「なあ、聞いたか? いなくなったライシャの話」
通りすがり、噂話を耳にした。
「ああ、見つかったらしいな。狼にでも喰われたのか、見るも無残な遺体だったとか」
よくある話だ。
農耕というものに漸く慣れ始めた人類にとって、自然と人の境界線は曖昧だ。食物連鎖の一員になるのは、ありふれた話だった。
「いや、それがな。どうにもやったのは狼でも猪でも。ましてや熊でもないらしい」
男は声を潜めて言った。
興味を引く良い手だ。思わず俺の足も止まってしまった。
「じゃあなんだ。魔物って奴か?ありゃあ、つい最近エルフの一団が、粗方駆除したって話じゃないか」
――魔物。
少なくとも神話の時代から生息する、人類の敵対者だ。
通常の動物と異なり人に慣れることはなく、死ぬときには塵となって消え去る、不思議な動物たち。
存在そのものが百害あって一理なしであるため、真っ先に駆除しなければならない。ならないのだが……。奴らは非常に強く獰猛。さらに魔法と呼ばれる不思議な力を扱う。
そこで活躍するのがエルフだ。
彼らは長い時を生きており、武芸に秀で、魔物たちの力である、魔法さえ扱う者も居る。
「討ち漏らしが居たらしい」
男はそう言ったが。エルフは優秀で、執念深い。それこそ年単位で張り込むこともあるのだ。にわかには信じられないが。
話相手の男も同様に考えたらしく、「そりゃないだろ」と笑っていた。
「嘘じゃねえよ」
男は幾分気分を悪くしたようだが、話を打ち切る気はないようだ。
「新種の魔物だ。何でもそいつらは、人間と同じ姿で、同じ言葉を話すんだとよ。そいつらをエルフ共はこう呼んでたぜ」
ああ、なるほど。つまり、ここにも現れたのか。
俺と男は、同時にその言葉を口にした。
「魔族」
*
嗅覚はひょっとすると一番重要な器官かもしれない。
ボロを纏った少女は、木の根で覆われた地面に這いつくばりながら考えた。
鼻を犬のように鳴らす姿は、とても人間とは思えないものだ。
だがそれも当然だろう。彼女の乳白色に近い黄色の髪。その側頭部に埋もれた二対のねじくれた角が、人間でないことを証明していた。
魔族――彼女はそう呼ばれる存在だった。
彼女は鼻をくんくんと鳴らし、漸く目的を発見したか、手を地面から離し駆けだした。
しかし――
「……」
目的である死骸(おそらくは鹿)には先客が居た。
一匹の犬がくちゃくちゃと、啄むように噛みついていたのだ。
犬は彼女の来訪に気がついているのだろうか。
どちらにせよ、彼女の行動に変わりはないのだが。
「……はあ」
溜息をついて、その場を後にした。
悲しいかな、彼女は野犬一匹にも勝てない弱者だった。
腹の虫が鳴った。されど食料はどこにも在らず。
ややふらつきながらも歩き続ける。
座っていても、食料が手に入る筈もないのだ。
無論歩いているからと言って、手に入る訳でもないのだが。
おそらく今日も虫や木の実で腹を満たすことになるのだろう。
少女は再度溜息をついた。
明らかに栄養が不足している。
外敵の心配などせずとも、餓死は遠くない未来に訪れるだろうことが予測できた。
木の枝を踏む音を、彼女の耳が捉えた。
反射的にしゃがみ、慎重に音と反対側の木に隠れる。
一連の流れは非常に洗練されていた。常人ならば彼女の存在に気がつくことは無かっただろう。
加えて彼女は幼く、また飢餓により衰弱していた。魔力はほとんど残っておらず、エルフの探知も潜り抜けられるだろう。
音のした方向を覗く。
「……気のせい?」
どこか遠くで鳥が鳴いている、いつもの森がそこにあった。
鼻を鳴らしてみる。湿った草の匂いがした。
下した結論は、猿か何かがゴミを落としただけ。
「よう、何してんだ?」
だから背後に何か居て、あまつさえ理解できる言葉で話しかけられた時はとても驚いた。
振り返ろうとして、苔で足を滑らせた。木の幹に頭を打ち付ける。
突如現れた男は、笑いながら「大丈夫か」と話しかけた。
恨みを込めて男を睨みつける。
エルフではない。黒ずんだ赤髪に隠れているが、耳が丸っこいからだ。
ドワーフではない。横幅はあるが、背が高すぎる。
当然魔族でもない。顔立ちは近いが、魔族の象徴たる角がない。そもそも同族なら魔力で判別できる。
つまりはただの人間。見覚えが無いが、近くの里の男だろう。
「ふうん、本当に人間そっくりなんだな」
呑気に観察し返している男を見て、魔族の少女は考えた。
これはチャンスだ。上手くやれば、数日分の食料が手に入る。
如何に首筋に歯を食い込ませるか考えていると、男は何ら警戒する様子もなく、手を差し向けた。
「喰えよ。見たところ空腹だろう? 話はそれからだ」
何を考えているのだろうか。理解はできないが、目の前に差し出された食料を拒否するほどの余裕はなかった。
小指に噛みつき、関節を噛みちぎる。骨を削るように咀嚼し、削ぎ落した肉を喉に流し込んだ。
「それだけじゃ足りないだろ? もっと喰え」
そう言って男は変わらず手を差し向ける。
嚙み千切った筈の、小指もそのままに。
「いくら喰ってもいい。俺は不死身だ。絶対に喰い足りないなんて事は起こらないさ」
男はそんな、夢のような言葉を吐いた。
*
思ったよりも、食事に時間が掛かった。男の肉は硬く、顎に違和感が残っている。
木々の隙間から漏れる光は、既に月明かりになっていた。
月明かりと、地面に点在するヒカリゴケ。揺らぐように飛ぶ光虫。
コントラストの異なる明かりを受けた男は、自身の胸を叩いて言った。
「俺が提供するのは、無限の食料だ」
手の平を私に向け、続けてこう言った。
「俺は魔法を覚えたい。だから俺に魔法の使い方を教えてくれ」
知り合いのエルフには断られたしな、と。男は聞いてもいない補足を付け加えた。
「……」
取引としては、悪くない。むしろ出来過ぎているくらいだ。
「どうだ?」
男が問いかける。
怪しい。怪しいけど。
「……いいよ」
私は伸ばされた手を掴む。確か人間はこうする筈だ。
思った通り、男は私の手を握り返した。
硬い手の平だ。大きな手の平だ。血管が脈打つのを感じる。夜露で冷めた体が温まるようだ。
「よし、それじゃあ行こうか」
男が手を放す。
「……」
「どうした?」
男が尋ねた。
「……どこに行くの?」
とりあえず、思ったことを口にした。
「ああ、流石に人里には行かないよ。魔族がどう扱われるかは知っている。
ちょっと遠いけど、俺のセーフハウスに行く。10年くらい前に住んでたから、まだ残ってる筈」
多分、と男は付け加えた。
「あそこは人間は勿論、エルフも避ける場所だ。確実に安全だよ」
一般的に。
人が寄り付かない場所は危険地帯である。
その辺りの感覚が不死身故に男は麻痺しており、魔族の少女は無知故に気がつかない。
だから「ふーん」という、適当な相槌を返すだけだった。
男は一歩踏み出した後、「そういえば」と口を開いた。
「名前を言ってなかったな。俺はゼイゲンだ。君は?」
名前――そういえばそんなものもあったなと、最古の記憶へ思いを馳せる。
この森だったのは覚えている。確か昼間で、空気は蒸し暑かった筈だ。
私を見下ろす存在が居た。でもそれが、どんな姿だったのかは思い出せなかった。
人間で言う、母と呼ばれる存在。確かあれはこう言った筈だ。
「――リープ。うん、私の名前はリープだ」
良い名前だなと、男は言った。
木の根を跳びながら進む。
ひと際大きな段差に出会う。男の手を掴み、大きく跳んで飛び越えた。
掴んだ手は離さずに、そのまま進み続けた。
そして月が隠れ、太陽が顔を出し始めた頃。
見たこともない短い葉が、太陽の光を受けて輝いている。
上を見上げれば、そこには見慣れた木々は無く、暖かなオレンジが、白いグラデーションを伴って夜を塗りつぶしていった。
少しづつ広がる朝と、後退する夜。
夜が完全に消え去った頃、男が言った。
「そろそろ行こうか、リープ。まだまだ先は長いしね」
握られた手を、力一杯握り返して返事とした。男に先んじて一歩踏み出す。
「ねえ、どれくらいで着くの?」
「そうだなあ」
額に滲んだ汗を拭い、無限に広がるかのような草原に目を向けた。
旅人の前で里の人間たちが座り、耳を傾けていた冒険譚という物語。
きっとこれから私が歩むのは、そういうものの筈だ。
「4年くらいかな。このペースならそんなもんだろう」
「…………」
足を止める。そろそろ足が痛くなってきたからだ。4年?
私はゼイゲンと名乗った男の脛を蹴った。
命名規則は原作に倣っているのですが、被らないかと戦々恐々しております。