私の役目は戦いでは無いから。
私の銃は護身の域を出ないから。
私は、それでも記録を続けなくてはならないから。
私の身体は綺麗なままだ。
キヴォトスの人間にはそうそう傷なんて付かないけれど、仮に傷付いても簡単に治癒するけれど、それでも、最初から傷付いていないのと負った傷が消えるのでは、結果は同じと言えども天と地ほどの差がある。
傷付いている人間の前に、何も傷を負っていない状態で記録を取りに行くのは、──仮に本人が何も気にしていないとしても負い目を感じてしまう部分がある。
自分だけ楽をしているような。
まるで、仮病で学校を休んでいるような。
勿論、私が戦ったところで足手纏いにしかならないことは分かっている。
適材適所。私にしかできないことを私が担うのが当然で、自然で、最適なのだ。
分かっている。
それがあるべき姿であって、
疑問を、不満を懐くことがあっても、それを表に出すべきじゃなくて、
自分の我儘を、仕事に持ち込むべきではなくて、
私情をただの書記係が挟むなど烏滸がましいにもほどがある。
納得していないのかと問われれば、そんなことはないと答えるだろう。
そこに嘘は無いと、断定できるだろう。
ただ、私は、
──羨ましい。
彼を守れる立場に居るのが、
彼の隣に立っていられるのが、
「早瀬、腕はどうなった?」
「おかげさまで順調に回復しています。問題なく働けますよ」
「それは良かった」
「……そんなに気にする必要は無いと言っていた筈ですが……せ、先生は、私のことがそんなに心配なんですか?」
「いや、別に」
「……先生なんて嫌いです」
「冗談だよ。心配じゃなきゃわざわざ治療しに行かないから」
──ユウカちゃんみたいに、私も先生に怪我を心配してもらって、治療してもらって、
「……そう、ですか」
「そうそう、知ってますか? ユウカちゃん、昨日の間ずっと先生が巻いてくれた包帯なぞって溜息吐いてたんですよ?」
「いやそんなことしてないから‼ 先生もノアの言うこと信じちゃダメですよ‼」
「私は昨日ユウカちゃんがやってたこと全部記憶してますよ? さて、どっちの言葉の方が信憑性が高いでしょうか?」
ユウカちゃんみたいに、
先生に、……。
「好かれてますね、先生。ちょっと妬けちゃいます」
「だからっ……ち、違うんですってば……」
「ユウカちゃんは可愛いですね?」
「そうだねえ」
「っ……せ~んせい~?」
分かっている。
彼女は、ただ怪我をしたから彼に構ってもらえているのではない。私がすぐ彼を使って彼女を揶揄ってしまうのも、結果的に彼女と彼の距離を近づけることを助長させているのだろう。
それはそれで、彼女の親友としては喜ぶべきことなのだ。
彼女はとても分かりやすく彼のことが好きだから。
……けれど。
「……」
──私は、傷付きたい。
傷付けば、彼女のように先生と接することができるような、そんな錯覚をしているから。
私も、構って欲しいだなんて──そんな欲求を懐いているから。
そして。
──こんな私は、傷付くべきだ、と。
心の底から、思っている。
「あ」
きっと、そんなことばかり、そんな暗いことばかりが頭を占めていたから。
そのせいで。
突拍子も無いことを思いついてしまったのだ。
何の気なしに、私はシャーレの床に落ちていた剃刀を拾っていた。
誰のものかは分からないそれ。普段なら、近くの机の上に置いて、それで終わりにしていただろう落とし物。
私は、何を思ったのか。
特に何も考えないままに、
そっとその刃を手首に押し当てて、
力を入れたまま、引いた。
今日の当番は、私。
先生は昼食のために出て行ってしまって、私は静かなこの場にたった一人。
言い訳をすると。
銃弾も通さない身体が、こんなちっぽけな刃物一つでどうこうなる訳が無いと思っていた。思っている。だから私は本当に軽い気持ちで、まるでおままごとのように、笑いどころのない冗談のように、そうならないことを分かっているのになぜかそうしないではいられなくて、自分の身体を傷付けようとした。それでも何も起こらなくて、何も変わらないのを見て、馬鹿だなあと自嘲したかった。ただ、それだけだった。
「っ、」
静かに、ぴりりとした痛みが走った。
微かな、本当に微かな痛み。擦り傷や注射の方がよっぽど痛い。それでも、それは確かに痛みだった。
──まず、素直な驚きが何にも勝った。
そっと手首を見る。不健康にすら見える程に青白い肌に、赤色の筋が一つ。深い傷ではないけれど、血は確かに滲んでいる。
信じられない思いで眺めてみる。創作物で描かれるように血が溢れて止まらないなんてことは無い。じわじわと小さな赤い球が浮かんで、それで終わり。
「……」
とても自然な動きで、私はもう一度腕を引く。
手首を切るのではない。刃物を押し付けて、そのまま引くだけ。
傷が増える。
痛みが僅かに増した。出血は相変わらず少ない。
私は書記であり、
身の回りにある出来事を忘れることができないから、
だから、正確に理解している。
私の心にかかっていた暗雲が、何故だか少し晴れている。
私の心は、──。
────先生。
先生。
私も、傷付いてしまいましたよ。
「ただいま。変わりはない?」
「…………」
「ノア?」
「……ええ」
何も、ありませんでした。
私は、そう返した。
静かに、呟いた。
一つ捲った左の袖の下を、無意識に隠しながら、
それを脳が認識しているのを知っていながら、
私は、そう呟いた。
▲▼▲
「随分、暖かそうですね?」
「…………暖かいよ」
「それは良いですね。ところで……」
だらだらと、こんなに寒い中で冷汗をかいている彼に──もっと言えば、彼が持っているものに──視線を向けながら、一つ問う。
「……お仕事は、終わりましたか?」
「ノア、ノアは記憶力が凄いよね、だから書類の数覚えてるよね」
「はい。そうですね」
「……人間にあの量は無理だと思うよね?」
「それは仕事を諦めてティータイムを洒落込む理由にはなりませんよ?」
白いティーポットと、安価なチョコレート菓子の箱。
炬燵を導入したデスクの上で並んでいるそれは、全てを放棄した宣言とも見て取れる。
「……紅茶ですか?」
「そうだよ。といってもトリニティの子たちが飲むような高級な奴じゃないけど」
「あれ凄いですよね……」
「私みたいな馬鹿舌にはもったいないからね」
ははは、と、乾いた声で彼は嗤う。
確かに、彼女たちに比べれば、安い茶葉と電子ケトルで作った紅茶は粗末の極みであるだろうけれど、そもそも比較する対象自体がおかしいということは彼の意識外の事実であるようだった。
「……私の数少ない癒しを奪おうとするなら、例えノアだろうと容赦はしないよ」
「奪いはしません。ただ、記録だけさせては頂こうかと」
冗談めかして凄んで見せる彼に、ノートを手に取って答える。
その視線の先で、彼は首を傾げた。
ユウカちゃんといい、彼といい、表情豊かな人は可愛らしくて、好ましい。
「……それ、意味ある?」
「単なる私の趣味ですよ。色々、先生のこと知りたいですから」
貴方が好きなもの。
貴方の心が休まるもの。
私は、それが知りたい。知っていたい。そう、心から思う。
「良いですよね?」
「まあ、別に不具合は無いからね。……それが本当に楽しいかは分からないよ?」
彼の性格でわざわざ拒否反応を示すことが無いと知っている。
そうと知っていて、私はそれでも問う。
──そんな私の前で、彼はそれでも無邪気に笑っている。
「……でも、まあ、そうだね」
すると彼はそう言って静かに部屋の外へ出る。
すぐに戻ってきたその手には、もう一つの白いマグカップ。
「賄賂ですか?」
「人聞きが悪い……違う違う、どうせなら一緒に食べようと思ってさ」
二人分の暖かな紅茶が注がれて、甘いお菓子の香りがした。
「他の子には、内緒だよ?」
人差し指を口元に当てて、彼は言った。
静かに微笑みかけて、悪戯っぽい流し目を送って、隣に座る様に促した。
「……他の子が知ったら嫉妬されちゃうかもしれませんからね」
「そんな子はいないよ。……いや、早瀬には多分怒られるから、やっぱり内緒にしてて」
「ほら、おいで。炬燵は暖かいよ」
「……じゃあ、御相伴に預からせてもらいますね」
二人で並んで、深夜の甘いティータイムを過ごす。
なんだか、妙に安心して、落ち着いて、安らかな時間。
寒い部屋の中で、暖かい彼が隣に居た。
何度も肩が触れ合って、恥ずかしくて、けれど、ああ、
本当に、幸せ。
──私は、隣に座っていた彼の表情を、彼が淹れてくれた暖かな味を、その日の出来事を、
その幸せを、
ずっと、忘れられないままでいる。
▲▼▲
おはよう、だなんて、飄々と挨拶をする貴方が嫌いだ。
いただきます、だなんて、そんな言葉を合わせるために空腹に耐えてばかりの貴方が嫌いだ。
良い夢を、だなんて、そんなありふれた言葉を決め台詞にしてしまっている貴方が嫌いだ。
恰好をつけて、好きでもない缶コーヒーを飲んでいる貴方が嫌いだ。
早瀬、早瀬、と、彼女を頼ってばかりの先生が、……。
いつもありがとう、だなんて、わざわざ弱った様子で口に出してしまう貴方が、──だ。
いつも呼んでばかりでごめんね、だなんて、私の気持ちも知らないで零す貴方が、──だ。
白いコートを羽織って、それで平然と「お揃いだね」だなんて嬉しそうに笑う貴方が、──だ。
私が揶揄うたびに、馬鹿正直に困ったような疲れた表情で「もう……」と呟く貴方が────でしょうがない。
私は君の味方だと、矢面に立って奔走する彼が嫌いだ。
いつだって頼って欲しいだなんて、図々しくて傲慢な、そんな綺麗事を、そんなに悲し気に告げる彼が嫌いだ。
自分の欲しい玩具を諦めてまで、贈り物を用意している彼が嫌いだ。
好かれたいなあ、なんて、本当に──本当に、バカみたいなことを独りで言っている貴方が、嫌いだ。
私が寝ているふりをしているだけなのに気が付かないで、毛布を掛けて。
すぐに立ち去ってしまえば良いものを、じっと何を考えてか私を眺め続けて。
それなのに、薄目で貴方を見ている私に、どうして貴方は気が付かないのだろう。
どうして、貴方は私の視線にいつも気が付かないでいるのだろう。
そうして、何を想っているかも分からない表情で、
小さく、
──ノア、と。
呼んでくれる貴方が、……ああ。
私は、貴方が好きだ。
私は貴方が好きなんですよ。知っていましたか? 知っていますか?
貴方は、それを知ってどう思いますか?
知っていてくださいますか?
それを心に留めて、どんな顔をしますか?
「……私は、貴方が好きですよ」
「はっ……? 何? 疲れてる?」
「そこまで驚くことですか?」
「いや、いつもの揶揄いにしては──笑えないなって」
「……そうでしょうか?」
「まあね」
私は、そんな貴方が大好きで大嫌いなんですよ。
サテ、発端は何だったろうか。
確か、彼に構って欲しかったんだっけ。
気が付いて欲しかったんだっけ。
そんなことを想ってこんな行動にいたるほど、私はバカだったんだっけ。
罪を犯して、自分で罰して、その繰り返し。
自分の粗を探して、何かが不安で、自罰を与えて、その繰り返し。
そんな日々の中で──それでも貴方は静かで綺麗だ。
私自身が嫌になってしまうくらいに。
「今日も二人分用意してあるよ」
「先生」
「どうした?」
「沢山の女の子たちは、こうやって篭絡しているんですか?」
「なんでそんな人聞きが悪いの? ノアだけだよ」
「……」
「ノアといるときが一番落ち着くからね」
こんな私にも、貴方は優しいから。
私を受け入れて欲しい。
そう伝えてしまえたら、どれだけいいだろう。
いつものように困ったように笑って、それで一言「いいよ、」って言ってくれたらな。
──もし拒否されたら?
貴方を想って増えた傷を今日も舐めている。
血の味と、微かな微かな痛み。
ただ傷付くことを目的としていたのに、いつからか、貴方への恋慕を忘れる為の痛みへと変わっている。
それをまるで貴方への愛の証左だと誤認している。
そんなことに気が付きたくなかった。
微かな痛みは確かに痛みで、
その痛みで自らを律することで、そうして自罰を与えることで、
キモチワルイこの気持ちにブレーキをかけることで、享受して、
私はようやく貴方の前に居られる。
「ねえ、ノア」
「はい、何でしょう?」
「ちょっといい?」
淡い期待と、仄かな不安感。
暗い廊下に、響く足音が二つ。
静かな倉庫に入って、二人きり。
「こんなところに生徒を連れ込んで、どんなことをされてしまうのでしょうか? ……悪い人ですね」
「強いて言うなら教育かな。覚悟しておいた方が良いかも」
下世話な話をしてしまえば、流し目で応える彼の言葉に、何かが疼いた感触がした。
ロケーションが悪い。変な妄想が脳を占める。貴方が凡そ取らないであろう選択肢が、目の前に現れているように思えてしまっている。最低だ。本当に最低だ。先生をそうやって貶めるだなんて、
掴んだ二の腕に力を籠める。
痛い。
「……ノアは俺のことを何だと思ってんの?」
「違うんですか?」
置いてあった椅子に座って彼に視線を向けると、彼は胡乱気に頭を振った。
そんなに蠱惑的な表情を浮かべていただろうか。誘っているように見えているのだろうか。
もう自分を制御しきれていない。嫌になるくらいに、愚かだ。
「てっきり押し倒されるものかと」
「生徒に手出してたまるか」
「ユウカちゃんはちょろいですよ」
「知ってるよ」
「えっ」
「いや違うからね? 言葉の綾って奴で……ああ、言葉選びが下手だなもう」
──焦っている?
そんな風に、思った。
「それで、……先生は私にどんな用事が?」
「腕、私に治療させてくれない?」
思ったより、驚かなかった。
気付かれているとは思わなかったけれど、気付かれていない訳が無いとずっと思っていた。
「…………知っていたんですか」
「そうだよ。だってノアが使ってる剃刀、私が同じ用途で使ってた奴だからさ」
先生は、着ているコートの二の腕を、右手でそっと押さえた。
眼鏡の奥で目を細めて、静かに笑って言った。
「……他の子には内緒だよ?」
私は貴方が嫌いだ。
私に黙って自傷に至っていたことも。
私を傷付けないように気遣っていることも。
私の気も知らないで、私とだけの約束をたくさん作ってしまうところも。
私は嬉しかった。
愛しい貴方が、私のことをそうして心配してくれたと思うだけで、言いようもない気持ちになった。
「何があったの?」
「……特に」
──左腕を差し出しながら、答える。
「それは厳しいって。早瀬と何かあったようには見えないから猶更心配なんだよ。恥ずかしいけど、私早瀬と喋ってるノア以外あんまり知らなくて」
「……私は、……」
「ノアのためだったら、何でもさせて欲しい。困ってることがあるとか、悩んでることがあるとか。遠慮しないで。……いつもは頼ってばかりだからね」
何度も何度も、ひんやりとした治療薬を纏う彼の細い指がなぞってゆく。
忘れなくてはいけない思いを、ゆっくりと刷り込まれて、塗り込まれて、刻まれてゆく。
その動きを目で追いながら、丁寧に動くその手の甲を見ながら、貴方の優しい言葉に溶かされている。
「私も一応大人だからね。含蓄があるっぽいお説教もできる」
違う。
私は、貴方を信頼できなくて言葉を発せないのではなくて。
「…………先生」
幻滅されるかな。
引かれるかな。
「ゆっくりでいいよ。……ちゃんと聞くから」
優しくしないで欲しい。
先生はそんなことしないって、思わせないで欲しい。
──思いっ切り甘えたい。
「……私は」
丁寧に巻き付けられてゆく包帯を見ながら、私は。
私は、ただ、考えて、考えて、どうすればいいか、それでも分からなくて、
「お願いがあるんです」
「うん。何でも聞くよ」
「私を、拒絶しないでください」
「好きです」
思考を止めた。
「貴方が好きなんです。貴方がそれに気付いてくれないのが、貴方が私に優しくて、それが私だけにじゃないのが、嫌なんです。先生に嫌われたくなくて、先生ともっと一緒に居たくて、でも、こんなことを言ったら何かが壊れてしまいそうで、そんなことを想ってしまう私が何よりも嫌でした」
今の貴方の顔を見ることができるほど傲慢でない私は、ただ額をその胸板に押し付けている。
拍動が高鳴っている。
私の脈は死人のように静まっているのに、彼の心音は酷く大きく響いている。
「思わせぶり、だなんて──そんなつもりは無いのでしょうけれど──私は──」
「ノア……?」
「何度も、何度も、どうにかしようってずっと考えてたんです。だけど、どうしようも、なくて」
先生の嫌なところを見ようとした。
先生が誰かに想いを寄せてはいないかと考えた。
貴方に嫌いになってもらいたかった。
そうしてくれない貴方が、悪いのだ。
「……私は、貴方の言葉を覚えています」
最低だ、と、変な自嘲の吐息が漏れる。
例えば、嫌いな人間が目の前に居て、その嫌いな人間の嫌いなところを論って、貶して、思いっきり罵倒すれば、当然相手は困惑して傷付くだろう。
けれど本人はそれでストレスを解消できる。そうやって狼狽える相手を見て、さらに胸がすくだろう。
同じ。
やっていることはそれと何一つ変わらない。のに、分かっている、のに、私の言葉は止まらない。それで止まるようなものではないと、妙なプライドが騒いでいる。それで止まってくれればよかったのに、止まれないでいる。
「私にかけてくれた言葉を全部覚えています。私以外へ送った言葉も覚えています。忘れることができないで、ずっとずっと」
「私を、特別扱いしてくれてるんじゃないかって、……思っていました。そんな訳ないって、無駄に浮かれるだけだって、分かっていたのに、分かろうとしていたのに、ダメだったんです。……だって、一度そう思ってしまったら、」
貴方を好きでいないことなんて、
できないでしょう?
そう問いかけておいて、何も答えて欲しくない私が面倒で憎たらしい。
貴方がどうしようもなく好きだから、貴方に愛されたいから、何もすることのできない私。
ただ卑屈に己を嘲弄する以外のことが一つもできない私。
貴方が私に与えてくれる施しの全てが、怖くて仕方のない、私。
「……ノア」
「貴方を私だけのものにしてしまいたいです。貴方が他の子には秘密だって言ってくださったこと全部が、嬉しかったんです」
ぎゅっと彼の服の袖を掴んだ右手が震えていた。
酷く全身が重かった。
頭が霞んで、くらくらとする。それが呼吸がおぼつかないせいなのだと気付くのに少し時間がかかった。自分の重さだけで溺れていた。浮力は働かない。水面には、未だ遠い。
「貴方を見ているだけでよかった、貴方の近くにいられれば良かった、……それで終わっていれば良かったのに……私は……」
この口は、今まで抱えてきた思いを口にするにはあまりに小さかった。
嗚咽と、呼吸と、貴方への愚痴。
その全てが逆流して、痛い。
私が嫌いな痛み。
右手首の痛みとは違う、私を癒してくれない、傷付けるだけの痛み。
──痛みで癒される?
今の思考は、あまりに愚かな前提の元に成り立っている。
まるで、癒してくれる痛みがこの世界にあるかのような。
私が痛みで癒えているかのような。
「ノア、聞いて」
先生が、いつになく切羽詰まった口調で言う。
顔を上げると、目の前で泣きそうになっている彼がいる。
私が傷付けた。
愛しい人を自ら傷つけた。
貴方は私の言葉で傷付いた。
その表情の重みを、その意味を、理解できない私ではない。
何度も見たことがある。
鏡の向こうの白い髪。蒼い目。
向かい合っている貴方の黒い髪。レンズの向こうの、灰色の眼。
二つが重なり合って、混ざり合って、溶ける。
ただ、その事実が、嬉しい。
当然の帰結のように、彼は私の身体を抱き締めた。
「……先生」
彼は答えない。
きっと、自分からは言えない。
「愛しています」
「私はね」
「はい」
「ノアが可愛くて、一緒に居るとすごく安心できて。いつも傍にいて欲しいって、思う」
「……すごく、嬉しいです」
「……特別扱い、って言うと良くないけど」
彼の眼を見る。
それは、酷く歪んで見えた。
「私は、ノアのことが、きっと──」
そう言って、彼は私の耳を食んだ。
▲▼▲
好きな相手にくらい、格好を付けたい。だなんて、──きっと幼稚でみっともない想いだ。
そうと分かっていても、実際に自分が格好いいだなんてこれっぽっちも思っていないけれど、それでも彼女、生塩ノアの前ではより「頼りになる大人」を、「クールな先生」を、気取っていたのは否定できない。
惹かれていたのは、
「先生」
他の誰とも異なる体温で、
「先生」
揶揄うように、慈しむように、綺麗な紫紺の瞳でこちらを覗いて、
「先生」
静かに微笑んで、そうして──。
「……先生」
「先生は、偉いですよ」
「いつもいつも、怖くて、辛くて、苦しいのに、それでも必死に、私たちを守ろうとしてくれる」
誰もいなくなったシャーレの硬いソファの上で、眠れもしないのに目だけを閉じていた俺の目の前に現れて、
静かに、ぽつぽつと、彼女は語り掛けていた。
「……どうか今は、ゆっくり眠ってくださいね」
俺の髪を優しく撫でて、彼女は言って、去って行った。
「良い夢を」
目は、開けられなかった。
一人は辛い。
一人で暗い場所にいると、末端から体が灰になって、ぼろぼろと崩れ落ちて行くような錯覚に襲われる。
それは寂しいからで、それは自分の醜さを否応なく突き付けられているからで、それは──誰にも繋がらない身体が嫌になるから。
そんな孤独の夜を、優しく埋めてくれた彼女。
「私を、拒絶しないでください」
俺には分からない。
誰に肯定されたことが無い。
彼女が自身に抱く好意が、その実、どのような類のものか全く分からない。
誰かに好かれた記憶も経験も特別ない矮小な人間なのだからしょうがない。
だから、最初に感じたのは強い困惑。
強く表情を歪ませて、苦しんでいるような様子でこちらを見る彼女。
「好きです」
ぞく、と、
その感情の強さを知って、酷く鮮明に脳が震えて、弾けるような感触が未だに消えないでいる。
悪いのはノアの方だ。
いつも揶揄って、いつも心を乱して、──好きだと言ってくれた。
その肉体が傷付いていた。
その心すら傷付いていた。
俺のことを想って。
「ノア」
その身を抱き締めて、貧弱な力でけれど精一杯抱き締めて、
崩れてしまえばいいとすら思いながら。
歯止めの効かない嗜虐心。もっと傷付いて、そうして──になればいい。
背徳。彼の使命と、立場と、信条に大きく反するその所業。甘い蜜。背徳が、手招きをして誘っている。
思考が追いつかないまま、何かを言った気がした。
自分でもそれが何なのか分からない。ただ、これ以上なく目の前にいる少女が、小さく震えながら笑っている彼女が、弱弱しくて、愛おしくて、
その耳に静かに口を付けた。
彼女は小さく息を呑んで、けれどすぐに零れ落ちるような吐息を吐いた。
それを聞いて、少しだけ自我を取り戻す。
ばっと、彼女の眼を見る。
彼女は怖いくらい冷静に、蕩けた表情で、言う。
「……食べられてしまうかと、思いました」
「…………ごめん」
「良いんです。私は、……もっと、先生に」
「ノア」
二人して、気が狂っているのか、酔っているのか、譫言のように会話をする。
薄暗い部屋の中。もしこれが創作の世界ならば、誰かが邪魔をしてくれていた筈だった。だって、それは許されない。許されてはならないことが行われてしまいそうになっていて、誰かが止めなくてはならない。
「……ノア」
駄目だよ、なんて、もう言えない。
唾液に濡れた彼女の耳。
「……先生は優しいですね」
──止まる筈がない。
自分で自分を傷付けるという行為が一度できた人間は、自分の身を幾らでも軽んじることが出来る。
それこそ、小さな快楽のために、
一つの安楽のために、
破滅すると知っていても。
知っているからこそ。
「でも、駄目なんです。それじゃ駄目なんですよ、先生」
「私は、ノアを傷付けたくないんだよ」
「私は、先生に傷付けられたいんです」
「私をもっと傷つけてください」
「貴方のものにしてください」
「そうして貴方も傷付いて、」
「そうして一緒に傷付いて、」
「最低な私のために、」
「最低な先生に、」
「なってください」
しゅるり、と、静かな衣擦れの音がした。
「安らかな時間は、今は欲しくありません」
ぱちん、と、プラスチックが弾ける音がした。
「今は、ただ、貴方と、──貴方が私を愛しているって、そんな証拠が欲しいんです」
するり、と、ベルトが落ちた。
そうして、真っ白な髪と、包帯と、裸身。
「……私は忘れないけれど、」
「貴方は忘れてしまうかもしれないから、」
「私の身体に傷を付けて、」
「貴方の脳に刻み付けて、」
「愛を」
悲しむような憐れむような慈しむような愛するような憎むような視線が二つ、交差して。
唇が触れ合う。貪り合うように、惨めな水の音が立って、それから、離れる。
「……ごめんね」
「私の台詞ですよ」
▲▼▲
「……ごめんなさい、先生」
「……良いんだよ」
「……愛してます、先生」
「愛してるよ。ノア」
彼女の腕には切り傷。
首元と胸元に噛み跡。
今日の朝に前者が一つ。
今しがた、後者が七つ。
あれから少しだけ伸びた前髪を彼女は優しく撫でて、
あれからより艶を増した瞳に、彼は笑いかける。
何も変わらない日向の日常が終わって、日が落ちてから登るまでは日陰者の退廃の時間。
優しい口付けをもう一度繰り返して、そうして泥のように眠りに落ちる。
互いに傷付いて、互いに大切なものを斬り捨てて、
二人で眠る安息だけを、
大切なものを前借にして、そうして生きている。
▲▼▲
寝息を立てる貴方を、今日も見ている。
一つ、二つ。彼は子供のように丸くなって、夢の中で何度も私を呼ぶ。
無意識領域に刻まれた私の名前。痛みと共に忘れられない貴方の恋人。
腕が痛かった。
胸が痛かった。
それでも幸せだった。この痛みが楔で幸せなのだから。貴方から私にだけ与えられる、愛の籠った贈り物。
忘れられない私は思い出す。
今日、私に剃刀で傷を付けた貴方。
今日、私を犯して疵物にした貴方。
その、歪んで、苦しそうに、愛おしそうに笑う貴方。
「……良い夢を」
前回のノアの話とはそんなに繋がって無いです。こっちの続きは今書いてます。
感想や評価、お待ちしています。