もしもあの時に戻れるのなら、私は彼にどんな言葉をかけたら良かったのだろう。あの瞬間、あの場所で、何を伝えただろう。
無意味だと知りながら、今でも私はその虚構に浸ってしまう。時間は二度と戻らない。そんな事は理解しているのに、あの日に戻ることができるならと、夢のような思いにふけるのはもう何度目だろう。
かつての私は、無為に思いを馳せる今の自分を愚かだと軽蔑するだろう。過ぎ去った過去に思いを馳せても、現実は変わらない。あの頃の私なら、今の私は何をしているんだと、冷笑していたかもしれない。
でも、凍てつく心は融解してしまった。微睡むような青空は、もう二度と訪れないのに。
――――――その、筈だったのに。
勇者ヒンメルの死の53年前、勇者一行の旅立ちから7年後。北部高原キーノ峠。
【ノイズ】
「どうだフリーレン。何かわかったか?」
【ノイズ】【ノイズ】【ノイズ】【ノイズ】【ノイズ】
二度と巡り合う筈のない、勇者一行の道中に、フリーレンは舞い戻った。
あり得ざる奇跡。不可逆性の原理の否定。世界の理を覆すのは
――――ああ。それは女神様の祝福に他ならない。
********************
Frieren, über den Himmel.
********************
(どうしてこうなったんだろう?)
理由は間違いなく女神の石碑を解析しようとしたからだろう。
フリーレンは関所の手続きが終わるまでの隙間時間を利用し、かつて解析できなかった女神の石碑にリベンジしようとしたのだ。
そしてとりあえず解析を掛けたところ、何故か過去に飛んでいた。意味が分からない。
(仕方がない。ここは皆に相談して)「ねぇ」
【ノイズ】
「どうした?」
「――」
ヒンメルがフリーレンの呼び声に答える。彼の細やかな青髪が靡き、優し気な視線がフリーレンを捉える。フリーレンは、どうしてか、彼の髪色と同じ青空のような瞳から目を逸らすことが出来ず、言うべき言葉も失っていた。
「――――ッ」
ピシリと、電流が走ったかのように頭が痛んだ。
「フリーレン? どこか具合でも悪いんじゃ」
「だ、大丈夫。大丈夫だから」
心配し、寄ろうとしてくるヒンメルから逃げるように距離を取る。その際の、彼の傷ついたような顔を見て、より一層頭痛が酷くなったようだった。目をぎゅっと瞑り、思わずしゃがみ込む。
「まったく大丈夫では無さそうですね。どれ、見せてみなさいフリーレン。こういうのは聖職者の仕事ですからね」
蹲るフリーレンに、ハイターが手をかざす。聖職者であるハイターは女神の魔法の使い手であり、大抵の病は解析できるし、治療も可能だった。
穏やかな笑みを浮かべていたハイターだったが、その表情は徐々に強張っていく。そして解析を終えたのだろう。ハイターは言った。
「これは……呪い、でしょうね」
「呪い? 一体何時だ。あの石碑か?」
ドワーフであり戦士のアイゼンが言った。ハイターは「それは考え辛いですが」と答え、こう続けた。
「まあ、呪いなら呪いで問題ありません。効果はちっとも分かりませんが、呪いである事が分かれば十分ですからね」
「……俺の体質にさんざん引いていたが、お前も大概だぞ」
アイゼンの小言を無視し、ハイターは解呪に掛かる。女神の解呪魔法がフリーレンの全身を包み込み――弾け飛んだ。
「これは……成功じゃないね」
ヒンメルは呟いた。初めて見る現象だが、それが良くない結果である事は明らかだったからだ。ハイターは少しの間呆然と焼けた自らの手の平を眺めていたが、険しい顔をしてヒンメルに答えた。
「はい、大失敗です。呪いそのものが意志を持つように反撃してきました。こんな呪いは初めてですよ」
今まで呪いを扱う魔物や魔族と多く交戦してきたが、これは完全なる未知の呪いだった。呪いに格があるとすれば、これは間違いなく最上位の呪いだろう。
「これは詳しく事情を聴く必要がありそうですね」
まずは宿に戻るべきだろう。すぐに治せないならば、せめて休める場所を確保するべきだ。
「なるほどなるほど。女神の石碑に触れたのか」
「――ッ!?」
突如背後から聞こえてきた声に、フリーレンを除く全員が振り向き戦闘態勢を取る。
そこに居たのは、片角の優男風の魔族だった。
「時空干渉の原因を調べに来てみれば、輪を掛けて面倒な状況になっているらしいな」
ヒンメルは魔族に何時でも斬りかかれる態勢のまま口を開いた。
「フリーレンの呪いは君が原因か?」
「違うと言ったら尻尾を巻いて逃げるのか? しないだろ。この問答に意味はあるのか?」
「……ああ」
ヒンメルは瞬きよりも速く距離を詰め、魔族に斬りかかった。空気が裂け、遅れるように暴風が吹き荒れる。
「確かにその通りだ」
斬撃は木々を切り裂くも、肝心の魔族は剣が肩に触れる前に姿を消していた。超スピード? それにしては違和感があるが、今は考察をしている場合ではないとヒンメルの直感が告げていた。
「フリーレン!」
ヒンメルは叫んだ。
この状況、魔族なら誰を狙う? ヒンメルは振り返り、フリーレンを視界に収める。その背後に居た魔族をも。
「――――――――――は?」
その呟きは誰のものであっただろうか。尤も、声に出さずとも、フリーレンを除く全員が同じ反応を示していただろう。
魔族の腹には、絶命を免れないであろう大穴が空いていた。
「なん、だ、この魔法。この速さ。この威力!」
その魔法の名は人を殺す魔法。
この時代には存在しない、最強の攻撃魔法。
「フリーレン、やはり、お前は――」
魔族の言葉が最後まで紡がれる事は無かった。首から上が無ければ、口を開くことも出来ないのだから。
*
「アイゼン、どう思う?」
「頭脳労働は俺の本分じゃないのだが」
宿に戻った頃には、外はすっかり夜の帳が降りていた。フリーレンは疲労が濃いのか寝ていて、ハイターは看病中だ。呪いに僅かに触れたお陰で、応急処置くらいはできるかもしれないとハイターは言っていた。
処置を待つ間、ヒンメルとアイゼンは暖炉の前で、湿っている為かよく爆ぜる薪を眺めていた。
アイゼンは髭を撫でながらヒンメルの問いに答える。
「あの魔族は時空干渉と言っていたな。そしてフリーレンの、見たこともない強力な魔法と呪い。まさしく世代が異なるかのような異質さがあった」
「つまり?」
「……フリーレンは未来から来た。目的も、方法も分からんがな」
ヒンメルも同意見だった。アイゼンは「ではお前の番だ」と、フリーレンが来た目的についての考察を求めた。
「呪いを解くため、かな」
「未来でも解けなかったのにか?」
より進んだ時代の技術で及ばなかった力を、過去の人物に望むのもおかしな話だ。だから――――
「きっと、僕たちにしかできない事があるのさ。何と言っても僕は勇者ヒンメルだからね」
「自分で言う事か」
アイゼンは笑ったが、彼もまたヒンメルを特別だと認めている。既に彼は七崩賢討伐という勇者に相応しいだけの活躍をしているし(当然これはアイゼン達の活躍も多く含まれるが)人類の希望として謙遜し過ぎるのも問題だ。だからこれは仲間同士の緩い軽口でしかない。
「だいたい、解呪は僧侶の専売特許――」
言い終える前に、噂の僧侶が扉を開けて部屋に入ってきた。そのままヒンメル達の横に座って言った。
「応急処置は済みました。今は眠っていますが、間もなく目を覚ますでしょう」
「そっか、良かった」
ヒンメルは心の底から安堵の息を吐いた。とりあえず、今すぐにどうにかなるという事は無いのだろう。
「……」
3人は言葉を交わさなかった。ヒンメルとアイゼンは状況を推理をしていたが、本人に確認するのが確実なので敢えて結論を述べる気はなかったし、ハイターも同様に考えていたのだ。
薪がパチパチと爆ぜる音だけが部屋を支配する。
しばらくして、蝶番が軋む音が部屋に響いた。
ヒンメルは振り返り誰よりも早く口を開いた。
「フリーレン! もう起きて大丈夫なのか!?」
「ヒンメル、うるさい」
ヒンメルは咄嗟に自分の口を押さえた。もうすぐ日が変わる時間帯である。彼女の指摘は尤もだった。
そして同時に、普段のクールなフリーレンが帰ってきたのだとも感じられた。ハイターは応急処置だと言っていたが、過分に謙遜が含まれているのかもしれない。
「……さて、それじゃあフリーレン。話してくれるかい?」
気を取り直して、彼女の状態について聞くことにした。フリーレンは少し逡巡するかのように眉を寄せていたが、渋々といった様子で語り出した。
自分は『80年以上先の未来から来たのだ』と。
予想通りだったので驚きはなかった。まあ、未来について、主に自分たちが魔王を倒せたか否かについてハイターとひと悶着あったが、そんな情報はどうでも良い。肝心なのは――
「呪いについては、分からず仕舞いか」
アイゼンが唸った。ハイターも難しそうな顔をしていた。フリーレンはより深く自分の記憶を探っているようだった。何かヒントの一つでも見つかれば良いのだが。
「とにかく、目的は二つ」
悩みこむ仲間に向け、ヒンメルは指を二本立てた。
「呪いの解呪と、未来への送還だ」
幸いというべきか、送還については道筋が立っている。
まず間違いなく女神様の石碑が鍵を握る。つまりは女神様の魔法が鍵ということだ。教会や一応魔法使いギルドへの聞き込みをするのが順当だろう。
「といっても、時巡りなんて正に物語の中の魔法だけどね」
「まったくです。信仰が深まりますね」
「そう思うなら禁酒をするべきじゃないか?」
「ハハハ――――何故ですか?」
「真顔で聞くのか……」
軽い空気の中、フリーレンだけが深刻気に言った。
「ごめん。面倒事に巻き込んでしまって」
80年以上経っても、彼女は人の機微に疎いままらしい。ヒンメルは気遣うように言った。
「いや、いいさ。困難は大きい方がいい」
そして心の底からこう続けた。
「ワクワクするね」
こんな大事件に心が躍らないなら、旅に出る事も無かっただろうから。
続く。