ブルーアーカイブ共依存短編小説集   作:人格分裂

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恋人の生塩ノアに匂いでマーキングされる話

「そういえば、先生」

 書類を持ち上げる。

 彼はかたかたと無心でコピーとペーストを繰り返されているモニターの表から目を逸し、私に視線を向ける。

「一週間」

「……どうしたの」

 彼は訝しげに、そして優しく目を細める。

 答えるよりも先に、私は彼の右手にある山のようなコピー用紙たちを脇へ避けて、足で丸椅子をずり動かして、そうして彼の隣を占拠する準備をする。

 一方の彼はそれを察して、少しだけキャスターの付いた椅子を蹴った。小さな椅子が入る隙間が生まれて、私はそこにするりと擦り寄った。

「一週間が経過しました」

「当てようか」

「ええ。どうぞ」

 椅子をゆっくりと動かして、彼の隣に腰かける。

 彼が意味も無く私の方に利き手を伸ばす。

 私はその手を取って、指を絡めて、静かにその体温を愛撫する。

 

「……だめですよ」

「駄目なの?」

「……いいえ。今は、誰もいませんから」

 

 すると、彼は私を引き寄せて、私の唇に己の唇を押し当てた。

 ぱちぱちと、脳が爆ぜるような音を鳴らした。

 私の思考がそれに付随して、小さく靄を立てた。

「……今日の夕飯、どうしようか」

「適当に買って帰りましょう。恐らく、大体のお店も閉まってますから」

 

 私は彼と過ごしている。

 私と彼は、愛し合っている。

 それは──寝食を共にしているという意味で。一つ屋根の下で共にいるという意味で。額を触れさせ合いつつ眠っているという意味で。

 ……まあ、同棲していると一言で言ってしまえば良いのだろうけれど、それで間違いは無いのだろうけれど──何分私はそんな風に、簡単な名前を私たちの生活に名付けたくないのだ。

 私は。

 私たちの酷く爛れた日々のことは、そんな取り繕って上品に表現することではないと思う。

 言葉よりも前にあるくらい、もっと原始的で、もっともっと野性的で。

 言い表せないから、ではなく。

 そうやって短い言葉で表現して澄まし顔をするのが、あまりに恥ずかしいから。

 そんな具合に、滑稽に謙虚にいなくてはならない。

 

 そっと彼が机に向き直る。

 右手を私に預けたまま、妙に青白い横顔はモニターを凝視している。

「一週間前ねえ。……昨日の夜ご飯も思い出せないのは、もう年なのかな」

「まだまだ若いでしょうに」

 

 くすりと笑って、私はそう言葉を返した。

 そうだといいんだけどね、と、彼はなんだか浮かない顔で呟く。彼の横顔を見ると、全体的に伸びた黒髪が陰を落としていて、ただでさえ陰気な彼の様子は尚更陰鬱に映る。

 

 私たちが外で会うのは、久し振りのことになる。

 いくら帰る場所が同じであるとはいっても、所属する場所が全然違う。そもそも、表向きにも、実質的にも、私と彼の関係は先生と生徒の関係だ。彼が求めない限り、公の場では滅多に会えない。

 そんな訳で、家で会えるからと、彼が私を当番に呼ぶ機会はめっきりと減ってしまったのだった。少し残念だが、当然の判断とも言える。

 で、二人とも帰りは遅いから、寝る時間にギリギリ顔を合わせるだけ、みたいな日もあって。

 文句は言わないでいたのだけれど。

 けれど、──。

「ノア」

「はい」

「いつか暇だったら、久し振りに当番に来て欲しいな。一緒にシャーレ行こう?」

「…………」

 みたいなことを思っていたのを、全部察されていた。

 気恥ずかしかった。

 普段は鈍感も鈍感なのに。

 

 そんな彼と、こんなに傍にいられるのは、久し振りな気がしていた。

 そう思うと、愛おしくて、いじらしくて、恥ずかしい気持ちになって──ついつい、ちょっかいをかけてしまう。

 

「着床?」

「先生」

「冗談だよ」

「他の娘に言ったら撃たれてますよ」

 

 ……そんな私の手前、貴方も少しは恥ずかしいと思ってくれ。

 上品であってくれ。

 少しは恥じらえ。大体、ちゃんとそうならないようにしているだろうに。

 

「それで。結局、なんだったの。変なことはしてないと思うんだけど」

「……そうですか」

 

 彼の長い襟足を撫でながら、その言葉の色に嘘が無いことが、私にはとても不思議に思えた。その一方で、不必要な安堵を抱く。

 

「先生が眼鏡をかけなくなってから、の日数です」

「……なるほど?」

「何か、心境の変化があったのかと思いまして」

「ああ、なんだ。ただのお洒落だよ」

 

「……そうですか」

 

 彼は、少し首を傾げて。

 そして、するりと右手を引き抜いて、揃った両手でキーボードを叩き始めてしまう。

 

「どっちの私が好き?」

「どちらの先生も、好きですよ」

「そう?」

 

 口調だけは冷静に、前を向いたまま、彼は心底嬉しそうに、照れ臭そうに笑う。

 彼は少し幼い顔立ちで、何かあると、すぐに艶のある黒い前髪を触る癖がある。今しているように、顔を隠すように。

 ただそれだけの仕草が、私の心を優しく炙る。

 唇を噛むようなその表情を彼の横から垣間見る度に、私は、──ああ、本当に私のことが好きなんだな、と、思わされる。

 

 それと同時に、酷く幸せで、満たされた気になって。

 まるで幼い子供の恋情みたいに、胸がきゅっと切なくなるのだ。

 

 ▲▼▲

 

 今日、私は知ってしまった。

 シャーレの当番に行っている生徒は、彼の家に住み着いている私よりもよっぽど彼と時間を過ごしているということを。

 

 いや。

 浮気を疑っているという訳では、決してないのだけれど。……今は、もう。

 

 傲慢にも程がある言葉にはなるが、先生はあまりにも私を溺愛している。私に依存している。

 それまでは一人で生きられていたのに、今の彼はそんな過去なんて忘れてしまって、私がいなければ多分どうにもならない人間性に退化している。のだと思う。

「ノア、好き」

「知ってますよ」

「好きだよ。ノア」

 だって寝る前に譫言みたいにふにゃふにゃな声でそう繰り返してハグを求めてくる男ですし。

 会える機会が少ないとはいえ、いや、だからこそ、少しでも顔を合わせればまるで甘えたがりの猫みたいに可愛らしく私に擦り寄ってくる男ですし。

 流石に。流石に、ねえ?

 

 いや、それはどうでもいい。

 まあともかく。そんな具合に、彼は私以外の誰かと深い仲になることはないし、それができるほど器用でもないと、私はきちんと理解してあげているのだ。

 

 問題は、生徒の方だ。

 彼は何故だか慕われてしまう。

 私以外に見せない側面を知らないままでも、十分に魅力的だからだろう。と、頭では分かっていても──それでも首を傾げたくなるが、まあモテる。私からすればそれ無しに彼を語るなんて、なんとも不遜なことだと思うけれど。

 

 いや、そんなことはやはりどうでもいい。

 肝要なのは、そんな彼と日中長い間過ごしているのだから、そこで何かをどうにか間違えて、私の先生を手に入れようとしてしまうかもしれないということだ。

 

「…………」

 

 それは避けたい。

 彼の自制心を疑うのではない。ただ、事実として、彼は力が弱いのだ。私は過去に一度、何だか妙に気が荒ぶっていて、殆どレイプ同然に襲ったことがあった。あのときも、彼は、相手が私であるということを差し置いても、掴まれた腕を振り解くこともできないで──。

 

「……」

 

 関係を公にはできない。

 けれど。

 それでも、手は打てる。

 

「……っ」

 

 手首に巻いた包帯に無意識に爪を立てた。その下にある無数の児戯に似た切り傷を無闇な痛みで揺り起こす。血の出ない、皮膚を数枚切り裂いただけの、擦り傷にも満たない自己満足の痛み。すぐに瘡蓋になって、その上から新しく傷を作って、なかなか完治はしてくれない。手首から二の腕までびっしりと赤い筋が刻まれている。彼が毎日軟膏を塗ってくれるのが嬉しくて、いじらしくて、だからやめられない。今も。こうして。伸びた爪で、引っ掻いて、痛い。

 唇を軽く噛んだ。小さく血の味がして、ぴりりと痺れるような微かな痛みが走る。私はその痛みを知っている。嫌というくらいに知っている。私一人で噛み締めていなくてはならなかった痛み。私の脳を安らかにしてくれた、危険な脳内麻薬。それらは、今では、貴方が教えてくれた沢山の幸せを思い出させるトリガーになっている。私が貴方を想って一度初めてしまった自傷癖は、今では貴方を想うために。

 目的から、手段に。

 私は私を傷付けて、それを当然のように思っているのだから悍ましい。

 あ、駄目なパターンに入ったな。

 自己嫌悪なんて、一番自分を傷付けるには絶好の大義名分な訳で──。

「ノア?」

「……」

 

 夜行電車。

 二人だけの重量を乗せて、寂しく揺れる。

 正面、窓の方を見れば、濃紺の夜が私達の姿を映していた。

 ちらちらと移り行く橙色の光が、まるで私たちを追い越してゆく蛍にも見える。

 

「……ごめん、寝てた」

「いえ。良いんですよ。まだもう少しかかりますから」

 

「もう少し、寝ていましょうか?」

 

 私は、旅行でも何でも、移動時間が一番好きだったりする。

 これから始まることに思いを馳せ、一緒に向かっている大切な人と過ごす時間が、どうにも暖かくて愛おしく感じてしまう。

 今も、

 私の肩に頭を載せて静かに眠る彼の寝息と、否応なく続く沈黙は。

 安らかで、ああ、なんて、素晴らしい時間だろう。

 

「好きだよ」

 

 ……。

 家の中と勘違いしたのか。

 もしくは、ただの幻聴か。──だとしたらどれほど私が滑稽なのだろうという話にはなるが。

 

 わたしも。

 

 彼を支えている左腕を握り締める。

 そっと、彼の側頭部に私の髪を触れさせる。

 

 

 

 彼は私を溺愛している。依存している。

 では、私の方はどうかと言うと。

 

 そんなこと、改めて言うまでもなく。

 

「……」

 

 こうして、頬に唇を寄せて。

 躊躇いもなく、押し付けることが、幸せであると思う。

 

 何かを思う度に、貴方のことが先に浮かぶ。

 その度に、頭から貴方を締め出して、でもやっぱり寂しくて。

 

 私はもうとっくに、

 貴方の虜になっている。

 

 御託を全部取っ払って、貴方の全てを私のものにしたいと、心の底から思っている。

 

 ……他人がどうとか、本当はやっぱりどうでも良い。

 肝心なのは、彼を私の色で染めるということだけなのだ。結局。

 

 電車が、高架の上を滑ってゆく。

 私は眠る彼をそっと抱き寄せて、今度は額に口づけした。

 

 ▲▼▲

 

「ただいま」

「おかえりなさい。ただいま帰りました」

「おかえり」

 

 他愛の無い挨拶をして、玄関の鍵を締める。

 二人で並んで手を洗い、口を濯ぐ。

「ノア」

「はい」

 媚びるように挑発的に目を細めて、彼が私を呼ぶ。

 少しだけ背伸びをすると、それを待っていたように、彼が優しく私の唇を奪った。

「……我慢、できませんでしたね」

「ノアがいるとね。つい、ね」

「キス、したくなりますか?」

「そうだね。……そういう気分になる」

 彼はそっと私の腰を抱き寄せた。

 一歩前に出る。身体が触れ合う。私の胸がはしたなく彼の胸元に押し付けられて、膝同士がこつんと当たる。彼は、ほんの少しだけ私よりも高い目線から、物憂げに見下ろしている。

 その瞳には、真っ白な影が一面に広がっていて、その中心に浅い紫色がぽつんと二対、揺れている。

 私は、ただそれだけが嬉しかった。

 

 目を閉じる。

 背中に回された掌に、少しだけ力が籠もる。

 

 水音。

 ヘッドギアで耳を塞がれている私は、そんな状況なんて一つしか無いけれど、口の中で起こる音に少しだけ敏感だ。

  

 互いに唇から溢れた舌先を、遊ばせるように触れ合わせる。唾液と唾液で橋が架かる。慎ましくいじらしく、最初は恥じらうように身をくねらせていた舌先が、徐々に遠慮を失って抱き合い始める。そして、いつもみたいに、私は熱い肉の塊を押し込んで、彼の口腔内を蹂躙するのだ。

 

 薄く瞳を開ける。

 私に全てを委ねて、彼はよがっているみたいに淫靡に蕩けたような表情を浮かべていた。

 大きな掌がびくびくと震えて、触れた肩の振動が伝わって、可愛らしい。

 

「っ、ふう……」

 

 ちゅる、と音がした。

 ずるりと、私の細い舌が引き抜かれる。彼の唇の端から伝った唾液の線を静かになぞる。

 

「可愛いですね」

「かっこよくなりたいよ」

 硬くしてしまったそれをなぞろうとする。

 彼は腰を引いて、それを避けた。

「ノア?」

「ユウカちゃんに似てきましたね。反応」

「俺以外の名前出さないで」

「あっ、ごめんなさい。コユキ先生のことを嫌いになったわけでは無いんですよ?」

「誰よその女。本当に誰よ」

 私の彼は、そう言って笑う。

 そうやって、うっかりと晒してしまった自身の嫉妬を隠すみたいに。

 まるで女の子みたいだ。そう思ったところで、また彼がへそを曲げそうだなと気付いて、私も笑みを浮かべる。それで無かったことにする。

 攻めと受けでは、攻め側の方がよっぽど繊細にならなくてはならない。なんてのは、かなり有名な話だ。

 何故ならサービスを与える側だから。相手にそっぽを向かれて成立しなくなるのはそちら側だから。

 彼と話していると、それをいつも思い出す。合意があって意地悪をしている訳でもないのだから、当然なのだけれど。

「さ、ご飯食べよっか」

「そうですね」

 そう言って振り返った彼の背中。

 ひょいと手を伸ばして、両腕を首に回す。

「……疲れた?」

「なので、先生を充電してるんです」

 肩に顔を埋めて、きゅっと抱き締める。

 全身に、ふわりと浮遊感が漂う。

「じゃあリビングまで連れて行こうかな。お姫様」

「大した距離じゃないでしょうに」

 すりすりと肩口に顔を擦り付ける。

 すっかり薄くなった化粧の白が、黒いスーツに掠れて伸びた。

 

「一口食べる?」

「唐揚げください。その食べかけが良いです」

「主張が強いよ。唐揚げとして見てないでしょ」

「先生が食べたいです♡」

「なんて反応すればいいの」

 

「私のエビフライ食べますか?」

「いいの?」

「はい。私が片方咥えますから、先生はもう片方でお願いします♡」

「脂でやるもんじゃないよそれ」

 

「ご馳走様」

「ごちそうさまでした」

「美味しかった」

「はい。とっても」

 

 

 小さなテーブル。彼の正面から隣に移動やはり擦り寄って、肩に頭を乗せると同時、手の甲を五指でなぞる。

「先生……」

「……ノア?」

 彼の脈拍が上がる。

 演じる熱っぽい視線の先。可愛らしい相貌を小さく引き攣らせながら、首の動きで私を打ち捨てる。

「せ、ん、せ、い」

 すかさず、その視線へ割り込む。

 膝と左手をフローリングの床へ触れさせる。気分は彼の大事な大事な、いたずらっぽい愛猫。

 ……流石にちょっと痛いか。

「今日はやけに距離が近いね?」

「嫌ですか?」

「ううん。何かあったかなって」

「いえいえ。ただ、そういう気分なだけです」

 それでも優しい彼が両腕を広げる。

 そこへ飛び込んで、彼を抱き竦める。

 何度目になるかも覚えていない。何度でも飽きない。呆れられても構わない。

 

 私も彼も、どちらも子供みたいで。

 言葉や仕草で愛していると伝えられないと、どうにも不安で、寂しい気持ちになってしまうのだ。

 根底では疑っている。相手を、ではなく──愛されている、自分自身を。

 この生温い体温以外に、そんな希望に満ちた自分の実在を証明できるものなんて──どこにも無いのだから。

「先生」

 面倒な思考をやめられないまま、私は彼に問う。

 私の香りを移すように、強く身体を密着させながら。

「私のこと、好きですか?」

 彼は答える。

 私の全てを受け止めてくれる。

「大好きだよ。愛してるよ、ノア」

 歯の浮くような言葉で、真剣に返してくれる。

 

 ▲▼▲

 

 彼の家に私物を持ち込んで居候をしている立場だから、何かを偉そうに言える立場ではない。

 そのうえで、言わせてもらうと、彼の部屋の浴槽はとても狭い。

 

「……ノア、入るよ」

「どうぞ♡」

「ちゃんと浴槽入ってるよね?」

「はい♡」

 そのため順番に身体を洗う必要があり、大抵はこうして、どちらかが後から浴場へ入ってゆく必要がある。

「……良かった」

「そんなに私の裸、見たくないですか?」

「見たい見たくないじゃなくて心臓止まるからね」

「……見慣れてる癖に」

「見る機会が多いことと見慣れてることは必ずしもイコールじゃないってことを教えてあげようか」

「どうやってですか?」

「…………俺のタオルを剥がして投げ捨てる、とか」

「それはそれは。是非見てみたいですね」

「……見慣れてる癖に」

「何度でも見たいですから」

 

 とろりとした不透明のお湯を持ち上げながら私が言うと、彼は呆れたように溜息を吐いて、それからシャワーヘッドを持ち上げた。

 長い前髪。白い肌。

 端正な横顔。誰が見ても魅力的だろう。でも、この世界で一番この顔に惹かれているのは、私だ。

「……眼福」

「聞こえてるよ」

「聞かせてますから」

 

 ──だから。

 シャワーでお湯を被っている彼の頭に。

 手を伸ばし。

 後ろから。

 

「……ノア?」

 

「ノア!?」

 

 どろりとした白い液体をぶちまける。

 

「ノア!? 何!? シャンプー!?」

「はい。シャンプーです」

「何プッシュくらいした!?」

「4〜5回です」

「地肌ガッサガサなるけど!?」

 

 本当は八回ですけどね。

 

 ▲▼▲

 

 とぷ。と、揺れる水面。

 立ち上る湯気。

 私の目の前に彼がいる

「何だったの?」

「無限シャンプーってご存知です?」

「ノアが絶対にやらないことのうちの一つだよそれ」

 以前、セミナーで温泉旅行に行っていた際に、コユキちゃんがユウカちゃんにやっていたのを覚えている。

 何度流しても復活する泡に、ユウカちゃんはかなりパニックになっていて、可哀想で、可愛かった。

 ……コユキちゃんは私に近付きもしなかったけれど。

 そのことに関しては、割と根に持ってる。

「ということがありまして」

「楽しそう……で、良いのかな……」

「ふと思い出しまして」

「ノアが思い出すって言葉使うの若干違和感あるよね」

「そうですか?」

 

 まあ、私の記憶は主に「取り出す」という感覚で出力されるので、間違いじゃない。

 最近は勝手に先生の顔を頭が浮かばせてきて勝手に照れていたりするから、これを思い出すと言うのかもしれない、なんて。

 そんな風に思ったりはする。

 

「それはさておき、満足しました。ありがとうございます」

「満足頂けたなら良かったけども。これで髪サラッサラになったら良いな」

 

 狭い浴槽。波々に嵩の上がった水面。

 私の目の前では、彼が私に背中を預けて、無力に抱き締められている。鼻先に触れた長めの襟足がくすぐったい。普段はくるりと曲がっているそれは、水に濡れたせいか、今だけはすとんと真下へ落ちている。

 私の香りが漂っていた。女性らしい、柔らかな匂い。

 いっそ噎せてしまうくらい強く、彼から発せられるそれは──紛うことなき、私のマーキング。

 

「……ノア」

「はい」

「ノアって温泉旅館とか、好き?」

「好きですよ。旅行に行くならのんびりしたいタイプなんです。ご存知でしたか?」

「思いっきり遊びたい、みたいな感じじゃないのは分かるよ」

 

「行きたいですか?」

「纏まった休みが取れたら、行ってみたいなって。百鬼夜行かレッドウィンターか」

「……それ、数年先になりませんか?」

「否定できないなぁ。哀しいことだけど……」

 

「こういう日常も大事だけど。特別な思い出だって、幾らあっても良いものだよねって、思ってさ」

「そうですね」

「だから、ノアと……どこでも良いから、記憶に残るようなところに行って、記憶に残ることをしたいなと。そんな風に思う訳ですよ」

 

「じゃあ」

 彼の肩に顎を乗せる。

 目を瞑ると、彼の濡れた肌の感触が鮮明になる。

「いつか、一緒に……行けたらいいですね」

「……そうだね」

 

「でもそういう旅行って結局行きの交通手段が一番テンション上がってるよね」

「分かります。すごく」

「反応早ぁびっくりした」

 

 彼は小さく笑った。

 

 

 ……それから、私の手首を握って、傷痕に指をそっとあてがった。

 

 

「……先生?」

「……ノア。今日は嫌なこと、あった?」

「いえ? ありませんよ?」

 

 そう。

 彼はなんだか微妙な面持ちで呟く。

 

 ──嫌なこと、なんて。私には、あまり無い。

 それどころか。今の私には、幸せなことばかりだと思うくらいで。 

 

「気にしないでください」

「そっか」

 

 先生には、きっと分からない。分かって欲しくない。

 この幸せがどれほど不安で、貴方の優しさがどれだけ私にとって痛いのか。

 貴方のせいで痛いだなんて。

 その痛みが、どこか心地良いなんて。

 

「……本当に」

 

 知られたくない。

 

 ▲▼▲

 

「いい匂いがする」

「リラックスできてよく寝られるって触れ込みで有名なコロンがあって。付けてみたんですが、どうでしょうか?」

「ノアの良い匂いがする」

「良いでしょう?」

「すごく」

 

 彼と私は、二つの布団を並べて敷いて寝る。

 いつも真ん中で手を握り合って、私が彼の掌をくすぐったり、指を絡めたりして遊んでいる。

 

「…………今日はえらく寂しがり屋だね」

「どうでしょう?」

 

 そんな私は今、私のシャンプーの匂いを纏った彼の布団に潜り込んでいた。

 胸元に顔を埋めて、抱き締められている。

 冷房で冷えた部屋の中にいるとは思えない体温の高さを自覚している。頬まで熱い。

 

「どうでしょう、とは。どういう意味でしょうか」

「私が寂しいと思っている、そこで思考を停止させるのは愚かだと思いませんか?」

「意図があると」

「はい。考えてみてください」

 

「私がノア不足なのを察してくれた、とか」

「あら。そうだったんですか?」

 

「嵌められた……」

 

 彼は、呆れたように溜息を吐いた。

 一方の私は──そんな彼にさり気なく、さり気なく、すりすりと身体を押し付ける。

 

「……実際、そうなんだけどね」

「……」

 

 彼の声が降ってくる。

 真上から、私に向かって。

 

「なんだか、今日は──ノアとずっと一緒にいられた気がしてさ。普段から傍にいるような気がしてたけど、いざ今日を鑑みると、実際はそうじゃなかったんだなって実感した、というか」

 

 暗闇の向こう。

 瞳を閉じたまま、私を受け止めて離さない彼の声が。

 

 彼は静かに私の髪を梳く。

 細い指先が頭のてっぺんから、行って、帰って、また戻って。

 

「なんだか、……思ったよりも、寂しい。もしかしたら、今日でノアと一緒にいられる時期がおしまいになるかもしれないのに、なんだか勿体無い気もして」

 

 飾らない、素直な言葉だった。

 私のことを愛している彼の、掛け値の無い本心からの告解だった。

 

「……女々しいね」

「そうですね」

「同意は違うくない?」

「そういうところが、好きです」

 

 女々しく拗ねたように彼が言う。

 私はもぞりと一層身を縮めて、目先で折り曲げた指先を見つめている。

 とくん、とくん、と、優しい鼓動が聞こえる。

 あまりにもいじらしくて、胸が張り裂けそう。

 

「センチメンタルで、繊細で、すぐに不安になったり寂しくなったり甘えたくなったり」

 

「奔放で、無邪気に愛ばかり囁いて、でも本当は脆くて、自分にだけ愛を注いであげられない」

 

「人を愛する資格が無いと嘆きながら、人を愛したくて。愛されたいのに、人が怖い」

 

「そんな自分がなんだか嫌になって」

 

「また憂鬱な気持ちになる」

 

「……言語化されるとなんというか、己の愚かさで死にたくなってくるね?」

「そんなことありません。そんな貴方が好きなんです。男らしいとか、頼りになるとか。私はそんなこと、求めていませんから」

「求めて欲しいんだけど」

「……空気読んでください」

「ごめんなさい」

 

 私は文学少女なのだ。

 ロマンチストなのだ。

 

 嫉妬深くて欲深で、自傷的に感傷的。

 そんな私にこそ、貴方は相応しい。

 傲慢にも、愚かしくも、私はそう信じて疑わない。

 だって、貴方の心がそうまで複雑に鬱屈としていなければ──貴方は私の気持ちなんて、びた一文も理解してくれなかっただろう。面倒だと一つで切り捨てて、すぐに見放していただろう。

 そしてそれは、私も同じことだ。

 

 恥ずかしげも無く。

 私は。

 

「先生のそういう面倒臭さは、一番の魅力ですよ」

「ノアがそれ言う?」

「だから先生は私と一緒にいるべきだと、そう言っているんです」

 

「だから……」

 

 

「ノア」

 

 私の揺らぎを、やはり彼は真っ当に受け止める。

 

「……大丈夫?」

 

 抱き寄せてくれた。

 背中をぽんぽんと撫でてくれた。

 

「……大丈夫、です」

 

 ゆっくりと呼気を整える。

 溢れ出る色んなものを押し込めて、私は語ることをやめられないでいる。

 

「私も、寂しいです」

 

「ずっと一緒にいたいです」

 

「離れたくないです。傍にいてください。こうやって、抱き締めて下さい。じゃないと不安です」

「……そうだね」

「愛してます。私の愛しているって、そういうことなんです。……愛して、ください」

「愛してるよ」

 

 間髪を入れずに囁いて、彼は私の手首を痛ましくなぞり、それからゆっくりと指を絡める。

 布団の外。二人の胴体の上で、冷気を受けて震える手と手。

 洟を啜る。眦から溢れた灼熱の感情が、彼の寝巻きへと染み込んでゆく。いやいやをするように首を振って、私は一層辛くて、痛い。

 私は。

 私は。私は。私は。

 

「愛してる。ノアが望む限り、ずっと傍にいる」

 

 もう言葉は紡げない。

 必死に嗚咽を噛み殺して、ああ、もう嫌だ。

 重い。鬱陶しい。

 自己偏憎の心根を、赤子をあやすように彼は撫でる。

 おでこに軽くキスをする。

 

「愛してくれて嬉しい。こんな私を、……必要としてくれて。ずっとずっと、ノアのおかげで生きられてる。ノアがいないと、耐えられないくらい」

 

 小さなあくびをして、変わらず彼の声は酷く優しい。

 付き合わせてごめんなさい。でも愛してる。

 ここまでしないと満足しない私でごめんなさい。でも愛してる。

 

 こうなってしまうから隠していた。

 目を逸していた。

 けれど、本音では。

 こうして彼に泣いて縋りたかったのだから──なんとも、みっともないな。

 

 私は私が嫌いだけれど、嫌いな自分を治すことはできないでいる。

 彼に構って欲しくて、自らを傷付けたあの頃から、傷の意図は徐々に変わっていった。私の傷付けたかった私は、ずっと私の中にいる。私は、私が傷付くことで彼を傷付けるのが何よりも好きなのだ。そんな私が嫌いなのだ。

 

「……」

 

 

 私は、まだ、彼に愛されていたい。彼の瞳に映るのは、私だけであって欲しい。

 

 

「眠れる?」

「……はい」

 

 繋いだ手とは違う方の手で、彼は私の背中を撫でる。

 不細工な泣き腫らした目を見られなくて、心底良かったと思う。

 そんな私のおでこにもう一度キスをして、その距離を保ったままで、彼は囁く。

 

「おやすみ。少なくとも朝までは、……手繋いだままでいようね」

「……はい」

 

 

 

 

   

 

 

 ──花の香りがする。

 この部屋の片隅にこぢんまりと咲いている紫紺の花弁。

 ハイドレンジア。水をやらなくても勝手に育つ球根。延々と水の入った瓶の中で伸び続ける細い根が、どこか悍ましく見える。

 

 

 暗闇の中では、その他の感覚が機敏になる。

 掌から伝わる少女の冷たさ。

 弱弱しい鼓動。

 すすり泣くような小さな吐息。

 

 

 少女の名前を口の中で呼ぶ。唇が閉じたまま紡がれた音が飴玉のようにかろりと転がる。

 甘くて苦い。オレンジピールに似た爽やかで、どこか毒のある甘ったるさ。

 

 少女の名前を口の中で呼ぶ。

 呼ぶ。

 呼ぶ。

 明瞭に恋をした女性。

 

「私を拒絶しないでください」

 

 嗚咽に似た告白を受ける直前、彼女はそう言った。

 俺は彼女を抱き締めた。

 ただ、それだけが答えだった。

 

 薄く目を開く。

 

 純真な白が見える。薄ぼやけた視界の中。

 

 

 ──どうにも、見えるものが多いと頭が疲れる。

 昔は、何もかもが鮮明に見えている方が良いと思っていた。世界など、鮮やかであればあるほど美しいと。

 

 

 

 

 

 今は、不鮮明が好きだ。

 この手の届くところにあるものだけ見えていれば、それでいい。

 そこから先は不必要だ。

 ただ、この手の先にある、  がいればいい。

 

 

 

 名前を呼ぶ。

 彼女の白はあまりに綺麗で、闇に溶ける透明に見えた。

 

 

 

 

 できることなら、一緒に溶けて交じり合って、一つになってしまいたかった。

 美しい彼女が、この黒い で汚れてしまうなら。

 きっと、その時初めて、 は真に彼女に愛されていると言えるのだろう。

 

 

 ▲▼▲

 

「ただいま、ノア」

「おかえりなさい、先生。今日はどう……」

 

 

 エプロン姿で出迎えた私の肩をぐいと掴んで、彼は珍しく薄く開いた眼でこちらを見ている。

 

 がちゃん、と、後ろ手に扉が閉まる。

 かたん、と、チェーンがかけられる。

 

「先生?」

「シャンプーにコロンに香水か」

 

「シャーレの先生は女の匂いを纏わせて仕事してるだらしない輩だって言われたんだけど」

 

 

「分かっててやったな?」

 

 覗き込むみたいに、首を傾げる。

 ……過去一番冷たい声で、彼が言う。

 

「……先生が気付かなかったのが悪くないですか?」

「ノアの匂いなんてもう気付かないって。はい、お仕置き」

 

 

「せ、先生、これは……」

「頑張って隠しな。もー知らない。困るだけ困れ」

 

 

 鏡で慌てて確認する。

 予想通り、首筋に三日月状の噛み痕が咲いていた。

 

「痛いですよ、先生。酷いです」

「痛くないとお仕置きにならないでしょ」

 

 彼は拗ねたように吐き捨てる。

 私はゆっくりとそれをなぞる。

 

「これで反省したら、せめてこういう仕事に差支えがあるようなことは……」

 

 

 ごちゃごちゃとうるさい口をキスで黙らせて、私はうっとりと、その朱色を見つめている。

 

 

 

 

 

 ……ああ。

 この傷が一生、治らなければいいのに。




読了ありがとうございます。自傷癖ノアの続きです。
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