ここ北側諸国で、最近衛兵の間で広がっている噂話がある。
――とある詐欺師が居るかもしれない。
かもしれないとはどういう事だと、初めて聞く者は必ずそう聞いた。
その者は神出鬼没。ある時は市場の喧騒の中に、またある時は高貴な宴席の片隅に姿を見せる。だが、誰もその存在を正面から捉えた者はいない。すべてが「気がついた時にはもう街を去っていた」という噂話に過ぎなかった。
しかし残された痕跡は確かだった。市場の帳簿に記された不審な数字、豪商が持っていた筈が紛失した金貨、そして騙し取られたと叫ぶ者の声。
それらはどれもが一貫して、同じ手口、同じ見えざる手を示していた。
――確かにこれは、あの者だ。
人々はそう口にする。だが、正体は依然として闇の中。
正体不明、影すらも掴めぬ者――それでも、その者の存在は確かに人々の心に刻まれていた。名もない者が、これほどの恐怖と畏敬を集めることがあるだろうか。
だがやはり、正体は不明。名を知れず、その者を表す言葉さえ見つからない。故に誰かがそう呼んだ。
――――無名の詐欺師、と。
「姉御! 姉御!」
人相の悪い粗野な男が叫んだ。
姉御と呼ばれた――少女と呼んで差し支えない女が溜息をつく。
「……口が臭い。今日も歯を磨いてないわね? 身だしなみには気を付けるように言ったでしょ?」
「へへ、さーせん」
少女――ソリテールは再度溜息をついた。
どうしても1人では出来ない仕事があったから適当な人間を雇ったが、やはり人はきちんと選別をする必要があっただろう。次からはそうしよう。今から面接方法を考えても良いかもしれない。
「いいえ、今は目の前の問題を解決するべきね。用件を言って?」
「それが――――」
聞くと交易フェア用にラベルを偽装したワインが取引委に見破られたらしい。教会を通しての出品であり、神父に賄賂を渡した筈なのでチェックが温い筈だったのだが。
「まさか、渡してないとか?」
「そ、そんな訳ねぇですよ! 何でもイヌ共がやり方変えたみてぇで!」
男は早口で言い訳を並べた。ソリテールの観察眼は男は嘘を吐いていないと判断したが、それはそれで問題が残る。
(少し暴れ過ぎたわね)
加減が分からず不必要に警戒を買ってしまった。我ながら興が乗り過ぎてしまったのだ。目新しい人との交流のやり方に興奮してしてしまって、ついやり過ぎた。
今ソリテールは極めて平和的な方法で人間と関わっている。可能な限り命を奪わず、傷さえつけずに金品だけを巻き上げる。今までのやり方とはあまりにも違う。だからこそ楽しかった。とても新鮮な気持ちで、そして一つの真理にソリテールは辿りついた。その真理、人間社会に於いて最も重要な事柄。それを知ることができただけでも、今までの努力が報われたようである。
ではその真理。人間にとって最も重要なモノとは。それは――
(――――お金よね。人間社会ではお金が真理。金を持つものが魔王なのよ)
それが、ソリテールが長く人間社会を観察し続け、踏み込んだ末に出した結論だった。
「それで、本命の方は大丈夫なのよね?」
「へえ、それはもう抜かりなく」
ワインが駄目になったのは不愉快だが、あれも所詮は布石。必要経費と割り切れる。この男に払った賃金のように。
さあ計画を進めよう。そのために――
「まずは水浴びをしてきなさい。ドブネズミの役はないの」
「へい! 姉御!」
*
彼は市場監査官である。
先日教会が行ったワインラベルの偽装工作について、調査を命じられていた。
調査、と言っても形だけのものだ。なにせ相手は教会。立場が強く、主犯格であると思われる神父は「魔族に操られていた」と言ったきり教会本部に移送されてしまった。おそらくもう帰ってこないだろう。北側諸国から遠く離れ、南の方で名を変え神父職でもやっているに違いない。
実のところ、この流れは分かっていた。だから形だけでもしなくてはならない調査に、自分のような若輩者が派遣されたのである。
「はあ」
正義を信じてこの職に就いた自分が、ただ形式だけの調査に派遣される現実。そんな皮肉に、彼は深く溜息をついた。
理想に、正義に燃えこの職に就いた。だが現実はどうだろう。物語に語られるような倒すべき巨悪は無く、魅力的なヒロインも居なかった。
「はあ……あ」
彼はもう一度溜息をつき――ぼんやりと歩いていたからか、通行人とぶつかり手に持っていた書類を落としてしまった。紙がひらひらと地面に散らばっていく。
「あら、大丈夫?」
彼とぶつかった男は足早にその場を立ち去ってしまったが、一部始終を見ていたであろう女性が散らばった書類を拾うのを手伝ってくれた。一応機密性の高い書類なのだが、彼女の
彼女は美しい女性だった。
翡翠のような瞳。同じ色の長髪は香油を馴染ませているのか、太陽を反射して輝き、芳香な匂いが漂っていた。
そしてしゃがんだ拍子に緩い胸元から――――
「――――あ」
彼は思わず声を上げ、咄嗟に視線を逸らす。耳に血が上っているのを自覚した。心臓も異様なほど高鳴っている。
「どうしたの?」
彼女は彼の視線に気づかなかったのか、可愛らしく小首を傾げ拾った書類を整えた。
「はい、どうぞ」
ありがとうございます、と言ったつもりだった。しかし果たして自分はちゃんと言葉を紡げただろうか。緊張が舌を麻痺させ、上手く呂律が回らない。こんなになったのは、初めての職場の飲み会で、しこたま酒を飲まされた時以来だろうか。ああ、あの時は本当に酷かった!
「顔色が悪いわね。大丈夫? 立てる?」
追憶から戻ったら、目の前に彼女の顔があった。息を呑む。体が硬直する。しかし心臓だけは爆発しそうなほど煩かった。
彼女は立ち上がり、手を差し伸べた。
ああ、彼女の厚意を無駄にしてはならない。麻痺した体に鞭を打ち、全身全霊を以って彼女の手に触れた。なんて柔らかく温かい手の平だろうか。
「よっ、と」
彼女は軽い掛け声と共に彼の手を引いた。だが少女のような体躯からは考えられない程強い力で引っ張られ、彼は勢いよく彼女にぶつかった。
「あ、ああ――――!」
彼の絶望の深さといったら。もう走馬灯が回っているほどだった。織工の両親の許で産まれ、兄が1人、弟が1人居る。家を継ぐため修行に精を出す兄に対し、自分は金勘定に興味を見出した。しかしそちらは弟の方が才能があったから、自分は家を出て、市場を守る職を目指したのだ。挫折と、勉学ばかりの人生だった。思えば女性との縁に恵まれない人生だった!
「あら、大丈夫?」
華奢な体に包まれながら、彼は女性の心優しい言葉を耳に入れた。
「具合が悪そうね。どこかで休憩を――」
彼女は周囲を見渡した。『休憩』という言葉に胡乱な想像が頭をよぎる。下唇を噛んで邪な妄想を振り払う。
「ああ、あの喫茶店に行きましょう」
そう言って彼女は小さなお店を指差した。少し調子を取り戻した男は、遠慮がちに「大丈夫です」「心遣い感謝します」と言った。しかし女性は彼の期待に応えた。
「私の事なら心配しなくて良いのよ?」
そして魅力的な笑みを浮かべてこう続けた。
「私、人とお話しするのが大好きなの」
*
彼らのアジトは街から少し離れた場所にある。古屋を間借りした物であり、付近には放棄された耕作地に雑草が生い茂っているのが見えた。
家屋は古いながらも昔ながらの石造りで、頑丈にできているために隙間風は吹かない。男にとってはそれだけでありがたかった。何せ以前、彼らが姉御と呼ぶ者に従うまでは、薄暗く湿った洞窟で暮らしていたのだから。
「ただいま」
「お帰りなさい姉御!」
そしてその姉御と呼ばれた少女のような、翡翠色の長髪を持つ女性が帰ってきた。
それは先ほど青年とロマンスを繰り広げていた女性だった。そのロマンスは彼らの手で計画されていたものであり、全ては彼が所属する市場監査局に探りを入れるため――そして書類のすり替えを行うためだった。
計画は上手くいき、彼らもその様子を一部始終見届けていたが、帰り際に用事があるからと言われ、先に帰還していたのである。
青年との滑稽な相瀬を彼は思い出していた。最初は上手く行きっこないと思っていたものだが――
「大したもんすね。ガキみてえな体――でも色仕掛けできるんすから」
「どうして言い淀んだのに言いきっちゃったの?」
彼女は怪訝な表情を示しながらも、嫌悪の様子はなかった。単純に誤魔化しが思いつかなかっただけだが、普通だったら彼は脂汗を滝のように流す羽目になっていただろう。
納得のいく答えなど初めから望んでいなかったのだろう。彼女は「そうだ」と言い話題を変えた。
「
「へい。現物は持ってこれねぇらしいので、証明書しかないっすけど」
別れ際、彼らは彼女に金を買えるだけ買うように指示されていた。命令には従ったが、彼には不安要素があった。
「しかし良いんすかね。なんでもマハトとかいう魔族が蘇ったとかで、金の値段が落ちてるらしいんすけど」
彼が持つ懸念程度は当然解決済みだろうが、やはり不安ではあったのだ。詳しい話は分からないが、マハトとかいうのは黄金を作れるらしく、そのため金が価値を失うとか何とか。取引所の噂であり、彼らが金を大量に買った際、場が騒然としたのも不安に拍車をかけた。
「良いのよ。マハトの黄金に黄金としての価値はない。金相場はすぐに正常化するわ。今下がった分の差分が、利益になるわけね」
「ははあ、なるほど?」
仕組みは分からないが、儲け話だったらしい。
それにしても、たったあれだけの働きで稼げるとは、彼には信じ難い話だった。
彼女と出逢う前は、殺して奪った。
彼女と出逢ってからは、騙して奪った。
そして今度は、騙す事すらせずに奪ってしまったのだ。
世界とはこんなにも奥深く――――優しかった。
「どうしたの? 涙ぐんじゃって」
「いや、ほんと。姉御に会えてよかったと思って」
野盗時代は未来が無かった。
いつか返り討ちに遭って死ぬか。討伐され晒し首になるか。蝙蝠の糞や毒蜘蛛を避けながら、湿った洞窟で怯えながら生きていた。
だが今はどうだろう。人の作った家で、安全かつ楽に、しかも野盗時代よりもよっぽど多く稼げている。
「そう言ってくれるなら、私も雇った甲斐があったわね」
彼女は何でもないように言った。
そして湿った空気を押し出すように、パンと手を叩いた。
「さあ、今日は宴でしょう? 早く皆の許に向かいましょう?」
「――――そうっすね。泣いてたら皆に笑われちまう」
そうして男は涙を隠すために、洗い場へと向かった。1人残った彼女は、宴用の大きな酒樽に毒を投げ入れた。
(これで良し)
毒は摂取してから凡そ三時間程で効果が出る。意識が混濁し、動けなくなるのだ。無味無臭とは言えないが、投げ入れた酒樽は奥の方にある。酔いがまわり、肴用の濃い味付けの料理と一緒なら誤魔化せる。
全員が倒れたあと、一人一人処理していけば良い。ここは郊外であり、誰かが訪れる心配もしないで良い。
(うん。これなら最期の言葉もちゃんと聞けるわね)
彼らはもう用無しだ。十分な種銭は稼げたから、後は低リスクな真っ当な商売に転換しなくてはならない。その時後ろ暗い過去を知る彼らは邪魔なのである。だが――――
(――――正直、最期の言葉はもう良いのよね)
既に十分なデータは得られたから、最期の言葉を聞く必要はない。今回は労せず聞けるから良いが、リスクになるのなら避けるべきだ。
(でも人間も最期に言葉を遺したいらしいし、共存のためには必要かしら)
共存するなら相手への配慮は必要かもしれないが、これは少し優しすぎるだろうか。
(この変身魔法も、いつか使わずに済むといいわね)
角と焼け爛れた皮膚を隠すだけの簡単な魔法も、変身魔法というだけで窮屈だ。
変身魔法は人間がたくさん教えてくれたが、今使っているものが一番マシだったのである。だが現状ではまだまだ魔族は忌み嫌われる存在であり、必要な措置だった。
しかし共存に向けた、魔族への忌避感の払拭については――――
(――――――リープ。あの魔族と、ゼイゲンという人間に期待かしら?)
だから自分は、せめて彼らの活躍を邪魔しないよう、おとなしく暮らしていこうと思うのだ。
ソリテールはこれから殺す仲間と談笑するため、部屋を後にした。