで体が動かない。生徒を指揮するだけの人間がこんなこと言い出すなんて、……ほんとに死ねばいいとは思うんだけど、死にたくない」
「……先生は、普通の人ですから」
「という訳で逃げてるって訳。誰かと関わると居場所がバレるから連絡も取りたくないんだよね。こうなるとキヴォトスって便利だよ。外でなくても通販で大概なんとかなる」
穏やかな声をしている。
理由は明確だ。──ありきたりな表現を使うようではあるけれど、人と話すことで気持ちが楽になることだって、たくさんある。
「うん、そんな感じ。……まあ、身体はもう回復して元気だよ。心配しないで」
どの口がそう言うのだろう。
仮に同じ状況にいる生徒がいるとしたら、きっと彼は放ってはおかないだろうに。
「先生、何か私にできることはありませんか?」
「無いよ。これ以上人に迷惑かける訳にもいかないし」
「私は迷惑じゃありませんよ」
「私には迷惑だよ」
あまりにも泣きそうに言うから騙されそうになる。
けれど。
「先生が何を言おうと、私は貴方から離れません」
「ノア」
「貴方が嘘を吐くとき、必ず髪を触ることを私は知っています」
私は知っている。忘れないでいる。
「安心してください。私は貴方を絶対に許しませんし、私は貴方を絶対的に愛していますから」
彼の抜けない自虐癖は。
彼が握る刃は、一度も彼自身以外に向いたことが無いことを。
「知らなかった」
「何が、ですか?」
「ノアって、そんなに私のこと好きだったの」
「ええ。貴方が憎くて仕方がなくなるくらいに、貴方のことしか見えないくらいに」
「そっか」
静かに手を彼の頬に添える。
眦から静かに零れ落ちた涙を一滴拭って、そうすると彼はたちまち機能不全。
「好きですよ、先生」
「……趣味悪いな」
「目を逸らさないでください?」
視線を追いかける。
彼の視界に今映るのは、私の紫紺の瞳と、白い髪。
「……ノア」
「もし本当に私を拒絶するなら、どうか生塩と呼んでください。今までそうしていたように」
彼が逃げることの出来ない逃げ道を用意する。
「そうしてくれたなら、──二度とここには来ません。貴方を忘れられるように、努力します」
思考を縛る。一手ずつ、確実に削いでゆく。
堕とす。
目の前で、彼は整った顔を歪めて、──憑き物が落ちたようにふっと息を吐いた。
「ノア」
あれだけ焦がれた言葉が、耳元をなぞった。
心底欲した体温が、身体を包んでいる。
「──え」
「……頼っても、良い?」
「あっ、えっ、……せ、先生?」
弱弱しく私の身体を抱き締める彼が、絶対に誰にも言えない言葉を吐露している。
誰にも一定の線を引いていた彼が、私にだけ、
「照れるなよ」
愛して欲しいと告げている。
「いや、ちが……」
記憶に無い、誰にも見せない、限りなく『先生』を逸脱した彼は。
今、明確に私を『ノア』と認識している。
「……一人は寂しい。縋りたいときに縋れる相手がいないのは辛い。死にたい、生きていきたくない、だけど死にたくない」
──もっと早くそう告げていたら、
きっと貴方が消えたキヴォトスは、致命的に変容していただろう。
もっと生徒たちは貴方へ執着していただろうし、──きっと、貴方に恋をする生徒もいただろう。
貴方がそうして『先生』を捨てていれば、もっと貴方の求める愛が手に入っただろう。
「……ええ、安心してください。私は先生を愛していますよ。私だけは、味方ですから」
そうならなくて、
貴方がそうして傷付いて、
私はそれが、たまらなく幸せな気がしてしまう。
貴方には、私しかいない。
「私を傷付けた分、私を傍に置いてくださいね。先生」
▲▼▲
飯を食っても、味が分かるだけで美味しくない。
洗い物をして、 洗濯をして、 風呂に入って、 それだけが重労働に思える。
さっきまで楽しかったことが急激に色褪せて見える。
暗闇の中で横たわる。
何も思いたくなくて、何も感じたくなくて、呼吸の音だけがいやに大きく聞こえて、実行する訳も無い計画が頭を占めて、妙に不安で、末端から崩れ落ちて行くように錯覚している体も、蟻の巣の様に蠢いてざわめいて纏まらないままな心も眠っているのに、ただ意識だけが冴えている。
この胸の痛みを表現する言葉を、『破滅願望』以外に持ち合わせていない。
「先生」
「……眠れない?」
隣に少女は眠っている。
互いに何を言い出すまでもなく、粛々とした半日を狭い空間で共に過ごした彼女は、男物なのにサイズがぴったりな寝間着を着て隣に横たわっている。
目を閉じたまま、問う。
吐き戻しそうな甘い香りと、痺れる指先。
「いえ。ですが、少し冷えるなと。……手を、お借りしても?」
「いいよ」
何を聞かれたのか、正確には認識していなかった。
だから、ひんやりと冷たい指の感触が不意に襲ってきて、少し驚く。
「先生の手は暖かいですね」
「……そうかな」
「ええ」
指と指が絡み合う。
手の甲に二対十本の指先が折りたたまれる。
力なく、彼も指を畳む。
まるで、恋人同士であるかのように。
「おやすみなさい、先生」
──良い夢を、という言葉を。
安らかな想いで、耳にした。
▲▼▲
幸せな朝だった。
彼の香りに包まれて夢を見て、
彼の言葉で目を覚まして、
彼の部屋でシャワーを浴びて、
彼が作る朝食を食べて、
彼と共に着替えて、
彼に髪を整えて貰って、
「今日は、家から色々持って帰りますね」
この日々が続くことを約束して、彼に見送られる。
夢よりも遥かに夢らしい、そんな幸せ。
「おはよう、ノア」
「おはようございます、ユウカちゃん」
「……どうかしたの?」
開口一番。訝し気に、彼女は問う。
不自然にならないように気を配りながら、私は答える。
「あら? 何かおかしい点でも?」
「えっと。……気のせいかもしれないけど、ちょっと表情が明るい気がして」
「そうですか? 昨日、少し良いことがあったので、そのおかげかもしれないですね?」
「へえ。それは良かったわ」
陰と隈で翳る表情の陰鬱さを和らげて、目の前の彼女は、屈託のない顔で笑った。
「……ちょっと安心」
──安心?
と脳裏に過った疑問を察知したのか、彼女は続けて、
「ほら、……あの人、がいなくなってから、ノアすごく辛そうだったでしょ? 顔色も悪いし、ぼぅっとしてる時間も増えて。気持ちは分かるから、私、どうしたらいいのか分からなくって」
「……私、ユウカちゃんに心配されるほど……?」
「自覚無かったの? ノアってば、他の人の記録ばっかりじゃなくて自分のことも見ればいいのに」
「そうそう、あとその癖。喋ってるときにすぐ頭触るの、先生のが移っちゃったんじゃない?」
なんてね、と、遠い目をして彼女は呟く。
「まあ、私もノアのこと言えないのよね。……いい加減にしないと、ダメなんだけど」
するり、と、側頭部から右手が零れ落ちる。
動けない、口を開けない。もし少しでも身動きすれば、私の脳から何が零れるか分かったものじゃない。
「」
罪悪感、如きではこの気持ちを表せない。
「ノア?」
「……いえ、なんでも」
私の幸せは、彼女を踏み台にして成り立っている。
目を逸らしていた訳ではないのに、
いざ目の当たりにすると、
いつも通り寂しそうな彼女の背中が、
「ユウカちゃん……」
それ以上に、私は、
今、
「……」
彼を先に見つけられて良かったと
心の底から、安堵しているのだ。
▲▼▲
「おかえり、ノア。……ノア?」
ああ。苦しい。
他人を揶揄うことを楽しんでいながら、俯瞰者、記録者を気取っておきながら、
私は誰にも悟られて、誰にも見透かされて、
「せん、せい」
苦しい。
みっともなく、惨めに、誰かに縋らずには生きられない。
「ただいま、帰りました」
改めて貴方の顔を見て確信する。生塩ノアは、貴方を私だけの先生にしてしまいたいのだ、と。
玄関。縁の上に立つ彼の身体に触れたいのに、馬鹿みたいに重い日用品をぶら下げた両腕は、そんな身体を引き摺って歩いてきた脚は、まともに動こうとはしない。
苦しい。
彼の部屋。小さなマンションの、小さな部屋。
静かで安らかで、陰鬱な彼の居場所。
その空気が何より落ち着くのが、嫌で、嫌で。
申し訳なくて、
苦しくて、
「──よく帰って来たね」
──暖かい。
「お疲れ様。……何も言わない方が良いかな」
彼の肩に乗っかった顎で、小さく頷く。
彼の静かな声が、耳元で囁く。
彼の体温に包まれて、抱き締められて、胸の澱が溶けて行く。
「こうやってても良い?」
「……はい」
苦しい。
けれど、どうしても彼女のことを口に出すことが出来ない。
だって、そうしたら彼が彼女のことを考えてしまって、
苦しい。
私は、
ユウカちゃんが好きだけれど、
ユウカちゃんには幸せになって欲しいけれど、
ユウカちゃんのことが、本当に好きなのだけれど、
それと同じくらい、先生が好きで、好きで、……。
苦しい。
でも、私は先生をどんどん好きになってしまう。
ユウカちゃんとは明らかに違う目で、私は彼を見ている。
彼にこうして触れているだけで、私の心は燃えている。
苦しい。
貴方がこうして私を赦して救えば救うほど、
私の罪は重くなっていって、
私の欲望は増してゆく。
こんな私を、先生はどんな顔で見ているだろう。
こんなに醜い私を、それでも愛して欲しいだなんて、私は、
「好きだよ」
「……え?」
「好きだよ、ノア」
「ノアが傍にいてくれたから、ノアが私を見つけてくれたから、私は今生きていられる」
「ノアが手を握ってくれたから、久し振りに安らかに寝られた」
「ノアが好きって言ってくれて、本当に嬉しかったよ」
「こんな私にもう一度会いに来てくれて、本当にありがとう」
──静かに笑ってそう言った彼は『先生』だった。
胸の内に秘めたものを見透かして、望む言葉をかけてくれる。そんな大人で、先生だった。
──愛してるだなんて言わないで欲しいけれど、
その裏に、
「……愛してるよ」
体が震える。制御ができないくらい、ともすれば彼の身体が潰れてしまうくらい、もう何も分からないけれど、彼を抱き締めて、縋り続ける。
私が今どんな顔をしているか分からない。
ただ、貴方が好き。
「……ノア、疲れたでしょ。座ろうか」
小さく、必死に頷く。
「うん。お腹は空いてる?」
小さく、首を振る。
▲▼▲
先生が言うには、私の身体は冷え切ってしまっていたらしい。
だから、と言って、彼に引きずられるような形で布団に潜る。
「薄い布団でごめんね」
「……いえ」
「なんか、近いね」
「……嫌ですか?」
「全然平気。ちょっと恥ずかしいだけ」
座っている彼に、身を預ける。
首に腕を回して、顔をその胸に埋める。
霞がかった思考は蕩けて、ただ目の前の貴方を見ている。幸せそうに照れ笑いする彼を見ていると、胸がいっぱいになる。
「最近は冷えるから困る」
呟いた彼に、返す言葉は無い。
彼の心音と声が鼓膜に伝わる。それだけで、何も考えられなくなる。
「何かして欲しいこととかある?」
「キスしてください」
「いいよ」
「驚いた?」
「……ズルいです」
「開き直りだよ。嫌だった?」
「……好きです」
「私もだよ」
昨日はここで私が寝かしつけていた側に回っていたのが嘘の様だった。
綺麗に掌で転がされて、嘘のようにぐずぐずになって、ダメになってしまう。
「ノアはいつも頑張ってて偉いな。……私は頑張れなかったからね。ノアは本当に凄いよ」
名前を呼ばれるたびに、意識が沈む。
深いところで何かが疼いて、身体が鉛になって、沈む。
「先生」
「何?」
「頭……撫でて、ください」
「……懐かしいね」
片時も忘れなかった感触。
懐かしい記憶のような、郷愁に浸るような、憧れていた桃源郷を垣間見たような。
私が知らなかった、思い出すという感情。
「……っ」
「よしよし。大丈夫だよ」
枯れ切った眦から、ぼろりと一滴の涙が落ちる。
彼は私の頬を撫でて、その水滴を拭う。
「いっぱい甘えてもいいんだよ、ノア。私にできることなんて、そのくらいしかないから」
「……ごめんなさい」
「昨日は私だったから。気にしないで」
「先生も、先生の方が、辛いのに」
「人の境遇なんて比べるものじゃないよ。私はノアがいてくれたら幸せだし。何より、ノアは私と違って今も頑張ってる」
華奢な指の感触が、頭を撫でて、髪を漉いて、その繰り返し。
頬を撫でて、耳に触れて、その繰り返し。
彼の声と、眼差しと、体温と、両手が、私をゆっくりと溶かしてゆく。
「大丈夫だよ」
促されたかのように目を閉じる。
心音。
心音。
体温。
久方振りに味わった安寧を全力で抱き締めて────
「先生」
「ノア?」
「……大好きです」
「私もだよ。……良い夢見な」
脳の、一番浅いところにあった言葉を、そうして口にした。
▲▼▲
静かに、寝息を立てる少女がいる。
少しでも動きを止めるとたちまちもう一度泣いてしまうのではないかと思って、彼女の艶やかな白髪を撫でる手を止めることが出来ないでいる。
少し視線を降ろすと、端正な顔立ちが目に映る。
そっと髪を漉かして、小さな耳を見つける。
「…………」
彼女の記憶能力があれば、
今、仮に言葉を囁けば、
その脳のどこかに、何かの記録として残るのだろうか?
「……俺みたいな大人を好きになっちゃダメだろ」
それでも、俺みたいなのを好きになってくれる人が欲しくて仕方がなかった。
ノアが俺を好きになってくれるなんて、夢にも思わなかった。
少しでも手を止めれば、彼女が目覚めて、この夢が終わってしまう気がした。
だから、彼女の頭を撫で続ける。彼女の寝息を聞き続ける。
眠れない夜が怖かった今までが無くなって、
今は眠った後の朝が、どうしようもなく恐ろしい。
▲▼▲
「先生の部屋は朝日が入らないんですね」
「まあ、それでも起きられるからね。……昨日のこと覚えてる?」
「キスしてくださったのは覚えてます」
「お前さあ……」
目を覚まして、貴方の体温が傍にあったことで安堵する。
先生の手は、私の頭の上にあった。
「……一晩中?」
「そんなことない。ちゃんと寝た」
目を覚まして、彼女の体重は手の中にあることが嬉しかった。
彼女の吐息を、静かに抱き締めている。
「何時に出る?」
「一時間と五十四分後です」
「じゃあ先に風呂沸かそうか」
「一緒に入りますか?」
「ノアが良いならそっちの方が手早いし良いよ?」
「売り言葉に買い言葉は良くないな……」
「そう……ですね」
「せっまい」
「……」
これはこれで。
「って思ってくれるなら丁度良いか」
「せんせい~?」
「ノア」
「はい?」
「いつ帰っても良いからな」
「私は、どう足掻いてもここから出ることは無いよ」
「先生がそんなこと言って良いんですか? ……ミレニアムに、そもそも行かなくなっちゃうかもしれませんよ?」
ちゃぷん、と、二人分の体積でなみなみになった水面が揺れる。
背中を預けた彼の薄い胸板が呼吸で浮き沈みするのを感じながら、仄かに揶揄で終わり切らない言葉が口を突いて出る。
意外にも、彼の返事は無かった。
そして、その代わりとでも言うように、私の頭を撫でた。
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「おはよう、ノア。遅かったわね。……と言っても五分だけど」
「少し寝坊してしまって。ごめんなさい」
「珍しいこともあるのね。ま、明日からは気を付けてよね?」
まだ、淀んだ罪悪感は心の中にある。
それでも、私には帰る場所がある。
私は、彼が頭を撫でてくれた感触を覚えている。
「おかえり。ご飯できてるよ」
「こんな時間まで待ってなくても良いんですよ?」
「良いの良いの」
彼と触れ合って、抱き合って、語り合って、そうして互いの澱を舐め合っている。
そうして、二人だけの灰色の時間と空間で溶け合っている。
▲▼▲
ユウカちゃんは、外で用事があって外出中。
もともと少なかった仕事は、独りで全部片付いた。
「……先生」
昼寝でもしようか、と思ったけれど、今の私は彼の心音が無くては寝られなくなってしまっている。
そういえば、最近は先生に回される仕事が一層増えていたな、と、思い至る。
──忘れない私が思い至っているということは、つまり、
必死に言い訳を探していただけなのだろう。
彼に会うために。
「……先生は、きっと驚くでしょうね」
先生はもう私の揶揄いに引っ掛からなくなってしまった。
たまにダメージを与えることができてその時は物凄く可愛らしくなるけれど、その時は大体私が後から思い出して負うダメージの方が多かったりするのだから厄介だ。
久し振りに、素直に驚く彼の姿を見てやっても罰は当たるまい。
「……待っていてくださいね」
そうと決まって、私は荷物を纏め始めた。
──。
────。
──────。
「え?」
部屋の配置は完璧に記憶している。
だから、財布と、携帯電話と、鍵と、靴だけが無くなっていることが一瞬で分かった。
頭の奥で何かが割れるような音と、私の手から鍵が落ちた音が、
同時にガチャンと音を立てて、
視界が暗転する。
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太陽が明るくて辟易する。
雑踏が恐ろしくて嫌になる。
外へ出なくなってからの期間よりもそれ以前の期間の方がよっぽど長かった筈なのに、どうしてか圧倒的な違和感を抱えている。
「ぅぁ……」
今でも、鮮明に胸に空いた穴の痛みを思い出せる。
誰もが、自身を殺そうとしているのではないかと思えて仕方ない。
それでも、平静だけ取り繕って前を向く。
体を引き摺る様に歩く。
手に持ったものだけは慎重に、宝物のように抱いて。
目に映る全てが恐ろしい。
全てが敵に見えて仕方がない。
「ノア……」
目の前にちらちらと映る白、それを見て思い浮かぶのが一人。
やはり、彼女と一緒に来ればよかっただろうか。
──それでは意味が無いのだけれど。
雑踏に紛れて歩く。
誰にも見つからないように歩く。
人混みが止まる。赤信号。ふと、前を向いて、
「はや」
真円の黒いヘイロー。
青い髪のツインテール。
「せ……」
▲▼▲
「ノア?」
「……せん、せい?」
「今日はいつも通り夕方に帰る予定だったんじゃないの? 何があったの、どうしたのこんなに泣いて、の、ノア? 怪我したの?」
「あ……」
ぼんやりとする輪郭が少しずつ形を取り戻してゆく。
目の前に、愛おしい人の姿が確かにある。
「……どこに行ってたんですか? 一人で外出なんて……私、先生がもう帰ってこないんじゃないかと、おも、思って……」
「……違う、違うんだよノア」
泣き疲れて眠っていたらしい私の身体を抱き起して、珍しく着替えた彼が、そっと何かを差し出した。
「一応、今日はノアが私に初めて会ってから一年経った日、だから」
白い花束、だった。
「私に……?」
「うん。……このくらいしかできなくて、ごめん」
声が出なかった。
ただ、大粒の涙だけが溢れ出して仕方がなかった。
「……ごめんね、ノア」
赤ちゃんみたいに首を振って、揺れる花束を抱き締めて、何も言えないまま、ただ嗚咽だけが漏れる。
そんな私の頭を、静かに彼が撫でる。
「……何処にも行かないよ。ノアがいてくれないと、……俺は」
たまらなく嬉しかった。
沢山彼は私に愛をくれたけれど、その全てを覚えているけれど、
私を、心から思ってくれていることが伝わって、だから、
その中で一番、嬉しかった。
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「はや、せ」
彼女はちらりとこちらを見て、それから不思議そうに首を傾げてから、どこかへと歩み去って行った。
その後のことを、何も覚えていない。
ただ、
私が失ったものを、
思い出して、思い返して、
俺が最後に残ったものを、
繋ぎ止めていたくて、どうして、
「……ノアがいてくれないと、俺は」
頭を撫でる。手を握る。彼女の白い髪に額を押し当てて、動けない彼女の動きをそれでも上から押さえつける。
▲▼▲
「せん、せい。ずっと、一緒ですよ」
「……うん。約束しようか」
嗚咽に混じった二つの小さな音が響く。
そして、灰色の二人だけの世界で、世界で唯一の、一番控えめで幸せな、誓いのキスを。
ハイドレンジアに、二人分の涙が落ちて、小さく揺れた。
手持ちの性癖は大体ぶち込んで書いた作品です。
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