ブルーアーカイブ共依存短編小説集   作:人格分裂

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内海アオバと愚かな貴方で、世界は回る

 賢いことと、思慮深いことと、生きることに向いていることは全然違うんだな、なんて。そんなことを、いつも思って生きている。

 憎まれっ子世に憚る。幅を利かせる。厚顔無恥で無ければ、そんな生き方はできないんだ。誰かに嫌な思いをさせないとか、将来の自分に恥じないようにとか、そんなことを考えて謙虚に生きる人の権利は、そうでない人に侵害されて、侵略されて、侵されて。その譲歩や気遣いは、誰にも顧みられない。

 貴方が今日、平然とした顔で持って帰ったボールペン。それを補充したのは誰?

 貴方が今日浪費したコピー用紙の、裏側だけでも、使いたかった人はいたんじゃない?

 貴方が安物だからと奪い去ってしまったビニール傘だって、私は買ったばかりだから大切に使おうなんて思ってたんだよ。

 貴方は何でも無いことを頼んだつもりだったのかもしれないけど、なんで自分でもしたくないようなことを他人がしてくれるって期待してるんだろうね。それだけ、私のことを軽んじているって意味になるの、分かってるのかな。

 これは絶望ではなくて、言うなれば失望。評定に淡々と紡がれてゆくバツ印。私にしか聞こえない毒が、リフレインになって、私の身体の中だけを循環してゆく。蝕んでゆく。

 

 ──だから私は、この心を鎖した。

 

 どれだけ身の回りが侵略されても、踏み荒らされずに残り続ける、小さな私だけの世界を作り上げた。私はそこに引きこもっていて、たまに思い付いたようにその中から、気まぐれに毒を吐き捨てて、また扉を閉める。

 私は、賢い。思慮深い。私よりもそれに長けている人が、どれだけいたって関係ない。私は知っている。私よりも考え無しな人の方が多い。私よりも人を慮ることのできない人は恐ろしいほどに多い。私が抱えてきたこの傷の数が、それを証明している。

 傷つけば傷つくほど、私は自身の脳味噌に自信を持てる。

 私は貴方達より、正しいかは分からないけど、絶対的に思慮深いのだ、と。

 そんな私は、だから、貴方達に何も求めないことを選んだ。

 どうか恨まないで。私だって、貴方達に「期待」していた時期だってあったのだから。

 

 そうと決めてから、相変わらず世界は曇天で。

 だけど、少しだけ呼吸がしやすくなった。

 だけど、少しだけ身体が軽くなった。それだけで、十分だった。十分に、行きられると思った。

 

 明日に希望なんて無いけれど。

 そんな私が今日を生きられるのはきっと──ただその事実だけに縋っていられるからなんだろう。

 

 ▲▼▲

 

「内海ちゃん」

 他人行儀な態度は、寧ろ好印象だった。

 彼は決して私と目を合わせようとしなかった。それは生来の性質だったのかもしれないし、私が同じように視線を反らし続けていたからだったのかもしれない。そんなことはどうでもいい。大切なのは、彼が私のスタンスによく噛み合っている人だということだ。

 少し前の私だったら、期待を抱いていたかもしれない。誰も彼もが特別だと持て囃す、先生──そんな存在が、私の人生を大きく変えるのかもなんて。だけど、今の私はそんなことを考えずに済んでいた。だから、ただただ安心した。無理矢理私を変えようとするような、押し付けがましい脳の足りない人じゃなくて良かった、なんて。

 それは即ち、世界はまだ、少しだけ理性を残しているということ。

 私が鎖した心を踏み荒らされる可能性は、ただそれだけで減少する。期待はしていないけれど、信じていられる。それは、小さな小さな持続性。

 

 その程度の認識でいようと思った。

 誰が相手だって、私は私を曲げないようにしようと思った。負けたくなかった。

 

「大丈夫、心配しないで。私が何とかする」

 ──周りを暴走族やらヤンキーからマスコミやらに囲まれて、爆走する貨物列車。

 四面楚歌。火薬と硝薬の匂いが充満して、全方位から火力を注がれている。

 こんな兎にも角にもイカれた状況に身を置いておきながら、そんな風にありふれた台詞の詰め合わせみたいな言葉を吐くものだから、私はいつも通りにそれを否定する。

「……の、呑気なんですね。何も、大丈夫な要素なんて無いのに…………」

「手厳しいね」

 爆発がまた起こる。車体が大きく揺れる。空気が喉元を通過して、笛に似た甲高い音が響く。

 ──如何に生きることに希望が無くたって、こんなところで野垂れ死ぬことが怖くない訳が無い‼

 こんなところで私の尊厳と命が踏み躙られて良い訳ないんですけど‼

 あと普通に健全な人間として、本能として‼ 死ぬのは怖い‼

「まあ、安心してよ。伊達に先生やってないから」

 そんな私の方に振り返って、彼は笑う。

 ──通信機器を調整しながら、人の良くない笑みを浮かべている。丸い眼鏡の奥の茶色い瞳は、上下の瞼に挟まれて、切れ長で、鋭い。

 私は、素直に。その様を、魅力的だと感じる。

「集合!」

 緑髪の双子が一斉に運転席の隅へと駆け寄って、私をおしくらまんじゅうのように囲い込む。

 目を白黒させている間もなく、そうやってできた三人分の肉塊の一番外側に、先生が覆い被さって──。

 次の刹那。車窓が激しく割れた音がした。

「先生‼ あとでちゃんと説明してもらうからな‼」

「ナイス銀鏡‼ 最高‼」

 

 青い空、上がる火の粉、飛び散ったガラスの破片。

 スナイパーライフルを担いで蹴り込んできた少女と、生き生きとした顔で立ち上がる先生。

「上に行ってくる。指揮は任せるよ」

「勿論。目に物見せてやろう」

 その光景はまるで、物語の主人公のように見えた。

 

「よし、逆転しよう。橘姉妹、加勢行ける?」

「あとでなでなでを所望するー」

「やられっぱなしじゃ面白くないもんね‼ パヒャヒャッ‼」

「よし、頼んだよ。パヒャヒャー」

 

 二人を順々に肩車で電車の上へと送り込んで、それから──当然だけれど、先生は一人残っている私に視線を移す。

 ここが正念場だ、と、覚悟を覚える。

 それは戦場という意味でもあり、

 私の心中という意味でもあった。

 

「内海ちゃん」

「わ、私もですか? ……別に、もう私が出る幕は無いと思う、……ん、ですけど……」

「そうでもないよ」

 

 彼は、呑気と言われたって仕方ないくらいに平然とした表情のままで、私の目の前にちょこんと正座。

 両方の膝の上に掌を置いて、なんだか子供っぽい。

「ちょっと、聞いてくれるかな」

 彼は、私に向けて、真っ直ぐに視線を合わせた。

 初めて、彼の姿をちゃんと見た気がした。

 色素の抜けたような、病的なダークグレーの髪が、女性の私から見ても羨ましいくらいに綺麗だった。耳の手前を流れる横髪が、そこにある野性的な気品が、どうにも私には──私には程遠い存在に見えて仕方ない。

 軍服みたいなコートを羽織っている様だって、服の見た目こそあの幹部の姉妹に似ているかもしれないけど、与える印象が全然違う。

 これが、大人──なのだろうか。

 特別な人、なのだろうか。

 

 そんな人が私の目の前で、私に向けて言葉を発しているという事実は、なんだか現実味が無い。

 私はいつにもなく、ふわふわとした気持ちでいる。

「ちょっと、心細いんだ。私はみんなのように戦えないから」

「……う、嘘です。先生みたいな人が、そんなことを思ってるはずがありません」

「嘘だったら良かったんだけどね。本当のことなんだ」

 所在無げに、彼は笑う。

 それがあんまりにも寂しそうな笑顔だったから、なんだか私が悪いことをしているような気がしてしまう。

「一緒に戦ってくれないかな、内海ちゃん。いや、傍にいてくれるだけでも良い。……私が一人じゃないって思えれば、それだけで、頑張れる気がするから」

 

 変わらないままの温度が、そこにはあった。

 情熱的では無いし、かと言って淡々とし過ぎている訳でも無い。

 べたべたと触れてくることも無いし、そこにあるのは言葉だけで、大きく心を揺さぶるような何かがある訳もない。ただ、ぬるま湯みたいに暖かい。

 

「大人の癖に、わがままなんですね。……他の人と大差無いじゃないですか。頼めば、何だってしてくれるって、そんな都合の良い存在なんだって、そう思ってるんでしょう?」

 

 ……言いたかった。

 ……言えなかった。

 

「怖かった。理不尽だと思った。私もそうだよ。……だからこそ、一緒に戦って欲しい。絶対に私が守るって約束するから」

 

 慰めるみたいに優しく。

 だけど、強い意志で。貴方は、私を放ってくれない。

 私は、きっと──そんな言葉に弱かった。

 誰にも期待しないなんていう決意が、崩れ去ってゆくような気がして、怖かった。

 今ならまだ間に合うから、彼を拒絶するべきだ、なんて、少しだけ思った。

 

 口を開く。

 震える唇で、言葉を紡ぐ。

 

「……そ、空を、見に行きませんか。先生」

「あはは。きっと、風が気持ちいいよ」

 

 馬鹿だなあ、私。

 どうせ誰にだって言ってるって、判ってるくせに。

 

 ──私をちゃんと見てくれた、なんて。

 思うなよ、そんなこと。

 

 ▲▼▲

 

 幸せそうな奴は全員滅べば良いんじゃないかなって思う。

 こんな世界で幸せな奴なんて、どうせロクなもんじゃないと思う。

 悪い奴かはさておいて。

 多分、私には生理的に受け付けない。

 IQが20違うと会話は成立しないって言うけれど、それに近いんだと思う。私の見ているものが見えていない人間じゃないと、きっと呑気に幸せな顔はしていられないと思うし、そんな人の見ている世界は、私の見ている世界とは決定的に異なっている。まともに会話が成立するとは思えない。

 そんな齟齬で、また私は苦しむから。

 死ねば良い。消えれば良い。

 まだ、私の方が価値がある。

「…………」

 こんな過激なことは思いたくない。

 思いたくないんですけど、本当は。

 だけど、ワイヤレスイヤホンが落ちたなんて理由で踏切の緊急停止ボタン押した挙句、運転手がパニクってそのまま脱線した、みたいな理由を聞かされてその後処理をしてる身としては、文句の一つも言いたくなる。

 踏切のセンサー云々とかと違って、へしゃげたレールやら事故車両やらが叩いて直せる訳でも無いし。

 後ろで、「えー、これじゃ遊園地行けないよ〜」とか抜かしてるカップルも気色悪い。だから何だって言うんだ。せめて私の神経を逆撫でするような物言いは私に聞こえないところでしろ。

 犬畜生が。

 ……どんどん、性格が悪くなっていっている気がするのは、気の所為なんかじゃないんだろうな。

 私は日を追うごとに、どんどん駄目になってゆく。

 人生は──。

「あら、内海ちゃん。こんにちは」

「……先生」

 いつもみたいに、人生を腐そうとしていたところに、忘れられない声がして、嫌になる。

 私の心が喜んでいることを、私はちゃんと自覚しているから、それが本当に嫌だった。

「お久しぶりです。何か用事ですか?」

「まあ、派手な脱線事故があったって言うから、一応見に来たんだ。内海ちゃんに会えたなら、一つ収穫だって言えるかもしれないね」

 気楽な顔で、そんなことを彼は言った。

 私の軟派で半端で愚かな心臓は、ただそれだけで高鳴って、どうにもみっともない。

「っ、……あの、そういうの、……やめてください。こ、困るので……」

「……何か気に障った?」

「いえ、……別に、そういうんじゃ……ない、ですけど」

「前会ったときから、時間が空いてたでしょ。ちょっと気になってたんだ。最近は元気してるかなって、そう思ってたんだけど」

 なんでそんなことを言うんだろう。

 この人は何処までが打算で、何処までが素でこういうことを言っているのだろう。

 何となく、分かる。一から百までが本心では絶対に無いということは。何の打算も無しにこういうことを言う人間は、きっと逆の意味で誰にも信用されない。

 ……多分、ギリギリ悪意にならないラインを見極めているんだろうな。

 ずるい。

「列車の整備だけじゃなくて、線路の復旧とかも内海ちゃんの仕事なんだ。凄いね」

「え、えと……まあ、……それほどでも、ありますけど」

 私は、先生のことを見ない。

 俯いて、見慣れた筈の線路を眺め続けている。

 必死に、心を開かないように努めている。

「……私の何が気になったんですか?」

 

 

 

 今なんて言った?

 今、『もっと私のことを気にして欲しい』って意味合いの言葉を、私は吐かなかったか?

 

「……あんまり、他人事とは思えなくてね。内海ちゃんを見ていると、なんというか。元気でいて欲しいなって思うんだよ」

 彼はやはり、遠くを見ているような細い目で、静かに答える。

 私の内心に吹き荒れるエラーの嵐のことなんて、気にしてないみたいに。

「私は、……そこら辺にいる生徒と変わらないと思いますけど……せ、先生はもっと色んな生徒さんと仲が良いんですよね? わざわざ、なんで私に」

「生きてて楽しくない、とか。アンチオプティミスティックな感じがするとことか、ね」

 

 崩れて行く。

 私の生き方が崩れてゆく。 

 恐ろしくて、何より甘い蜜に、手を伸ばそうとしている。

 

「端的に言えば口説きに来た」

「……それって、カウンセリングの間違いなんじゃないですか?」

「私は絶望的にそれに向いてないんだよね……」

 

 よく分からないことを言われている。

 ただ、明確に分かっていることは一つだけ。

 

 ──私は、今、少しだけどきどきしている。

 それが何に対しての胸の高鳴りなのかは、まだ分からない。

 

 ▲▼▲

 

「思ったより簡単な話だった」

 

 線路を修理しながらも、暫く問答を重ねて。

 彼が口にしたのは、そんな言葉だった。

 

「……え、と」

「良かった。内海ちゃんは私よりも素直だ。私みたいに拗らせて拗らせて拗らせてもう治らない悲しい怪物みたいな感じだったら、一筋縄じゃ行かなかったけどね」

「あ、あの……普通に、傷付くんですけど……」

「いや、内海ちゃんの事情が単純とかくだらないとか、そういうことが言いたいんじゃなくて」

 先生も私のレンチをぐいぐいと動かして、線路の修理を行っていた。

 二人で黙々と作業に勤しみながら、そんな会話を続けている。

「内海ちゃんのそういうところが美徳だと思うって話。じゃなきゃ私だって可愛げのないクソガキだと思って放ってたかもしれない」

「そ……そうでしょうか。私、性格捻くれてますし……犬畜生とか思ってましたし……」

「実際に口に出さない言葉は言葉遣いじゃないからノーカウントだよ」

 何の擁護をしているかもよく分かっていない。そんな錯乱状態の私に、彼は静かに言った。

「内海ちゃんは本当によく頑張ってる良い子だよ。私は、そんな内海ちゃんが希望を持てない世界は間違ってるって保証する」

 小さく、笑った。

 憂いを込めたような瞳。一見すると胡散臭くて、怪しくて、だけど何処までもその声色が暖かくて、刺々しさなんて無くて、何だって受け止めてくれるような気さえしてしまう。

「大丈夫。内海ちゃんは良い子だよ。そのままで良いんだ。少し疲れて、恨み言を言いたくなるときもあるだろうけど、それを恥じることは無いよ」

 

 

 

 

 呆気ない。

 強くない。

 多分、こういうところが私の弱いところ。私が私を嫌いなところ。あれだけ必死に悩んでも、結局数回しか会ってないような大人に簡単に絆される。大人の彼からしてみれば、矜持が無いように見えないだろうか。私の想いは、やっぱり他愛の無いものに見えてしまうんじゃないか。

 

 期待なんてしたくなかった。

 希望なんて持ちたくなかった。

 

 この人なら裏切らないかも、なんて。

 そんな思いは、今までの決意とは、まるっきり正反対なのに。

 

「内海ちゃん?」

 

 でも。

 だって。

 それは──私がずっと、言って欲しかった言葉だった。

 私は間違っていないって。

 私以外の、それも、主人公みたいな貴方がそう言ってくれるなら。

 ようやく、私の人生は報われるかもしれないって、……思っても、良いんじゃないかって。

 

「……そんな感動する?」

「……します」

「本当に良い子だね」

 

 私の隣にしゃがんで、そうやって笑いかける貴方が、私には眩しかった。

 私のことをちゃんと見てくれた、それだけのことで、私はもう貴方のことが好きだった。

 

 ▲▼▲ 

 

 上司への報告もそこそこに、早々と寮の部屋に帰って、シャワーを浴びて、布団に潜りこむ。

 ……眠ることもままならない鼓動を抱えたまま、火照った身体を丸めて、ただただ悶々としている。

 手に持った液晶画面には、燦然と輝くトーク画面。

 公式アカウントと仕事の都合で二、三言話しただけのお友達がずらりと並ぶモモトーク。どの一番上に、彼のアイコンがいる。

 

 しばらく悩んでから、ようやく意を決して、指を動かした。

『先生、今は何をしていらっしゃいますか?』

 すぐに既読の表示が灯って、ただそれだけのことが嬉しかった。

『今はちょっと休憩中。仕事が一段落したから』

 

 また少し考える。

 もう一度、指を動かす。

『お疲れ様です。先生は私よりも沢山の仕事をしているんですよね。尊敬します』

『そんなに大仰なことでもないよ。でも、そう言ってもらえるのは嬉しいね』

『嫌になったりとか、しないんですか?』

『するよ。だから仕事が終わったらこうやって休憩してる。ちゃんと切り替える時間が無いと駄目になっちゃうから』

 先生もやっぱり、そう思ったりするんだ。

 ……嬉しい。

 彼からの言葉の一つ一つが、輝いて見える。

『今日はありがとうございました。また会えますか?』

 

 出過ぎたことを言ってしまったかな。

 送信をしてしまって、返事が怖くて、枕に顔を埋めた。

 

 数秒後、顔を横へ向けて、薄目で、携帯の画面に視線を向けてみる。

 

『いつでも、内海ちゃんが暇な時においで。待ってるよ』

 

 

 貴方ならきっとそう言うと思ってた。

 期待なんてしたくなかった私は、貴方に、明確に、そんな期待を抱いていた。

 

「責任、取ってくださいね……」

 

 じわりと両方の目から涙が無意味に溢れて、慌てて拭った。

 何度も実感する。

 何も言い訳ができないくらい、

 私は貴方に心を奪われている。

 明日を生きても良いって思えるくらい。

 

『例えば、明日でも良いんですか?』

『全然良いよ。車酔いしない手段でシャーレにおいで』

 私がバスに乗れないということを一生覚えてくれない上司には、絶対に言われないであろうそんな台詞が、嬉しかった。

 私にとって、貴方の全ては、……本当に特別なんだなと、切に思う。

 

 ▲▼▲

 

 生きることに対する無気力感。

 他者に対する、嘲笑にも似た嫌悪。

 社会に対する、漠然とした諦念。

 それらに対する身に覚えが、自身にも無かったとは口が裂けても言えない。

 寧ろ、それに慣れ親しみ、飼い慣らすことこそが自身の人生の命題だったようにも思っていた。

 

 死にたい、ではなくて、生きて居たくない、という類の絶望を以て生きていた。

 ──否、今もそうやって生きている。

 

 だから、そう。

 似ていると思った。

 生きるのに意味が無い、楽しさなんて要らない、誰にも期待しない。

 その苦しみを知る者として。

 そんな生涯に特有の息のし辛さを知っている身として。

 内海アオバには、どうか──幸せになって欲しい。未来に希望を抱いて、笑っていて欲しい。なんて。

 心の奥底から、そう思った。

 

「あの……今日は、よろしくお願いします……」

「来てくれてありがとう。まあ、そんなに構えなくて良いよ。生徒に仕事を頼むことは殆ど無いからね」

「なら安心です。……でも、先生のお役には立ちたいので、……何でも、言ってくださいね」

 

 まずは、彼女が何の掛け値もなく信頼を寄せられる大人になろうと思った。

 内海アオバが誰にも期待できなくても、世界そのものを、彼女自身を、嫌わなくて済むように──。

 

「……内海ちゃん、そんなに私のこと見てて楽しい?」

「えへへ……凄く楽しいです……」

「なら、……良いんだけど。……うん」

 

 それは、上手く行ったのだろう。

 ──というか、上手く行きすぎた気がする。

 今まで接してきたどの生徒よりも明らかに色濃い蠱惑の瞳で、彼女はこちらを伺っている。

 ちょっと初めての反応だ。

 こういうのをどう捌けば良いものか──。 

 

「あの、先生。もう少し傍に寄っても良いですか?」

「……良いけど。どうやって?」

「……先生が良いって言ったんですけど」

 

 彼女はその小さな体躯を捩って、まるで一仕事したかのような達成感を込めた息を吐く。

 私の、膝の上で。

「……嫌ですか?」

「全然」

 一瞬、その両手を持て余した。

 強張った筋を、自然解凍するみたいに緩めて、ゆっくりとキーボードの上に置き直す。

 力を込めれば圧し折れそうな華奢な体躯。

 口を塞げばまともに思考も回らないであろう弱々しさ。

 キヴォトスの生徒は私よりも力が強い。しかしそれには、真っ当に行使することができれば、という条件がある。

 ……彼女は、どうだろう?

「内海ちゃん、何がしたいの?」

「……先生の傍に、いたいんです。……先生と、触れ合っていたいなって。私、いつも……寂しいので……」

「あんまり私に期待しちゃ駄目だよ。私はそんなつもりは無いけどさ、あとになって、裏切っちゃうかもしれないから」

「私、……いっぱい、考えたんです」

 上目遣いに、彼女は見上げた。

 赤い瞳。それはランプ。

 赤信号。踏切の遮断機。危険予測。

「先生が私を裏切ったら、……どうしようかな、とか。やっぱり、信用しちゃ駄目なんじゃないか……とか。私は、……性格が、やっぱり良くないので。色々、考えちゃうんです」

「当然だね」

「でも、……もう、なるべく気にしないようにしようって、思えたんです」

 クリーム色の髪色の少女は、そう言って、笑った。

 それは、天真爛漫なものとは少し異なって、……どこか、嗜虐的な、自虐的な、何にせよ素直ではないものに見えて。

「どうせ私は、全員嫌いです。皆死んじゃえば良いって、やっぱり思っちゃいます。……そんな私が、ようやく好きだって思える先生がいてくれることは、きっと奇跡みたいなことで……」

 危ない。

「……奇跡なら。いつか、無くなってしまうなら。今だけでも、浸っていたいんです。……えへへ。それで、良いんです。先生も、気にしないでください。いつも通りで良いです、特別にして欲しいわけじゃないんです。ただ、先生が思うままにしていてください。私は、そんな先生が好きです」

 危ない。

「それと、先生」

「どうしたの?」

 なのに、どこか逆らえない。

 引き込まれるような暗い気配に。

「内海ちゃん、って……結構、他人行儀な感じじゃないですか」

「そうかな」

「はい。ですから、アオバ、って、呼んで欲しいんです」

 彼女は、そっと腕を掴む。

 細い指。骨張った感触。それらの触覚のフィードバックが、リフレインする。

「……じゃあ、アオバ。お仕事だよ」

「……‼ はい。なんでも、言ってください」

「下の階に設置してるコーヒーポッドが調子悪くてね。ちょっと診てくれない?」

 崩れて行く音がした。

 他の誰にも感じなかった何かを、感じ取っている。共感性や庇護欲とは大きく異なる何か。

 

 ▲▼▲

 

 会えない時間が二人の絆を強くする、なんて、きっと嘘。

 会えないときは会えないだけ、ただただこんな世界に生きていないといけないという苦痛に晒され続けている。

 

 だから、先生に愚痴を言いたい気持ちも、少なからずある。

 相変わらず、理不尽に対して、怒りに似た殺意を漏らしたくなる時もある。

 でも、それはしない。

 

 何度か接して分かった。先生の憂鬱は、私とは違って、清廉なものだ。

 自分に対する否定が強い彼は、一方で他者にそれを向けたりはあまりしない。

 そんな彼に、人を一方的に悪しざまに言うようなことは──恥ずかしいことなように思えて。

 

 でも、そんな彼に影響されたのか分からないけれど、最近の私は、どこか落ち着きを覚えているような気がして──。

 先生に、染められてしまったような──。

 

 そんなことを思いながら、駅に辿り着いて、目的地に向かって歩みを進める。

 彼は少し肌寒そうに、扉の前で待っている。

 

「先生、こんばんは」

「こんばんは」

 

 曇天が空を覆っていて、夕方が紫色になっている夜のことだった。

 私は仕事を終えると、すぐに先生のところへ向かうようになっていた。一緒に夜ご飯を食べに行くために。

 誰も居ないシャーレに入ると、私は自然に見えるように取り繕って、彼の腕を取る。頻繁に会いに行くようになることに対して、それまでは少しの罪悪感があったけれど、今はそうでもない。

 帽子を脱ぐ。先生は私の頭をぽんぽんと優しく撫でる。

 両腕を広げて見せる。先生は、私を強く抱き締める。

 

「会いたかったよ、アオバ」

「私も会いたかったです」

 

 嫌いだったはずの、気持ち悪いカップルの営み。

 傍目にはそれと寸分も変わらないであろうそれを、私は貴方と楽しんでいる。

 蕩けそうな甘さ。落ち着く匂い。歯が浮いて身悶えしそうな甘い言葉。

 

「……今日はどうだった、アオバ。世界は、少しくらいはマシになった?」

「はい。それは、先生がいるから……ですけど……」

 

 

 

 もう少しでも力を加えれば、背骨を圧し折ってしまいそうな気がしている。いつも。

 小食な彼女と、なるべく多くの食事を摂ることができるように、何度か逢瀬を重ねたけれど、彼女はやはり見た目だけは弱弱しいままで、なんと言うべきか──この不健全な感じを、一生拭えないまま生きていくような気がしている。

 内海アオバは、私の首筋に鼻を埋めて、すんすんと香気を啜っている。

 その様子はまるで小動物のようだ。

「……」

 腕が強張る。

 二対十指のそれぞれが妙な緊張を帯びている。

 所在ないソレは、いつも彼女の肩甲骨の辺りを撫で回すに留まっている。……留まれているのか、曖昧な場所だけれど。

 

 自分自身、驚いている。

 まさか、こんなに直球なアプローチに対して弱いだなんて。思わなかった、知らなかった。

 彼女は、私といる時間が心地良いと言う。

 私も、同じように──彼女との時間に、居心地の良さを覚えているのだと思う。

 愛おしい。暖かい。安心する──。

 

「好きです、先生」

「ありがとう」

 

 私も好きだよ、なんて言葉は返さない。

 こうやって抱き締めているのも、所詮はスキンシップの一環でしかない。

 それが、私に残された最後の砦。

 そうやって心の奥底で取り繕って、私は、

 自身を正当化するのだ。

 

 そんな私を、アオバが憎んでくれれば楽なのに。

 その真意に気付いて尚、彼女は私を好いている。

 そんな愚かさと卑しさと、愛らしさは、やはり私には存在しないものであり。

 そんな彼女のことが、きっと私は、嫌いじゃない。

 

 こんなぬるま湯に浸かっているような日々が続けば良い。

 彼女が私に飽きて、私の助けなんて要らないって思えるようになって、次第にこんなことをしなくて良いようになって、私はそんな彼女の成長を笑って見届ける。

 そうなれたらいい。

 

 私はそれを望んでいる。 

 望んでいる。望んでいる──。

 

 ▲▼▲

 

「あ」

 扉を開けて、その向こう側に少女がいる。

 随分と慌てた様子で更衣室に向かっていたものだから、何かがあったんじゃないかと不安になって。

 

 はだけた上着の隙間から薄紅色の薄い下着が見えている。

 真っ白な肌。浮いた鎖骨。貧相な膨らみ。

「違っ、ごめ……」

 

 言ってしまって、ふと気が付く。

 扉を開ける前に、「入るよ」と、一言言わなかったか?

 それに対して──「良いですよ」と、彼女の声が聞こえた記憶があるのは、気の所為か?

 

「あっ……私も……お目汚ししてしまって……」

「お目汚しとは思ってないけど、何にしても……」

 内海アオバは、小さな足音と共に、こちらの方へと歩み寄る。

 そのままの姿で。

「…………良かった、です」

「アオバ」

 その視線は、出会った直後の彼女のそれに似て、私を見ていなかった。

 じゃあ、何を見ているのか?

「駄目だよ」

「誰が決めたんですか、それ」

 一歩、後方へ。

 身を反らした私に追随する彼女は、しなだれかかるように私に縋る。その手が、私の背中側にあった扉をぱたんと閉じる。

「私の嫌いな世界が決めたルールですよね。……私は、駄目じゃ無いと思います、けど」

「……アオバ」

「先生が嫌なら、……無理強いはしませんけど。でも……そうじゃない、ですよね」

 言葉を喪う。

 何も語れない。

 アオバがそうであったように、

 自分自身も、彼女の表情に焦点が当たらなくて、

 

 狭い部屋の中で、何かが作り変えられそうになっている。

 このままだと、致命的にまずい。

 なのに、やはり、声が出ない。 

「私は、先生のことが好きです。先生は私のこと、好きですか?」

「……好きだよ」

「だったら、……良いですよね」

「……」

 

「……それとも、期待した私が間違いですか?」

「そんなことは、」

「こうなるんだったら、先生のことなんて好きになるんじゃなかった──なんて。そんな言葉、聞きたいですか?」

「アオバ」

「……先生も分かってるんでしょう? 内海ちゃんって呼び方に戻れない時点で、……多分、先生も、もう駄目なんです」

 

「もう、先生も──私のいない世界なんて、嫌なんじゃないですか?」

 

「私と、ずっと一緒にいたいんじゃないんですか?」

 

 

 それを、したり顔で言ってくるような女の子だったなら、平然とした顔で拒絶を伝えられたかもしれない。

 けれど、内海アオバはそうではなくて。

 本当に、普通の恋い焦がれる女の子が、告白するみたいな。

 意を決して、目を潤ませて、そんな表情で言うものだから。

 

「……責任、取ってね」

「私をこんな風にした責任、って、意味ですよね」

「よく分かったね」

「……私も、同じこと、思ってましたから」

 

 蕩けた瞳で、彼女は静かに見上げている。

 その頬に手を当てる。彼女は、愛おし気にその手に頬擦りする。

 

 そっと、身を屈める。

 赤い瞳に落ちてゆくように、顔を近づけて。

 退廃に身を委ねる様に、柔らかい唇を食い破る。

 

「あーあ。……しちゃいましたね。先生……」

「そうだね」

「……これから、どうしますか。もう後戻りは、できませんけど……」

 

 人生でこれほどまで強く、己が死ねばいいと思ったことは無かっただろう。

 

 けれど、目の前の少女が、あまりに幸せそうで、蕩けてしまいそうな表情を浮かべていて。

 その理由を否応なく理解しているおかげで、そんなことはできないのだと悟る。

 

 この心を土足で踏み躙った、そんな少女を、愛してしまっていた。

 そんな浅慮を、誰も糾弾してくれない。

 

「アオバ」

「先生?」

「私のこと、許さなくて良いから」

 

 自暴自棄にも似た強張った手付きで、彼女の素肌を暴露させてゆく。

 ずっと押し留めていた自我を、滾る欲望を、発露させてゆく。

 

 彼女は、それを、相変わらずの淫靡な瞳で受け入れている。

 力で言えば私よりも強い筈なのに。

 

 

「良いんですよ、先生」

 

「めちゃくちゃに、してください」

 

「愛してるって、言いながら、ですけど」




読了ありがとうございます。感想、評価頂けると幸いです。
現在オリ小説を書き始めて大分膨大な量になっており、それで投稿が滞っています。ですがそれが片付いたらまた色々書こうと思うので、どうか気長に待っていてください……。
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