「ミモリちゃん、おままごとつまんない?」
「え。そんなことないよ? どうして?」
「だって、ずっと変な顔してるから……」
「へ、変な顔?」
「楽しくない?」
「……えーっと……」
齢六歳。まだ目鼻の先、昨日と今日と明日だけが私に許された時間で、学校と公園と自宅だけが私の世界だった頃。
公園の砂場で向かい合ったまま、視界の端で焦げてゆく砂の肉を見守りながら、私は困ったみたいに、曖昧な表情を浮かべていた。のだと思う。
変な顔。
喜怒哀楽のどれでも無い、微妙な表情。拙い語彙力故に、彼女はきっとそうと表現するしかなかった。私は未だ、自身が浮かべていた感情が具体的にどういったものだったのか、推測以上には語れないでいる。
おままごと。
世の少女が示し合わせたように行う児戯。
私はその時、砂で作られた台所で、目に見えない包丁とフライパンと火を扱い、娘の役をしていたお友達に振る舞おうとしていたのだった。何か当然のように私は母親役だった。その日はお昼ごはんを作っていたけれど、ある日は洗濯、あくる日はお弁当と言った具合に、とにかくお世話係。その間、私は確かに彼女の母親だった。
最初に断っておくと、私は彼女がそう言った際、即座に、心底心外だと感じた。
何故なら、飽きずに何度もやっていただけはあって、私はそのロールプレイを楽しんでいた。そのつもりがあったからだ。もしも彼女が私の笑みを味気無いと感じたのなら、それは私が母の慈しみの笑みを作り上げるのが下手だったからだろうと、私は思っている。
この点を譲る気はさらさら無い。
さて。幼い私は、そう言おうとした。
口まで開きかけた。
──だというのに、どうして私は、実際には煮え切らない態度を返してしまったのだろう?
答えは単純──改めて振り返って、
もっと広い意味で、
楽しくない、と、そう思い至ったからだ。
私は彼女にそう言われた刹那、否定材料を探すために、生まれて初めて、昨日よりも前の時間軸に想いを馳せた。
私が繰り返してきた、妄想の中の"大人"な日々に。楽しかった遊びの日々に。
その内に。私が楽しんでいたのは、私の手が届き得ない営みに対する新鮮さであったのではないか、と。つまりは、そういう意味での虚しさを覚えたのだ。
同時、その仮説が正しいのなら──世の母親、そう銘打たれた生命の生涯、即ち当たり前のようにこの日々を遊びでなく職務として繰り返している彼女たちと同じ立場になったとき、私は──。
楽しいのか?
幸せなのか?
そういったことを、自問した。
自答はできなかった。
今まで楽しいと思っていたものが、途端に特別でも何でもない小さなものに思えてしまった衝撃。
もっと広く、自身の将来像への漠然とした不安。自身が行き着く先の不透明さ。
小さな手で握った砂がボロボロと零れてゆくのを眺めながら、それらは拙い語彙力を表現することができないまま、結論を結ぶこともできないまま、
"娘"が不思議そうに首を傾げる中、私はただぐるぐると、下手な邪念を巡らせていた。
What should I do?
How should I be?
と。
▲
幸せとは何であるのだろう。
人はどのような時を以て幸せであると言えるのだろう。どのようにして喜びを獲得してゆくのだろう。
どうせ人はいつか死ぬのだから──とか。喜びの感情も一過性のものなのだから──とか。今になって敢えてその疑問を口にするなら、私はそんな賢ぶった言い訳を幾らでも付加するだろう。
けれど、私が最初に抱いたこの虚無的で原始的な絶望には、そんなくだらないものなんて無かった。
魚が鰓で呼吸をするように。
鳥が卵を産むように。
無垢に、幼気に。
私は自然に、そう考えた。
──幸せになるためには、どうすれば良いのでしょうか?
何もかも、出会った頃の鮮やかさだけが先行して、あとは色褪せてゆくだけの日々なのに。
それでは、生き続ける意味だなんて、無いのでは?
それ以来私が始めたのが、幸福のモデルケースを収集するという行為である。
周りの人間が、何を、どのように楽しんでいるのか。誰がいつ、どのように喜ぶのか。それら観察して、自分と比べて、いつしか、自分なりに幸せの意味を見つけられたら──そう思って。
色んな人間がいて、色々な幸せの形があった。
テストで100点を取った。
25mを泳ぎ切った。
好きな漫画の新刊を買った。
帰り道に蝶を見つけた。
図書室で面白そうな本を見つけた。
周りの友達の楽しそうな表情を集めながら、私自身も成長し続けていった。
内心は懐疑的になりながらも、そんな積み重ねを増やしていった。
──そして、十年以上が経過した。私は、高校生になった。
その頃には、自らの目標に従って努力することに人は幸福を覚えるものだと悟っていた。
私は素直に、素敵な花嫁になりたいと思って、それを目指すことにした。きっかけは少女漫画だった。そのような目標は傍目から見てちっぽけなものであった方が自然だと、私は知っていたからだ。──そもそも、やはり起源がおままごとなだけあって、私はなんだかんだ家事が好きなのだろう。
憧れた少女が使っていたのと似たデザインの桃色のエプロンが、ようやく身の丈に合うようになった。
人の顔色を伺い続けたせいか、無意識の内に、目の前の人間が今何を思っているのだろうということに、神経を尖らせるようになった。
もう、おままごとでなくても、家事は殆ど完璧にこなせるようになった。
他者を癒やすことができるように、様々な技術を身に着けた。
そのための努力は、確かに楽しかった。
私は幼心に、真剣に憧れた姿に向かって、一生懸命だったと思う。その営みはきっと、無為なものなんかじゃなかった。
けれど、一つだけ足りない。
私は、漫画の中の、幸せそうな女の子を夢見ていた。それは、あんなに楽しそうに笑って、尽くして、素敵な殿方に愛される。そんな幸せが、無為なものに感じられると同時に、一方ではあんまりにも羨ましかったから。あの女の子のようになりたかったと言っても、究極、家事ができるとか立派な大和撫子になるだとか、そんな部分は二の次だったから。
私が本当に必要としているのものは、花嫁修業だけでは手に入れることができないものだった。そうと分かっていながら、私は上辺だけを追いかけ続けていた。
分かっている。分かっているのだ。私が未だに満たされていないのは、上辺の表層だけが立派になって、肝心な誰かには出会えないままだったからだということ。このまま彼女のようになれたって、彼女が得た幸せには手が届かないだろうということ。
だって、私が本当になりたかったのは──。
「……こんばんは」
綺麗な人。
暗い人。
印象は、黒曜石。
「生徒の子かな? ちょっと助けて欲しいんだけど」
「貴方は、噂の──」
「私が噂になってるのかは一旦置いておいて、多分正解だよ。それが良いことかは分かんないけどさ」
曇天の、いやに寒々しい夜に。
私と彼は、初めて出会った。
「良い夜だね。風が涼しくて、爽やかで」
「そうですね。でも、曇っていて月が隠れているのが少し残念です。今日は満月の予定でしたのに」
「ずっと見られてるからね。月だってたまには隠れてみたくもなるものだよ」
どちらかと言えば軽薄に。冗談交じりに、そんな声色で彼は言った。よく通る、澄んだ声。音の無い夜には一層歯切れよく、綺麗に思える。
けれど同時に──その瞳がわずかに揺らいでいることを、私は見透かしていた。
涙とは違う。微妙に焦点の定まっていない瞳。意識の層で起こっている、大きな大きな、異質の揺らぎ。
「……それは」
思わず、胸に手を当てる。
痛ましく、小さく、呼吸が浅くなるのを感じる。
苦手だ、こういった心は。──私はこんなものを読みたくて、読心術を得たのではないのだから。
「貴方の立場を考えると──あまり冗談に聞こえませんね」
「優しいんだね。でも大丈夫。私は目立ちたがり屋の寂しがり屋だから」
暗い中でも分かるほどに濃い、目の下の隈。
溌剌という言葉の真逆を突き詰めたような、綺麗に整えられた外跳ねのある紫がかった黒の長い前髪。
目元にある泣き黒子。銀縁の丸い眼鏡。
灰の瞳に、濃い下睫毛。
「……もう少し慎みがあったほうが良いって、自分でも思うよ」
「……そうでしょうか」
薄い笑み。
哀愁と嘲笑と諦念。不安と憂鬱。
鏡面のように、その表情に浮かぶ仄暗さ。
「まあそんな訳で出歩いてたら、迷子になっちゃってさ。もしよかったら、私が予約してる旅館までの経路、一緒に考えてくれないかな? マップ見たらこの辺なのは分かるんだけど」
それに言及するべきか、そうでないのか。
図りかねて僅かにたじろぐ私を見て、彼は不思議そうに首を傾げる。
「……見せてください」
その空気感が異様に苦々しくて、逃げるように私は彼の隣に立って、手元にあるデバイスを覗いた。
ふわりと甘い香りがして、少しだけ気持ちが安らぐ。
香水だろうか。キヴォトスで売っているものの内、その大多数は女性向けのものなのだが、彼はその点については気にしていないらしい。彼の蠱惑的な雰囲気に似て、誘われるような魅力を感じさせる芳香。
「あー、この辺、入り組んでますから……」
「分かりそう?」
「はい、大丈夫です。着いていきますよ」
「助かるよ。ありがとう」
私は、あれから大分上手になった笑顔を彼に向けて、そう言った。
同時、胸に重たいものを覚える。大和撫子に相応しくあるために、柔和な印象を与えたくて、普段から行っていることではあるけれど──初対面の人に微笑みを向けるのは、未だになんとなく緊張してしまうのだ。
あの時みたいに。ぎこちない、なんて──困惑されてしまうんじゃないかと思って。
「綺麗だね」
そんな私に。
彼も小さく笑って、そう言った。
「月が、ですか?」
「いや。優しい笑顔が、だよ」
「誇ると良いよ。その表情を人に向けられる自分を。その心はきっと、美しい」
ひどく平然と。
気取らずに、平坦に。
薄暗い街灯に照らされて影を纏って、
彼は──先生は、どうにも綺麗に見えて、困った。
「そういえば。名前、聞いてなかったね。教えてくれる?」
「修行部、所属の……水羽ミモリです。よろしくお願いしますね」
「ああ、ツバキとカエデのとこの」
「私はご存知通り、シャーレに所属してる先生だよ。何かあったらいつでも頼って……」
「今日は頼る側になっちゃったから、あんまり信用できないかもだけどね……」
困ったように笑った。
その表情が、先刻の美しさと比べると一層、やはりどこか悲痛なように見えてしまって、傲慢にも憐憫を覚えた。
失礼だと分かっていても、それでも。
「じゃあ、水羽さん。お願いします」
「ミモリで良いですよ」
だから、彼の手を取った。
少しでも、彼に安らぎを覚えて欲しかった。
見るに堪えない痛ましさを、どうにか癒してあげたかった。
「み、もり、……ちゃん……?」
「?」
振り返る。
手を握られたせいか、それとも慣れない呼び方のせいか──夜でも分かるほどに──耳まで顔を赤くさせた彼が、そこにいた。
「いや、ごめん、なんでも……」
それまでの雰囲気と一転して、その様子は可愛らしく、また、あまりにもピュアだった。
「……いえ。大丈夫ですよ。これからも、ミモリちゃんって呼んでくださいね」
そう言って、私は笑った。
きっと──今までで、一番自然に。
▲▼▲
昼時の街を歩いてゆく。
散った桜の花弁でできた道を、静かに踏み締めてゆく。そうして、目的の貴方を見つけて、少しだけ跳ねる心を押し留めながら近付いてゆく。
「先生、ご機嫌如何ですか?」
百鬼夜行には、たった一本だけ、いつの季節の間でも満開のままで居続ける桜の木がある。
──彼は大樹の足元にある木造の休憩所の中で、静かに上を見上げていた。
「あまり良くないね」
粗末なベンチに座った彼は、笑って答える。
鎖のような装飾が幾つもぶら下がった派手な耳飾りが、じゃらりと揺れる。
「……そうですか」
お隣、よろしいですか?
私が聞くと、彼は静かに腰を横へと移動させた。空いたスペースに座ると、相変わらず甘い香りが彼の方からやってくる。
「でも、今ここでミモリ、……ちゃんに会えたから、ちょっとだけ良い気分になったかも。なんてね」
貴方がここにいるのは、知っていた。
カエデちゃんから聞いたから。
「久し振り。わざわざ顔を見せに来てくれたんだ。悪いね」
「いえ。私が先生に会いたかっただけなので……」
「……そうなの?」
不思議そうに、彼はきょとんと首を傾げる。
「はい。……もしかして先生は、私に会いたくありませんでしたか……?」
「ううん。ミモリちゃんにお礼も言いたかったし、会えたら良いなって思ってたよ」
安心すると同時に、何処か浮つく心。
あの日の夜から二週間。私は延々と貴方のことばかり考えていた。病んだ瞳。優しい笑み。可憐な恥じらい。貴方が見せくれた様々な色は、そのどれもが頭に焦げ付いて、離れてくれないでいた。
「何か、悩みとかあるの? 何でも聞くよ」
「悩み、では無いのですが……」
そこで私は、どうしても会いたかった彼への口実を取り出して、机の上に置く。
「お弁当だ」
「はい。……よろしければ、食べて欲しくて」
「私が?」
頷いて、そっと彼の方へ寄せたのは──風呂敷で包んだ、大きなお弁当箱。
「私の将来の夢は、素敵なお嫁さんになることなんです」
「……素敵すぎるね」
「それで修行部に入って、花嫁修業をいつもしているのですが……男性に意見をもらったことがなくて。良ければ、修業の一環だと思って、食べて頂けませんか?」
「そういうことなら、喜んで」
昔から。
少女漫画を読んでいて、それが醍醐味であるとは知っていて、楽しんでおきながら──一方で、いちいち挟まるヒロインのトキメキの演出の冗長さに、思うことが無いではいられなかった。
確かに盛り上がる場面ではある。
楽しみにしている部分ではある。
それでも大袈裟過ぎるだろうとか、頻繁過ぎるだろうとか。内心思っていたけれど。
けれど──。
「じゃあ、開けるね。……重箱なのね」
「はい。先生に出すものですから……」
「そこまで気合い入れなくても」
「実は朝ごはん食べてなかったから、お腹減ってたんだ。楽しみだね」
「駄目ですよ。きちんと朝昼夜、三食食べないと」
「分かってはいるんだけどね」
ああ、なるほど。
あれは誇張表現でも何でも無かったのか。
まだ中身を見てもらった訳でも無いのに、こうも一挙手一投足に目が奪われて、言葉を交わしていることが嬉しくて、胸が高鳴って──。
後ろで舞う花弁の鮮やかさの一つ一つが。
澄んだ空気の空の青さが。
乱高下する鳥の鳴き声が。賑やかに通り過ぎる女の子の声たちが。
私と彼を取り巻く世界が全て、焦れったく鮮明に映る。
そうだ。
世界なんて──冗長であれば冗長であるほど良い。
だって、同じ時間でそれだけ長く、彼と一緒にいられるのだから。
シャボン玉が飛んで、心臓がどくどくと鳴って、世界はこんなにも美しい。
「……ミモリちゃん?」
「はっ」
「大丈夫?」
「は、はい。すみません、ぼうっとしていて」
「とっても綺麗なお弁当だね。お金払って毎日作って欲しいくらい」
「毎日、ですか?」
「比喩としてね。……凄いね。ミモリちゃんは本当に、良いお嫁さんになれると思うよ」
「あ、味も! 食べてみてください!」
「勿論」
「お好きなものがありましたら、是非教えてくださいね。参考にしますから」
卵焼き。
お浸し。
小さなハンバーグに唐揚げ。
和え物。
おにぎり。
ポテトサラダ。
彼は私の作ったそれらを舌鼓を打って食べながら、あれもこれも美味しいとしか言わない。
参考にならないですよ、と窘めても構わず、それどころか、「全部美味しいんだもの」と言って、聞かなかった。譲らなかった。
清廉で優しい心の音がする。
心地良い。ずっと浸っていたい温かさ。
「ミモリちゃんは一緒に食べないの?」
「先生の分が無くなってしまうと思ったのですが……」
「流石に二重のご飯全部食べるのはわんぱく過ぎるし、それに、一緒に食べた方が美味しいよ」
なんだかもう、本当に。
彼の言葉はどうにも優しい。
特別でなくても、温かい。
「では、その……もう一つ、お願いします」
「うん?」
「食べさせ合いっこというものを……してみたいのですが……どうでしょうか……?」
「良いけど、……良いけども。何に憧れてるの?」
▲▼▲
夏の暑さが妙に和らいで、ぽっかりと穴が空いたように涼しい夜だった。
「……あ、ミモリちゃん」
「先生。こんばんは」
彼はバス停のベンチに座って、漠然と空を見上げていた。
「変なタイミングで会うね、いつも。……私は今からシャーレに帰るところなんだけど、ミモリちゃんは?」
「私は、学校帰りでして」
その隣に座る。
隙間は殆ど空けないで。密着するみたいに。
「こんな時間まで? あんまり遅くなると危ないよ?」
「いえ、普段はここまで遅くはならないのですが……」
相変わらず、彼からは甘い香りがする。
くらくらとするほどに、魅力的なのは──その香りか、それとも。
「実は……部室の掃除に熱が入り過ぎたがあまりに、勢い余って学校中を……」
「あらら。それはよく頑張ったね」
「……正直、後半は暗くて綺麗になっているのかよく分かりませんでした」
「それは、明日が楽しみだね」
そう言って笑う彼は、いつものスーツに、銀色の細いネックレスを着けていて。
「今日は眼鏡では無いのですか?」
「そういう気分だったからね」
「……そういうものですか?」
「そうだよ」
誰かと会うために、お洒落をしたみたいだ。
「今日は、どなたかに会いに来られたのですか?」
「百鬼夜行に呼ばれてね。それから忍術研究部とか百夜堂とか、色々回ってたんだ。歩きっぱなしで疲れたよ」
「……よろしければ、マッサージしましょうか? 大和撫子を目指しているだけあって、自信はありますよ」
「ほんと?」
彼は目を輝かせて、
それから、一秒だけ考え込む素振りを見せた後、もう一度振り返って、言う。
「……でも脚を揉ませるのには流石に抵抗があるから、代わりに肩を揉んでもらおうかな。デスクワークで凝ってるだろうから」
「分かりました。では、背中を出してください。先生」
大柄とは言えない、彼の平べったい背中。
肩の辺りにそっと手を置いてみると、それらの筋繊維の一つ一つは錆び付いたように凝り固まっていて、まるで砂利が縒り合わさって作られた堆積岩のよう。
「……先生はもしかして、毎日畳の上で寝ていらっしゃるのですか?」
「え? 普通にシャーレのソファで寝てるよ。でも確かに畳も涼しくて良いよね。何も気にせずにごろ寝できるの、最高」
「いえ、そういう意味では無いのですが……」
それでは碌に疲れも取れないだろうに。
懸念ですら前向きに受け取ってしまうのだから、なんだかもう、呆れてしまう。
前向きな人だと、皆は言う。
彼と関わった多くの人々は、彼について、自身も釣られて明るくなってしまうほどにポジティブな人間だと評することが多い。
……私はそうは思えない。読心術で彼の心の一端に触れた以上は。どれだけ明るい側面を見たところで、第一印象の仄暗く暗澹とした瞳は頭から離れない。
彼の影の傍にある痛痒。
彼を苛んでいる悪感情。
「……先生」
「あ゛あ゛……ぐ……ど、したの……?」
「あれ。あまり強くしないようにしているのですが……痛いですか?」
「最初は良かったんだけど、なんか……段々力が強くなってる気がする……と、いうか……ぐ……」
「す、すみません!」
「でも解れてる感覚はするし、とっても上手だと思う……痛いだけじゃなくてちゃんと気持ちいいし……ぐうっ……」
「む、無理はなさらないでくださいね……?」
「無理はしてないよ、全然。何かしらには目覚めそうだけど」
嘘は吐いていない。
……そういう趣味なのかもしれない?
「私、人の趣味は人それぞれだと、きちんと理解していますからね。大丈夫ですよ」
「え、急に何の話、……あの、そこもうちょっと重点的にお願いできますか……?」
「はい。構いませんよ」
彼の肩甲骨の傍にある筋肉を、ゆっくりと押し込む。彼が気持ちよさそうに吐息を吐く。
彼の肌は冷たかった。
彼の身体は薄かった。
私は、悲しくて、悔しくて、羨ましくて、
大和撫子には似合わない想いばかりで、嫌になる。
「……」
「先生」
「うん?」
「……もしまた、私が先生のためにお弁当をお作りしたら、……食べて頂けますか?」
「勿論」
「……また、こうしてマッサージをさせてもらっても?」
「寧ろこっちが悪い気がするけど……」
「ミモリちゃん」
「はい」
「私はね。先生として、生徒の皆のしたいことは何でも応援したいと思ってるんだ。だから、ミモリちゃんも遠慮しないで、何でも相談してね」
だったら、先生。
私は。
「花嫁修業なんて、とっても素敵な夢だと思うから。ミモリちゃんが素敵なお嫁さんになれるためなら、なんだって協力するよ」
「……ありがとうございます」
「うん。……前も言ったかな。私ってば寂しがり屋だからさ。誰も頼ってくれないと寂しくて、変なことばかり考えちゃうんだよね」
「変なこと、ですか?」
「うん。信用されてないのかな、とか。悪い癖だから直したいんだけどね」
「……先生が?」
「意外?」
意外ではないと言えば嘘になる。
彼の卑屈な人間性はともかく──あれだけ多くの生徒に慕われている先生ですら、そんなことを考えることがあるのか。
だとしたら、貴方の心を埋めるためには──。
一体、どうしたら良いというのだろう。
「なんてね。……冗談だよ。変なこと言っちゃったかな」
「そんなことありません。私は寧ろ、嬉しいんです」
思わず、手が止まる。そしていちいち語気が強くなる自分に気付いて、嫌になってしまう。
私だけが必死になっているようで、己のさもしさが見え透けてしまっているようで。
「私も、同じなんです」
それでも──譲れなかった。身体が動くのを、止められなかった。
「私だけにしか見せない一面があって欲しいと、私だけにしかできない役割があって欲しいと、どうしても、そう思ってしまいます」
彼の無防備な背中に、身体を預ける。
両腕を首に回して、抱き締める。
彼はびくりと背中を震わせた。そこから、黙り込んで動かなくなる。
秋口の虫が鳴く。
りんりんと。
「……私、読心術ができるんです」
結局、次に口を開いたのは私。
沈黙は十秒も持たない。言葉を、何でも良いから交わし続けたい。彼の心が私から離れる瞬間が怖い。
「心の方? 唇の方?」
「心の方です。勿論、何でも分かるわけではありませんが、目を見れば、どんなことを考えているのか、何となくは分かります」
言ってしまうべきか、そうでないのか。
「すごいね。……少し大変そうだけど」
「その通りです」
少しの逡巡の後に、躊躇いながらも迷いなく、私は口を開いた。
「例えば──先生の心に感化されて、気分が酷く落ち込んだりだとか」
彼の心音が高鳴ったのが、掌に伝わる。
手が少しだけ震えている。表情が見えなくても、先生は分かりやすい。……この距離まで近付くことができたなら。
「次、こちらに来たときは──是非、この続きをさせてください。お弁当を作って、お待ちしていますから」
「分かった。楽しみにしておくよ」
「だから──どうか、私の前では」
「ありのままでいてくださると、……とても嬉しいです」
「大和撫子として、良妻として、貴方を癒して差し上げたいんです」
「情けないだなんて思いません。他の誰にも見せられないような姿を、私の前でだけは見せられる──そうと信頼してはくださりませんか。私に、甘えてみませんか」
今しかない。
今しかない。
他の誰もいない夜の中。
私と貴方の二人だけ。
バス停の黄色い灯り。誘蛾灯の瞬き。
二人を置いていく僅かな排気音。
冷たい貴方を抱き締めて、
祈る様に、
必死に、
たとえそれが胡乱な様相に見えても。
「私は、私だけは、分かっています。先生の、痛みを」
「気持ちは嬉しいけど……そこまで大袈裟に言わなくても。私は先生だから──」
「初めて出会ったとき」
耳元で囁く。
一言一言に想いを込めて。
その脳を、私の声で、揺さぶるために。
「貴方の瞳は揺れていました。私は忘れてはあげられません。感傷的で、孤独で、そんな心を抱えて──泣いていました。貴方は確かに、とても静かに。だから、逃げるように、あの曇天の下にいたのでしょう?」
「だから、」
「私が抱き締めて差し上げたいんです。貴方が涙を流す場所を、私が作りたいんです」
「……ミモリちゃんは、どうして」
「当然です。私は、思うんです」
「何を?」
「私は、きっと先生と出会うために生まれて来たんだと、そう思うんです。……貴方のために、今まで生きて来たんです」
「……ですから、……ね? せん、」
「ミモリちゃん、バス来たから、離れて」
すっと、血の気が引くような感覚がする。
気付く。あまりに夢中になっていたせいで、客観的な視点を喪っていた。言ってはならないことまで、全部口走ってしまった。
言いたいことばかり言って、我儘で、気持ち悪い。
私は──だから、少女漫画のヒロインにはなれないのだろう。
「あっ……そ、そうですね。……あの、すみません」
「ううん、気にしないで」
慌てて、腕を解く。
立ち上がった彼の顔はもう見られない。指先に残った空虚の感触を、誤魔化すように弄り回す。
「ミモリちゃん」
「……あの、私、」
「また、明日」
タラップを登った彼は、そう言った。
幻聴を疑うくらいに爽やかに。
「お弁当、……楽しみにしてる」
遠慮がちに、俯いて。
▲▼▲
「ミモリちゃん、おはよう」
「おはようございます、先生」
修行部の部室の、外に面した障子を開けると、そこからは綺麗な庭園が見える。
川の水を利用した人工の泉。鹿威しが落ちて、苔生した岩に飛沫が散る。
松、銀杏、梅の幹。まだ若い葉が、ちらりはらりと落ちてゆく。
青い空に、白い雲。張り詰めたような澄んだ空気。
せせらぎの音、葉が風に揺れる音。
夏の暑さがいつの間にか随分と和らいで、地上から幾分か高い場所にあるこの部室からは、たまに生温い風が吹く。涼しいとは言えないけれど、そこには確かに秋の色気がある。
「眠たい」
「唐突ですね」
「話のネタ、上手く思い浮かばなくて。ごめん」
「真面目なのかそうでないのか、よく分かりませんね」
彼は、珍しく額を出していた。普段は目元が隠れるぎりぎりのところまで前髪を伸ばしているのに。
印象がそれで変わるかというと、また別の話だが。彼が明るい人物と評されるようになるためには、あまりに暗すぎる表情と瞳の色を少しくらいはマシにしなければならないだろう。
「……お弁当、あるかな」
「作って来ましたよ」
「そっか。気が利くと言うか、私がそうさせたというか。昨日は出し抜けにあんなこと言っちゃってごめん。照れちゃって、あれ以上何も言えなくて」
「いえ、私も同じようなもので……昨日のことを思い出すだけで、顔から火が出てしまいそうです」
気まずい。
彼とどう接すればいいのか分からない。だって勢いのままに抱き締めてしまったし。
昨晩から掌の中に感触が残り続けているのだから猶更救えない。ずっと私の中には先生がいる。私は未だに、彼を抱き締めている。
「……寝転がって良いかな?」
「勿論です。座布団を枕にしてください」
彼は私の隣に、ゆっくりと横たわった。ちゃり、と音が鳴ったのは、彼の耳飾りが床に触れたからだろう。以前見かけた派手なものとは違う、質素な桃色の装飾。
風が優しく吹き込んで、彼の髪を揺らす。
私は何となく寂しくて、彼の手を握る。
「見えますか?」
「……綺麗だね」
見下ろすような形で外を眺めている私たちに、下を歩いてゆく生徒たちは気付かない。
私たちは二人だけ。
「私、ここからの景色が好きなんです。四季折々、一日だって同じ風景は無くて。生徒の方々や鳥や猫といった動物まで、色んな生命が集まっているのを見るだけで、何故だか心が安らぐんです」
「……皆、楽しそうだね」
「そうなんです。ここに来る方々の心はリラックスしていて。私にとっても、凄く居心地が良いんです」
「この距離でも、分かるものなの?」
「いえいえ。私の読心術は、神秘と言えるほど万能ではありませんから」
……先生はどうも、私の読心術に対しての関心が強いらしい。
人の心を読む力が、欲しいのだろうか。それとも、その逆なのだろうか。
「でも、ここからでも、表情を見ることはできますから。きっと先生でも、分かりますよ」
もぞり、と、彼は身体を少しだけ起こして、外を覗く。
ベンチに座った水色の髪のお姫様は、落ちてゆく葉をぼんやりと見上げている。良い俳句は思いついただろうか。
細目の女性はしゃがみこんで鯉を眺めている。普段の軽薄さを引っ込めて、疲れたような、けれど安らかな溜息を吐いている。
灰色のツインテールをぴこぴこと揺らして狸みたいな少女が歩いている。……熱心に携帯を見ている。後で動画見ようかな。
……そして、大きな松の木の太い枝につかまっている、きつね色の太い尻尾。
目が合う。
手を振る。
一瞬煙が上がって、消える。──刹那、目の前の枝に、再び彼女が現れる。
「忍法、高速木登りの術、で、ござる‼」
高所恐怖症の気がある私にはできない。
枝からぴょんと部室に飛び移ってきた久田イズナの姿を見て、素直にそう思う。
「おはよう、久田ちゃん。相変わらず器用だね。にんにん」
「おはようございます、主殿‼ それから、ミモリ殿も‼」
「おはようございます、イズナちゃん」
差し出された狐の指に、狐の指で返す。
ちゅ、と、薬指と中指同士が触れ合う。
「あるじどの」
「なーに」
「あるじどのは、ミモリ先輩とお付き合いなさってるのですか?」
「違うよ。どうして?」
「主殿と手を握るだなんて、うらやまけしからんうらやましいです」
「二回羨ましがってたね」
「可愛らしいですね」
無言で、手を差し出してみる。
喜び勇んで、彼女が私の手を握ると、上下にぶんぶんと振り回す。
右手を握る柔らかな掌よりも幾分か小さく、熱気の籠った手がそこにある。
目尻を目一杯下げて、彼女は破顔する。
可愛らしい表情。愛おしいと思うと同時に、どこかやりきれない。
「ところで、何やってるの。割と本気で困惑してるよ、私」
「イズナは忍者ですから、普段から隠密の気持ちを忘れないようにしようかと」
「忍者としては正しいけど生徒としてはだいぶアレな気がするよそれ……ともかく、落ちたりだけはしないでね。危ないよ」
「勿論です‼」
「慌ただしいね」
「楽しそうで、これはこれで良いのではないでしょうか」
「私には思いもよらないことをする娘ばかりだよ。飽きないね」
しゅば‼ と音を立てて、彼女はまた飛び去って行った。
見れば、いつの間にミチルのところまで着地している。忍術というよりも身体能力。
「皆、楽しそうで……確かに、ここは良いところだね」
「私もいますから」
「本当にね」
ふと目をやると、淡い石竹色の少女の頬は、その髪色以上に朱色に染まっていた。
冗談のつもりで言ったのかもしれないけれど、生憎私は本気でそう思っている。
「ミモリちゃんがいてくれると、なんだか安心するね」
未だ離してくれない手に、僅かに力を加えながら。
「……なんだか眠くなってきた」
「眠たいと、先程も仰っていましたからね。……少し、眠ってしまいますか?」
「そうしようかな。今は仕事入って無いし」
「最近、お疲れですか?」
「疲れてない人間なんていないよ」
「……先生は、なんというか」
「暗い?」
「いえ。色んな方への配慮が多くて、大変ですね、と」
「そうでもないよ」
「先生」
彼女は私を呼ぶ。優しい声で。慈しむ声で。
私の何を読み取っているのだろう。惨めな心根を読まれていると思うと、嫌になるけれど、同時に気が楽で仕方がない。
甘えて欲しい。彼女の言葉に、嘘が無いことを祈る。他方、信じている。
繋いだ右手がそれを示している。
「膝枕、致しましょうか?」
「いいの?」
「はい。花嫁修業、ですから」
『お付き合いなさっているのですか?』
リフレイン。
なんだか気恥ずかしい響きを持って、脳内で繰り返し聞こえてくる。
彼女は私を愛しているのだろうか。
心が読めるなら、分かるだろうか。
彼女が私を愛していて、
彼女の言う花嫁が、私の結婚相手と言う意味で。
こんな日常がいつまでも続けばいいのに、と、……無為に、そう思う。
「……ふふ」
「ミモリちゃん?」
「いえ。可愛いお顔ですね」
「もしかして」
「……ふふ」
「……敵わないな」
目を閉じる。
風が心地良い。少し手を伸ばすと、可愛らしい風呂敷包みの感触がした。
「先生」
「何?」
「私のこと、ミモリと、呼び捨てで呼んでみますか?」
「……ミモリ」
「……」
「照れるなら提案しなけりゃいいのに」
「良いんです。それ以上に、嬉しいんです」
▲▼▲
彼は寝息を立てている。
胸が膨らんで、沈んで。その繰り返し。
私は夢見ている。
お婆ちゃんになっても、貴方の傍でこうして貴方を撫でていたい。
私は、貴方に会うために生まれてきたのだと、今も心の底から信じている。
私は貴方の花嫁になりたくてここまで生きてきた。貴方を支えてあげたくて、今も生きている。
貴方を愛している。今この瞬間、貴方が隣にいてくれて、本当に良かったと思う。
それと同時に、貴方が私との生活を思い浮かべてくれたことが、どうにも嬉しい。
一歩ずつ。焦らずに。
貴方の嫌いな貴方を、貴方が愛することができるように。貴方の仄暗い心根に、明るい日差しが差すように。
私はいつか、貴方の花嫁になりたい。
あの漫画の主人公のように。
貴方に愛されて、貴方を愛して、笑い合えるようになりたい。
「先生。……ずっと、貴方の傍に……」
貴方の頬にそっと唇を寄せて、キスをする。
部屋の中には未だ、安らかな沈黙が満ちていた。
読了ありがとうございます。
共依存って程共依存でも無いかもしれませんが折角書いたので。ミモリ大好き。
感想や評価いただけると幸いです。