酸の海に沈む黄金郷。それはまさに、神話の時代の光景だった。
「なんだ夢か」
「起きましたか、フリーレン様」
悪夢は現実だったようである。
フリーレンは身を起こそうとし、ズキリと全身に痛みが走った。
「申し訳ありませんフリーレン様。ここに来るまでに酸の飛沫やら蒸気やらを吸い込んでしまって。そちらの治療を優先したら魔力が尽きてしまいました」
「いや、いいよ。生きてるだけで御の字だ。私も回復魔法を覚えた方が良いかもね」
フリーレン達は屋根の上に避難していた。街路どころか建物の二階まで浸水しており、立ち昇る蒸気が街全体を覆っていた。
世界そのものが一変したかのような光景だ。同じ魔法使いとは思えない。
「――――まったく、嫌になるね。何であんな化け物に対抗意識を燃やしていたんだか」
世界を沈めた魔法使い、魔族リープは上空に鎮座していた。
彼女は眼下をじっと見つめていた。
その視線の先、酸の海の中に、完全に黄金化したマハトが居た。
あの魔族でも、マハトの黄金は突破できないらしい。流石は七崩賢と言ったところか。しかしマハトも何が出来るとも思えなかった。周囲の害を黄金に変えたところで、黄金の中に埋もれるだけだ。
とはいえこれでは千日手。
「チッ……」
リープは一つ舌打ちすると、酸の海を消失させた。蒸気も消え去り、霧の掛かった世界がクリアになる。
「お前がマハトだな?」
そして声を掛けた。何とも高圧的な物言いである。
「………………そうだ。お前は何者だ?」
マハトはたっぷりと間を置いて答えた。奴は数十年ヴァイゼに封印されていたらしいが、魔族でも彼女の事を知らないらしい。
(本当に、どこから湧いてきたのやら)
「お前が知る必要はない」
当然の疑問であった筈だが、リープは取り合う気はないようである。続けて言った。
「ゼイゲンという端麗な男が来た筈だ。どこに居る?」
「……最近1人の男が来たが、ここより少し北の方で黄金となっているな」
マハトにはゼイゲンという名前には聞き覚えがあった。
以前ソリテールが来た時に口にした名前だ。
リープという、人類との共存を目指している魔族が探している人間だった筈だ。
「ならば、お前がリープか?」
魔族は答えなかった。視線は黄金化した男を置いてある場所に向いている。今なら攻撃を加えられそうな雰囲気はあるが――
(隙は無い。まだ様子見をするべきか)
「――私がリープだったらどうなんだ?」
「…………何?」
ならば何時攻撃をするか。そう思考を進めていた所で、突如として魔族がマハトに話しかけてきた。内容から察するに、先ほど無視した名前についての問いの答えだろう。
マハトは現状の打破の切っ掛けを作れるかもしれないと、会話を続けることにした。
「リープという魔族は、人類との共存を目指していると聞いた」
「共存? 何を言っている」
リープは北に向けていた顔をこちらに向け直した。その顔には怪訝な表情が浮かんでいる。
この反応から、共存などというのはソリテールの勘違いか、人間たちが騙されたかのどちらかだったという事だ。
所詮はそんなものである。マハトは無意識に笑みを浮かべたが、だが疑問が残った。
「ならば何故ゼイゲンという男に執着する?」
共存が望みではないというのなら、何故人間を探しにこの場まで来て、無為に自身と敵対したのだろう。
その疑問は、すぐに答えられた。
「愛しているからだ」
「………………」
魔族にその感情が無いとは言わない。マハトも好意を知っている。だが、この魔族の言い様は、まるで人間のような――――
魔族リープが突如として魔法を放った。しかしその酸の液体はマハトを狙った物ではなく、黄金の街灯にぶつけられた。
そのあり得ない現象に、リープ以外の全ての者が目を見開いた。
「――――調整は終わった。死ね愚か者」
リープの声が不気味に響く。先ほどと同じ調子であるというのに、フリーレンには酷く恐ろしい物に変わったかのように思われた。
(調整という事は、既にマハトの魔法の攻略は終わっていて、最終的なズレを修正したってことかな)
おそらくは、マハトが黄金化した何かを拠点で解析していたのだろう。だがそれは古い時代の物で、最新のディーアゴルゼに合わせるため、時間が少し必要だったのだ。
それでもリープという魔族の性格上、マハトに掛けていた時間はそう長くない筈。それこそゼイゲンという男が黄金化した、数日間での活動の筈だ。
フリーレンは全身を震わせた。
(理屈は……分かる。黄金の物性に着目したんだろうね)
マハトの黄金に対し、黄金を溶かす王水という酸をベースに魔法を組んだと思われる。
魔法がイメージの世界なら。
現実という強固な基盤を基にしたリープのイメージが、非現実的な硬度を持つ黄金のイメージを上回るのは理解できる。
元より酸の魔法を鍛えていた魔族である。相性が良かったのだ。
それでも、人類が数百年為す術のなかった魔法を、たった数日で攻略したなんて、悪い夢でしかなかった。
マハトにとっても衝撃的――いいや、マハト以上に衝撃を受けた者などいないだろう。その証拠に彼は身を守る事も忘れ、呆然とした様子で溶けた街灯を眺めていた。
マハトは一体何を思ったのだろう。フリーレンには知る由も無いし、そして当のマハトにすら分かっていないように思われた。それほど彼は感情の入り混じった、奇妙な表情を浮かべ――――
――――自らの喉元にナイフを突きつけていた。
「…………何をしている?」
当然その動作はリープにとっても不可思議なものだったのだろう。怪訝な表情を浮かべ彼女は問うた。
マハトは答えなかった。答えられる筈がない。魔族の――生命の本能である、自らの命を手放すような理由を、思いつける筈がなかった。
「まあ良い、お前にかまけている暇はない」
しかし戦意が失せている事だけは確かだった。リープにとってはそれで十分だったのか、彼女は北へ飛んで行ってしまった。
「…………え、どうするんですか、この状況」
フェルンが呟いた。
マハトは動かないが、健在なままである。放置する訳にもいかないが、フリーレン達にはどうすることも出来なかった。
それでもフリーレンは考えた。
「……………………わかんない。寝てて良い?」
「駄目に決まってるじゃないですか。マイナス一万ポインツです」
「え、何そのポイント、怖い」
好感度の一種だろうか?
「戻ってきたみたいだぜ」
フリーレンは心の底から安堵した。魔族に頼るなどあり得ないが、四の五の言っていられる状況じゃない。
女神はフリーレンの心情を慮ったのか、魔族だけでなく、人間も連れてきた。ただし全裸の人間を。
「…………は!?」
「大げさですねフリーレン様。別に全裸くらい見慣れ」フェルンは明らかに失敗したかのような苦い顔を一瞬した後、澄ました表情を作った。「人として衣服は纏うべきですね」
「フェルン? 服が透けて見える魔法常用してるの? 後で話があるから」
当然フェルンの雑な誤魔化しに騙されなかったフリーレンは、フェルンと話さなければならなくなったが後回しにした。嫌な事はやっぱり後回しに限る。
そして全裸の人間ことゼイゲンが呟いた。
「局所くらいは隠すべきか」
「じゃあ私が隠してあげる。ぎゅー」
「おいおい、隠せなくなっちまうよ」
フリーレンは品性の欠けたやりとりに意識が遠のいた。というかあれがさっきまでの恐ろしい魔族なのか? 実はリープという魔族は2体いるのかもしれない。
「布……はないですね。ヴァイゼには黄金しかないのか」
「俺が脱ぐよ」
「シュタルク様のじゃちっさいでしょ」
「関係ないだろ!!!」
「は? 服のサイズは関係ありますよね?」
何やかんやでシュタルクの上着を腰に巻いたゼイゲンがマハトに向けて言った。
「ようマハト。約束通り生き残ったみたいだな」
多分だけど、絶対に約束なんてしていない。あの男が勝手に言っているだけだ。マハトのしかめっ面からそれは明らかだった。
「お前の話をまず聞きたかったんだが、それはもう良い。黄金を通してお前の事は良く理解できた」
ゼイゲンという男はよく分からない事を言った。とはいえ話を遮るほどの疑問ではないので、静かに様子を見守る。
彼は何かさっきまでの態度が嘘のように真剣な眼差しで言った。
「マハト、お前の黄金は良く出来ている」
一見して通常の黄金と見紛うほどの魔法の産物。確かに良く出来ていると言えるかもしれない。ただしある一点。黄金ではあり得ない不壊という性質を除いて。この性質だけが黄金魔法としての唯一の汚点だ。魔族が操る戦闘用魔法としては、そちらの方が都合が良いのかもしれないが。一介の魔法使いとしては少し残念ではある。
しかし男は言った。
「錆を知る事無く輝き続ける、悠久を象徴する金属。しかし黄金は容易に形を変えてしまう。実のところ、悠久とは程遠い存在だ。
――だがお前の黄金は違う。この欠点を克服した黄金を超えた黄金は、永遠にも等しい存在だ」
視座の違いだろう。
本物と寸分たがわぬ物こそ至上だとする考えと、本物を超えてこそだと考える者の違い。
後者は所謂ロマンチストである。魔族がそういう考えを持つというのは、少し前なら考えもしない事だった。あのリープ【ノイズ】という魔族により――
(……いやロマンチストとは違くない?)
ただの色ボケ女である。いや、魔族を一元的に考えるのは間違いとは知れたが。
「マハト」
男はマハトへ呼びかけた。
「それでも、お前の魔法は不完全だ」
「…………何だと?」
マハトは男の言葉に返した。今までは意識して言葉を交わす気が無かったように思えたので、思わず呟いてしまったのだろう。しかし思わず返事をしてしまった理由は理解できる。魔族にとって魔法とは誇りであり、全てである。
フリーレンは600年ほど前、マハトと交戦したことがある。その時は命からがら逃げ延びたが、マハトの魔法が度々思考を占めることになる。
その思考の末辿りついた答え。それはマハトの魔法は完全だということだ。唯一気になっていた黄金との相違点である不壊も、先の考えを前提とするなら過ちではない。
「マハト、お前は何故黄金化の魔法を目指した?」
「…………」
マハトは怪訝な顔を見せた。何故そんなことを聞くのかという表情だ。
(魔族が何故その魔法を使う事を選んだのか? それは――――)
…………何故だろう?
マハトは変わらず会話をする気が無いのか、それとも彼自身思いつかないのか、それは分からなかった。フリーレンには分からなかったが、男には思い当たる節でもあったのだろうか、言葉を続けた。
「良く考えろ。お前は一体何を目指している?
マハトは僅かに震えた。『知りたい』という言葉に反応したようだが、詳しい事情は分からない。
「…………俺の魔法と、俺の願いに何の関係がある?」
思わず発した呟きではなく、マハトは初めて意識して言葉を返した。それほどまでに、その言葉には価値があるのだろう。
「お前の願いは魔法の後に生まれたのだと考えているのかもしれないが、それは単に切っ掛けが遅かっただけだ。願いは常に潜在的に存在し、行動指針に表れる」
「……」
【ノイズ】
「『悪意』『罪悪感』お前はそれを知りたいと考え、人間に近づいた。だが何時しか『共存』という考えにすり替わったな。それは何故だ?」
「……」
全てにおいて初耳だった。今となっては時流はマハトの味方だが、やはり共存とはあり得ない考えだと思う。悪意、罪悪感という感情が欠落しているのなら尚更だ。
しかし感情の欠落を埋めたいという考えが、共存へと至るのは確かに不思議だった。
マハトは霧の中を彷徨うような、しかし憤りも感じる、強いながらも揺れる口調で言葉を返した。
「……相手を理解したい。それは好意だ。俺は人類の事が好きになった。だから共存したいと考えた。それの何が可笑しい?」
(ああ、そういう思考回路なのか)
しかしそれは十分に理解できる動機だった。そしてだからこそ、魔族とは共存できないのだと強く思った。
だって、好きな相手を何の躊躇も無く殺すなんておかしいだろう。
「お前が『理解したい』と望む感情の中心には、実はお前自身がいる。それはただの知識欲に過ぎず、本当の意味での好意とは違う」
好意とは相手に向けるものだ。マハトの理解したいという感情が、それを獲得したいという己自身へ向けたものならば、確かにそれは好意ではなく、自己の成長を目指す欲求になるのだろう。
だからマハトの共存したいという気持ちは偽りで――
「しかし重要なのは、お前がその感情を信じて『共存』を選んだことだ。
破綻に気がつかなかったのは、『共存』がお前の本当の願いの一端に触れたからだ」
フリーレンの予想に反して、男はマハトの共存への想いを肯定した。共存こそが願いの片鱗だと。
フリーレンには男が何を願いと指しているのか分からなかった。マハトも同様に分からなかったのだろう。マハトは随分とか細い声で尋ねた。
「……俺の願いは何だと言うんだ?」
「魔法こそが願いだよ、マハト」
ヒントはあまりにも曖昧で、答えには辿りつけない。――――マハトにとっては。
【ノイズ】
「朽ちず、色褪せず、永遠に続くモノ。
――――お前の目指した
誰もが持つ根源的な欲求だ。安寧なる世界。穏やかな生活への渇望。それこそがマハトの願いだと、男は言った。なるほど確かに、万物を黄金に変える魔法では届かない。冷たく輝く黄金では、暖を取ることなんて出来ないのだから。
マハトは冷ややかに、軽蔑の込もった口調で返した。しかしそれは、どこか無理をしているようにフリーレンには思われた。
「…………くだらない。俺の願いが、そんな腑抜けた欲求だとでも?」
「納得できないか? じゃあ聞くが、何故お前はヴァイゼを黄金へと変えた?」
マハトは全ての都市を黄金に変える訳ではない。むしろその手を血に染めた数の方が多いだろう。特に疑問を持ったことは無かった。魔族の考えに思考を割くなど無駄なことだと思っていたからだ。
「……特に意味はない。ただの気まぐれ。結果は同じだ」
マハトは言った。しかし結果が同じではない事は明らかだった。何故なら――
「俺は戻ってきたぞ、マハト」
男は黄金化を解いた。黄金の呪いは絶対ではないのだ。女神様が定めた、死という絶対のルールに並ぶものではない。
それは他ならぬマハト自身が一番理解していた筈だ。確実に絶命させたいのなら、黄金化という選択肢はありえない。
ならばヴァイゼの黄金にはどのような意図が秘められているのか。
「お前の願いはこの都市にあった。――ただ一つ、永遠を除いて」
フリーレンはマハトがこの都市でどのような生活を送ってきたのか知らない。それがもし輝くような――フリーレンがヒンメル達と【ノイズ】
【ノイズ】
「思い出せ、マハト。お前はヴァイゼを黄金に変えようとした時、何を思った?」
「…………」
マハトは押し黙った。しかしそれは以前のような、会話を拒否しての沈黙ではない。記憶の扉を開け、過去の闇へと歩みを進めるためだ。
長い沈黙だった。マハトは時おり目を強く閉じ、握った拳からは血さえ流れていた。呼吸は浅く乱れ、心音がフリーレンの耳まで届くかのように思われる気迫があった。
しかし強い拒絶は時と共に弱まり、心音の幻聴は途絶え、再び場を静寂が支配した。
更に長い沈黙の後、マハトはようやく答えた。苦難の旅路を終え、重い荷を降ろしたかのような、穏やかな笑みを浮かべて――――。
「
その微笑み以上の輝きは存在しないとさえ、フリーレンには思われた。
まるで憑き物が落ちたかのように、黄金は価値を失ったのだ。黄金都市ヴァイゼが、色褪せていったようにさえ思われたのである。
(…………いや、違う)
本当に黄金が色褪せ、元来の土色に街が戻り始めている。
マハトは己の魔法では願いに届かないと認めた。ただそれだけの筈だ。しかし――
そのイメージが崩れ去ったら、魔法はどうなるのだろうか。
黄金の壁は石に。黄金の噴水はただの水になり流れだした。そして黄金の小鳥は今まさに純白へと姿を変え、翼を広げて大空へと羽ばたいていった。
――――――魔法が解ける。万物を黄金に変える魔法の死を以って。
「報いの時だ、マハト」
男は言った。
「お前が受ける報いは、悪意でもなく、ましてや罪悪感でもない」
これよりマハトが直面するのは、動き出した時間の先にある、別離の運命。
故に彼が受ける報いとは――――
「どうしようもなく胸を焦がす――喪失感だ。
人よりも長く、悠久よりは短い時間で、たっぷりと味わうと良い」
この日、黄金都市ヴァイゼは城塞都市ヴァイゼに戻り、七崩賢黄金郷のマハトは――――ただのマハトになった。
続く。